【ワケあり上司の愛し方】~運命の恋をもう一度~



「課長、買い物が終わったらタクシーを呼びますから、ご自分のアパートに帰って下さいね」

 ひくひくと引きつる笑顔で言ってはみても、課長は返事をくれずに次のお弁当コーナーへと足を進めていく。

 もちろん、カゴを引っ張られている私も、もれなく付いて行くしかない。

 や、やだ、どうしよう。

 やっぱり酔ってるよ、この人。

 途方に暮れつつも、このコンビニに訪れた一番の目的、サバの味噌煮缶をカゴに放り込むのは忘れず。

 こんもりと詰まったカゴの中身を清算すれば、あとは、アパートに向かうしかない。

 でもやっぱり、どう考えても、このまま課長と二人っきりはまずいと思う。

「ありがとうございましたー!」

 相変わらず元気な店員さんの声と笑顔に見送られて、コンビニの駐車場の端まで歩いてピタリと足を止める。

 コンビニの袋を持って、不思議そうに私の顔を覗き込む課長をきっと見上げ、意を決して今度はびしっ! と言い渡す。

「課長、タクシーを呼びますからね、いいですねっ!」

「呼んでもいいけど、せめて腹ごしらえがすんでからにしてくれないか?」

 ボソリというその言葉と、『グゥ~ッ』というひょうきんな音が重なった。




「ほら、腹の虫が文句をいってる。腹が減っては(いくさ)はできないってね。昔の人もいってるだろう?」

 ――戦って、今から戦をするんですか、あなたは?

「……約束する。食事が終わったらすぐに帰る。だから、俺を信用してくれないか?」

「……」

 ボソリと落とされた呟きに、答えることができない。

 この人を信用していない訳じゃない。

 例え酔っていたとしても、嫌がる人間に無理強いをするような人じゃないって、良く分かっている。

 酒の勢いで女をどうこうするような男なら、歓迎会の夜、私のアパートに泊まった時にどうにかなっていたはずだ。

 問題は、私。

 私は、自分の脆さを知っている。

 どんなに言い繕ってもこの人に惹かれるのを止められない、弱い自分を知っている。

 あのエレベーターでのキスの余韻が覚めやらない今、課長と二人きりになってそれでも自分を保っていられる自信なんか、私にはない。

 ――ごめんなさい。

 どんなことがあっても自分の心を隠し通せるほど、私は強い女じゃないんです。

「課長のことは、信頼しています。でもすみません。やっぱりだめです。ご一緒することはできません……」

 本音を口にすることはできず、手にした買い物袋をギュッと握りしめ、ただ当たり障りのない逃げ口上を何とか絞り出す。

 落ちかけた視線を上げると、真っ直ぐに私に向けられていた少し鋭さを感じさせる黒い瞳が、ふっと優しげに細められるのが見えた。




「そうだな」

 まるで憑き物が落ちたように、穏やかな表情を浮かべて。

「困らせて、悪かったな。もうこんなことは二度としないから」

『二度としないから』

 待っていたはずのその言葉が、胸の奥に深い傷を穿つ。

 答えることが出来ずに俯く私の頭に、すうっと大きな手が乗せられた。

 そしてその温もりに宿る、既視感。

 それが今日、会社の玄関先で頭に感じた温もりと同じものだと不意に気づく。

『あああれは、気のせいなんかじゃなかったんだ』と、なぜか湧き上がるのは哀しくなるくらいの、安堵感。

「すまなかったな。今日のことは忘れてくれ……」

 降りつもる、穏やかな声が、心の奥に眠る琴線を優しく鳴らす。

 ――本当はね。

 本当は一緒に、サバの味噌煮缶で白いご飯を食べたかった。

 ビールと酎ハイで乾杯して、柿ピーをつまんで。

 今まで、こんなことがあったのだと、

 十八歳の女の子だった私も一緒にお酒が飲める大人の女になったのだと、二人でゆっくりと語らいたかった。

 でも、きっとそれだけじゃすまなくなる。

 そこで止めておけるほどには、まだ私は大人じゃない。

 だから――。

「はい……」

 口からこぼれ出したのは、それだけで。

『忘れます。だから課長も忘れて下さいね!』と、本当は明るく言いたかった肝心の言葉は、声にはならなかった。




 私の父親は、とても寡黙(かもく)な人だった。

 大工という職業柄か生来がそう言う気質だったのか、何をするにも黙々と作業をする人で、私が幼い頃には良く仕事で出た木っ端を使って、お手製の『積み木』を作ってくれた。

 紙やすりを持った大きくて節くれだった武骨な指が、鋭くささくれている木っ端の角を、丸みを帯びるまで何度も何度も丁寧に往き来する。

 ザラリザラリ、ザラリザラリと。

 まるで子守唄のような優しい響きを持ったあの音が大好きで、少しずつ形を変えていく様が楽しくて、父の背中越しに、その光景を飽きることもなく見ていた、幼い日。

 その頃の自分に、すうっとリンクする。

『あど少すだはんでな、あー坊』

 あと少しだからな、と東北特有の独特のイントネーションを持った低い声が、優しく耳朶じだをたたく。

――ああ、夢だ。お父さんの、夢。

 辛いことがあった時。悲しいことがあった時。

 決まって、心に大きすぎるマイナスの負荷がかかった時に見るその夢は、私を不器用で頑なな女から、父の娘だった頃の幼い女の子に引き戻してしまう。

 たぶん、五、六歳。

 お誕生日に買ってもらったお気に入りの白いワンピースを身に纏い、耳の後ろで二つに縛った黒髪には、母が結んでくれた赤いリボンが揺れている。幼い姿をした私は、使い込まれて黒光りする父の作業場の板張りの床をトテトテと歩み寄り、父の傍らに座って膝を抱えこんだ。

 ほんのりと、空気を伝ってくる父の温もりを感じた瞬間、必死で抑えていた感情のタガが飛んでしまった。

 ぽろぽろぽろぽろと、後から後から大粒の涙が零れ落ちて止まらない。

 どうしようもなくて、ただ膝に顔を伏せて『えぐえぐ』としゃくりあげた。




『どした、あー坊。つれえごどがあったのが?』

 辛いことがあったのかと、大きな温かい手がフワリと頭をなでる。その温もりはあの人のそれを思い起こさせて、ますます涙は溢れだした。

「と……てもっ……。とても、好きな人がいるのっ」

 膝に顔を伏せたまましゃくりあげながら声を絞り出す私に、父が『そうか』と静かに頷く気配がした。

「でもね、その人には、好きって言ったらダメなの。言っちゃいけないの」

『そうなのが?』

 そうなのかと優しく問うその声に唇を噛みしめて、コクンと頷く。

 今でも好きだと、忘れたことなどなかったと。

 その気配を感じるだけでその声を耳にするだけで、体の細胞の一つ一つが震えるくらいに、もうどうしようもなくなるほど大好きなのだと。

「……うん。言ったら、その人が困ってしまうから。きっとその人も、心を痛めてしまうから……だからっ……」

――言えない。

 言ってしまえばこの想いを吐露(とろ)してしまえば、あの人は受け入れてくれるかもしれない。

 だけど、そうなればきっと、私以上に苦しんで心を痛めてしまう。

 そう言う人だって、知っているから。

「言ったらいけないのっ……」

『よしよしよし』と大きな手のひらが、労わるように私の頭をかき回す。

『それは、せづねぇな……』

 優しく響く父の声に、私はただ『うん』と頷いた。

 上気した頬の熱を奪いながら、とめどなく伝い落ちる涙が膝を濡らしていく。

 ヒヤッとするその感覚で、私は現実に引き戻された。




 ふっと、意識が覚醒して目の前でぼんやりと像を結んだのは、おなじみ赤いボディ・カラーに青い魚の絵が描かれた、蓋の開いた『サバの味噌煮缶』。

 遅れて機能し始めた臭覚が、甘塩っぱい独特の匂いを感知する。

 ピキピキと悲鳴を上げる体を突っ伏してたテーブルから引き起こし、目の前に広がる光景にため息を吐く。

 記憶にないから定かじゃないけど、たぶん力任せに捻りつぶしたのだろう、テーブルの周りに転がるのはグシャリと潰れたビールと酎ハイの空き缶の群れ。

『食い散らかしました』状態を絵に描いたような、柿ピーとイカの燻製(くんせい)の残骸が、そこはかとなく哀愁を誘う。

 食べかけの新発売アイスは、すっかり溶けて白い水と化していた。

 ――(すさ)んでいる。

「まさに、今の私の心のごとく……ね」

 昨夜、コンビニでタクシーを呼んだ後。

『いくら近くても、女の子が夜道を一人で歩くものじゃない。だから、君もアパートの前までタクシーに乗って行きなさい』と主張して譲らない課長の頑固さに負けて、歩いてもほんの四、五分の距離をタクシーに乗り。

 逃げるようにアパートに駆け込んだのが、午前一時を過ぎた頃。

 それから、一人で冷凍ごはんをチンしてサバの味噌煮缶を開けてその後は、一人で酒盛りをしたんだった。

 そのまま着の身着のままで、テーブルに突っ伏して朝まで眠ってしまったのか。

 パーティ用の高級服でサバの味噌缶でご飯を食べて、一人で酒盛りする二十八の独身女。

「百年の恋も冷めるわね、きっと」 

 我ながら、呆れて笑っちゃう。

 こういうのを称して、『干物女(ひものおんな)』と言うのだろう。




 思わず乾いた笑いが込み上げる。

 こんなだらしのない姿を見たら、飯島さんだって私とデートしたいなんて思わないだろうに。

 そこまで考えを巡らせて脳裏に甦ったのは、昨夜の飯島さんの真っ直ぐな瞳。

 私を好きだと、言ってくれた人。

『初めて会った時から惚れていたのだと』、陰りのない瞳で言い切った人。

 正直な気持ちを言えば、あの告白は、嬉しかった。

 飯島さんと初めて清栄建設の現場で会ったのは、確か三年前。

 三年という時の流れの中で、こんな私を、ずっと見ていてくれた人が居る。

 好きだと、言ってくれる人が居る。

 それは男女の情愛とは別にしても、とても嬉しいことだった。

 でも、東悟への想いを断ち切れない今の私では、飯島さんでなくても誰か他の男性と付き合うなんてことは考えられない。

「なんで、はっきり断らなかったんだろう……」

 先延ばしにしたところで出る答えは決まっているというのに。今更ながら、自分の優柔不断さが恨めしい。

 大きなため息を一つ吐き出し、まだ夢の余波で濡れている頬を手の甲でごしごしと拭って。

 重い頭と気怠い体に鞭打ってなんとか立ち上がり、テーブルの上を片付けにかかったその時。

 プルルル、プルルル――と、スマートフォンの着信音が上がった。

 反射的に視線を走らせたた壁掛け時計の針は、午前九時半。

 今日は土曜日で、会社は休み。

 美加ちゃん、だろうか?

 昨夜のパーティの状況が聞きたくて、かけてきたのかもしれない。でも、『もしかしたら課長からかも』と言う可能性も拭いきれず、ドキドキと鼓動が早まる。

 床に放り出されている黒いハンドバックからスマートフォンを取り出し、おそるおそる画面に視線を落とした。


「あれ……?」




 スマートフォンの画面には、見慣れぬ携帯番号が表示されていた。

『誰だろう?』と首をひねりながら通話ボタンをタップした、その刹那。

「あ、おはようございます!」

 私が『もしもし』と応対するよりも素早く、受話器から飛び出してきた張りのある声に、ドキンと鼓動が跳ね上がった。

「……飯島さん?」

「はい、飯島です。お休みの所に、すみません」

「あ、いいえ。おはようございます。昨日は、お世話になりました」

「いいえ、こちらこそお世話さまでした。それでですね、実は、高橋さんの荷物を預かっていまして」

「はい?」

 私の荷物を、飯島さんが預かっている?

 どうして飯島さんが?

 と言うか、荷物って?

 訳が分からず目を瞬かせていると、飯島さんが説明をしてくれた。

「ほら、昨日のパーティで、高橋さん受付に荷物を預けたでしょう? 受付の女の子が良く知っている娘こで、俺が高橋さんと話していたのを思いだして、忘れ物があるって連絡してきたんですよ」

 そう説明されて、ハッとした。

 そう言えば、ブティックの紙袋に着替えを入れて受付に預けたんだった。それを受け取らずに帰ってきてしまった。

 ああ、なんてドジ。

 いくら急なパーティだったからって、舞い上がるにもほどがある。

 こうして連絡を貰うまでものの見事に、すっかりそのことが頭からすっ飛んでいた事実に、思わず唖然。

「あ、ああ、すみません。こちらこそ、お休みなのに、わざわざお手数をおかけしてしまって……」



「いえ、良いんですよ。気にしないで下さい。むしろこうして電話をする口実が出来て、俺的には、ラッキーってなもので」

 カラカラと陽気な笑いに引きずられて、思わず笑みがこぼれた。

「そう言って頂けるとありがたいです。でも、どうしましょう。どこに取りに伺えば良い……って、ああ、私、車を会社に置いてきていて、バスで伺うことになるので少し時間がかかりますが……」

 答えの代わりに、飯島さんは質問を返してきた。

「高橋さん、今日、予定は空いてますか?」

「え?」

「今日、何処かに出かける予定は、ありますか?」

「あ、ええ。別にないですけど……」

 着替えを受け取りに行ったら、後はのんびり家の中でゴロゴロとしていよう。久しぶりに、撮りためたテレビドラマの鑑賞会をしてもいいし、ネットサーフィンで暇をつぶしてもいい。

 なんて、今日の予定とも言えない予定をつらつらと考えていたら、「それは、良かった」と、更に陽気な答えが返ってきた。

「はい。別に予定はないので、飯島さんの都合さえよければ今から取りに伺いたいんですが。あの、それで、どこに行けば?」

 少しの沈黙の後、意を決したように、飯島さんは口を開いた。

「高橋さん」

「はい?」

「高橋さん。予定がないなら、天気も良いし今からデートしませんか?」

「は、はいっ!?」 

 飯島さんはさらりと私の質問をスルーして、至極明るい声音で、大きな爆弾発言を投下した。