いつまでも、そばにいると、思ってた

ぼくは突然の誘いに息を飲み込んでしまい、言葉が出てこなかった。

今度の日曜日は特に予定はない。

松田先生は目鼻立ちが凛とした、清楚でとても綺麗な女性だった。

こんな綺麗な女性がぼくを誘ってくれるなんて、ぼくの冴えないスペックからするとありえないことだった。

だけど、誘いに乗ってはいけない。

頭の中でそれだけは即座に決定され、松田先生を傷つけない上手い言い訳はないものかと、頭の中の引き出しを片っ端から開けていった。

ぼくの目が泳いでいる様を、松田先生はじっとその大きな見つめていた。

言い訳を探していることを悟られてしまう……

結果、急いでぼくの口から出た言い訳は、ごくありふれた嘘だった。

「あ、あのその日はちょっと……」

松田先生はまさかこんな冴えない男から断られるなんて思いもしなかったのか、この場に漂う気まずさを隠すように軽く会釈しながら、微笑んだ。

次の授業は担任のクラスだ。

3年の教室は校舎の2階にあった。

先生はさっきの気まずさを振り切りたいのか、話題を変えた。

「河本先生も大変ですよね、先生になったばかりで、いきなり3年生の担任任されるなんて」

「まぁ……」

「でも仕方ないか。担任持ってない先生たちがみんな高齢化してるから。担任持つって体力いるもんねー」

「そうですね」

「それにしても途中から担任っていうのもしんどいですよね?」

「まぁ、はい。」

「でも河本先生優しくて、生徒に人気あるから大丈夫ですよ」

松田先生は朗らかに笑った。

こんな無口でつまらないぼくに構ってくれるのは松田先生くらいだった。

階段を登りきったところで、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。

廊下に出て騒いでた生徒たちが、蜘蛛の子を散らすように、慌てて教室に入っていった。

窓の外を見ると、まだ雪がチラチラと降っていた。

空から降る薄い枯葉のような雪は地面に到達する前に、跡形もなく消えていった。

そして気がつくと
教室の前の長い廊下には、ぼくと松田先生しかいなかった。


ぼくは軽く松田先生に会釈をして教室に入ろうとした、その時だった。

松田先生は立ち尽くしたまま
さっきよりいっそう真剣な表情になっているのに気づいた。

「河本先生……あの……」

ぼくも立ち止まって、彼女を見た。

「はい……」

「あの、これは、あくまで、生徒の噂なので、ホントに、気にしないでほしいんですけど」

松田先生のしどろもどろの前置きが、これから話されることが、いかに言いにくく勇気を出して言わなければいけない話であるかを伝えていた。

「まだ河本先生は、あの、大学卒業したばかりだから、そんなことないとは思うんですけど、その、もしかしたらそういうこともあるのか、なんて……」

ぼくにも松田先生の緊張が
張り詰めた糸を震わせるように
伝わってきた。

松田先生は顔を少し赤らめ、何度も視線を泳がせながら、それでも意を決したようにこう言った。

「河本先生は……」

「はい……」

「バツイチっていうか……、その……、
いわゆる離婚歴がある……んですか?」

そんなことか……

ぼくは少しホッとして少し笑った。

「あの、いや、別に答えなくていいですよ、あくまでもプライベートなことですし、すみません、わたし失礼なこと聞いてますよね……」

松田先生は相変わらず緊張していて、しどろもどろになっていた。

「ぼくに離婚歴は……、ないです」

松田先生はそれを聞いて安心してホッとした様子で「そ、そうですよねー」と言って笑った。

「すみません、生徒たちのつまらない噂なんです」

静かな廊下に松田先生の押し殺した笑い声が小さくこだました。

「でも……」

ぼくは続けた。

「結婚はしてました」

ぼくのその一言に、松田先生は笑うのをやめて、絶句した。

雪は積もることなく、その後も降り続けた。

空からゆっくり風に乗って
しばらく宙をただよい
そして消えた。

それはまるで
あの頃のぼくたちみたいだった。
大学一年の春は、裸で外に放り出されたみたいに、むき出しで、無責任で、自由だった。

いくつかの志望校は落ちたものの
ぼくはなんとか滑り止めで受けていた地元愛媛の大学に引っかかった。

一年浪人した。

志望大学に絶対受かるんだ、という向上心もハングリーさもないぼくは、これで苦しい受験勉強から解放されるとばかりに喜び勇んで入学した。

そしてキャンパスからバイクで5分のところにワンルームのアパートを借りた。ワンルームと言えば聞こえはいいが、いわゆる六畳一間だ。

2階立ての2階。
ユニットバスで、お世辞にも新しいとは言えないけど、小綺麗にはしてあった。

何にもない部屋に
誰かがゴミ捨て場に捨てていた
正方形の黒いテーブルを部屋の真ん中に置いた。

天板の黒いところが少し色あせていたけど、使うのには問題なかった。

新しい畳の匂いが
ぼくの鼻先をくすぐり
新しい生活が始まることを
告げていた。

玄関の反対側に
半畳ほどのベランダがあった。

雨で錆びた欄干にもたれ
そこから缶コーヒーを飲みながら
沈む夕陽を見た。

夕陽をこうやってただぼんやり
眺めるなんて久しぶりだった。

アパートは少し小高いところにあったから、沈みゆく夕陽が最高に綺麗に見えた。

太陽は色を変え、小さくなり
今日一日がまもなく終わることを告げていた。

ベランダからふと隣を見てみた。

だれか住んでる様子ではあるが
物干しざおや洗濯モノはなく
カーテンは隙間なく厳重に閉められていた。

どんな人が住んでるんだろう……?

うまくは言えないけど
どことなくヤバい雰囲気を感じた。

そして、その予感は的中した。
夕方の時間は短い。

小さなキッチンで湯を沸かし
カップ麺に湯を注いで
テーブルに運んでいるときに
外がすでに暗くなっていることに気づいた。

ぼくの部屋は角部屋だ。

ベランダとは反対側の壁
に引っ越しのダンボールを積み上げ、それにもたれながら、ラーメンをすすった。

アパート自体は古いが、国道から入り込んだ道の行き止まりのところに建っていた為、夜は静かだった。

ラーメンをすする音が部屋中に響くほど、静寂に包まれていた。

その時だった。

「キャー!」

若い女の叫び声が
隣の部屋から響いた。

ぼくは驚きのあまり手から箸を落とした。

その後続けざまに
部屋の壁をドンドン叩く音がした。

ぼくは無言で部屋の壁を見つめた。

何事だ……?
怖いお兄さんが女を殴ってるとか?

やっぱり隣の部屋には
ヤバい奴が住んでんのか……?

嫌な想像が頭の中を駆け巡った。

そしてその後は
何事もなかったように静かになった。

深夜まで隣の事が気になったが
それからは叫び声も壁を叩く音も
することはなかった。

ぼくは隣のせいで
寝つきの悪い夜を過ごし
入学式を迎えることになった。

そして数日後、隣の部屋に住む人に
いきなり出会うことになるとは
この時のぼくはまだ知る由もなかった。
大学の初日は快晴だった。

新入生たちは
これから始まるキャンパスライフを想像してなのか、浮足だった妙なテンションに包まれていた。

ぼくはその中にいることが
なんだかくすぐったく
居心地の悪さを感じていた。

入学式を終えたら
午後は特に何もなかった。

キャンパスの大きな講堂を抜けたところに食堂があり、その隣には大学生協があった。

ぼくはそこで今日は教科書を買い、明日から始まる授業に備えようと思っていた。

優しく伺いを立てるような
柔らかな風がキャンパスを吹き抜け
キャンパス内の並木をゆっくり揺らした。

生協の入り口の10段ほどの階段を軽快に登り切ったところだった。

いきなりだれかが
わたしの右腕をつかんだ。

わたしは驚いて、振り向いた。

そこには1人の女子学生が立っていて、わたしを真剣なまなざしで見つめていた。

知らない人だ。

だれだ……?

肩ぐらいの綺麗な黒髪で
綺麗な人だった。

「助けていただけませんか?」

その口調や彼女の佇まいは
彼女の育ちの良さを感じさせた。

「え?あの……」

突然のことでぼくが言葉を失っていると、彼女はぼくの腕を自分に引き寄せた。
「あの、なに……?」

ぼくのフリーズしていた思考力が戻り、やっと言葉が口をついて出た。

彼女はぼくの腕をつかんだまま
大学生協入り口に設置してあるATMに連れて行った。

「わたし、こういう機械苦手で……」

「使い方?」

「はい、あの、使ったことがなくて」

ぼくは驚いた。

ATMをこの歳になるまで使ったことがないなんて……そんなことあるか?

「あの、ここにカード入れて…」

「あ、ここに入れるんだ」

彼女はふわふわとした柔らかな笑みを浮かべた。

しかしATMは「カードを入れ直してください」とアナウンスし、カードを吐き出した。

「あれ?おかしいな」

彼女はもう一度カードを入れ直した。

しかしATMはまたもや同じアナウンスをしてカードを吐き出した。

彼女は助けを求めるような目で、ぼくを見た。

「ちょっと貸して」

今度はぼくが入れてみた。

やはりATMはカードを吐き出すだけだった。

手に持ったカードを見て、ぼくは大事なことに気がついた。

「あの、これさ……」

彼女の大きな目が不思議そうに、ぼくを見つめた。

「ゆめシティのポイントカード」

「え?」

彼女はカードをぼくから奪い返すと、カードを裏表にしながらしげしげと見た。

「ダメなんですか?」

「え?いや、クレジット機能付きなら大丈夫だけど、これただのポイントカードだから」

彼女はぼくの言ってる意味がわからないのか、尚も不思議そうにカードを裏表にして見ていた。

ポイントカードで本当にATMからお金が降ろせると思っているのか……?

彼女のあまりの世間知らずぶりに、ぼくは驚いていた。

「あの、他のカードないの?」

彼女はあっ!と言って、思い出したかのように小さな四つ折りの財布を開いた。

「これは使えますか?」

彼女が財布から取り出して
ぼくに別のカードを差し出した。

え……?

これ、初めて見たけど……

超金持ちしか持てない、ブラックカード!

ぼくは彼女からそれを奪い取り
裏表裏表何度もひっくり返して
カードを確かめた。

「これ、使ったことないんですけど……」

「そ、そうなんだ。パパがくれた?」

「はい」

ぼくは焦りを隠して、平静を装った。

この娘、めっちゃお嬢様か!

だからATMの使い方もわからなかったのか………。

「つ、使えると、思うよ」

ぼくのその言葉を聞くと、彼女は嬉しそうに笑って、ブラックカードをATMに入れた。

今度は成功した!

彼女は「やった!」と言って、ぼくに微笑みかけた。

そのかわいい笑顔に、顔が赤くなるのを感じた。

しかし次の瞬間、彼女は怪訝そうな表情でATMの画面を覗き込んだ。

「暗唱番号……」

彼女は小さな声でつぶやいた。

「え?忘れたの?」

「使ったことないから、わからない」

膨らんだ風船がしぼむように、彼女のテンションは一気に下がった。

「パパは知らないの?」

「あ、そうだ」

そう言って彼女はスマホでパパに電話をかけ始めた。

何度もかけ直したが、ついにパパは出ることはなかった。

「暗唱番号わからないとダメですよねー?」

ぼくは小さくうなずいた。

彼女はわかりやすいほど、ガックリ肩を落とした。

「今日はあきらめます。すみません、変なことに巻き込んでしまって」

彼女はすまなさそうに、頭を下げた。

その彼女の姿を見て、ぼくは自分でも驚くような言葉を口にした。

「あの、よかったら、お金貸しましょうか?」
「あ、でも、あったっけ?」

ぼくはポケットから財布を取り出し
彼女に背を向けて財布の中身を確認した。

なんとか、足りるかな……?

「だ、大丈夫」

自分が言い出したことをこの瞬間、少し後悔した。

「いいんですか?ありがとうございます!」

そう言いながら彼女は頭を深々と下げた。

「いくらくらいいるの?」

「さあ……5万円くらい?」

ヤバい!金ない!

いや、あると言えばある。
ちょうど5万円。

ぼくの教科書代が2万ちょっとだから、足りると踏んでしまった。

この5万渡しちゃうと、自分の教科書が買うお金がなくなってしまう。

銀行預金もぜんぜんないし……

どうしよう……

彼女は期待に満ちた目で、ぼくを見ていた。

この状況、引くに引けない……

仕方なくぼくは財布から5万円を抜き取り、彼女に差し出した。

見知らぬ人で、本当に返してくれるかわからない、そんな人にぼくにとっては全財産に近いお金を貸すなんて、本来ならあり得ないことだった。

でも不思議なことに、彼女の余分な物をすべて削ぎ落としたような、まっすぐで純粋な瞳は、ぼくを裏切らない気がした。

彼女は5万円を両手で丁寧に受け取り
再び大きく頭を下げた。

「ありがとうございます!必ずお返しします!」

そしてぼくらはライン交換して、ぼくはその場から立ち去った。

夜になって
部屋で寝転びながら
アルバイト情報誌を眺めていた。

両親ともこの世にはもういないし
大学に行くのにも奨学金をもらっているから、働かざるを得ない。

預金も底をついているから
すぐにでも働かなければならなかった。

さっきカップ麺一つを食べたが
まだ腹が減っていた。

テレビのないこの部屋の夜は
長く静かだ。

静かすぎると
空気が摩擦するような
空気が伸縮するような
不思議な音がする。

アルバイト情報誌を放り投げ
今日出会った女の子のことを
思い出していた。

天井は雨漏りをした後のシミが
地図のように広がっていた。

ATMの使い方もわからない、ポイントカードでお金を降ろそうとする、あんな天然なお嬢様初めて見た。

思い出して、一人でクスッと笑った。

それにしても
どうして初めて会った女の子に5万円も貸しちゃったんだろう……

後悔の気持ちが頭の中を駆け巡った。

「ぼくはバカだ〜!」

そう言って畳の上を転げ回った。

その時だった。

再び隣から女性の「キャー!」という叫び声が
静寂の膜を切り裂いて、聞こえた。

ぼくは驚いて思わず、畳から起き上がった。

そしてその後再びドンドンドン!と床を叩くような音が部屋中に響いた。

「ま、また〜…なんだよ」

胸が突然鼓動を早めた。

頭の中の想像では
チンピラがちょっとケバめな金髪女の髪をひっぱり殴っていた。

警察呼んだ方がいいかな……

しかしその晩も、それ以来叫び声も床を叩くような音もせず、静まり返っていた。

気味悪いな、なんだよ。

そしてぼくは次の日、その叫び声と音の正体を以外な仕方で知ることになった。