ぼくは軽く松田先生に会釈をして教室に入ろうとした、その時だった。

松田先生は立ち尽くしたまま
さっきよりいっそう真剣な表情になっているのに気づいた。

「河本先生……あの……」

ぼくも立ち止まって、彼女を見た。

「はい……」

「あの、これは、あくまで、生徒の噂なので、ホントに、気にしないでほしいんですけど」

松田先生のしどろもどろの前置きが、これから話されることが、いかに言いにくく勇気を出して言わなければいけない話であるかを伝えていた。

「まだ河本先生は、あの、大学卒業したばかりだから、そんなことないとは思うんですけど、その、もしかしたらそういうこともあるのか、なんて……」

ぼくにも松田先生の緊張が
張り詰めた糸を震わせるように
伝わってきた。

松田先生は顔を少し赤らめ、何度も視線を泳がせながら、それでも意を決したようにこう言った。

「河本先生は……」

「はい……」

「バツイチっていうか……、その……、
いわゆる離婚歴がある……んですか?」

そんなことか……

ぼくは少しホッとして少し笑った。

「あの、いや、別に答えなくていいですよ、あくまでもプライベートなことですし、すみません、わたし失礼なこと聞いてますよね……」

松田先生は相変わらず緊張していて、しどろもどろになっていた。

「ぼくに離婚歴は……、ないです」

松田先生はそれを聞いて安心してホッとした様子で「そ、そうですよねー」と言って笑った。

「すみません、生徒たちのつまらない噂なんです」

静かな廊下に松田先生の押し殺した笑い声が小さくこだました。

「でも……」

ぼくは続けた。

「結婚はしてました」

ぼくのその一言に、松田先生は笑うのをやめて、絶句した。

雪は積もることなく、その後も降り続けた。

空からゆっくり風に乗って
しばらく宙をただよい
そして消えた。

それはまるで
あの頃のぼくたちみたいだった。