世間では女子高生が誘拐されたという事件で盛り上がっている。


ニュース、新聞、雑誌、SNS。
どのメディアも執拗にその内容を取り上げる。


もう、聞き飽きた。


心配していないわけではない。
無事に見つかってほしい。


だが、ここまでニュースにする必要はないだろう。


なんて、少数派の意見はメディアは聞かない。
騒ぎあげるネット民のために、近所のおばさんたちの井戸端会議の話題のために、それを放送しているようにしか思えない。


ネット、またはSNSは、自分の顔が出ないのをいいことに、勝手な意見を残していく。
それを見て不快に思う人のことなど、一切気にしない。


想像するだけで吐き気がする。


まあ、別に好きにすればいいと思う。


噂がしたければ、すればいい。
正義感振りかざしたいなら、すればいい。


今回の事件を利用して、他のネット利用者から注目されたいなら、気が済むまで利用すればいい。


それで満たされるのだろうから。


だが、それを他人に押し付けるな。
そう思うが、まあこれも自分の勝手な意見に過ぎない。


わざわざ誰かに言う必要もない。


しかしネットだけでなく、ニュース番組のコメンテーターも、本心が見えない。


ただ淡々とニュースを読むだけでいいのに、と思ってしまう。


「ストーカーされていた可能性があるということは、彼女に近い人が犯人かもしれないということですか?」


道を歩いていたら、街頭ビジョンからそんなことが聞こえてきた。
足が止まる。


待て待て。
なぜ、お前が犯人を予測している。


その必要はあるのか?


意見を言うという番組だから、それを言うのは仕方ないとしても、犯人を勝手に予想するのはおかしいだろう。


「あくまで、可能性の話です」


便利な言葉だと思った。
それを付ければ、何を言ってもいいのか?


情報を発信しているくせに、その曖昧さは最悪だ。


「速報です。ただいま、少女を見かけたという動画がSNS上に投稿されました。映せますか?」


司会者の進行で、誘拐されたという女子高生が歩く映像が流された。


「一人ですね」
「誘拐は嘘ということでしょうか……」


予想外の動画が流れたからか、コメンテーターたちは動揺を見せる。


「誘拐犯がわざと一人で歩かせたということも考えられます。こうすることで、誘拐ではなく家出だと思わせようとしているのかもしれません」


これでも事件にしようとする専門家に腹が立ち、その場から去った。