忙しくしていると思いのほか時間は早く過ぎるようで、気づけばいつの間にか体育祭を前日に控えていた。体育祭は毎年、新体制の吹奏楽部の初めての行事だ。

 体育祭の準備のためにグランドを運動部が忙しなく行き交っている。入場演奏をする吹奏楽部もそれに混じっている。

「こっち持ってー!」

 ――あ。

 遠くから聞こえてきた、もう長い間聞いていなかった声に、ぴくり、と意識しなくても身体が動いてしまう。

 まだ5月なのにも関わらずじっとりとした熱気を感じながら私はそっと振り返った。

 少し離れたところにテントを担当するサッカー部の集団が見える。その中で声を張って指示を出しているのは、紛れもなく新部長の海ちゃん。

「海ちゃん……がんばってるな」

 ぼけっと口を開けてみとれていることに気がついて自分の頬を叩く。

 前日の練習を終え、吹奏楽部も忙しく駆け回っている最中だ。
 私はブルーシートをよいしょと抱え直した。重さ的には大したことはないのだが、視界がどうにも塞がってしまう。

 吹奏楽部の皆は、同級生も後輩も途中で入部した私に優しくしてくれた。居心地が悪いのではないかとびくびくしていたので、とてもほっとしたのだ。
 こういう時に人一倍役に立たなければ、と気合を入れて動き回っている。

 ただ、正直少しばかりしんどい。
 ブルーシートが、とかいうわけではなくて、なんというか――

「梨花子ちゃん、ちょっと」

「あ、はい!」

 新しくかかった声に元気よく返事をして顔を上げる。
 とりあえず急いでこれを置いてきてそれから向かおう、と方向転換し足を踏み出した瞬間、ぐにゃりと足元が歪んだ。

 あ、と思った時にはもう遅い。視界いっぱいにブルーシートの青と空のもっと深い蒼が広がっていく。
 仰向けに、ずるりと滑るように転けたようだ。背中を打ったら多分痛いだろうな、と一瞬冷静な思考。

 すぐに訪れるだろう圧迫感に備えてぎゅっと目をつぶったのだけれど、その代わりに次の瞬間私の背を捉えたのは、暖かくて柔らかいものだった。不思議に思っていると、ぱた、と顔にぬるい水滴が滴る。

「ま、間に合った……」

 低くて柔らかい声が腰に響いて、思わず身じろぎした。抱きとめられたのだ、と理解すること数秒、ぱちっと目を開く。

 男の子にしては黒目がちで大きな瞳とまともに視線が絡む。私はまるで金縛りにあったように、そのままひたすらに見つめ返した。

 久しぶりに見るその綺麗な瞳には、私の間抜け顔がはっきりと映り続けている。

 目を逸らさなければ。顔を逸らさなければ。そう思うのに。

「大丈夫?」

 どうしてこんなにも、自分の身体が制御できないのだろう?

「りっちゃんってば!」

 強く耳元で叫ばれた自分の名前に、びくっと肩が跳ねる。勝手に口が動く。

「かい、ちゃん」

 ……だめだ。そう思った。

 私に名前を呼ばれて、やっと海ちゃんが安心したように表情を崩した。

「よ、良かったぁ……頭とか打ってない?」

「う、ん」

 私の顔を覗き込む海ちゃんにたじろぎながらも頷く。次いでやっと視線を逸らした。

 はぁーっと大きく息をついて海ちゃんが額の汗を襟ぐりを持ち上げるようにして拭う。

「びっくりしたよもー。急にりっちゃん転けるしさ……」

「……ごめん……ありがとう」

 海ちゃんの腕が近くで動くのを見てやっと状況を理解した私は、慌てて海ちゃんの身体を押しやった。

 ……それに、どんな顔をしていいのかわからない。顔を合わせたくなかった。気まずい。

 それなのに、海ちゃんはむしろぎゅうっと腕に力を込めてきて、離れることができない。
 わかってはいる。海ちゃんにとっては何でもないことだとわかっているけれど。だけど……突然の出来事に心臓がうるさくて。

「焦ったじゃん、気をつけてよ! こんなかさばるやつ危ないに決まってんじゃん、なんでひとりで運ぶの!?」

「か……た、伊集くん」

 僅かながらに冷静を取り戻してきた私が呼び方を変えたことにも気がつかないで、海ちゃんは顔を近づけてくる。

「ほんと見てらんないから、もう無理するのやめてよ? いい?」

「……うん」

 私がこくこくと頷くとやっと海ちゃんは腕を離して私を立たせた。

 砂を払う私を今更ながらに居心地の悪そうな顔をして見て目を泳がせた後、傍らに落ちてしまっていたブルーシートを軽々と拾い上げる。

 全く辛そうに見えないのが小憎らしい。海ちゃんが頬を指先でかきながら顔を逸らす。
 私と視線が絡むことはもうない。そのことに、自分を改めて責めるようにずきっと酷く胸が痛んだ。

「あー、えっと……これ俺が運ぶね。その方が早いし」

 そんなのしなくていいよ、と言おうとしたその時、

「そんなのきみはしなくていいんだよー、海里くん」

 と。まるで思考を読んだかのように重なる、甘ったるい声。

「神崎、先輩」

 心なしか嬉しそうな海ちゃんの声に渋々振り返る。

 名前を呼ばれた先輩はにこっと海ちゃんに向かって微笑んでから、私に向き直った。

「もー大丈夫? 海里くんにはサッカー部に吹部のテント立ててもらう話するために来てもらってたんだからねー?」

 なるほど、だから海ちゃんがここにいたのか。

「すみ、ません」

 彼女の言う通りの状況なら、何も言い返すことができるはずもない。

 きらきらと目を輝かせる海ちゃんに一層完璧な笑顔を見せてから、先輩はぽんとわざとらしい仕草で手を叩いた。

「そうだ、私生徒会の準備もあるんだったー! じゃあ丁度暇そうだし、東峰さん、あとはよろしくね」

 端々に苛立ちを匂わせながら、ひらりと手を振り、私の横を過ぎて行く。

「りっちゃん、それで、テントの話なんだけど」

「あ、うん」

 海ちゃんの声にはっとして先輩の去っていった方向に知らず向けていた身体を元に戻す。

「去年と同じように、ここにこう2個でいいんだよね?」

「あ、うん」

 よく頭が回らなくて同じ返事をしたら海ちゃんにじとっとした目つきで睨まれた。

「りっちゃん、ちゃんと聞いてる?」

「あ、うん……や、ええっと……先輩とは結構話すの?」

 海ちゃんの視線が鋭くなったので慌てて口を動かすと、自分の口から全く思ってもみなかった言葉が転がり出てきて固まる。

 海ちゃんが私よりもきょとんとした顔で、へ、と間抜けな声を出した。そのまま数秒動きを止めた後、ゆっくりと眉をひそめる。

「……久し振りに話すのに、先輩の話なの?」

「え……?」

 その表情の意味がわからなくて瞬きをすると、海ちゃんはなんでもないよ、と笑った。

「うん、割とね。意外と学年違っても、廊下とか部活の前とか結構会うんだよ。やっぱめっちゃ可愛いし、最初は緊張してあんま喋れなかったけどさ、先輩から話しかけてくれたりするから、今ではそれほどでもないかなとか思ったりしてね……」

 ぺらぺらと急に饒舌になった海ちゃんに思わず吹き出してしまう。

「なんだ、変な事言うから何かと思ったけど、相変わらず先輩のこと……好きなんだね」

 ……やっぱり海ちゃんの前では嘘でも何でも言えるみたいだ。

 すると海ちゃんがなんとも微妙な顔つきになって私を、私の目を見た。照れたような、怒ったような、悲しいような、そんな顔。
 なぜか、息が詰まった。

 海ちゃんがその表情のまま、薄く口を開ける。

「まあね。ところで、りっちゃんさ……」

「りーかーこー!」

 その言葉尻に被せるように、元気な声が私の背中を叩いた。

「あれ、夕歩どうしたの?」

 振り返ると見慣れた黒いおかっぱが揺れている。おかっぱの少女、もとい夕歩がぐいぐいと私の腕を引きながら海ちゃんを見上げた。

「ちょっとね……じゃあ伊集くん、だよね、梨花子連れてくね。サッカー部、今年もテントありがとう」

 一方的に話を切り上げられて呆気に取られた顔の海ちゃんを置いて、その手から奪い取ったブルーシートを抱えながら夕歩が私の手を持ったまま早歩きで歩き出した。

「ごめん夕歩、話し込みすぎたかも。どこか手が要る?」

 ブルーシートの端を掴みながら尋ねると、夕歩がぴたりと足を止めて私を肩越しに振り返った。

「……なんか……いや、余計なお世話だったかな」

「ん?」

「本当は用事なんてないんだけどさ、伊集くんとあれ以上一緒にいたくないかなって思って咄嗟に」

 歯切れ悪く喋る夕歩が、「だって泣きそうな顔してたよあんた」と呟いた。

 その言葉に足が止まる。

「そう、だったかな」

 それに付き合ってくれるように足を止めた彼女が、夕日を背にしてこくんと一度だけ頭を動かした。

「そっ、か……」

「あんたさ……『海ちゃん』と久し振りに話してなんか思うとこあったんじゃないの」

「……まあ」

 夕歩が振り返って私の瞳をじっと見つめる。沈み始めた太陽に照らされて影になった彼女の姿は見えないはずなのに、なぜかそうだとわかった。

「なんか、なんて言うか……私ほんとに馬鹿だなぁって、思ったの。今更過ぎるよね」

 その視線の強さに、口が勝手に動き出す。

「自分で決めた自分との約束なのに、な。私ってば、全然覚悟できてなかった。海ちゃんとさっき、話してわかっちゃった。どうしてこんなこと……決めちゃったんだろ」

「それは……梨花子が自分で言ってたじゃん」

「うん。海ちゃんといたいから。好きな人がいても一緒にいていい存在になるために、だから想いを伝えないために。そのためだけに決めたはずの約束事だったのに」

 ざり、と砂を蹴る。

「でも私、結局、私はどうしようもなく欲張りで、どっちつかずで。『好き』って言ったら“終わっちゃう”のがわかってるから言わない。でも距離を置く覚悟も本当はできてなかった、みたい」

 堰を切ったように言葉が溢れて止まらなかった。もしかしたら、私は自分でも自分のことを、良くわかっていなかったのかもしれない。

 口にすることで、自分の気持ちがふつりふつりと浮いてくるみたいだった。

 多分、私の想いの時計は、海ちゃんが『好き』だと言ったあの日から止まっていたのだろう。

 海ちゃんから逃げたまま、自分から逃げたまま、目を背けて見ていないふりをして。

「……私、どうしたらいいのか……もう、わかんないの」

 夕歩はじっと動きを止めて私の言葉を咀嚼していたようだったけれど、不意に身を翻して歩き始めた。

「ちょ、ちょっと夕歩、突然」

「ねえ梨花子」

 ブルーシートを一人で持たせるわけにもいかないので半ば引きずられるように歩き始めた私に、夕歩がこちらを見ないまま名前を呼んだ。

「私は、違うと思う」

 彼女の声はいつになく穏やかだった。それなのに、私は不思議と咎められているように感じた。

「私は、『どうしたらいいか』じゃなくて『どうしたいか』だと思う。あんたが、どうしたいか」

「どうしたいか……」

 私はそのフレーズを、まるで初めてその言葉を口にする子どものように舌で転がす。

 気のせいかもしれない。でもたった6文字なのに、少しだけ視界が広がったような気がして。

 静かに俯く私をちらっと見た彼女は、重苦しい空気を吹き飛ばすようにニッと口角を上げた。

「ま、私は全面的に梨花子を応援するからさ! それだけは忘れないでよね!」

 がしがしと容赦なく髪の毛を掻き回してくる夕歩に、私はこの時ばかりは文句を言わずに唇を尖らせる。

「……ありがとう、夕歩」

「ん」

 視線を合わせることはできなかった。本当に思っている分だけ、どうにも素直に言うのは気恥ずかしい。

「元気でた! 準備さっさと済ませて帰るぞー!」

 そう言って彼女に向かって笑うのが、精一杯だった。