「ね、りっちゃ……」
「うるさい! ほっといてよ!!」
思わず酷く大きな声を出してしまう。海ちゃんはもちろん、演奏をきいていた人たちもびくりとしてこちらを振り返った。
すみません、と口の中で呟いて肩を竦める。
『最後は……皆さんも聞いたことがあるんじゃないかな? 今話題の映画の曲のメドレーでーす!』
元気そうなポニーテールの打楽器の女子生徒が演奏に被せてマイクを持って叫んでいる。
ソロがあるようで、す、と一番上の段に座っていたトランペットの先輩が立った。
近くで見ると茶色がかって見える、色素の薄い、柔らかそうなふわふわの少し長めのボブ。楽器を吹いているとは思えないつやつやの唇。ぱっちりとした大きな瞳。
「神崎先輩……」
海ちゃんも気づいたのだろう。すぐそばでそう囁く声に、ずくんと胸が疼く。顔が見られない向きでよかった。
近くで見るとやっぱり、もう色々考えられないレベルですっごく可愛い。
私はあることに思い至って眉を顰める。
……うそ。まさか、さっきの……
先輩がマウスピースを唇に当てた。きゅっと唇が少し横に引かれた次の瞬間、私の身体を力強い音が勢いよく叩いた。
その弾けるような音色は、間違いなくさっきと同じ。
「神崎先輩、だったんだ」
可愛くて生徒会長で楽器も上手くて。何でもできるなんて、そんなの……反則、でしょ。
神崎先輩だとわかった瞬間、その音がこもって聴こえる気がして、私は耳を塞いだ。自分の人間の小ささに恥ずかしくなった。
これは嫉妬だ。そう理解して、唇を噛みしめる。
でも、理解しようとその感情は簡単には消えなくて。
「先輩、かっこいい……」
海ちゃんのその小さな声と同時に、また音はくすむ。
自己嫌悪に陥りながら視線を横に向ける。そこには見たことの無い幼馴染みの顔があった。ほんのりと赤く染まるその顔に息が詰まって……どうしようもなく、笑えてきた。
そりゃそうだ。同性の私でも思う。可愛くて、かっこよくて。見蕩れない方がどうかしている。
いいな……狡いな。
そう思ってしまった自分をせせら笑った。自分から手放したくせに、羨むなんて。
「見学希望の子? 楽器体験する?」
話しかけられたことに気がつき、慌てて顔を上げる。先程マイクを持っていた先輩だ。いつの間にか演奏は終わっていたらしい。人もまばらになっている。
「いや……体験は」
「そうなの? 興味ない? でもちょっとはあったからきいててくれたんだよね?」
そう言われては、ないと突っぱねにくい。どうにか話題を逸らそうと試みる。
「さっきマイク持ってましたよね。先輩、部長さんとかですか?」
「あー、いやちがうよ、私はタダのヒラ部員。部長はあそこ」
先輩が指差す方向を見れば、トランペットを持った神崎先輩とばちりと目が合った。
「……え」
ぎゅんっと勢いよく視線を戻して、何故か小さくなった声で訊ねる。
「もしかして部長って、か、神崎先輩……ですか?」
そんな私の挙動不審な様子を不思議そうに見ながら先輩が首をかしげた。
「そうだよー。あ、そっか、生徒会長だから入学式喋ったのか」
「そう、です。あの、こんなこと聞くの変かもしれませんが、神崎先輩って生徒会長も部長もしてるん……ですか」
「あー、あの子はちょっと特別だからね」
「とくべつ?」
オウム返しにすると、あごに指をやりながらポニーテールを大きく揺らして頷く。
「そ。顔はもちろん超絶可愛いでしょ? んでその上、要領がいいってのと、カリスマ性って言うやつかな……それで生徒会長も部長も任されてるの。めっちゃ忙しいはずなのに成績も超いいし。
あ、もっちろんモテるよ。高嶺の花だけどね」
「な……」
声を失うとはこういうことを言うのだろう。私は口を中途半端に開けたまま固まった。え、何それ。普通に意味わかんない。
隣でますます目を輝かせてる海ちゃんはもっと意味わかんないし。
「あ、でも綺麗な薔薇には棘があるっていうのはあながち間違ってないみたいでね」
「……はぁ……?」
先輩は顎に指をやりながら唇を尖らせる。
「自分が何でもできるからか、プライド高いっていうか、気に入らない相手はとことん嫌うのね。そこだけがあの子の難点だねー。一度嫌ったらその人をどん底に突き落とすために何でもする。誰の彼氏盗った、とかもう聞き飽きたよって感じ」
美人は性格悪いってのはなんかありがちな話だけれど……気難しいお方のようだ。
初対面の後輩にそんなにぺらぺら喋ってもいいのかなとは思うけれど、悪意は無さそうだ。おしゃべり好きな人なのかもしれない。
「こらー」
と思っていると、先輩の頭にこつんとげんこつが落ちた。
「もー後輩ちゃん困ってるでしょ?」
にこ、と大きな瞳が笑みの形に細まる。
神崎先輩だ。
「葵、あっち呼ばれてるよ」
「あ、ほんと? ありがと」
ぱたぱたと先輩――どうやら葵先輩――が駆けていく。それを少し見送って、神崎先輩はこちらをくるりと振り返った。
「さっきの話なら気にしないでね。そんな風にされる方がやりづらいって言うかー。まあ、全部本当のことだしねー」
ふわふわと笑う。その嫋やかな笑みからは、とてもそんな人には思えないけれど。
自分のことを偽る気がないというのはすごいことだと思う。
それだけ自分に自信があるということだ。
だから、あんな風に吹けるのだろうか。
「あなた、トランペット吹くんでしょ?」
「えっ」
「さっき見てたよね。こっち」
断定的な言い方に誤魔化せないと悟る。何と答えるべきかと悩んでいるうちに、海ちゃんが口を開いた。
「りっちゃん、上手かったんですよトランペット。部活で大会とか出て金賞とか取って。俺、いつも聴きに行ってたんです」
「ちょ……っ」
「なぁんだ、やっぱそうなんだー。私のでよければ今すぐ吹けるけど、どう?」
トランペットがすっと差し出される。照明を跳ね返すぴかぴかに磨かれたシルバーのボディ。
惹かれる視線を無理矢理引き剥がして、先輩の手を押し返した。
「高校では……やるつもりないんです」
「どうして? ちょっと吹いてみるくらい」
「無理なんです!」
先輩の言葉を遮る。
「もう吹けないんです。あれから一回も触ってないんで」
「……ふぅん、そっかぁ」
ややあって、神崎先輩はにこっと再び微笑むと今度は海ちゃんの方を向いた。
「えーと……?」
「あ、俺は、伊集海里です!」
「海里くん、だね。覚えたよー」
ふふ、と神崎先輩が茶髪を揺らして微笑むと、海ちゃんが目に見えて顔を赤くした。
初めてあった後輩をさらっと名前呼び、そして反応見ても全く表情を変えないどころかむしろより余裕さえ見せる先輩に、ああ、やっぱり男慣れはしてるんだな、とひとりごちる。
「海里くんは吹いてみない?」
「あ、俺……は入部希望ってわけじゃなくて。すみません、冷やかしみたいな感じになって!」
頭を下げる海ちゃんに神崎先輩は笑顔のまま手を振った。
「いいよー全然。見たらわかるもん。運動部だったんじゃない?」
「あ、まあ、サッカー、ですけど……」
僅かに言い淀んだ気配に先輩がこてんと首を傾げ、何気なく言い放つ。
「続けないの? やればいいのに」
ずきっと胸に痛みを感じた。
私が、言えなかったこと。
「いや、えっと……それは」
「私はやりたいことなら、やればいいと思うけどなぁ。こんなにしっかり筋肉とかついてるのに、すっごくもったいないよー」
つん、と海ちゃんの腕を指先でつつく先輩に身勝手に妬みを抱く。
……海ちゃんのこと、何も知らないくせに、好き勝手に言わないでよ。
「何か理由があるんだろうけど。でも……私たちの今は今だけしかないんだよ?」
海ちゃんがはっと顔を上げて、誤魔化すように元に戻す。
気がつけば、私も同じようなことをしていた。その言葉は私にもぐさりと突き刺さった。きっと先輩にはそんな気はさらさらなかったのだろうけれど。
「……考えて、みます」
海ちゃんはほんの少しの間沈黙したものの、拒否はしなかった。
そのことにショックを受けて、私は唇を震わせた。
「……っ」
どうにかぺこりとお辞儀をして音楽室を出た。相変わらず賑やかな廊下を少し俯いて歩く。今はその他の人たちの声でさえ自分のことを言っているのではないかと怖かった。
「りっちゃん!」
後ろから焦ったような声がかかる。私は、なに、と硬い声で返事をした。
「りっちゃん……やっぱ部活入んないの? トランペット続けないの?」
「うん」
「そっか……」
「別にいいんだよ、海ちゃん。私が入らないからって、合わせなくて」
海ちゃんがぎくりとしたように目を瞬いた。
「べつに、そんなつもりじゃ」
やっぱり、と思った。なんとなくそんな感じがしていたからだ。
「いいんだよ、やりたいならやるべきだよ」
「……そう、かな。先輩も、今は今しかないんだよ、って……言ってたもんね」
中学で部活をやめた時から他の人にだってそんなこといくらでも言われてきたでしょ、と言いそうになってどうにか堪えた。
きっと彼にとっては……“先輩”に言われたというところが大事なのだろうから。
ぎゅうっと胸のあたりを握り締められるかのように苦しさを覚えた。
……どうして今日会ったばかりの人なのに、先輩の言うことは心に響くの?
黒い感情に押しつぶされそうになりながら、それでもどうにかそれを抑えられたのは、まだ彼の口から『確信的な言葉』を聞いていなかったからだと思う。
『好き』という、その言葉を。
たったそれだけを支えにして、大丈夫、大丈夫、と自分を押さえつけていた。
私は笑顔でこの汚い心の内を隠す。
「ごめん海ちゃん、ロボット研究部行くんだったよね」
「んー、どうしようかな……」
海ちゃんの声に被るように、校内放送のチャイムが鳴った。
『部活動見学をしている新入生の皆さんにお知らせします。新入生の皆さんは12時半に完全下校となっているので、それまでに校舎を出るようにしてください。繰り返します。新入生の皆さんは――』
教室の中にある時計を覗き見ると、12時を少し回ったあたり。
「……ごめん海ちゃん、私のせいで行けなかったね」
ちろと上目遣いで見上げると、海ちゃんはけろりとした表情で頬を掻く。
「全然いいよ。部活見学は今日だけってわけじゃないし、明日にでもまた行けばいいしね」
私は良かった、と頷きながら、ずり落ちた鞄の肩紐を直した。校舎を出ても、まだ放送が大きく耳に届いてくる。
校門を通り抜けたあたりで、不意に海ちゃんがぽつりと呟いた。
「あのさ」
その声は、ともすれば校舎から聞こえる放送にかき消されそうな程に小さくて、私は猛烈な葛藤の中でそっと足を止める。
なんだか、今から海ちゃんが話すことは、聞いてはいけない、聞くべきでないことのような気がして。
足を止めたくない、でもこんなに弱々しい海ちゃんを、“幼馴染み”を放ってはおけない、と。
震える唇でどうにか息を吐き出した。
「……どうしたの、海ちゃん」
幼馴染みは大きな背を縮めるようにして長く逡巡する。私はその間、息を詰めて待っていた。
口を数度開け閉めした後、彼は意を決したように私にたずねる。
「すき、って……どういう感じだと思う?」
「…………えっ?」
金属バットで思いっきり殴られたみたいに、頭が一瞬で真っ白になった。
海ちゃんは海ちゃんでいっぱいいっぱいのようで、私の様子には目もくれず口を動かす。
「俺さ、好きな人とかいたことなくて」
自分の意思で回らなくなった思考のどこかで、そうだったんだ、とぼんやり思う。
「だからさ、俺、多分でしか話せないんだけど」
その熱にぼんやりと浮かされたように滲む伏せられた視線で、海ちゃんは私の反応なんて期待していないのだとやっと私は理解した。
口調は疑問の形をとっていたとしても、これはただ彼が自分の気持ちを吐露したいがためだけの、会話だ。
私は――彼の言葉を遮ることを放棄した。
「俺、神崎先輩が……好きかも」
聞きたかった言葉を、聞きたかった人から、
……私ではない人の元へ。
大好きな幼馴染みの口から零れ出たその言葉は、思ったよりもずっと呆気なく私の胸にすとんと落ちた。
落ちて――ぽとりと、小さな小さな、真っ黒に淀んだ水たまりを作った。
「そっか、私もいいと思う。先輩は可愛くてなんでもできて完璧だもんね。……私なんかじゃ」
何一つ、到底敵いっこない。
自分の声が僅かも震えていないことに驚く。思ってもいないことがするすると口から出ていくことに驚く。
「……りっちゃん?」
やっと我に返ったようにそう海ちゃんが私の名前を呼んで、私の腕を掴んだその大きな手を、大好きな手を。
力いっぱい振りほどいたことに――驚く。
皮肉にもぱっと顔だけは自分の意に従って素直に持ち上がった。視界いっぱいに海ちゃんが傷ついたように目を見開くのが映る。
「私用事思い出した。ごめん、先に帰るね……ごめん」
何か、何か言わなければ。そう思うのに言えなかった。口をついたのは身勝手な謝罪と、逃避の言い訳。
「え……は!? 先に帰るって、同じところに帰るんじゃん……ちょっと、りっちゃん!」
きっと何が起こっているのかわからず狼狽えているのであろう海ちゃんの、珍しく荒げられた声を振り切って私は走った。
海ちゃんが本気で走れば私になんて容易に追いつくことができるだろう。でも、海ちゃんはそんなことをしない。考えて、気遣って、私が嫌がるような事はしない。いつもそうだった。
今頃は絶対に私には追いつかないようにとぼとぼ歩きながら、自分が何かしたせいなのだろうと、頭を悩ませ、後悔しているはず。海ちゃんは……本当に、優しいから。
――でも、その答えは私自身が握って逃げた。見つかるはずもない。
「っはぁ、はぁ……」
こんなことをしても無駄なのだとわかっている。
わかっていても、もうあれ以上あの場にはいられなかった。帰るまでずっと笑い続けて話を聞き続けて、そんなことできると思えなかった。
「……は、ぁ……」
視界が滲む。
それを誤魔化すように、走りながらほとんど吐息のような大きさの声で、自分に囁く。
「……海ちゃん、神崎先輩が好きなんだって」
ぼろっ、と頬を涙が一滴滑った。
「あれ、おかし、なぁ……」
それに気がついて拭う。自分は泣いているのだ。そう自覚すると、それは次々に零れて、止まらない。
さっきまで何ともなかったのは、ただ単に現実を受け入れられてなかったという、それだけのことだったのだろう。
気がつくと足は止まっていた。風に煽られていた髪が急ブレーキをかけた私に不服を訴えるように、ばさりと私の頬を強く叩く。
朝頑張ってセットした髪は、もうぐしゃぐしゃになってしまっていた。のろのろと頭に手をやって、髪の毛を握り潰す。
「海ちゃん、好きな人がいるんだって……!」
その手が大きく震えた。私は人気の無い道路の端で、堪らずしゃがみ込んだ。
どうすればいいのかわからなかった。こんなこと初めてだったから。
海ちゃんが私のことを好きでなくても、海ちゃんにとって『一番大切な女の子』は私のはずだと、勝手に自惚れていた。
海ちゃんの隣はこれからもずっと私なのだろうと、無邪気な希望に、来るべき現実から目を背けていた。
私は、明日からどんな風に海ちゃんに接すればいいんだろう? と、ふと胸の奥を冷たい風が通り抜けたような虚無感を感じた。
海ちゃんが隣にいてほしい女の子は……いや、いてもいい女の子は、今日を限りに私ではなくなった。
それなら私は、海ちゃんと一緒に……いられなくなる?
自分には何も無いのだ。彼を繋ぎ止めておけるようなものは、何も。他ならぬ自分がそれを誰よりわかっていたから。
堪えきれない震えが全身を走った。
「そんなの絶対に嫌だ、嫌だ、いや……だ……!」
ぎゅっと唇を血が出そうなほど強く噛み締める。ずっと一緒にいるには、どうすればいい? そう必死に頭を巡らせて。
この想いが気づかれてしまったら、きっと海ちゃんは離れていくから。それ以上に、困らせてしまうだろうから。
私はこの日、私自身と約束をすることにした。
必要以上に関わらないこと。
絶対に……『好き』だと言わないこと。
自分の想いを、隠し通すことを。
桜舞う、春色の空の下。
いっそ空々しいまでのあおいろの下で。
私はこれから自分の心にたくさんの嘘をつくことを、決めたのだ――