階段を駆け下りたせいか、それとも違う原因なのか。激しく脈打つ心臓をなだめすかしながら、ゆっくりと歩く。

 ライトに白く照らされたグランドで、誰かがリフティングをしている。

 夜になっても寝癖がまだ付いているような、信じられないくらいおしゃれに無頓着なところは相変わらず。だけど身長は中学の頃からぐんぐん伸び始めて180センチ以上もあって、肩幅も私よりずっと広い。

 でも何より、その性格は、一番好きなところは、いつまでも変わらなくて。

 ああ……海ちゃんだ。

 声をかけることもできずに立ち尽くしていると、ばちっと目が合った。

「りっちゃん」

 へらっと笑うその顔は、なんとなく南波と似ている。

「……海ちゃん。どうしたの、こんな時間に学校来るなんて」

 違う。本当はそんなことが訊きたいわけじゃないのに。

「うん、まあちょっとね。試合も近いし、自主練みたいな?」

 そんな理由じゃないことくらいわかっているのに、そっか、と頷くことしかできない。

 ……やっぱり、前と同じなのかもしれない。変わったつもりでいたけれど。

 そんなふうに弱気になりそうになった時、南波に押してもらった背中が熱を持った。

「でさ、りっちゃん。そこのカゴに入ってるボールこっち投げてよ。シュート練するから手伝ってくれない?」

「あ……え、うん?」

 全部自分の勘違いで、本当にそんなことのために呼んだのかと疑いたくなるくらいに普通の会話をされて戸惑う。

 南波もよくわからないけれど、海ちゃんはもっとわからない。……今では一番わからない。
 ずっと一緒にいたから、だからちっちゃい頃は、お互いのことが誰よりもわかったのに。

 ずっと黙って球出しをしていると、なんだか昔に戻ったような錯覚に陥る。

「……上手になったよね、海ちゃん」

「なあに、突然」

 鋭くゴールを決めながら、私と言葉を交わす余裕だってある。

「前はこんな感じでよく一緒に練習してたよね。海ちゃん家の庭にさー、ちっちゃいゴールがあって。私がボール投げて、海ちゃんがそれ蹴って」

「そうそう。クラブチームに入ってた頃だよね。レギュラーメンバーに選ばれたくて、父さんにねだって買ってもらったんだよ」

 小学校のクラブチーム。あの頃の海ちゃんは、周りの子よりひと回り小さくて。脚をぶんぶん振り回してよくこけていたし、シュートだってしょっちゅうゴールポストにぶつけたりして、こんなに上手くなんてなかった。

「まだあるんだっけ?」

「あれね、親戚の子にあげちゃった。もう俺使わないし、その子すっごい嬉しそうにしてたし」

「……そうなんだ」

 あの頃とは何もかも、随分変わったんだなと実感してしまうから、昔の話はあまりしたくない。

 私にとっては大事なことでも、海ちゃんにとっては大したことはないのだとわかってしまうから。

「そういえば、海ちゃん結局選ばれたんだっけ」

 激しくボールがぶつかって、ぎんっ、とゴールポストが鈍い音を立てた。

「……りっちゃん、覚えてないの?」

「え?」

「俺さ、すっごい嬉しくて、いちばん最初にりっちゃんに報告しに行ったんだよ。俺、選ばれたんだよって。そしたらりっちゃん、俺に『おめでとう、さすが自慢の幼馴染みだね』って言ってくれて。その日は俺の家で、りっちゃん家の皆と一緒にお祝いして」

 どんどん近づいてくる海ちゃんに無意識に後ずさる。一歩が大きくて、すぐに私の正面まで来る。

 ぽろっと手からボールが零れ落ちた。

 私の視線は彼の胸あたりで、いつの間にこんなに差がついていたんだろうとぼんやり思う。

「小5の夏休み前だよ? ついこないだじゃん!」

 目の前にいるのは、あの頃の『幼馴染みの可愛い海ちゃん』じゃない。

 腕を上げたことに反射的に身構えたけど、そして指さしたのは自分の体だったのでぎょっとする。

「これ見ても、何も思い出さない?」

 海ちゃんが着ているのは、何の変哲もないトレーニングウェアだ。

 ……いや。

「これは……私があげたやつだ。あの日、これを準備して待ってた。絶対海ちゃんが選ばれるって自信があったから。あんなに練習してる海ちゃんが選ばれないはずないって」

 ひとつ思い出すと、するすると記憶が鮮明になる。

「そうだよ、大人のLサイズなんてさ。着れないし、そこまで大きくなるかもわかんなかったのに。高2になって今やっとぴったりだよ」

 包みを開けた時の、海ちゃん一家のギョッとした顔を思い出す。

「だって、大きいの渡したら……いつまでもサッカーやってくれるって思ったんだもん。私、海ちゃんがサッカーやってるところ見るの、好きなの」

「……ねぇ、りっちゃん。あの時言ってくれたの、もう一回言ってよ」

 思い出したそのまま、当時の自分の口調をなぞるように囁く。

「『海ちゃんは、宇宙でいっちばんカッコイイよ』」

「そう、それ。ちんちくりんだった俺にそんなこと言ってくれたのは、父さんでも母さんでも、他の誰でもなくて、りっちゃんだけだった」

 へらーっと笑う海ちゃんに、ふつふつと怒りが沸き上がってくる。

「でも、海ちゃんはやめようとしたじゃん。サッカー」

「そうだね」

 あっさりと頷かれてびっくりして顔を上げる。ぶつん、と何かが切れた音がした。

 それならもういい。知らない。どうせわからないなら、考えてもしかたがない。
 この際全部言ってしまおう。そうだ、私は覚悟を決めたのだから。

「そう、海ちゃんはサッカーやめようとしたじゃん! 続けたのは神崎先輩が言ったからでしょ? あの時神崎先輩いなかったら、海ちゃんは本当にやめてたでしょ!」

「さあ、どうかな」

「……っ、海ちゃんは、神崎先輩が、好き……で! 好きな人に言われたから、続けようって思ったんでしょ? ならなんで今更こんなこと言うの?」

「今更なのは、遅いのはわかってる」

 海ちゃんがボールを拾い上げる。視線を落としてそれを見つめながら、ぽつりと言った。

「俺、部活辞めたの、りっちゃんが辞めたからなんだ。そう言うと絶対りっちゃん自分のせいだと思うから、理由言えなかったけど。そうじゃなくて、りっちゃんが辛い思いしてるのに、俺だけ楽しむのってどうなんだろうって、自分が思って。自分だけサッカーするなんて……どうなんだろう、って」

「……え?」

「やっぱり続けることにしたのは、思い直したから。このまま辞めたら、りっちゃんが悲しむって。今は今しかないのに、このままでいいのかって思って」

 今は今しかないんだよ――あの時、神崎先輩が言った言葉。海ちゃんが部活に入ることを決めたのはそれを神崎先輩が言ったからだと思っていたけれど、単にあの言葉が響いたからだったのか。

「りっちゃんが思ってる以上に……俺、りっちゃんがいないと駄目なんだよ。りっちゃんが俺の中ですごく大きい割合を占めてて。そのことに、どうして気がつかなかったんだろう」

 そう言われて、ほんの少しだけ嬉しかった。けれどすぐ、今更そんなことがわかったとして何が変わるのかと冷静な自分が肩を落とす。

「俺、実は、先輩に告ったんだ。好きですって」

 体を強ばらせた私にふっと笑って、なんでもないように肩を竦めた。

「ごめんなさいって言われて、でも全然ショックじゃなかった。本当に好きだと思ってたはずなのに。思えてた、はずなのに……もしかしたら、気づきたくなかったから、思い込みたかっただけだったのかもしれない」

「そんな、でも。海ちゃんは本当に先輩のことを」

「多分、憧れみたいなものに近かったんだと思う。先輩で、美人で、何でもできて。今思ったら……だけどね」

 自嘲するように苦笑して、私から視線を逸らす。

「りっちゃんとまともに会えなくなってる方が、何倍も辛かった。どうやって話してたのかわからない。どうやって接してたのかわからない。考えれば考えるほどわからなくなって。今までが当たり前過ぎて、気がついてなかった。理由もなく俺達が一緒にいれる時期は、とうに過ぎてたんだなって」

 わかったんだ、と。足元に零した。

「もし……これが『そう』だって言うなら、思ってたものとは別物すぎる。気がついたら駄目な気がしてた。だけど、違ったんだね。気がつかなきゃ、俺たちはもう先に進めないんだね。今までのままじゃ一緒にいられない。りっちゃんはそれに気づいてた」

 海ちゃんがゆっくりと顔を上げて、笑った。視線が真っ直ぐに絡んだ。

「ソロ、凄くかっこよかった。あの音で目が覚めた。うだうだ理屈を捏ね回してる自分が恥ずかしくなった。りっちゃんはどんどんかっこよくなっていって。……綺麗になっていって。俺なんてもう必要ないのかもしれない。だけど」

 海ちゃんがこちらに近づいてくる。

「俺、幼馴染みだからそばにいたわけじゃない。りっちゃんのそばにいられなくなるなら、俺がいる意味なんてない。そのくらい、りっちゃんのことが大切だよ」

 目の前で止まって、腰を屈めて、同じ視線で。

「好きだよ、りっちゃん」

 白熱灯の明かりに照らされた海ちゃんの顔が、私の瞳を惹き付けて離さない。

 誰もいない静かなグランドも、ライトで影を落とすサッカーゴールも転がりっぱなしのサッカーボールも、あまりにも綺麗で、夢の中にいるみたいで唇が震えた。

「……ほんとに……?」

「ついこの間まで別の人のこと好きだなんて言ってたのに、信じられるわけないよね。だから、今度は俺がりっちゃんを振り向かせる。謝っても許してもらえないかもしれないけど、ごめん。今まで気づかないふりして」

「も……海ちゃんの、ばか」

 海ちゃんの指が私の目尻をなぞった。その指の暖かさにまた涙が出てくる。

「こんな顔してくれるなら、もっと早く言えばよかったなあ」

「なに? どんな顔?」

 眉を潜めても海ちゃんはにこにことするだけで教えてくれない。

 あ、と海ちゃんが思い出したようにズボンのポケットに手を突っ込むと、いつかのように私にそれを差し出した。

 ピンクのパッケージは何よりも見慣れたものだ。

「いちごオレ……なんで」

「先輩に買えって? もし買うとしたらりっちゃんにだよ」

 若干きゅんと来てしまってから、慌てて頭を振る。

「いや、でも海ちゃん好きじゃないとか言ったし! 今更!」

「りっちゃんが変な顔するから、夏休み入って母さんにきいてやっと思い出したよ。もー勘弁してよりっちゃん、幼稚園の時の事なんて覚えてないって!」

「でも私にとっては……」

「味覚くらい変わるよ! それ言ったらりっちゃんだってこのウェアのこと忘れてたじゃん! 小5だよ!?」

「……」

 2人で睨み合っても長くは続かない。すぐにぷっとふき出してしまった。

 なるほど、私にとってのいちごオレは、海ちゃんにとってはそのトレーニングウェアと同じように、大切な思い出の一部だったわけだ。わかってみれば随分他愛もないこと。

 皆それぞれ、色々なものを勝手に大切にしている。大切なものは、その人にしかわからない。

 皆それぞれ、色々な想いを抱えている。けれどその想いは、口にしなければ伝わらない。

 となれば、動かなければ何もわからないし伝わらないのは当たり前で。

「ね、海ちゃん。私のこと好きだって言うなら、一個だけお願いきいて」

「……お手柔らかに頼みたいなあ」

 残念ながらそうはいかない。私はちょっぴり浮かれている。

「ぎゅってして。……ちゃんと恋人っぽく」

 てっきり嫌がられると思ったのに、海ちゃんの顔は暗くてもわかるほど真っ赤になっていく。

「い、いいの」

「……うん」

 頷くや否や、抱き寄せられた。力強いのに、手つきはそっと壊れ物に触れるようで、どうにもくすぐったい。

 海ちゃんの片手が私の髪を柔らかく梳いた。耳に微かに息がかかって肩が震える。

「ねえ、やばい。俺、変じゃない? りっちゃんにどうやって触ったらいいか、もう、わかんないんだけど……」

 ……こういうことを素直に言ってしまうところが海ちゃんらしい。

 耳元で囁かれる声は、いつもより3割増しで低く聞こえてどきりとする。素直な海ちゃんの言葉と相まって心臓に悪い。考えたくないけど、もしもわざとならタチが悪い。

 わからないわからないと、そんなことばかり言ってきたけれど。

 やっぱり私はこの幼馴染みのことを、まだよく知らないのかもしれない。