課題曲はⅣ。マーチだ。マーチを選ぶ学校は多い。メロディ、ベース、オブリガード、リズムなどの役割分担がはっきり分かれているので練習がしやすいし、テンポの変化や転調も少ないので演奏しやすいと思われているからだ。

 ただ、本当はそればかりではない。決まりきっているからこそ、表現すること、アピールするそとが難しい。

 トロンボーンの表拍に、ホルンが裏拍を刻む。

 低音のベースと中低音のオブリガートを聞きながら、それを崩さないようにそっと、かつ大胆に高らかにメロディを歌い上げるのがトランペットの役目だ。

 最後のファンファーレのリリースまで丁寧に。でも自由曲の余力も残しておかなければいけないから、ペース配分も大事だ。

 ジャン! と最後の和音が響く。

 ここまで大きなミスはない……と思う。唇を離してふぅっと小さく息をつく。

 いよいよ、私の出番だ。

 席移動が終わって、先生が深呼吸して静かに肩を落としたのがわかった。すっ、とこちらに手のひらが差し出される。

 楽器を構えて、目を閉じる。

 長く息を吐き、深く吸う。
 不安、期待、皆の気持ちも、全部。

 ゆっくりと目を開けた時、まるで運命のように、絡んだ……視線。

 どうしてか、海ちゃんの姿がひとりだけ、くっきりと見えて。

 優しく、微笑んだのがわかった。
 その瞬間、しつこくこびりついていた最後の不安が消え去った。

 ――さあ、想いの丈を伝えるなら、今。

 びっくりするくらいたくさんの息が注ぎ込まれて、びりびりと楽器が震える。

 音が弾けて、目が眩んだ。


 ……お願い。
 私の声を、きっと届けて。

 あらん限りのこの声を。


 一度目のフレーズのあと、もう一度同じフレーズが繰り返される。今度は、包み込むような伴奏も。

 夕歩の音も、南波の音も、先輩の音も……皆の音が、一緒にいる。

 私は、ひとりじゃない。いつもそばに誰かがいた。今ならそれがわかる。
 そのことにどうしようもなく胸が熱くなって、私はまた、深く息を吸った。


✱✱✱

 まあ、そんな人生上手くいくもんじゃない。

「でもさぁ、金賞ってすごくない? っと、よし、これで終わりーっと」

 夕歩が最後のティンパニを音楽室に運び入れて、ぱんぱんと手を払った。

「うん……だけど、なんだろうね、なんか金賞だと……こう、むしろ期待しちゃうっていうか」

「わかる。『推薦団体を発表します』のやつでしょ? まさかあれをドキドキして待つことになるとは思ってなかったよ」

「まーさすがに、そんな漫画みたいなこと起こんなかったね」

「私からしたら、金賞も充分夢みたいなんだけどね」

 へへっ、と夕歩が笑う。

「でも何賞でも皆でとれたってことが嬉しいなあ、私は。代表は……そうだねえ、後輩たちにでも託そうか」

「うん……」

 不完全燃焼感はない。やり切った。最高の演奏だった。

 ……はず。

「おい」

 突然腕を掴まれてびくりとする。目を見開いて振り返ると南波がいつものように怠そうに立っていた。

「えっ、ちょっ」

 制止しようと試みるも、ぐい、と強く腕を引かれる。助けを求めるように夕歩を見たけど、困ったように笑って手を振ってきただけだった。

 屋上のドアが勢いよく開け放たれる。

 吹き付ける風に思わず気持ち良く目を細めながら、ぶんぶんと頭を振った。

「ちょっと、なんでこんなとこ連れてくるの? もう夜だし、片付け終わったし、私も今日くらい早く帰りたい……」

「わかってんだよそんなことは。でも今日言いたいんだよ!」

 珍しく声を荒げる南波に身を引く。ちょっとだけでいいから、と言う南波に私は頷くしかなかった。

 その切羽詰まったような表情が、いつかの私と被って見えた。

「……約束破るのは、今回だけだからさ」

「約束?」

「そ。ソロオーディションの前にしただろ。俺が勝ったら」

「『聞いて欲しいことがある』、だっけ。……いいよ別にそのくらい」

 そう言うと南波はくしゃりと笑った。さんきゅ、と呟いたような気もしたけど、気のせいかもしれない。

「俺、まあ見ての通り、適当なことばっか言って適当なことばっかして過ごしてきた。吹奏楽も姉貴に唆されて入ったけど、面倒臭いばっかで別に面白くねぇし。辞めるのも面倒だし、ここでも適当に手ぇ抜いてそこそこで過ごすか、って思って」

「適当なことばっかっていうか……ぐさっとくること言うだけだよ、南波は」

「適当なことばっか言ってんだよ。相手が気にしてるんだろうってことをわざと選んで。自分がろくでもない人間なのはわかってた。そのくせ、それを指摘されるのは嫌だった。……先に攻撃すれば、色々言われずに済むだろ」

 南波が首を振る。

「ほら、吹奏楽なんて少々バレねぇじゃん。一人くらいまともに吹いてなくても。むしろ俺みたいに向いてんじゃねえの、って。俺だけじゃない。ほとんど多分そんな奴ばっかりだった。けど、お前は違った。うざいぐらい一生懸命でさ。それが、好きだったんだ。最初のきっかけはそれだった」

 一瞬耳を疑ってから、はっと我に返って笑う。ぎこちなくなってしまったのが恥ずかしい。

 やけに真剣に聞こえはしたけれど……だって、そんなはず。

「……それは、その、普通に……だよね?」

「そう」

「だよね、はは、ちょっと勘違いしちゃった」

「勘違いじゃねぇよ。普通に、好きだ、って言ってんだけど」

 南波が一歩、こちらに近づいた。

「悪かった。今のお前をつまんねえとか言って。俺の理想ばっかり押し付けて。だから……こんな俺が、いう資格なんか本当は無いのかもしれねぇけど」

 見たことのないくらいに、澄んだ真っ直ぐな目で。

「焦ってる顔とか、怒ってる顔とか、泣きそうな顔とか、情けない顔とか。お前のいろんな顔見て……なんて言ったらいいんだろうなぁ……なんかさぁ、めちゃくちゃ人間臭いなあって思って。今まで好きだったはずの強いと思ってたお前も好きだけど、今のちょっと頼りないお前も好きになって」

 びゅうっと風が吹く。頬を叩く。
 でもどれだけ風が強くても、もう目を背けられなかった。

「……東峰。お前のことが、ますます好きになってくんだよ。すぐ悩むお前も、すぐ卑屈になるお前も、本当は言いたいことをいっぱい抱えてるお前も、強くて弱いお前も、全部好きだ」

「そ、れは……」

 思考が追いつかない。

「え……その、ま、待って。私たちそういうのじゃなかったじゃん。突然……」

 じゃ、なかったのか。

 私のことを、ずっと見ていたのだ。だから私は南波のことが苦手だったのかもしれない。いつも、誰よりちゃんと見られていたから。だから……怖かったのだ。

 今更のように、ぼっ、と顔が火照る。

「俺にしとけばいい。伊集のことで辛そうな顔するなら、俺にしとけよ」

「……こ、こまる」

 これだけ想いを伝えてくれている相手にどうにか絞り出した言葉がこれとは、我ながら酷いと思った。けれど南波は気にした様子もなく首を傾ける。

「俺でいいじゃん。今は好きじゃなくてもいい。伊集のことが好きなままでいい。そんなすぐ気持ち変わんないのはわかってるし」

「……違うの。そうじゃなくて、私は」

 どうしても、どうしようもなく、しつこく私の胸を締め付けるのは、ずっとそばで見てきた、あの優しい笑顔への恋心で。

「海ちゃんだから、好きになったの」

 言ってしまってからハッとする。

 告白されている人の前で他の人に対する恋心を吐露するなんて、もしかしなくても最低な行為では。

「ごっ、ごめん、なさい……」

 はーっという深いため息に恐る恐る南波の方を見ると、やれやれとでも言いたそうに肩を竦めていた。

「やっぱ好きだなぁ。伊集を好きって言ってるお前も好きなんだから、どうしようもねえわ」

 そんなに真っ直ぐ言われたら、流石にどうしようもなく顔が赤くなる。言われる方が恥ずかしい。

「あーあ、俺、死ぬほどかっこわりーな。元々オーディションで勝っていうつもりだったけど、それも負けて。約束破ってまで告って、挙句あっさりフラれるとか。やっぱ付け焼き刃じゃダメか。今までのツケが回って来たんだな」

「……別に、南波が悪いわけじゃ……」

「おい、もっと悩めよ。そのくらいしてくれていいだろ」

 普段とのギャップに眩暈がする。

「けどま、諦めたわけじゃねえから。俺もすぐ追いつく。そん時はフったこと後悔させてやる」

 ったく、と一瞬で普段の調子に戻って、悪態をつきながら南波はこちらに腕を突き出した。唐突に目の前にスマホを出されて目を白黒させる。

 開かれているのはメッセージアプリの画面だ。画面の上には『kairi』とある。

《今、東峰と屋上》

「はっ? 海ちゃん!?」

「伊集のことになるとこれだからなあ。なに、お前メールとかも何も交換してねぇの?」

「……してない。要らなかったから。だって毎日会うし、何か用事あったら窓から叫べばよかったし。てかなんで南波が海ちゃんとやり取りしてんの……?」

「なんでもなにも普通に。そこそこ仲良いっつったじゃん」

 言いながら南波が新しく打ち込む。

《早くしないとどうなっても知らねえけど》
《お前が俺は告ったからな》

「いや、うん……いやいやそうじゃなくて、何送ってんの!」

 ついさっき告白された人だということもすっかり頭から飛んで力一杯襟首を掴むと、南波はぐるりと目を回した。

「元からこういう予定だったから?」

 そのまま画面を見ていると、パッと『既読』がつく。

「わああもうっ、やっぱいっつもよく分かんないことばっかする!」

「あーあーそうだよ! 俺も自分で自分がわかんねぇよ! お前が目の前にいると色々言いたくなるし! 突っかかりたくなるし! 今だって……好きな人の恋路応援するようなことしてやってるし!」

 そっと手を離す。もちろん南波の剣幕に圧されたわけじゃない。

「ごめん」

「本当しょうがないな、お前らは。……伊集とちゃんと話してこいよ」

「……ごめん」

 いや、違う。

「ありがとう」

 私よりずっと辛いのは南波のくせに。私に、いつもみたいにへらりと笑ってくれた。

「――りっちゃん!」

 グランドから大きな声がする。

「りっちゃーん! いるんでしょー!」

「……海ちゃん」

 そっとグランドを見下ろす。もうライトに照らされた暗いグランドで、こちらに向かって大きく手を振っている人影がある。

「なんで……」

「呼んでんだろ。行ってこいよ、ほら」

 どん、と強く背中を押されて、一歩踏み出してしまえば、もう足は止まらなかった。

 まるで振り向くな、と言われているみたいだ。

 鼻を啜ったような音が聞こえたのには、気づかないフリをした。