たんたんたん、と自分の足がリズミカルに階段を上っていく音が耳に残る。その奥で微かに届くのは、尾を引く蝉の声。
「ふー……」
思わずため息をついて髪を払う。
暑い。背負った楽器ケースのせいでシャツが背中に張り付くのが、今だけ恨めしい。
しかしそれも当たり前だ。もう7月の半ばもとうに過ぎて、世は夏休み。授業は無くても、吹奏楽部の活動はこれからが正念場。
中学の時のくせで、毎朝早く来てしまう。最初はそんなの自分くらいだと思っていたのだけれど。
「おっそ。おまえやる気あんの?」
毎朝音楽室のドアを開けると、第一声は極めて不愉快だ。
「南波……あんたさ、ほんと何時に来てんの。私校門開く時間丁度ぐらいには来てるんだけど」
「はー? 階段上るのが遅いんじゃね?」
「そんなに変わるわけないじゃん」
楽器のメンテナンスを既に始めている南波を横目で見ながら自分も荷物を下ろす。
時計を見ると7時35分くらい。校門が開くのが7時半だから、本当に丁度ぐらいの時間に来ているはず。
それより早いって……まさか校門開くの待ってるってこと?
校門の前で汗を流しながら生真面目に佇んでいる南波を想像するとちょっと笑えてきた。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「別に……オイル貸して。忘れた」
誤魔化すように仏頂面でそういった私にピストンオイルを放ってきた。
同じ物を使っているのは好都合だけど、何となく唇を尖らせた。
私もメンテナンスを始めると、かちゃりと時折響く金属音と、古びたエアコンのごうんごうんというやたら大きな稼働音が部屋を占める。
私は手を動かしながらも、その沈黙に数秒も我慢できずに口を開いた。
南波といる時は、沈黙が怖い――というより、先に口を開かれて何かを言われるのが怖い。
だから、先に会話の主導権を握ってしまいたいのだと思う。
「あのさ」
「……なに」
「正直、朝早く来てるの、ほんの気まぐれだと思ってた。すぐ来なくなるだろうって」
「あー、俺朝吹かないと駄目なんだよ。身体の目覚めと一緒に耳も起こさねぇと」
「それは同意、っじゃなくて」
「なんだよ?」
不機嫌そうな視線を向けてきた南波から、今度は私が目を背けた。
「……あんたもさ、やっぱ、思うとこあったんだなぁって」
「“も”ってか……まあ、そりゃな……」
歯切れの悪い私の言葉に、南波も目を伏せると皮肉っぽい笑みを浮かべた。
時は一週間前、夏休み初日に遡る―――
その日、集まった部員を前に先生が合奏をしようと言った。
押しが弱くて物腰柔らかで、あまり自己主張の強い先生ではないことを知っているから、部員達は明らかにざわついた。
それでもセッティングを済ませ、チューニングを終え着席する。
指揮台に置かれた椅子にゆっくりと座った先生はいつも通りにこやかな表情で口を開いた。
「では、これからソロオーディションを始めますね」
「……は……!?」
自分がやろうと言い出した曲だから責任感を感じているのかな、ぐらいにぼんやり考えていたところに、見事に冷水をぶっかけられたようなものだった。
「ちょっと待て……ください、さすがに何の知らせもなくやるってのはどうかと」
がたん、と音を立てて南波が立ち上がる。それを手で座るように促しながら、先生は至ってにこやかに続ける。
「落ち着いてください。何もこの一回で決めようという訳ではありません。これから合奏をする上で仮にとしては決定しますが、2週間後にもう一度オーディションをして、そこで本決定をします」
「それは……そんなことをして、何か意味があるんでしょうかー?」
にこやかさを保とうとする神崎先輩の顔も明らかに引きつっている。
先輩としては、今やろうが後からやろうが、自分がソロを吹くことになるに違いないんだから、というところだろう。
私には負けるはずないと考えているし、高校ではサボり魔だったらしい南波は真面目にやらないと思っているはずだ。
先生はそれに答えない。先輩が表情を消した。
「チャンスは全員に平等にあるべきだと思うので、3年生、2年生はもちろん、1年生の2人にもソロを吹いてもらってもいいと考えていますが……」
それを聞いて我関せずとぼーっとした顔をしていた1年生の2人が激しく首を横に振った。
「い、いいえええ私たちなんて全然吹けないので」
「そ、ソロのところ練習もしてないですし」
「そう言うなら無理強いはしませんよ」
頷く先生に、すっと手を挙げたのは夕歩だ。
「先生、私も辞退します」
「え……夕歩……本当にいいの?」
「うん。私はこーゆーのは、いいんだ」
にっと笑う夕歩が無理をしているようには見えなかったので、私はそれ以上何も言えなかった。
……じゃあ、自分は? 辞退しなくていいの?
ここで手をあげれば、吹かなくて済む。もうあんな目にあいたくない。それなら辞退する方がいいんじゃないの?
そのはずなのに、手をあげるのを躊躇ってしまう。どっと汗が吹き出して、それでも体は動かない。
……あげられない。だって、本当は……私は。
「では……神崎さん、東峰さん、南波くんの3人でオーディションをするということでいいですか?」
先生がぐるりと見回しても誰も視線すら上げようとしなかった。空気はもう随分重い。
「では、ソロの決定は多数決にします。手を挙げた数が多かった人にしましょう。もちろん目をつぶって周りは見えないようにして。では、神崎さんから」
促されて、すっ、と構えるその姿に、何の気負いもない。
私はもうこのオーディションの行く末がわかっていた。私だけじゃない。きっと、この場にいる誰もが。
目をつぶろうがつぶるまいが関係ない。きっとみんな、皆先輩に手を挙げる。当たり前だ。それは……私だってそうだから。
先輩が深くブレスを吸う。一音目が放たれる。特に非の打ち所のない、完璧にほど近い演奏。
誰も身動きしない。静かに聴いていた。
次に構えた私は正直、もうやりたくなかった。全部投げ出して出ていきたかった。もう吹いたところで何も意味が無いと思った。
マウスピースを口に当てても、息を吸っても、唇を震わせても、自分の演奏だという気がしなくて。
終わってみれば、ミスはしてないけれど、機械のように楽譜をなぞっただけで、そこに自分の意思はなかった。
先輩の演奏を聴いて、完全に萎縮した。
――なんて、ただの言い訳か。
ただ、いつも通りの自分というだけだ。
もう目立たないように、集団から飛び出さないようにそつなくこなして。そこに自分は、どこにも……いない。
自嘲気味に唇を歪める私の耳に、最後の南波の演奏が届く。
久しぶりに聴いても上手いと思った。伸びやかで聴きやすい音。普段の本人の振る舞いに反して、ちっともひねくれていない真っ直ぐな音。アタックが綺麗で、リリースも力強い。
ただ、やっぱり練習不足が尾を引いているのがわかる。全体的に粗削りな印象を受けるから、先輩か南波かとなれば、先輩に軍配が上がるだろう。
でも、2週間後はわからない。ろくに練習もしてないのにこれだけ吹けるのなら。
次のオーディションは、先輩と南波の一騎打ちになるのだろうか。
「はい、ではみなさん顔を伏せてください」
先生のその声でハッとして顔を伏せる。
「神崎さんがいいと思う人」
見えなくても、沢山の人が手を挙げたのが気配でわかって、まあそうだろうなと思う。
人数的にもう先輩に決定だ。
「東峰さんがいいと思う人」
駄目だとわかっているのに、私はこっそり薄目を開けてしまった。
トランペットは一番上段に座っているので、さほど顔を上げずに全体が見える。
かしゃ、と楽器が微かな音を立てたことで、自分の手が震えているのだと初めてわかった。
――こうなると、わかっていたのに。
視界に入る限り、誰も手を挙げていなかった。そのことに、そんなにショックを受けるだなんて。
そっと横に視線を滑らせると、先輩が薄く笑みすら浮かべながら目を閉じていた。
夕歩が一人、真っ直ぐ手を挙げているのが見えた。
そのことに驚きながらほんの少し顔を上げると、南波と目が合った。
……あんた、なんで目開けてんの。
見ないで欲しかった。自分が酷く情けない表情をしているのがわかるから。
冷たい目を向けられると思って構えていたのに、南波はただすっと目線を逸らしただけだった。そのまま俯いて目を閉じる。
それが想定外で、驚きながら私も顔を伏せた。
……なんで、そんな悲しそうな顔をするの。
南波もあの日のことを思い出していたのだろう、横顔には微かに憂いが浮かんでいる。
「なあ、おまえさ……」
南波が何かを言いかけた時、がちゃりとドアが開いた。
「おはよー梨花子、と南波」
「……おはよ」
「俺はついでかよ」
「あったりまえでしょうが」
今日もふたりとも早いねえ、私も結構早く来たのになあ、などと言いながら荷物をどかりと降ろす夕歩に笑う。
ちらっと南波に視線を向けるが、もう話す気は無さそうだった。本当に気まぐれというか適当というか。
ふーっとため息をついて暗い気持ちを振り払う。
「ねえ、今日もパート練やると思う?」
「パート練習かー、うーん私は全然いいけど……」
言い淀んだ夕歩に南波が頭をがりがりと掻いた。
「あー1年2人だろ」
「南波、そんなハッキリ……」
「うーん2人とも、凄くいい子、なんだけどねえ」
今年の1年生は2人、安藤夏海ちゃんと九重早紀ちゃん。
夏海ちゃんは初心者、早紀ちゃんは中学の時ホルンをやっていて、トランペットに転向した。
2人とも、努力家で日々うまくなっていくのがわかる。ただ、問題なのは――
ガン! と先輩が机を蹴る。隣に座る夏海ちゃんが椅子から飛び上がった。
「ほんとに本気でやってるの?」
「ほ、ほんきで……す……」
ここのところ毎日詰まっている所だった。指の動きが難しい連符。
「へえ、本気でやって今のなの? じゃあよっぽど問題ね」
「……っ……」
すっかり怯えきった夏海ちゃんはもう言葉が出ないようだ。
そして私はといえば、この数日で普段の神崎先輩が随分猫を被っていることを知った。キレると口調からふわふわ成分が消え去る。
「あなた1stなのよ? 合奏のメロディラインを引っ張るのはトランペットの1stなの。それはわかってるのよね当然」
「は……」
「中途半端にやる気なら、別にいいのよ? 吹かなくても」
「わたしっ、そんなつもりは」
「へえ? じゃあどんなつもりなのか言ってみなさいよ。どうするつもりなの? もう夏休み入ったんだけど? 大会までもう日にちも無いの。初心者だからって優しくできる時期はとっくに過ぎたの、わかる?」
先輩はそこでじろりと目をやった。
「あなたもよ、九重さん。楽器が変わって大変なのは皆分かってる。でもそんなの関係無いの」
「は、はい……」
「安藤さんも九重さんも、『ひとりぶん』ちゃんと吹いてくれなきゃ困るの。『1』以外の端数は邪魔なの。マイナスにしかならないのよ、迷惑なの。わかる? ゼロの方が幾分もマシ。今年は2年生が3人いるから、あなた達が吹かなくたって形にはなるから」
「先輩!」
我慢できずに声を上げたけれど、先輩は私に目も向けなかった。
「先輩、そんな風に言わないでください……夏海ちゃんも早紀ちゃんも、頑張ってるんです」
「そうね。で、その結果がこれでしょ?」
「……まだ、結果じゃありません。時間はあります。先輩は……この子達が毎日だんだん上手くなってるのがわからないんですか……!?」
先輩はやっと、うざったそうに私のことを見た。
「元が下手なんだから当然上手くはなるでしょ。でも少しずつじゃ困るのよ。努力が足りないだけでしょ。へらへらしてほんとイライラする。じゃあ夏休み始まってからの一週間で何か変わった? 注意されたところを集中して繰り返し練習したりとか、わからない所を進んで先輩に訊いたりとか」
「……」
「答えられないんでしょ。それに、東峰さん?」
「はい……」
「役に立たない1年生の面倒なんて見てる余裕あるのね、自分もろくに吹けてないくせに。ソロ降りれば少しは楽になるんじゃないかな?」
明らかに皮肉だとわかる言葉に目を伏せた。
「……できない人を切り捨ててまで結果出すのが大事だとは思えません」
そう言うと、先輩はふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ふうん。随分偉そうなこと言うけど、何か勘違いしてない?」
「勘違い、ですか」
「あなたはそれが自分の意思だとでも思ってるのかもしれないけど。私には、ただ切り捨てるっていう選択肢を選べないだけにしか思えない。あなたはどうしてその子達に吹かせたいの?」
「それ、は……」
なにか言おうと口を開いて、咄嗟に何も言えないことに絶句した。
「わかってる? 本番のステージで、『私は初心者です』っていう看板を首から下げることなんてできないの。ステージの上では皆責任を持って吹かなきゃいけない」
誰も何も答えられない状況にうんざりしたように首を振ると、先輩は荷物を手早くまとめて席を立った。
「まあ、どうでもいいけど。馬鹿らしいから私はパート練抜けるわ。ああ、合奏は出るから心配しないで」
大きな音を立ててドアが閉まると、隣に座る夏海ちゃんがふにゃりと背もたれに体を預けた。
「……夏海ちゃん」
「はっ、すみません先輩」
慌てて姿勢をなおす彼女を、いいよ、と手で制した。
「もー、まったくあの先輩、好き勝手言いやがってぇ……夏海ちゃんも早紀ちゃんも頑張ってるっつーの!」
「もう夕歩、口悪いんだから」
「ごめんごめん。けどさぁ、イラッとするんだよね」
「あいつが言ってんのが正論だからだろうが」
唇を尖らせる夕歩に南波がぼそりと呟く。
私はどきりとしたけど、夕歩はためらいなく南波を睨んだ。
「正論が最善とは限らないでしょ。なーに知ったげに言ってんの」
その言葉にはっとする。
鋭い視線を受け止めた南波が表情を緩めた。
「ま、そうなんだけどな」
「まさかあんたも先輩と同じ考えだっていうの? それなら敵ね」
「……萩はそう言うよなあ。お前のそういうハッキリものいうところは嫌いじゃねえよ」
「あんたに褒められても嬉しくない」
「へいへい」
軽口を叩く2人が今はとても眩しく見えて、私は目を逸らした。
私は夕歩みたいに自分の思いが無い。
夕歩はどうしてソロを吹かないんだろう。夕歩の方が私よりずっと向いている。
「先輩。すみません……私のせいで」
「ううん本当に気にしないで。ごめんね、私が悪かった。もっと早く気を配れてたらよかった。できないとこ、一緒に潰そうか」
椅子を寄せようとした私を、夏海ちゃんがあわあわと手を振って留めた。
「あ、や……えっとぉ、私、最初ひとりでやってみてもいいですか? さっき神崎先輩の言葉、ショックでしたけど、確かにそうだなあって思ったんです」
「え」
「梨花子先輩も、ひとりでやる時間ほしいですよね? すみません私のせいで……自分でできる限りやってみます!」
あ、でも困った時は助けてくださいねっ、と笑う彼女に、私はどうにか唇を歪めた。
「ふー……」
思わずため息をついて髪を払う。
暑い。背負った楽器ケースのせいでシャツが背中に張り付くのが、今だけ恨めしい。
しかしそれも当たり前だ。もう7月の半ばもとうに過ぎて、世は夏休み。授業は無くても、吹奏楽部の活動はこれからが正念場。
中学の時のくせで、毎朝早く来てしまう。最初はそんなの自分くらいだと思っていたのだけれど。
「おっそ。おまえやる気あんの?」
毎朝音楽室のドアを開けると、第一声は極めて不愉快だ。
「南波……あんたさ、ほんと何時に来てんの。私校門開く時間丁度ぐらいには来てるんだけど」
「はー? 階段上るのが遅いんじゃね?」
「そんなに変わるわけないじゃん」
楽器のメンテナンスを既に始めている南波を横目で見ながら自分も荷物を下ろす。
時計を見ると7時35分くらい。校門が開くのが7時半だから、本当に丁度ぐらいの時間に来ているはず。
それより早いって……まさか校門開くの待ってるってこと?
校門の前で汗を流しながら生真面目に佇んでいる南波を想像するとちょっと笑えてきた。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「別に……オイル貸して。忘れた」
誤魔化すように仏頂面でそういった私にピストンオイルを放ってきた。
同じ物を使っているのは好都合だけど、何となく唇を尖らせた。
私もメンテナンスを始めると、かちゃりと時折響く金属音と、古びたエアコンのごうんごうんというやたら大きな稼働音が部屋を占める。
私は手を動かしながらも、その沈黙に数秒も我慢できずに口を開いた。
南波といる時は、沈黙が怖い――というより、先に口を開かれて何かを言われるのが怖い。
だから、先に会話の主導権を握ってしまいたいのだと思う。
「あのさ」
「……なに」
「正直、朝早く来てるの、ほんの気まぐれだと思ってた。すぐ来なくなるだろうって」
「あー、俺朝吹かないと駄目なんだよ。身体の目覚めと一緒に耳も起こさねぇと」
「それは同意、っじゃなくて」
「なんだよ?」
不機嫌そうな視線を向けてきた南波から、今度は私が目を背けた。
「……あんたもさ、やっぱ、思うとこあったんだなぁって」
「“も”ってか……まあ、そりゃな……」
歯切れの悪い私の言葉に、南波も目を伏せると皮肉っぽい笑みを浮かべた。
時は一週間前、夏休み初日に遡る―――
その日、集まった部員を前に先生が合奏をしようと言った。
押しが弱くて物腰柔らかで、あまり自己主張の強い先生ではないことを知っているから、部員達は明らかにざわついた。
それでもセッティングを済ませ、チューニングを終え着席する。
指揮台に置かれた椅子にゆっくりと座った先生はいつも通りにこやかな表情で口を開いた。
「では、これからソロオーディションを始めますね」
「……は……!?」
自分がやろうと言い出した曲だから責任感を感じているのかな、ぐらいにぼんやり考えていたところに、見事に冷水をぶっかけられたようなものだった。
「ちょっと待て……ください、さすがに何の知らせもなくやるってのはどうかと」
がたん、と音を立てて南波が立ち上がる。それを手で座るように促しながら、先生は至ってにこやかに続ける。
「落ち着いてください。何もこの一回で決めようという訳ではありません。これから合奏をする上で仮にとしては決定しますが、2週間後にもう一度オーディションをして、そこで本決定をします」
「それは……そんなことをして、何か意味があるんでしょうかー?」
にこやかさを保とうとする神崎先輩の顔も明らかに引きつっている。
先輩としては、今やろうが後からやろうが、自分がソロを吹くことになるに違いないんだから、というところだろう。
私には負けるはずないと考えているし、高校ではサボり魔だったらしい南波は真面目にやらないと思っているはずだ。
先生はそれに答えない。先輩が表情を消した。
「チャンスは全員に平等にあるべきだと思うので、3年生、2年生はもちろん、1年生の2人にもソロを吹いてもらってもいいと考えていますが……」
それを聞いて我関せずとぼーっとした顔をしていた1年生の2人が激しく首を横に振った。
「い、いいえええ私たちなんて全然吹けないので」
「そ、ソロのところ練習もしてないですし」
「そう言うなら無理強いはしませんよ」
頷く先生に、すっと手を挙げたのは夕歩だ。
「先生、私も辞退します」
「え……夕歩……本当にいいの?」
「うん。私はこーゆーのは、いいんだ」
にっと笑う夕歩が無理をしているようには見えなかったので、私はそれ以上何も言えなかった。
……じゃあ、自分は? 辞退しなくていいの?
ここで手をあげれば、吹かなくて済む。もうあんな目にあいたくない。それなら辞退する方がいいんじゃないの?
そのはずなのに、手をあげるのを躊躇ってしまう。どっと汗が吹き出して、それでも体は動かない。
……あげられない。だって、本当は……私は。
「では……神崎さん、東峰さん、南波くんの3人でオーディションをするということでいいですか?」
先生がぐるりと見回しても誰も視線すら上げようとしなかった。空気はもう随分重い。
「では、ソロの決定は多数決にします。手を挙げた数が多かった人にしましょう。もちろん目をつぶって周りは見えないようにして。では、神崎さんから」
促されて、すっ、と構えるその姿に、何の気負いもない。
私はもうこのオーディションの行く末がわかっていた。私だけじゃない。きっと、この場にいる誰もが。
目をつぶろうがつぶるまいが関係ない。きっとみんな、皆先輩に手を挙げる。当たり前だ。それは……私だってそうだから。
先輩が深くブレスを吸う。一音目が放たれる。特に非の打ち所のない、完璧にほど近い演奏。
誰も身動きしない。静かに聴いていた。
次に構えた私は正直、もうやりたくなかった。全部投げ出して出ていきたかった。もう吹いたところで何も意味が無いと思った。
マウスピースを口に当てても、息を吸っても、唇を震わせても、自分の演奏だという気がしなくて。
終わってみれば、ミスはしてないけれど、機械のように楽譜をなぞっただけで、そこに自分の意思はなかった。
先輩の演奏を聴いて、完全に萎縮した。
――なんて、ただの言い訳か。
ただ、いつも通りの自分というだけだ。
もう目立たないように、集団から飛び出さないようにそつなくこなして。そこに自分は、どこにも……いない。
自嘲気味に唇を歪める私の耳に、最後の南波の演奏が届く。
久しぶりに聴いても上手いと思った。伸びやかで聴きやすい音。普段の本人の振る舞いに反して、ちっともひねくれていない真っ直ぐな音。アタックが綺麗で、リリースも力強い。
ただ、やっぱり練習不足が尾を引いているのがわかる。全体的に粗削りな印象を受けるから、先輩か南波かとなれば、先輩に軍配が上がるだろう。
でも、2週間後はわからない。ろくに練習もしてないのにこれだけ吹けるのなら。
次のオーディションは、先輩と南波の一騎打ちになるのだろうか。
「はい、ではみなさん顔を伏せてください」
先生のその声でハッとして顔を伏せる。
「神崎さんがいいと思う人」
見えなくても、沢山の人が手を挙げたのが気配でわかって、まあそうだろうなと思う。
人数的にもう先輩に決定だ。
「東峰さんがいいと思う人」
駄目だとわかっているのに、私はこっそり薄目を開けてしまった。
トランペットは一番上段に座っているので、さほど顔を上げずに全体が見える。
かしゃ、と楽器が微かな音を立てたことで、自分の手が震えているのだと初めてわかった。
――こうなると、わかっていたのに。
視界に入る限り、誰も手を挙げていなかった。そのことに、そんなにショックを受けるだなんて。
そっと横に視線を滑らせると、先輩が薄く笑みすら浮かべながら目を閉じていた。
夕歩が一人、真っ直ぐ手を挙げているのが見えた。
そのことに驚きながらほんの少し顔を上げると、南波と目が合った。
……あんた、なんで目開けてんの。
見ないで欲しかった。自分が酷く情けない表情をしているのがわかるから。
冷たい目を向けられると思って構えていたのに、南波はただすっと目線を逸らしただけだった。そのまま俯いて目を閉じる。
それが想定外で、驚きながら私も顔を伏せた。
……なんで、そんな悲しそうな顔をするの。
南波もあの日のことを思い出していたのだろう、横顔には微かに憂いが浮かんでいる。
「なあ、おまえさ……」
南波が何かを言いかけた時、がちゃりとドアが開いた。
「おはよー梨花子、と南波」
「……おはよ」
「俺はついでかよ」
「あったりまえでしょうが」
今日もふたりとも早いねえ、私も結構早く来たのになあ、などと言いながら荷物をどかりと降ろす夕歩に笑う。
ちらっと南波に視線を向けるが、もう話す気は無さそうだった。本当に気まぐれというか適当というか。
ふーっとため息をついて暗い気持ちを振り払う。
「ねえ、今日もパート練やると思う?」
「パート練習かー、うーん私は全然いいけど……」
言い淀んだ夕歩に南波が頭をがりがりと掻いた。
「あー1年2人だろ」
「南波、そんなハッキリ……」
「うーん2人とも、凄くいい子、なんだけどねえ」
今年の1年生は2人、安藤夏海ちゃんと九重早紀ちゃん。
夏海ちゃんは初心者、早紀ちゃんは中学の時ホルンをやっていて、トランペットに転向した。
2人とも、努力家で日々うまくなっていくのがわかる。ただ、問題なのは――
ガン! と先輩が机を蹴る。隣に座る夏海ちゃんが椅子から飛び上がった。
「ほんとに本気でやってるの?」
「ほ、ほんきで……す……」
ここのところ毎日詰まっている所だった。指の動きが難しい連符。
「へえ、本気でやって今のなの? じゃあよっぽど問題ね」
「……っ……」
すっかり怯えきった夏海ちゃんはもう言葉が出ないようだ。
そして私はといえば、この数日で普段の神崎先輩が随分猫を被っていることを知った。キレると口調からふわふわ成分が消え去る。
「あなた1stなのよ? 合奏のメロディラインを引っ張るのはトランペットの1stなの。それはわかってるのよね当然」
「は……」
「中途半端にやる気なら、別にいいのよ? 吹かなくても」
「わたしっ、そんなつもりは」
「へえ? じゃあどんなつもりなのか言ってみなさいよ。どうするつもりなの? もう夏休み入ったんだけど? 大会までもう日にちも無いの。初心者だからって優しくできる時期はとっくに過ぎたの、わかる?」
先輩はそこでじろりと目をやった。
「あなたもよ、九重さん。楽器が変わって大変なのは皆分かってる。でもそんなの関係無いの」
「は、はい……」
「安藤さんも九重さんも、『ひとりぶん』ちゃんと吹いてくれなきゃ困るの。『1』以外の端数は邪魔なの。マイナスにしかならないのよ、迷惑なの。わかる? ゼロの方が幾分もマシ。今年は2年生が3人いるから、あなた達が吹かなくたって形にはなるから」
「先輩!」
我慢できずに声を上げたけれど、先輩は私に目も向けなかった。
「先輩、そんな風に言わないでください……夏海ちゃんも早紀ちゃんも、頑張ってるんです」
「そうね。で、その結果がこれでしょ?」
「……まだ、結果じゃありません。時間はあります。先輩は……この子達が毎日だんだん上手くなってるのがわからないんですか……!?」
先輩はやっと、うざったそうに私のことを見た。
「元が下手なんだから当然上手くはなるでしょ。でも少しずつじゃ困るのよ。努力が足りないだけでしょ。へらへらしてほんとイライラする。じゃあ夏休み始まってからの一週間で何か変わった? 注意されたところを集中して繰り返し練習したりとか、わからない所を進んで先輩に訊いたりとか」
「……」
「答えられないんでしょ。それに、東峰さん?」
「はい……」
「役に立たない1年生の面倒なんて見てる余裕あるのね、自分もろくに吹けてないくせに。ソロ降りれば少しは楽になるんじゃないかな?」
明らかに皮肉だとわかる言葉に目を伏せた。
「……できない人を切り捨ててまで結果出すのが大事だとは思えません」
そう言うと、先輩はふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ふうん。随分偉そうなこと言うけど、何か勘違いしてない?」
「勘違い、ですか」
「あなたはそれが自分の意思だとでも思ってるのかもしれないけど。私には、ただ切り捨てるっていう選択肢を選べないだけにしか思えない。あなたはどうしてその子達に吹かせたいの?」
「それ、は……」
なにか言おうと口を開いて、咄嗟に何も言えないことに絶句した。
「わかってる? 本番のステージで、『私は初心者です』っていう看板を首から下げることなんてできないの。ステージの上では皆責任を持って吹かなきゃいけない」
誰も何も答えられない状況にうんざりしたように首を振ると、先輩は荷物を手早くまとめて席を立った。
「まあ、どうでもいいけど。馬鹿らしいから私はパート練抜けるわ。ああ、合奏は出るから心配しないで」
大きな音を立ててドアが閉まると、隣に座る夏海ちゃんがふにゃりと背もたれに体を預けた。
「……夏海ちゃん」
「はっ、すみません先輩」
慌てて姿勢をなおす彼女を、いいよ、と手で制した。
「もー、まったくあの先輩、好き勝手言いやがってぇ……夏海ちゃんも早紀ちゃんも頑張ってるっつーの!」
「もう夕歩、口悪いんだから」
「ごめんごめん。けどさぁ、イラッとするんだよね」
「あいつが言ってんのが正論だからだろうが」
唇を尖らせる夕歩に南波がぼそりと呟く。
私はどきりとしたけど、夕歩はためらいなく南波を睨んだ。
「正論が最善とは限らないでしょ。なーに知ったげに言ってんの」
その言葉にはっとする。
鋭い視線を受け止めた南波が表情を緩めた。
「ま、そうなんだけどな」
「まさかあんたも先輩と同じ考えだっていうの? それなら敵ね」
「……萩はそう言うよなあ。お前のそういうハッキリものいうところは嫌いじゃねえよ」
「あんたに褒められても嬉しくない」
「へいへい」
軽口を叩く2人が今はとても眩しく見えて、私は目を逸らした。
私は夕歩みたいに自分の思いが無い。
夕歩はどうしてソロを吹かないんだろう。夕歩の方が私よりずっと向いている。
「先輩。すみません……私のせいで」
「ううん本当に気にしないで。ごめんね、私が悪かった。もっと早く気を配れてたらよかった。できないとこ、一緒に潰そうか」
椅子を寄せようとした私を、夏海ちゃんがあわあわと手を振って留めた。
「あ、や……えっとぉ、私、最初ひとりでやってみてもいいですか? さっき神崎先輩の言葉、ショックでしたけど、確かにそうだなあって思ったんです」
「え」
「梨花子先輩も、ひとりでやる時間ほしいですよね? すみません私のせいで……自分でできる限りやってみます!」
あ、でも困った時は助けてくださいねっ、と笑う彼女に、私はどうにか唇を歪めた。