「――あ、でもそしたらりっちゃんがぼっち飯になるから、それは駄目だね」

「……え?」

 海ちゃんが口にした言葉の意味がよく分からなくて首をかしげてしまってから、慌てて取り繕おうと手をわたわたと動かした。そうだ、そういえば、友だちがいないとかそんなことになっていたんだっけ。

「あ、うん、そうだね。でもいいよ」

「ほんとに? りっちゃんすぐ強がるからなぁ」

 そう言って幼馴染みは私の顔を覗き込む。

 どきりと跳ねる心臓に、ぎゅうっと苦しくなる胸に。

 勘違いするな。私のことを気遣ってくれるのは、私と海ちゃんがちょっとばかり関係が長いからってだけ。

 そんなふうに言い聞かせるのは、一体何度目なんだろう?

「……もう、やめてってば。あは、は」

 ほんとに、やめてよ。軽々しく、そんなこと。

 私は、あはは、と視線を避けるように顔を伏せたまま再び笑ってこっそり大きく息をついた。

 ……誤魔化せた、かな。

 どうしたらいいのか、それ以上に自分がどうしたいのかよくわかってもいないのに、私の口は勝手にくるくる回るから。そうでもしないと、“伝えてはいけないこと”を零してしまいそうだった。張り詰めた糸にハサミの刃を当てて滑らせているような、ギリギリの緊迫感。

「だっから、幼馴染みの私のことなんていいからホント頑張りなよ海ちゃん。先輩超モテるから、絶対競争率高いぞー」

 自分の言葉に、改めて現実を突きつけられたような気がした。自分がいかに欲張りなのかを突きつけられたような気がした。

 ああ、なるほど。私はこんなふうになってもまだ、やっぱり“良い幼馴染み”を演じたいんだ。幼馴染みなら、そばにいられるから。
 何より、先輩に勝てないとわかっているから。

 ……でも、そんなことをして何になる?
 もうやめよう。……お願いだから、やめて。そう思うのに、止まらない。

「あ、ねぇ知ってる? 夕歩にきいたんだけど、先輩、甘いものが好きなんだって」

 声が震える。

「先輩に、いちごオレ、持っていってあげたら?」

「……はぁっ? そんなんできるか!」

 海ちゃんは怒ったみたいに眉を吊り上げたけれど、本当はただの照れ隠しだ、って嫌でもわかってしまうから。

「いいじゃん。私にくれたみたいに間違えたとかなんとか言って渡せば。関わりないって言っても……」

 ──言いたくない。

 首が締めあげられるような痛みを、頬の肉を噛み締めて無理矢理振り払う。

「そりゃ私とか部員に比べればないけど、学年違う割にはだいぶ多い方でしょ。『海里くん』って呼ばれてるくらいだし」

「そうかな……うん、まあ、確かにそうかも」

 海ちゃんは今度ははっきりと照れた顔をして笑った。

 そしてその表情に、私の胸もはっきりと音を立てて軋んだ。

 その熱を持った瞳の奥に、先輩とのどんな思い出を隠しているんだろう。たぶん、私が考えている以上に、海ちゃんと先輩は関わりが多いと思う。

 私が体育祭の準備とかで見たのはそのほんの一部で、私の知らないところで2人で会ってるんじゃないかな、って。

 そう思うのは、何も根拠の無い事じゃなくて。

 本人も気がついているのかわからないけれど、ぽろっと零した『つばさ先輩』という呼び方。

 そりゃ先輩に呼んでと言われたのかもしれない。それでも、名前で呼ぶくらいには親しい仲になっているのだ。

 でも、何があったのとは聞けなかった。いくら幼馴染みでも踏み込んでは行けないところというのは必ずある。

 自分だけのものにしたい、思い出とか。

 例えば、好きな人とのこと。
 それは、どんなささいなことだって、何だって大切な宝物で。

 そう、こうして、海ちゃんと2人で毎日お昼ご飯を食べていることも。朝一瞬だけ見かけたことも、名前を呼んでもらえることも、そういう小さなこと、些細なこと、くだらないこと……全部、全部、全部。

 自分だけのもの。幼い時にこっそりポケットに隠した綺麗な小石みたいな、誰にも知られたくない、ちいさな──それでいてとてもおおきな秘密。どんなに仲のいい友だちにだって。きっと……幼馴染みにだって。

 私だって“そう”だからわかる。同じだから。

 だから、なおさら、胸が痛い。

「……まあ、りっちゃんがそこまで言うなら明日渡しに行ってみようかな」

 ふてぶてしい口調の彼の唇は、くっきりと弧を描いていた。それを見て、私は薄く笑う。

「俺、さ……いちごオレ、飲めるようになろうかな」

「……なんで?」

「いや、だって先輩と同じもの飲みたいし。好きな人の好きなものは好きになりたいじゃん?」

 ──俺にはわかんないや。

 私には、あんな風に言っただけのくせに。

 ぽそりと、でも確かに唇からはみ出た心の声は、風に乗ってあっさりと消えてしまう。

 かすかに俯いた私に海ちゃんが不思議そうな視線を向けているのは感じながらも無視していると、彼は再び口を開いた。

「りっちゃんは違うの?」

 それはあまりにも純粋な響きを帯びていて。薄く開く唇が思わず震えた。

「私、は」

 たとえば。
 好きな人の好きなもの──先輩を、好きになれるか、ってこと?

 ……好きになんか、なれるわけ、ない。
 でも海ちゃんのあんな真っ直ぐな目を見たら、「私はそうは思えない」なんて……言えるはずがなかった。

 たかがこんなことなのに、海ちゃんに、自分とりっちゃんは違う、とそう思われてしまうことが怖くて。

「うん、そう、だね。私もそう思う」

 と、結局臆病な私の口から出たのは、本心とは真反対の言葉。

「そうでしょー?」

 私に向かってにやっと悪戯っぽく笑った海里は、はっとした表情を一瞬浮かべて、真剣なものに変えた。

「えっ……ちょっと待って、りっちゃん好きな人いるってこと? そういえばいっつも俺ばっかで聞いたこと無かったよね」

 あれ。困ったな。それはこれまでずっと一緒にいて初めての質問だ。

 ……なんで。どうして。よりによって今。

 恋バナくらいする機会はあったんじゃないかって? そりゃあもちろん。現に海ちゃんの話はいくらだって聞いてる。

 それなのに何故かと言えば……理由は簡単だ。私がずっと避けてきたから。

 私が黙っていると調子に乗った幼馴染は腰を浮かせて私に顔を近づけた。

「いるんでしょ、その反応はさー」

 全くこちらを意識してもいないその仕草に、胸は高鳴るどころかぎゅうっと締め付けられる。

「……いるよ。けど、海ちゃんには教えない」

 私はそんな自分のどうしようもない感情と、そして目の前の少年から大きく顔を背けた。

「そうかー、りっちゃんも、好きな人がいるのかー……」

 海里はそう小さくひとりごちながら、どかりと非常階段に両手をついて座り直した。

 私との間に、人一人分の隙間をしっかりと空けて。

 ちいさくておおきな、心の隙間。

「俺もりっちゃんも、恋とか……する歳になったんだねぇ。俺ら、こーんなちっちゃかったのにさぁ」

 海ちゃんが右手、私の側ではない手をひらひらと膝のあたりにかざす。

 でも私はもう一方の手を見ていた。

 体を支えるために階段につかれた手のひらは、こちらに向かって無造作に投げ出されている。海里は私よりも距離を空けて座ったけど、その左手だけはふたりの境界線を超えて影を落としていた。

 私は海ちゃんの話に聞き入っているふりをしながら、そろりと指先を伸ばした。

 横目で距離をはかる。

 あと、5センチ、4センチ、3センチ……2センチ。

 もしバレて、何をしているのかと聞かれたらどうしよう?

 ――1センチ。

 ひたり、と私の指先は勝手に止まる。

 海ちゃんは気づかない。

 そのまま私は顔を上げて、何でもないように首を傾げた。

「もー……何言ってんの海ちゃん。お爺さんみたい」

 海ちゃんは私の方を見向きもしないまま──だからもちろん限界まで近づいた私たちの指先に気がつかないまま、目を少しだけ眇めた。

「いや、なんか懐かしいなって」

決して交わらない視線。私は気がつけばぽろりと「あの頃は、楽しかった」、と零していて。

「……え?」

「あ……」

 手をおろして怪訝そうな向ける海ちゃんにはっとして、私は慌てて口をつぐんだ。今、私……何を。

「いや、えっと……海ちゃんはさ、戻りたいな、って思わない? あの頃に」

 顔を正面に戻した海ちゃんは私の問いに暫く逡巡した後、ゆっくりと首を横に振った。

「思わないかなぁ。もちろんあの頃はあの頃で良い思い出だけどさ。今も楽しいし」

 きみがそう思うのは、先輩とこうして出会ったからなのかな。

 もし、きみが先輩と出会っていなかったら。何かが違ったのかな。

「そ、っか、うん、そうだよね」

 もし。仮に。例えば。

 海ちゃんのことが――好き、だと。そう言っていれば、今が変わっていたのかな。

 ……まあ、どれだけ仮定の言葉を並べても、私はもう、その答えをわかっているのだけれど。

 ぷつっ、とスピーカーから耳障りなノイズが漏れて、その直後予鈴が鳴る。

 いつもより途方もなくゆっくりに感じられるチャイムの間、不思議とふたりとも口を開かなかった。

 正確に言えば、私は口を開くことができなかった。じっと、微動だにすることもできずに固まっていた。


 ……さっきの答えは、ノー、だ。

「授業始まるしさ。教室、帰ろっか」

 彼のこの言葉ひとつで、私たちの短い逢瀬は一瞬で終わるのだから。

 海ちゃんはどんな時だって、絶対、別れ際に私の顔を見ない。

 もしかすると、彼は、私が少しでも長く一緒にいたいと思っていること──もっと言えば、私の気持ちにも気がついているんじゃないかと、そう薄ら思う。

 昔から、私たちの関係を壊そうとあちこちに転がる問題の全てに、気がつかないフリをしているのではないかと。
 気がつかなければ、変わらないから。

 そして――私が絶対にそれを自分に言ってこないだろう、ということを、きっと解っている。

 もし私の気持ちが海ちゃんに受け入れられるものだったとしたなら、もうとっくの前に、私たちは、きっと。

 そうでしょ、海ちゃん。

「うん」

 いつもいつも、私がそう答えるしかないこと、わかってて言ってるんでしょ。

 でも。私も卑怯だ。きっと海ちゃんだってそう思っているに違いない。

 好きだと、そう言ってしまえばこの関係が終わってしまうことを、私はずっとわかっていたから。

 だから、今まで何も言わなかった。そして多分、いや……きっと、私はこれからも伝えることはない。

 私は、ただ。海ちゃんの隣にいるために、“良い幼馴染”を演じ続ける。

 無理矢理、指先を冷たいアスファルトから引き剥がした。すぐほんの指先に感じていた熱は、あっという間に離れていく。

 まるでそれを見計らったかのように、海里はわざとらしいほど大きく伸びをしながら立ち上がった。いつの間にか大きくなった背中は、ずっと隣にあった背中は、彼の意志でぐんと遠ざかる。

 ……いや、そうか、見計らっていたのか。

「あれ、りっちゃん帰らないの。本鈴すぐ鳴るよ?」

 くるりと肩越しに申し訳程度に振り返る幼馴染に、私は明るく応じた。

 よく考えれば広げてもいない弁当を収めるふりをしながら、視線を伏せて。

「帰るよ! でも、私まだ片付けてないからさ。先行っていいよ」

「……わかった」

 海ちゃんはほんの一瞬だけためらう素振りを見せたけれど、とんとんと軽い足音を立てて立ち去っていく。

 距離が空く。私はその遠ざかる背中に、“幼馴染み”らしく声を投げつけた。

「海ちゃーん! 明日頑張ってよーっ!」

 本当は、そんなこと微塵も思ってないけどさ。

 どうせ今まで散々誤魔化してきたんだから、もう今更、本心なんてどうでもいいから。もうどれが本心なのかすらわからなくなってきてるぐらいだから。上っ面だけでいいから。……昔から仲がいい、良い幼馴染でいさせて。

 すると海ちゃんは緩やかに足を止めてこちらを振り向くと、大きく息を吸って手をメガホンの形にして口にあてた。

 どきり、と心臓が戸惑うように跳ねる。

「でも明日はー……やっぱまだちょっと無理かもー!」

 どきん、今度は軽く、跳ねた。

 そっか。……じゃあ、明日も来るんだ。また、明日もいつも通り2人でお昼ご飯を食べるんだ。

 この胸の高鳴りは駄目なやつだ。ぬか喜び、勘違い、思い上がり。そういうやつ。だから抑えなきゃいけない。

「このーっ、へたれーっ!」

  私が真似をして両手を掲げると、海ちゃんはあははと笑って手を一度だけひらりとかざして、今度こそ視界から消えた。

 海ちゃんの背中が消えて、それでもなお恨みがましくその方向を見つめ続けようとする自分の視線を、ぎゅうっと瞑って強引に引き剥がした。

 俯くと、自分の膝に置かれた弁当が映る。初めてのことではない。話すのに夢中で、うっかりすると時々食べるのも忘れてしまう。

 そして、彼のいた方、右側の不可視の境界線に置かれた、ピンクの小さな紙パックを視界に入れた時、遂に堪えきれずに視界がじわりと滲んだ。

 駄目、だめ、だめだってば。ほら梨花子、こんなことくらいで泣くとかさ、だめじゃんか。

 抑えようとすればするほど、感情の粒はぽろぽろと目の淵から溢れて頬を伝う。それは滑り落ちて、ぱた、とアスファルトに歪な水玉模様を作った。

 あの幼馴染みのことになると自分が驚くほど泣き虫になるのが恨めしい。

 海ちゃんも……先輩を想って涙を流したことはあるのかな。きっと、あるんだろうな。

「……う、っ」

 嘔吐きながら、地に残る歪んだ円をを消そうとごしごしと指先で擦る。当然消えるはずもなく、ただ指の先が熱を孕んで痛むだけ。そしてその上に、まだ新しい涙が落ちた。

 私は暫く呆然と動きを止めていたけれど、そのままするりと指を滑らせた。海ちゃんがいたときには存在したあの境界線を超えて、彼の手があった場所へと。

 今はもう何も無いその空虚をぎゅっと握り締める。

「……安心してよ、海ちゃん。私は絶対にいわないから。いえないから、さ」

 一丁前にヤキモチなんて、嫉妬なんて感情を抱いているくせに、勝てないからと決めつけて戦うことを諦めている私は。

 何が、海ちゃんの先輩に対する想いは簡単に諦められるくらいなの? よ。自分が、そんなことを言える立場じゃないくせに。

 思わずわらってしまった。

「そう、私には、いえない……から」

 自分にも聞こえるか聞こえないか、そのくらいに小さな声で、そのくせ自分に言い聞かせるように呟いて。その右手を、その指先に感じる熱を胸に抱え込む。

 そんなはずはないのに、そばにまだ海ちゃんの体温が残っているような気さえした。

「絶対に、超えないから。このギリギリの、幼馴染の境界線を」

 しつこくしつこく、そばに居続けてやるんだから。

 たとえどんなに鬱陶しがったとしても、離れてなんてやらないんだから。“幼馴染み”のポジションをそんな簡単に棄ててなんてやるもんか。

 全部全部、きみと一緒にいたいから。私が頑張る理由は、たったそれだけの事なんだから。

 どんな立場だっていい。そばにいられるのなら。

 もし我慢できなくなったとしたら、それが私たちの関係の終わり。卑怯な2人の、見て見ぬフリが積もり積もってできてしまった。暖房を付けっぱしだった部屋みたいにぬるく澱んでいて、それなのにどこかぼうっと心地好い、そんな酷く歪んでしまった関係の。

 それだけのこと。単純明快で簡単でとってもわかりやすい、けれど。

 でも──それは今じゃない。
 我慢できている今じゃない。自分の気持ちを誤魔化せている今じゃない。伝えれば全て終わってしまうのだから。


「って、わかってる……のに」


 ぽろりと、唇から零れる。

「……そのはずなのに……わかってるのに……! 絶対伝えることなんてないって、できないって、思ってるのに! 幼馴染みで満足だって、本当に、心から私は思ってるのに! 思ってるはず、なのに……」

 零れる、想い。

「どうしてこんなに、苦しくて、痛くて、仕方がないの……っ!?」

 消えない胸の疼痛に、ぎゅうと目を瞑って。

 淡い桃色の紙パックをほとんど握り潰すような勢いで掴んで、己の口に栓をするようにストローを咥えた。とろりとしたむせ返りそうになるほど甘ったるい液体が口内を一気に支配する。

「すき」

 いちごオレを飲んだくせにからからに乾いて搾まった喉から、老婆のように嗄れた声が漏れた。とても好意を抱く相手には聞かせられないような、不気味な声。
  大きな恐怖と嫉妬と躊躇と、ほんの少しの期待が綯い交ぜになって……汚い。

 あーあ、なんで私は、こんなことすら素直に言えないんだろう。そりゃ私じゃダメだろうな。こんな可愛くない奴なんて。

 ふん、と。鼻でわらったつもりだった。それなのに地面に落ちたのは大粒の涙で、驚いて慌てて手のひらで拭う。

 拭っても拭っても止まらない。暴れて引き攣る心臓を強く押さえる。綺麗にアイロンをかけたシャツの胸元に皺が寄る。

 苦しい。辛い。痛い、痛い──痛い!

 もう、限界だ。心が悲鳴をあげている。

 やめてくれと。これ以上おさえつけられたなら壊れてしまうと。

 どれだけ理屈を並べても、どれだけ気持ちを押さえつけても、もう自分を納得させられなくなり始めていて。

「……ねぇ、海ちゃん。いちごオレ好きだったのって、さ。海ちゃんのほうだったんだよ」

 指先でつつけば、ピンク色の紙パックは呆気なく倒れた。

「だから、私は」

 これを、すきになったのに。

「……ねぇ、もう覚えてないの? 何も? もう、私との思い出は心には残ってない……?」

 ただひたすらに、痛い。

 この関係を断ち切る勇気は私には無いけれど。正直な私の心は違うから。

 ……最近、ふと思うことがある。きみは一体どんな顔して断るんだろう、と。

 すっかりぬるまったいちごオレを嚥下する度、次から次へと涙が溢れた。