私が幼稚園の年中さんだった時だから、たぶん4歳とか5歳とか、そのくらいの頃。

 あの日私は夏風邪にかかってしまい、自分の部屋で一人布団を被って寝込んでいた。

 ピピッ、という電子音に脇に挟んでいた体温計を見ると、38.7℃。

 目を細めて睨みつけてみても当然デジタル表示が変わるわけもなくて、私は体温計を放り投げた。

 窓から注ぐ太陽の日差しからは思わず胸いっぱいに吸い込みたくなるような夏のワクワクが伝わってくるし、お父さんもお母さんも仕事だったから誰も家に居なくて、幼心にどうしようもなくやり切れない気持ちを抱えていたのである。

「うー、暑いし寒いし……つまんない」

 ずびっ、と鼻をすすりながら文句を言ってみても、誰も応えてはくれない。

 久しぶりの高熱に意味も無く泣きそうになっていると、窓の外からコンコン、と何かを叩くような音が聞こえた。

 不審に思った私はベッドでじっと身を固めていたのだけれど、急かすようにもう一度コツン、と音が聞こえて思わずベッドから足を下ろす。

 ここからは角度的に窓の外が見えないので怖くて足がすくんでいたものの、「……おーい……っちゃ……!」と途切れ途切れな声が聞こえてくることに気がついて慌てて窓に駆け寄った。

 ガラスを隔てて、小さなベランダに立った私と同じくらいの年に見える男の子がにこにこと笑いながらこちらに手を振っている。

 お隣の――本当にすぐお隣の家に住む幼馴染みの男の子、海ちゃん。窓を叩いていたのは彼だったのだ。

「もーりっちゃんってば、すぐ開けてよね!」

 解錠するや否や、海ちゃんが部屋に飛び込んできて私にぷんすかと擬音が聞こえてきそうな勢いで手を突き上げた。

「だってまさか海ちゃんが私の家のベランダにいるとは思わなかったんだもん」

 私は唇を尖らせて海ちゃんから目を逸らした。……逸らしてから、おかしなことに気がつく。

「あれ、そうだよ。どーやってこんなとこ……」

 私が首を傾げると海ちゃんがふふんと笑って指で鼻の下を擦った。

「もちろんそりゃー、俺の部屋のベランダからりっちゃんの部屋のベランダに」

 話を最後まで聞かずに、力の入らない手で彼の頭をはたく。

 大げさに痛がる海ちゃんを放って窓から顔を覗かせてみると、確かに海ちゃんの部屋の窓は開け放されていて空色のカーテンがはためいているのが見えた。

 親たちの計らいか、私たちの部屋は2階に、そしてお互いの部屋が面するように位置取られているので、ベランダとベランダの間はほんの数メートルしか無いのだけれど――

 だからと言って危なくないわけがない。

「もーっ、ほんっとバカいちゃん!」

「いやいやそれほどでも」

「ほめてないから!」

 大きな声を出すと頭が揺さぶられて思わずふらついた。

「りっちゃん大丈夫……っ、ちょ、早くベッド戻って!」

 うんうんと頷くのに全く相手にされず、無理矢理ベッドに引き戻される。

 顔に必死な色を浮かべる海ちゃんに、私は笑いながら目をつぶって囁いた。

「わかってるよ、ほんとは心配して来てくれたんでしょ? 海ちゃんいっつもカーテン開けてるから窓から見えるもんね……」

「……ばれたか」

「ふふ……ばればれだよ」

 ああ、頭がふわふわしてきた。やっぱり起き上がったのが良くなかったかな。

「あー……海ちゃん、体温計取ってくれないかなあ。さっきどこかに投げちゃってさー」

 返事がないのでそっと目を開けると、海ちゃんが不敵な笑みを浮かべて私にびしっと指を突きつけてきた。

「熱は計らない限りは熱じゃない! 熱あるってわかったらもっとしんどくなるから、計らない方が良いんだーって母さんが言ってた。どーしようもないんだから、って」

「……ええ……そんなわけないよ……」

 言いながらじわっと目が潤んでくる。主には熱が原因だと思うけれど、たぶん『お母さん』という単語が琴線に触れたのだろうと思う。

 海ちゃんはそんな私の様子をしばらくおろおろとして見た後、あっ、と小さく呟いて窓枠に手をかけた。

「ちょっと待っててりっちゃん、いいもの持ってきてあげる!」

 それだけ言い残すと止める間もなく開けっ放しだった窓から飛び出す。

 海ちゃんの背中はベランダとベランダの間を勢いをつけてひょいっと飛び越えて、向こうの部屋へ消えていった。

 ……そして、戻ってこない。

 海ちゃんが来てくれる前から心細かったものの、一瞬だけでも賑やかになってしまった部屋は更に静寂を助長するようで。

 おでこには冷たいものが貼ってあるから、私は布団を目を覆うところまで引き上げた。

 物凄く暑いけどそんなの知らない。

 海ちゃんのばか。おおばか。もっと寂しくなっちゃったよ。……どうせすぐ飽きて帰っちゃうなら、そういう事しないでよ。

「うー、かいちゃんのばかぁ……ひっ!?」

 もごもごと文句を言っていた私は、おでこに新しい冷たさを感じて飛び上がる。

 思わず布団を跳ね除けて身体を起こすと、「バカって言う方がバカなんですよー」と真っ白な歯を見せる海ちゃんがベッドのそばに立っていた。

「……海ちゃん、帰ったんじゃなかったの?」

 その姿に少しばかりうれしいと思ってしまったことが悔しくて、私は枕を抱えて顔を埋める。

「もーっ拗ねないで! ちょっと待っててねって言ったじゃん! りっちゃん話ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたけどっ」

 なおもむすーっと頬を膨らませる私を同い年のくせに微笑ましそうに見ていた海ちゃんが、「ん!」と言って左手を突き出した。

 汗をかいた見るからに冷たそうなピンク色の紙パック。『いちごオレ』と白抜きの文字で書いてある。先程の冷たさはこれだったのだろう。

 可愛らしいパッケージを受け取りしげしげと眺めていると、海ちゃんが目をぱちくりさせた。

「飲んだことないの?」

「……ない」

 私の返事を聞いて尚更嬉しそうに海ちゃんが顔を輝かせると、素早い仕草でストローを勝手に刺した。

「あっ、もー海ちゃんってば開けちゃった」

「今飲んでほしいからあ・け・た・の! 美味しいよ! おれの一番好きなやつ!」

「え……そんなのいいの、もらっても」

「いいの、りっちゃんに早く元気になってもらいたいから」

「……ありがと……」

 屈託ない笑顔を向けてくる海ちゃんに、呼吸が苦しくなった。胸がどきどき、ふわふわ跳ねて……

 もうストローを刺したこのいちごオレが、どうしようもなく勿体ないなと思ってしまった。

 きらきらとした海ちゃんの視線に促されて、そっと口をつけて吸う。その途端とろりとした液体が口に入ってきた。

 とっても甘ったるいのはわかったけれど、なんだか、味がよくわからなくて戸惑う。

 熱のせいに違いない。

 ……海ちゃんがすぐそこに居るせいだなんて、そんなはずないから。

 だって。
 いつもいつも、一緒にいるのに、緊張するなんて、おかしい。

 ずっ、とストローが空気を吸い込んでからやっと中身がなくなっていることに気がついた。

 海ちゃんに促されるままベッドにもう一度横になる。海ちゃんはもう温くなった冷えピタを剥がして新しいものを貼ってくれた。忙しなく動いてくれる海ちゃんの背中に、私は考えるよりも先に声をかけていた。

「もう、おうち帰っちゃう?」

 海ちゃんが何事かと駆け寄ってくる。私はベッドから手を伸ばして彼のTシャツの裾を少し遠慮がちにきゅっと握った。

「あのね、ホントは……海ちゃんが来てくれて嬉しかったの。お父さんもお母さんもお仕事だから、仕方ないのはわかってる。だけど、だけどね……」

 言い終わらないうちに、海ちゃんが私の頭をぎゅっと抱き締める。

「――大丈夫だよ、りっちゃん」

 驚いて動きを止めた私の耳元で海ちゃんが囁いた。

「おれはいるから安心していいよ。今だけじゃないよ、ずっと。ずーっとりっちゃんのそばにいるから」

「……ほんと?」

「ほんとだよ」

「ずっと、ずっと一緒にいてくれるの?」

「うん、いるよ」

 手をきゅっと握って、安心させるように笑う。

「うん。りっちゃんは大事な大事な幼馴染みだから。だから……大丈夫だから、ね」

 ああ……だめだ。もう誤魔化せそうにない。

 このどきどきは、私のココロが、海ちゃんを『好き』だと訴えているんだ。
 自分の気持ちに気がつけと、そう訴えている。


 ……幼い私には、まだ、気がついていいものなのかも、わからなかったのに。




 私はその時とパッケージはもちろん違えど、そのいちごオレをぎゅっと握りしめた。

「……こんな、こんなのって」

 ……あんまりだ。

 どうして、よりによって、今思い出してしまったのだろう?

 今の私には、何も言うことはできないのに。何も持たない、からっぽな私には。
 この関係を崩したくないからとびくびく怯えるばかりで、伝える言葉なんて何も持っていない私には――

 海ちゃんを好きになったのは“当たり前”でも“仕方の無いこと”でも、“幼馴染だったから”でもなかった。

 海ちゃんだったからだ。

 “きっかけなんか覚えてない”はずもなかった。

 もしかしたら、私は無意識の内に無理矢理忘れようとしていたのかもしれない。叶うはずのない恋だとわかっていたから。

 だってこんなの覚えていたら、この初恋を……ますます諦められなくなってしまう。

 あの日、あの時……

 私は確かに、海ちゃんに恋に落ちたのだ。

「海ちゃん」

「ん? どうしたの?」

 長い間口を閉ざしていた私に海ちゃんが驚いたように目を瞬かせる。

「……なんでいちごオレ?」

 私はじっと海ちゃんの黒い瞳を真正面から見据えた。

 大事な質問なのだ。海ちゃんが……あの日を覚えているのか。

「え……確かに、言われてみれば何でいちごオレなんて買ったんだろ。無意識? なんとなく? ……わかんないや。あれ、もしかしてりっちゃんそれキライだった?」

 そう言って海ちゃんは私の視線に若干たじろぎながら首をかしげる。

 私はいつの間にか止めていた息を吐き出した。

 ……そっか、そうだよね。こんな些細なこと、覚えてるはずない、か。

「ううん、別に」

「そう? それならいいんだけど」

 訝しげに眉を潜めた海ちゃんに冷や汗をかいていると、彼は2年男子を呼ぶアナウンスに顔を上げた。

「俺……行かないといけないんだけど……もうりっちゃん体育祭たぶん出れないよね? ここでひとりぼっちになるけど……」

 不安げにこちらを見る昔の記憶の中の海ちゃんと重なって見えて、思わずどきりとした。

「大丈夫だよ、何歳だと思ってるの」

「あ、あれ? そっか。ホントだ」

「もーほんと過保護っていうかなー……」

 本当に覚えてないのかな、海ちゃん。覚えていてくれれば……良かったのに。

 だめだ、変なことを考えてしまう。海ちゃんに改めて恋に落ちたみたいに、胸のどきどきが止まらない。

 叶わないとわかっていても――願ってしまう。

 誰よりそばにいたい。彼の誰よりも大事な人になりたい、と。

「ねえ、海ちゃん」

「ん?」

「……呼んで、私のこと」

 私の言葉に海ちゃんがハチマキを巻き直す手を止めてきょとんとした顔をして、口を開く。

「りっちゃん?」

 ――『りっちゃん』、と。

 海ちゃんがそう呼ぶだけで、私は自分が彼の『幼馴染み』なのだとそう改めて自覚できる。

 欲に従って動いてしまいそうになる私を引き留めてくれる、足枷。この関係を繋ぎ止める最後の糸。

「ん、ありがと」

 保健室から駆け出して行った海ちゃんは、そう言って笑う私から、そっと視線を逸らしたように見えた。

 きっと海ちゃんが先生を呼んできてくれるだろう。私はごろりと横を向くと、その拍子に濡れたタオルが額から滑り落ちた。それを横目で眺めて、桃色のパックを強く、強く握り締めた。

「……海ちゃんの、うそつき」