「……矢野君。あの人なんかに負けないでね。もし負けて帰ってきたら、僕がひなたちゃんをもらうから」
近江は俺に宣戦布告のようなものをして、先に教室に戻った。
冗談を言っているようにも見えたけど、それに関係なく、天形には負けたくない。
一人残された俺は、空を仰ぐ。
ひなたが天形を嫌うきっかけを作るとアドバイスされたものの、どうすればいいのかわからない。
近江はたしか、天形を怒るべきだと……怒るまではいかなくても、話は聞いてもいいかもしれない。
アイツが何を思ってひなたを傷つけたのかを知らなければ、ひなたに天形の悪口を言っても、俺が嫌われるだけだ。
「俺が天形に会うか……」
自分でもその結論に至ったことに驚く。
だが、会って何を言えばいい?
近江は、天形に文句を言えって言おうとしてたと思うけど……
正直、文句はある。
言いたいことだって、たくさんある。
だけど、俺が言うことだろうか。
俺が言ってもいいのか。
「……いいんだよ。どんな形であれ、ひなたは今、俺の彼女だ。連絡してくるなくらい言ってもいいだろ」
俺は空になったペットボトルを捨て、教室に戻った。
「聖」
すると、ひなたが俺の席に駆け寄って来た。
「今日の放課後なんだけど、ちょっと時間ある?」
「ごめん、俺用事があるんだ」
ひなたの誘いを断るのには気が引けたけど、早いうちに天形と話しておきたいから、断るしかなかった。
「……そっか。わかった」
ひなたの笑顔が悲しそうに見えて、引き留めようとした手を必死に抑えた。
◆
放課後、俺は天形の通う学校の校門の前で天形が出てくるのを待っていた。
「あー! アキラの友達だー!」
すると、人混みの中であるにも関わらず、その声がよく通った。
声の主は俺のところに勢いよく走って来た。
それはあの日、天形といた子だった。
「賢そうなお兄さん、アキラの友達だよね?」
「矢野聖です」
泉さんはじっと俺の顔を見て、吹き出した。
「敬語って! 真面目すぎー」
遠慮なく笑い続ける彼女の頭に、誰かが手を置いた。
彼女はその手を掴んで振り向いた。
「アキラ!」
それは不機嫌な雰囲気を醸し出す天形だった。
「お前、何してんだよ」
「アキラの友達見つけて思わず……」
「泉じゃない。矢野。なんでお前がここにいんの」
天形が不機嫌な理由は、どうやら俺にあるらしい。
だが、いくら睨まれても、引くわけにはいかない。
「ひなたのことで話があって来たんだよ」
ひなたの名前を出したからか、天形の表情が固まった。
「ねえねえ、ひなたって誰?」
だけど、彼女は空気を読まずに天形に質問した。
「……泉、ちょっと黙ってて」
天形の一言で、泉さんは怯えたような表情を見せると、そのままどこかに逃げてしまった。
だけど、天形はまったく気に留めていないようだ。
「単刀直入に聞く。天形はひなたのことをどう思ってる」
天形はただ俺を睨むだけで、何も言わない。
何も言わないということは、少なからず気持ちが残っているということにならないだろうか。
お前が何も言わないのなら。
「ひなたに関わるのはやめてくれないか。ひなたは俺の彼女なんだ」
嘘は言っていない。
天形は言葉が出ないようだった。
だが、次には納得したかのような、小さな笑みを浮かべた。
「悪かったよ。でもそうか……」
なんだかわからないが、その笑みの中に優しさのような、ぬくもりのようなものを感じた。
相手はあの天形なのに。
「……よかった……」
それは思わず口から出た、というやつだった。
自分で気付いた天形は、俺から顔を背ける。
……よかった、だと?
俺は柄にもなく、怒りに任せて天形の胸倉を掴んだ。
だが、その瞬間に俺は周りの視線を独り占めした。
ここは天形が通う、不良校。
分が悪い。
俺はおとなしく手を離す。
「……場所、変えるか」
俺は黙って天形についていく。
連れてこられたのは、何もない公園のようなところだった。
そこでは小学生くらいの男の子たちがサッカーをしていて、一人が取り損ねたボールが転がって来た。
天形はそれを足で真上に蹴り上げると、二、三回リフティングをしてタイミングを掴み、少年たちのほうに蹴った。
まるで吸い込まれるかのように少年のもとにボールは届き、歓声が上がった。
「サッカー、できたんだな」
「小学生のときやってたくらいだ」
「なんで中学でサッカー部に入らなかったんだ?」
「単純にレベルが低くて入る気なくしただけ」
何様だ、と思ったけど、何年もやってなくてもあれだけの腕前なら、まだ続けていたらもっと上手くなっていたんだろう。
「……そんなふうに、ひなたのことも切り捨てたのか」
「は?」
自分でも意味不明なことを言っていることはわかっているが、頭が回らず、感情で話すしかないこの状態で、いい言い方なんて見つけられるわけなかった。
「告白したくせに別れを切り出したのは、ひなたが思ったような子じゃなかったからかって聞いてんだよ」
天形は呆然としていた。
「なんとか言えよ」
「いや……」
天形の煮え切らない態度に、俺はまた天形の胸倉を掴む。
「なんなんだよ! 少しははっきり言ったらどうなんだ!」
それでも天形は俺から目をそらす。
「……ふざけんなよ……ひなたを笑顔にするのも、喜ばすのも、悲しませるのも、全部お前なのに! なんでお前は逃げるんだ!」
すると、天形は俺の手首を掴んだ。
ゆっくりと視線が上がってくる。
「……仕方ないだろ」
「は?」
「俺とあの子は違いすぎる。俺と付き合っていたら、あの子の評価が下がるんだ。ただ好きなだけじゃダメなんだよ」
俺は天形から手を離す。
「それなら……お前が変わればいいだけだろ……」
「変わろうとした。あの子に迷惑がかからないように、真面目になろうとした」
そんな噂は聞いたことないし、天形が真面目になっているようには思えなかった。
だが、真っ直ぐに俺を見てくる天形が、嘘をついているようには見えない。
「でも、ほんの少し真面目になったところで、周りからの俺の評価は変わらない。真面目なあの子に悪影響になる」
「誰もそんなこと……」
「矢野だってそう思ってただろ」
図星で、言葉につまる。
「そういうことなんだよ。俺が何をしても、あの子の隣にいることは許されない」
天形はブロック塀に体を預け、視線を落とす。
「……好きなだけじゃ、ダメなんだ」
こっちが苦しくなってしまうくらい、泣きそうな声だ。
だが、天形はダメだった、とは言わなかった。
つまり。
「まだ……ひなたのこと、好きなんだな」
天形は切なそうに微笑んだだけで、何も言わない。
その無言は肯定ということなのだろう。
「……それなのに、彼女がいるんだな」
天形に対して誠実さは求めないが、このままではひなたが可哀想だと思った。
天形はキョトンとしたような顔で俺を見てくる。
「俺、泉が彼女って言ったっけ」
「でも、あのときデートの邪魔するなって」
「泉が勝手に言っただけ」
たしかに、天形は一言も言ってなかったような気がする。
じゃあ、あの子がそのつもりで天形といたということか。
「……天形が一方的に好かれている……だと……?」
「矢野の中で俺の評価はどれだけ低いんだよ」
「少なくとも、ひなたを傷つける最低ヤローってことになってる」
実際に傷つけているわけだし、あながち間違ってないと思うけど。
天形は俺を嘲笑するかのように笑みを浮かべた。
「どこまでもあの子中心なんだな。それだけ想われてたら、あの子も幸せだろうな」
「俺がひなたを想っているように、ひなたは……」
その先は言えなかった。
俺の口から言っていいことではなかった。
天形は目を泳がせると、また視線を落とした。
「……なんだ、そういうことか。だから矢野は嫌いな俺に会いに来たんだな」
俺は天形から目を背ける。
「矢野。俺、あの子にはっきり言うよ」
思わぬ発言に、天形の顔を見る。
それは、好きだと想いを告げるような顔には見えなかった。
「……いやいやいや。なんでそうなるんだよ」
遠回しではあるが、ひなたがまだ天形を好きだと知ったはずなのに。
間違いなく、両想いなのに。
なのに、どうして嘘をついてまでひなたを傷つけようとする……?
「思いっきり傷ついたとき、そばにいるやつを好きになるって言うだろ」
それはつまり、俺のためだということだろう。
「それだと、天形の気持ちは……」
「気にすんな。曖昧にしてた俺が悪いんだし」
そうだとしても、無視してもいいことではない。
「だから、俺の気持ちは殺すよ。たとえそれがあの子を傷つけることになっても、あの子の幸せになるなら、いくらでも殺してやる」
物騒な言い方だった。
でも、まったく迷いがないように見えた。
天形のくせに、かっこいいこと言いやがって。
本当に、ひなたの幸せしか祈っていないんだ。
俺は、自分の幸せのために動いてしまったというのに。
「じゃあ、そういうことで。もう会うことはないだろうけど、またな」
そう言って、天形は帰っていった。
一人残った俺は、その場に脱力したかのように座り込む。
……誰だよ、アイツがガラスメンタルだって言ったの。
不良だっていうのも、嘘だったりしないよな。
なんであんなに優しいんだ。
純粋にひなたを想っているんだ。
これじゃまるで……
「兄ちゃん、あのかっこいい兄ちゃんに負けたのか?」
ボールを抱えた少年が俺の顔を覗き込んできた。
それはさっき、天形からボールを受け取った子だった。
他人から言われて、やっぱりかと思う。
俺はアイツに、負けてしまった。
これは、近江に怒られるだろうな……
「……なんで俺が負けたって思うんだよ」
「兄ちゃんたち喧嘩してたんじゃないの? あと、かっこいい兄ちゃんはサッカーが上手いだけじゃなくて、服もかっこよかった」
それだけで俺が負けたというのはいかがなものか。
「喧嘩はしてないよ。ちょっと疲れて休憩してただけなんだ」
「なんだ、そっか。じゃあな!」
少年は走って公園を出ていった。
対する俺は、重い足取りで家に帰った。
今朝、沙奈ちゃんに聖とのことを話した。
やっぱり、このまま聖に甘えたくないし、悩んだまま聖と恋人関係にあるのは、申しわけないと、正直に打ち明けた。
「なんでひなたはそこまで真剣な気持ちじゃなきゃダメだって思うの? ちょっと軽い気持ちでもいいじゃん」
「……私が嫌なの。本当に好きな人が同じように私のことを思っていないのに、付き合ってくれるのは」
真面目だと言われてしまえば、そうなのかもしれない。
でも、もし天形が私を大事な友達だと思っているだけで、付き合ってくれたら、私は気を使ってしまうし、相手は楽しくないかもしれない。
聖が私と同じ考え方をしているかはわからないけど、自分がされて嫌なことは、なるべくしたくない。
「……それ、付き合う前から思ってたことじゃないの?」
厳しい言葉だった。
まさしく、その通りだ。
「昨日の今日でやっぱりなしってするのは、気持ちがないのに付き合うよりも酷いと思うけど」
返す言葉もない。
沙奈ちゃんが言うように、酷いのはわかってるんだけど……
「……返事をしたときは、ただ天形のことを忘れたかっただけだった。でも、それを聖に知られて、傷ついた聖を見たら……」
「それじゃあアイツが悪いのか」