『本気で青春をしたかったら、夜の旧校舎に来てくれ』

 一度家に帰って夕飯を済ませた後、加瀬くんから言われたその言葉の通りに、夜の旧校舎を目指してこっそりと家を抜け出していた。

 時刻はもう二十一時近くで、こんな時間から学校に向かうなんて、当たり前だけど初めてのことだった。いつも歩いているはずの通学路なのに、歩く時間が違うだけでまるで初めて歩く場所みたいだ。街灯があるとはいえ夜道を歩くのはやっぱり不安だし、これから旧校舎に忍び込もうとしているのだと考えると、ぞわりと胸が涼しくなる。

 夜の旧校舎に来てくれ、なんて誘ったのが加瀬くんじゃなかったら、今頃はいつも通り机と向かい合って問題集でも開いていた。

 いったい、旧校舎に何があるっていうんだろう。

 夜の学校でできること。思いつくことといえば肝試しくらいなもので、しかも指定された場所が普段使っている新校舎じゃなくてもう使われていない旧校舎なのだから、いよいよ怪しい。

 旧校舎には幽霊が出るという噂も聞いたことがあった。まだ入学したての頃、周りの男子たちが騒いでいたのを思い出す。

 なんだっけ。まだ旧校舎が使われていたころ、学校の目の前の道路で女子生徒が事故に遭って死んだとかなんとか……

 ありがちな話だ、と一蹴しつつも、頭に浮かんだ半透明な女の子のイメージは、簡単にはぬぐい切れない。

 自然と早足になって進んでいると、人通りの少ない住宅街を抜けて、ようやく校舎が見えてきた。人気のない真っ暗な校舎はやっぱり想像していた通りに不気味で、禍々しい雰囲気さえまとっているように見える。

 普段は開いている正門もこの時間には閉まっていて、見てみると鍵がかかっているようだった。左右を見て近くに誰もいないことを確認してから、意を決してそれによじ登る。ドラマなんかではよく見る光景だけど、テレビの向こう側のその立場に自分が立つなんて、夢にも思わなかった。

 見つかったら絶対怒られる。分かっている。

 校則を破ったことなんて今までに一度もないし、これからもずっとそうだと思っていた。なのに、今の僕は閉められた正門の上にまたがっている。このまま奥に向かって飛べば、もう後戻りはできない。手前の道路の方に飛べば、まだ引き返せる。

 自分の背丈よりも高い正門の上から飛び降りると、両足に鈍い痛みがした。
引き返せないことは分かっていて、僕は学校の敷地の方に着地した。

『本気で青春をしたかったら、夜の旧校舎に来てくれ』

 その言葉を信じたかった。

 まだ学校に残っている先生がいないか、辺りを見ながら慎重に進んでいく。
一人きりで夜の学校を歩いていると、誰かに見つかる恐怖心の他に本能的な怖さもあって、さすがに心臓の鼓動が早くなる。手前にある新校舎を過ぎると、そのすぐ後ろに建つ旧校舎の姿が見えた。大きさは新校舎よりも一回り小さいが、ほんの数年前まではそこで全校生徒が学校生活を送っていたらしい。けれど、今はかつての生活感は消え去り、荒廃した雰囲気だけが漂っている。新校舎とは連絡通路でつながっているけど、そこは一般生徒にとってまるで縁のない場所だった。

 加瀬くんが集合の場所に指定したのは、旧校舎の裏口だった。正面玄関とは反対にあるその扉の前まで来てみても、そこには誰の姿もなかった。裏口は重い鉄の扉になっていて、校舎の中の様子は覗けない。

 誰もいない?

 もしかしたら、もう先に中へ入っているのかもしれない。そう思って、錆びついた鉄製の扉を手前に引いてみる。どうやら鍵はかかっていないようで、ギイ、と鈍い音をたてながらもそのまま開いた。校舎の中を覗くと、明かりもなく真っ暗だった。

 真っ暗な夜の旧校舎に、本能が拒絶感を示す。それでも、ここまで来て引き返すことはしたくなかった。覚悟を決めて、何も見えない校舎の中へ恐る恐る入った。

「誰か――」

 と、突然。

 バン、バンバン! と、いくつかの炸裂音が連続して響いた。

 何が起こったのか分からなくて、「うわっ」と叫んで思わず目を閉じてしまう。身構えていた分だけ驚いた。

 真っ白な頭のまま、ゆっくりと目を開けてみる。自分の身体に紙テープが巻きついているのが辛うじて見えた。そして、辺りにはわずかな火薬の匂いが漂っているのに気づく。

 と、パッと明かりがついた。突然のまぶしさにまた目をつぶってしまって、目が慣れるとようやく目の前が見えた。

 身体に巻きついていたのはクラッカーから飛び出た色とりどりの紙テープで、旧校舎の廊下は外観通りにボロボロで、そして、その奥には横一列に並ぶ数人の人影がある。今になって、自分の心臓がバクバクと早鐘を打っていることに気づいた。

 並んでいる人たちは全部で五人で、その彼らの姿に思わず目が丸くなった。
真っ先に目に入ったのは右端に立つ小清水先生と、その隣に立つ――

「青、葉……?」

 だけど、いつも見ている青葉と何か雰囲気が違う。どこか柔らかいというか、普段彼女が身にまとっている強さのようなものがその全身からは感じられない。そして、残りの三人も見知った人物だったけど、彼らはみな、違和感というレベルを超えたあまりにも変貌した姿をしていた。

 左端に立っているのは、昨日青葉に挨拶をしていた生徒会副会長の二年生で、隣には赤川さん、そして真ん中で堂々と立っているのは、おそらく加瀬くんだ。

 その加瀬くんらしき人物はアロハシャツと短パンに身を包み、顔には大きなサングラスが光っていた。

 本当に、加瀬くん……?

 サングラスで顔が隠れてよく見えないし、この浮かれた格好は、僕の知っている彼と明らかにかけ離れている。この場所に呼んだのが加瀬くんじゃなかったら、もっと別のにぎやかな誰かを想像したはずだ。

 そのあまりの姿に呆然としていると、彼はその大きなサングラスをずらして、見知った素顔をのぞかせた。

 サングラスアロハマン――もとい加瀬くんは大きな口を開けて、

「ようこそ、俺たち青春部へ!」
「せい、しゅんぶ……?」

 困惑しきりの僕に、加瀬くんは堂々とうなずく。

「そうだ。正式名称、『せ』っかくの高校生活だから、『い』ろんなしがらみも気にせず、『しゅん』かんを楽しむための部活……略して青春部だ」
「あ、これそんな名前だったんだ」

 隣でぼそりとそうつぶやいたのは赤川さんだ。

 普段は裸眼だったはずなのに、今は分厚い眼鏡をかけ、二つに結ばれていた髪もおろされている。その姿に、アイドルのようないつもの明るいオーラはない。

「最初にノリでつけた名前だからあんま知られてないけど、実はな」

 小清水先生が応えると、副会長の彼もどこか呆れた調子で、

「オレの時も『青春部』としか言われませんでしたけど、最近になって思い出したやつですよね、これ」

 朝の通学途中に見た時はかっちりと制服を着ていた彼なのに、今は髪の毛をオールバックにセットして、銀のチェーンのついた私服に身を包んでいる。普段はかけていたはずのメガネもなく、裸になった目が鋭く光る。穏やかで知的だったその雰囲気は消え去り、もはや完全に全身が不良のそれになっている。

 頭が追いついていかなかった。放課後の旧校舎にいったい何があるのか、恐る恐る来てみたら突然クラッカーが鳴るし、そこにいたのは青葉を始め有名人ばっかりだし、その彼らがまるで別人みたいに変貌を遂げている。

 サングラスを額のところにかけた加瀬くんは、いつもの教室では絶対に見せたことのようなニコニコといたずらな笑顔を浮かべている。

 普段教室で聞いている落ち着いた話し声とは打って変わって、その見た目同様に浮かれた声で説明を始める。

「え? 青春部ってなんだよって? まあざっくり、この夜の旧校舎を拠点にして、学校には内緒でコソコソと活動している非公式の部活ってとこだ」
「は、はあ」

 なんだか、しゃべり方まで普段と違うような……

 思わず小清水先生の方に視線が向く。学校に内緒なら、なんで先生が混じってるんだ。

 視線に気づいた先生がひらひらと手を振ってきて、この人ならあり得るな、とすぐにそんな疑問はなくなった。

「ちょっと真面目な話、俺たちには活動理念がある」加瀬くんは続ける。「それは、この学校で満足な青春が送れずに苦しんでいる生徒たちの受け皿になること――俺たち青春部はそのために存在してるんだ」

 五人からの視線がまっすぐにこっちを向いている。圧倒されて、思わず助けを求めるように青葉の方を見てしまう。その視線に青葉が気づいた。

「伊織が、春樹なら誘ってもいいんじゃないかって」
「俺だけじゃない。小清水先生からもお墨付きだ」

 加瀬くんからの言葉に、今度は小清水先生の方を向く。目が合うと、先生は肯定するように深くうなずいて見せた。

「僕を、この部活に……?」

 改めてそこに立つ五人の顔を見る。生徒会だったり、部活のエースだったり、人気者だったり――誰もがみんな強みや特徴を持っている。

 ここに僕が混じる?

 一番端に立つ副会長の男子は、鋭い目をさらに細くして、じっと僕を睨んでいるみたいに見えた。その隣に立つ赤川さんは、なんとなく品定めするような目だ。

「ちなみに、これは何をする部活なんでしょう……?」

 名前からじゃ全く想像もつかないし、そもそも、わざわざこの夜の旧校舎に集まる意味も分からない。

 加瀬くんは、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりにニヤリと笑った。

「活動内容は単純だ。この旧校舎を利用して、思いつく限りのバカで面白い企画を発表し合う! そして、その面白さを競い合うんだ」
「バカで、面白い企画……?」

 突拍子もない内容に首をひねっていると、青葉が補足する。

「まあ、出し物みたいなものかな。見世物っぽいものだったり、参加型だったり、とにかく自由だからなんでもいいんだけど」

 と、突然二年生の彼が僕の方を睨んだまま、ひたひたと距離を詰めてくる。不良のようないかつい姿で迫られると、後輩相手とはいえ思わずひるんでしまう。

「古河春樹――やっぱりあなただったんですね」

 落ち着きのある低いその声は、表情と同様に敵意に満ちて聞こえた。

「えっと、はじめまして……?」

 妬まれることは慣れているけど、初対面でここまで恨まれる理由はない。しばらく至近距離で睨まれたままでいると、彼は無言のままひるがえって距離をとった。

「で、その企画っていうのは、基本的に一回の活動につき二人が発表することになってて、相手よりも面白い企画を見せたやつが勝ちっていう、ざっくりそんな感じのルールだ」
「は、はあ……」

 何事もなかったみたいに始まった適当な調子の説明に、少し釈然としない気持ちでいると、「そこで、だ」と、加瀬くんは急に不敵な笑みを浮かべた。その表情に、なんとなく嫌な予感を覚える。

「古河にはさっそく、次の活動日にうちの部員である館野晃嗣と戦ってもらう!」

 言いながら加瀬くんは前に出て、今も僕を睨んでいる副会長の彼の肩に手を回す。

 うちの部員である館野晃嗣って、まさか……!

「ちょ、ちょっと待ってよ! いくらなんでもいきなりなんて……」
「残念ながら、新人が最初に企画を披露するのは伝統なんだ。ちなみに、次の活動日は今週の土曜だから、幸いまだ三日は準備期間がある」
「で、でも、企画なんて言われても何をすればいいのか……ていうか、そもそも僕――」
「とまあ、そう言われるのは想定済みだ」

 そもそも僕、入部するなんて言ってないのに、という抗議の言葉は、加瀬くんの勢いによってあっけなく遮られた。

「前にやったやつの焼き直しになるけど、ちゃんと見本代わりの企画を用意してきたから」
「相変わらず、そういうとこだけは変に周到だよね」

 ボソリとつぶやくような赤川さんの声に、青葉が続く。

「そもそも、初めて話したその日に部活に誘うっていうのもふざけてるから」
「思い立ったら即行動が、ここでの俺のポリシーだからな」

 加瀬くんが横文字を使った事実に密かに衝撃を受けていると、「とりあえず、上の教室まで行こうか」と、みんなが移動を始める。もうすっかり「部活」が始まる流れになっている。僕はただ圧倒されて、それに流されることしかできないでいた。

 みんなに続いて慌てて階段を登り、二階に着いた時だった。先頭の加瀬くんが、突然「シッ」と声をあげた。談笑の声がやんで、辺りが途端にシンとなる。

 と、男の人の声のようなものがわずかに聞こえた。聞こえて来るのは、すぐ近くの新校舎へと続く連絡通路の方からだった。

「もしかして、まだ教師残ってた?」青葉が小声で言った。
「確かに、この時間じゃまだ残ってるやつがいてもおかしくないからな」
「残業なんてしてないで早く帰ってよ」
「教師舐めんな! 仕事量ハンパないんだぞ!」

 と、小声で赤川さんと小清水先生が応酬を繰り広げていると、冷静な声で晃嗣くんが、「どうします……?」と加瀬くんに尋ねた。

 加瀬くんはしばらく逡巡する様子を見せた後、

「……やっぱり今日は解散!」と、小声で宣言をした。

 その声を合図に、みんなは一斉に一階を目指して階段を下り始める。僕はただ何もわからないままに、みんなの後をついて歩くことしかできなかった。