5
次の日の昼休みの時間だ。
山本くんたちと学食でお昼を食べた後、教室の自席へ戻って、頭を抱えた体勢で目を閉じて休んでいた。今日は午前中から授業の内容がハードで、頭が飽和状態だった。
ふと目を開けて教室の様子を眺める。つい目が向かってしまうのは、左斜め向こうにある青葉の席だ。
今も青葉は一人で椅子に座って文庫サイズの本を読んでいる。彼女の周りに、クラスメイトは誰もいない。毎日の見慣れた光景だった。
学校での青葉は口数が少なく、クラスメイトと言葉を交わすことは滅多にない。けど、だからといってクラスメイトたちが彼女をネクラ扱いすることもない。ほとんどの生徒にとっての青葉は、話しかけるのも恐れ多い手の届かない存在だった。
そしてそれは、今に始まったことじゃない。僕が初めて青葉に出会った時から、彼女はずっとそうだった。
と、その時だった。隣に人の気配がして、「古河」と聞き慣れない声に名前を呼ばれた。誰だろう、と怪訝に思いつつ隣を見上げると、そこに立っていたのは加瀬くんだった。
「少し時間いいか?」
加瀬くんはそう言うと、廊下の方へ歩いていき、僕についてくるように促した。今まで話したことなんて一度もなくて、突然のことに驚きつつ、慌てて席を立って追いかけた。
教室を出ると加瀬くんは僕の方を向いて、
「昨日黒板消してくれたの、古河だよな? ありがとう、助かった」
「え、うん。でも、どうして僕だって……?」
「西峰から聞いたんだ。こんなにきっちり四隅まで綺麗になってるのは、間違いなく古河だって」
「そっか、あの後……」
昨日僕が廊下を去った後、青葉と加瀬くんの二人は教室に戻って、そこで綺麗になった黒板を目にしたのだろう。そして、青葉が僕の特徴に気づいたんだ。
「とにかく、昨日はありがとう。おかげで部活にも遅れずに済んだ」
「ううん。別に大した手間じゃなかったし」
後ろの教室のドアが開いて、通りの邪魔になっていることに気づく。一歩だけずれるつもりが、加瀬くんは廊下の反対側まで移って、なんだか落ち着いて話し込むみたいな形になった。
「それにしても、黒板本当に綺麗だった」
「性格かな、ついこだわっちゃうんだよね。何かを並べたり整頓したりさ、細かいことをきちっとやるのが好きなんだ」
僕の言葉に加瀬くんが小さく笑った。
加瀬くんの笑顔には落ち着きがあって、他の同級生が絶対に持っていないような大人の余裕みたいな穏やかさがある。
「古河は、西峰と幼馴染なんだってな」
不意なその名前に驚いた後、昨日二人が話をしていた姿がよみがえる。その時の二人の間にあった親しげ雰囲気まで思い出されて、ちくりと胸が痛んだ。
「昨日青葉から聞いたの?」
「ああ。幼馴染がいること自体は、前々から聞いてはいたんだけどな」
「前々から?」
二人は、三年生になって初めて同じクラスになったはずだった。教室でも二人が話しているのを見かけたことがないし、青葉は部活にも入っていない。
「ああ。俺は弓道部で主将を務めているんだが、その立場上、生徒会長と話すことはわりとあるんだ」
「そっか、生徒会で……」
二人の接点は分かったけど、昨日の二人の親しげだった距離感が変わるわけじゃない。なんとなく釈然としないでいると、加瀬くんは突然感心するような調子で言った。
「それにしても、あの西峰青葉の幼馴染が古河だったなんて。正直なところ意外だった。昔からずっと一緒にいると聞いていたから、どんなとんでもないやつかと……」
「期待はずれだったよね。ふたを開けてみたら、僕みたいな地味な男子で」
クラスメイトからの珍しくない反応に、僕は自嘲した。『二人が一緒にいるなんて意外』、『あの西峰青葉と幼馴染なんて不釣り合い』そんな風に言われることは今まで何度も経験してきたことだった。
けど、加瀬くんはそんな言葉をぶつけてきたどの人とも違う表情だった。
「そんなことはない。逆に納得したくらいだ」
「なんで? 僕は青葉と違って何の取り柄もないし」
「取り柄がないことはないだろう。西峰はでたらめだから、普通はついていくこともできない」
「そんなこと……僕はただしがみついているだけだよ。本当は勉強もできないんだけど、バカみたいに量だけこなして、なんだってできる青葉の足元にどうにかしがみついてる」
「なあ。どうして古河はそこまで頑張れるんだ?」
そう訊いた加瀬くんの顔がいやに真剣で、僕も真面目に自問した。
青葉の足元には、しがみつくことすら簡単じゃない。油断をすればすぐに振り落とされてしまいそうになる。それでも僕がしがみつくのは――
「ずっと昔に、自分でそう決めたから。どんなにみっともなくても、どんなに無謀でも青葉についていこうって」
その答えの半分は自分に向けたもので、だから隣に立つ加瀬くんの方は見なかった。
「すごいな、古河は」
「すごくなんて……同じ高校に入れたのだって奇跡だし。それに、本当は入れるレベルじゃなかったから、授業についていくだけでいっぱいいっぱいで……三年生の今になって、むなしくなってきたよ。――なんて、ごめんねこんな話」
さっきからつまらない話をしてばかりだったことに、今さらになって気がついた。いくらクラスメイトとはいえ、初めて話す相手にする話題じゃなかった。もっと面白い話の一つでもできるなら、少しは何かが変わっていたのかもしれないのに。
「……いや」と、加瀬くんは呆れるでもなく、まじめな声で返した。「古河は、うちに来たことを後悔してるのか?」
うちに来たこと――青葉のことを追いかけて、この森宮第一高校へ入ったこと。
この高校に入るために、そして入った後も授業についていくために、たくさんの時間を犠牲にしてきた自覚はある。
自分の身の程に合った高校に入っていれば、青葉に憧れなんて抱いていなければ、もっと違う高校生活があったのかもしれない。
「この学校に来たこと自体は後悔してないよ。……けど、もっといろいろとできたことがあるんじゃないかって気はしてる」
「このまま卒業したくないって思っているんだろ?」
「それは……」加瀬くんの目があまりにも真剣で、思わず顔を逸らした。
教室を出てくるクラスメイトたちの視線が、怪訝そうにこっちを向くのが分かる。僕が加瀬くんと話しているのを物珍しく思っているんだろう。
不意に、昨日の放課後の、ボーリングに誘ってくれた山本くんの顔がよみがえった。
「でも、三年生にもなって今さら……僕はみんなみたいに要領よくないし」
「そんなのは関係ない。大事なのは古河がどうしたいかだ」
加瀬くんは、身体を僕の方に向けて距離を詰めた。
力のこもった表情が目の前まで迫って、ドクン、と、胸がはねた。
「僕が、したいこと……?」
「ああ」と、それはその顔と同じくらいに力強い声で。
「――青春を、したいと思わないか?」
どこか近くの窓が開いていたのだろう。春の温かな風が廊下を吹き抜けていくのを、制服の上から感じていた。
次の日の昼休みの時間だ。
山本くんたちと学食でお昼を食べた後、教室の自席へ戻って、頭を抱えた体勢で目を閉じて休んでいた。今日は午前中から授業の内容がハードで、頭が飽和状態だった。
ふと目を開けて教室の様子を眺める。つい目が向かってしまうのは、左斜め向こうにある青葉の席だ。
今も青葉は一人で椅子に座って文庫サイズの本を読んでいる。彼女の周りに、クラスメイトは誰もいない。毎日の見慣れた光景だった。
学校での青葉は口数が少なく、クラスメイトと言葉を交わすことは滅多にない。けど、だからといってクラスメイトたちが彼女をネクラ扱いすることもない。ほとんどの生徒にとっての青葉は、話しかけるのも恐れ多い手の届かない存在だった。
そしてそれは、今に始まったことじゃない。僕が初めて青葉に出会った時から、彼女はずっとそうだった。
と、その時だった。隣に人の気配がして、「古河」と聞き慣れない声に名前を呼ばれた。誰だろう、と怪訝に思いつつ隣を見上げると、そこに立っていたのは加瀬くんだった。
「少し時間いいか?」
加瀬くんはそう言うと、廊下の方へ歩いていき、僕についてくるように促した。今まで話したことなんて一度もなくて、突然のことに驚きつつ、慌てて席を立って追いかけた。
教室を出ると加瀬くんは僕の方を向いて、
「昨日黒板消してくれたの、古河だよな? ありがとう、助かった」
「え、うん。でも、どうして僕だって……?」
「西峰から聞いたんだ。こんなにきっちり四隅まで綺麗になってるのは、間違いなく古河だって」
「そっか、あの後……」
昨日僕が廊下を去った後、青葉と加瀬くんの二人は教室に戻って、そこで綺麗になった黒板を目にしたのだろう。そして、青葉が僕の特徴に気づいたんだ。
「とにかく、昨日はありがとう。おかげで部活にも遅れずに済んだ」
「ううん。別に大した手間じゃなかったし」
後ろの教室のドアが開いて、通りの邪魔になっていることに気づく。一歩だけずれるつもりが、加瀬くんは廊下の反対側まで移って、なんだか落ち着いて話し込むみたいな形になった。
「それにしても、黒板本当に綺麗だった」
「性格かな、ついこだわっちゃうんだよね。何かを並べたり整頓したりさ、細かいことをきちっとやるのが好きなんだ」
僕の言葉に加瀬くんが小さく笑った。
加瀬くんの笑顔には落ち着きがあって、他の同級生が絶対に持っていないような大人の余裕みたいな穏やかさがある。
「古河は、西峰と幼馴染なんだってな」
不意なその名前に驚いた後、昨日二人が話をしていた姿がよみがえる。その時の二人の間にあった親しげ雰囲気まで思い出されて、ちくりと胸が痛んだ。
「昨日青葉から聞いたの?」
「ああ。幼馴染がいること自体は、前々から聞いてはいたんだけどな」
「前々から?」
二人は、三年生になって初めて同じクラスになったはずだった。教室でも二人が話しているのを見かけたことがないし、青葉は部活にも入っていない。
「ああ。俺は弓道部で主将を務めているんだが、その立場上、生徒会長と話すことはわりとあるんだ」
「そっか、生徒会で……」
二人の接点は分かったけど、昨日の二人の親しげだった距離感が変わるわけじゃない。なんとなく釈然としないでいると、加瀬くんは突然感心するような調子で言った。
「それにしても、あの西峰青葉の幼馴染が古河だったなんて。正直なところ意外だった。昔からずっと一緒にいると聞いていたから、どんなとんでもないやつかと……」
「期待はずれだったよね。ふたを開けてみたら、僕みたいな地味な男子で」
クラスメイトからの珍しくない反応に、僕は自嘲した。『二人が一緒にいるなんて意外』、『あの西峰青葉と幼馴染なんて不釣り合い』そんな風に言われることは今まで何度も経験してきたことだった。
けど、加瀬くんはそんな言葉をぶつけてきたどの人とも違う表情だった。
「そんなことはない。逆に納得したくらいだ」
「なんで? 僕は青葉と違って何の取り柄もないし」
「取り柄がないことはないだろう。西峰はでたらめだから、普通はついていくこともできない」
「そんなこと……僕はただしがみついているだけだよ。本当は勉強もできないんだけど、バカみたいに量だけこなして、なんだってできる青葉の足元にどうにかしがみついてる」
「なあ。どうして古河はそこまで頑張れるんだ?」
そう訊いた加瀬くんの顔がいやに真剣で、僕も真面目に自問した。
青葉の足元には、しがみつくことすら簡単じゃない。油断をすればすぐに振り落とされてしまいそうになる。それでも僕がしがみつくのは――
「ずっと昔に、自分でそう決めたから。どんなにみっともなくても、どんなに無謀でも青葉についていこうって」
その答えの半分は自分に向けたもので、だから隣に立つ加瀬くんの方は見なかった。
「すごいな、古河は」
「すごくなんて……同じ高校に入れたのだって奇跡だし。それに、本当は入れるレベルじゃなかったから、授業についていくだけでいっぱいいっぱいで……三年生の今になって、むなしくなってきたよ。――なんて、ごめんねこんな話」
さっきからつまらない話をしてばかりだったことに、今さらになって気がついた。いくらクラスメイトとはいえ、初めて話す相手にする話題じゃなかった。もっと面白い話の一つでもできるなら、少しは何かが変わっていたのかもしれないのに。
「……いや」と、加瀬くんは呆れるでもなく、まじめな声で返した。「古河は、うちに来たことを後悔してるのか?」
うちに来たこと――青葉のことを追いかけて、この森宮第一高校へ入ったこと。
この高校に入るために、そして入った後も授業についていくために、たくさんの時間を犠牲にしてきた自覚はある。
自分の身の程に合った高校に入っていれば、青葉に憧れなんて抱いていなければ、もっと違う高校生活があったのかもしれない。
「この学校に来たこと自体は後悔してないよ。……けど、もっといろいろとできたことがあるんじゃないかって気はしてる」
「このまま卒業したくないって思っているんだろ?」
「それは……」加瀬くんの目があまりにも真剣で、思わず顔を逸らした。
教室を出てくるクラスメイトたちの視線が、怪訝そうにこっちを向くのが分かる。僕が加瀬くんと話しているのを物珍しく思っているんだろう。
不意に、昨日の放課後の、ボーリングに誘ってくれた山本くんの顔がよみがえった。
「でも、三年生にもなって今さら……僕はみんなみたいに要領よくないし」
「そんなのは関係ない。大事なのは古河がどうしたいかだ」
加瀬くんは、身体を僕の方に向けて距離を詰めた。
力のこもった表情が目の前まで迫って、ドクン、と、胸がはねた。
「僕が、したいこと……?」
「ああ」と、それはその顔と同じくらいに力強い声で。
「――青春を、したいと思わないか?」
どこか近くの窓が開いていたのだろう。春の温かな風が廊下を吹き抜けていくのを、制服の上から感じていた。