教室の前まで戻ってくると、電気が消えていて、もう誰も残っていないようだった。

 遊びに行ったり部活に行ったり、塾に行ったり、みんなそれぞれの場所へと向かっていったんだ。先生に勉強を聞くためだけに使った数学の教科書を置いていこうと、教室の中に入る。と、黒板が消されていなくて、授業で使ったままになっているのが目に入った。

 誰か消し忘れちゃったのかな。

 それを消すのは本来日直の仕事だ。黒板の角に書かれた日直の名前を見る。
「加瀬伊織」。そこにあったのは、弓道部の主将の名前だった。

 なんでも全国で屈指の実力者だとかで、朝練から放課後の練習まで、授業以外の時間は常に部活漬けだと聞いたことがある。

 きっと、加瀬くんは部活が忙しいんだろうな。

 気づいてしまった以上このまま放置するのも気が引けて、窓の近くに干している濡れ雑巾を取って、黒板の掃除を始める。黒板は雑巾で拭くと綺麗にツヤが出て気持ちいいから、この仕事は嫌いじゃない。

 四隅まできっちり拭ききって、改めて綺麗になった黒板を眺める。チョークのあとひとつない、完璧な仕上がりだ。

 それを確認してから教室を出ると、ちょうど青葉の姿があった。そういえば今日は、生徒会の仕事がある曜日だった。

「今終わり?」
「うん、今日はたいして決めることもなかったから」
「そうなの? けど、いつもお疲れ様」
「それほど疲れる仕事でもないけどね」
「そう言えるのは、きっと青葉だからだよ」

 本当になんてこともなさそうな青葉に苦笑していると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。見ると、向こうから加瀬くんが早足で歩いてくるところだった。一度部活に顔を出していたのか袴姿だ。日直の仕事を思い出して、慌てて戻ってきたのかもしれない。

 青葉も加瀬くんに気づくと、「ごめん」と会話を打ち切って、まるで迎えに行くみたいに小走りで行ってしまった。「あ」と、思わず口から出た声はかすかで、きっと青葉の耳には届いていなかった。

 隣の教室の前で、青葉と加瀬くんは話を始めている。話している内容までは聞こえてこないけど、二人の話す様子がすごく親しげなことだけは分かる。
加瀬くんはすらりと身長が高くて、一目で青葉よりも大きいことが分かる。弓道をやっているからか、身長が高いだけじゃなくて肩周りもしっかりしている。

 細くてキリっとした目はいかにも日本男児風で、男の僕から見ても整った顔立ちだと思う。学内だけじゃなくて、他の学校にまでファンの女子がいるのだという話だって、噂に疎い僕の耳にまで届いていた。凛としたたたずまいに袴姿がよく似合っていて、どこか神聖な雰囲気さえ漂っているように見える。
どこからどう見たって、美男美女のお似合いカップルだ。

 二人が話し込む様子を見ながら、唇を噛みしめる。

 教室ひとつ分の距離しか離れていないはずなのに、その距離がとても遠い。実は二人とクラスメイトだなんて、まるで悪い冗談だ。
クラスメイト同士の会話のはずなのに、そこに僕みたいな凡人が入り込む余地は見当たらない。

 せめて二人に気づかれないように、そっとその場を後にした。