僕と小清水先生は廊下に戻ると、みんなは不思議そうな顔をしながらも、彼女については何も触れることはしなかった。改めてドミノの企画を褒めてもらって、僕はそれに照れながら応えた。

 やがて話が落ち着いてきたころ、それを見計らったように小清水先生がその時を告げた。

「さ、そろそろ結果発表に入らせてもらっていいか?」

 途端、一瞬にして空気が引き締まってみんなは話をやめた。今日の勝敗が持つ意味は、いつもよりもずっと重い。みんなそれを分かっていて、張り詰めた雰囲気だった。

 その静寂を肯定と受け取ったのか、小清水先生は小さく息を吸ってから、

「まず先攻、西峰青葉の点数から――芸術性五点! わくわく度合四点! 新鮮さ三点! 合計得点……十二点だ」

 結果を聞いた青葉は黙ったままうなずいた。

 十点越えの高得点、青葉はそれを安定して叩き出し続けていたけど、準備期間のなかった今回も平然と成し遂げてみせた。

 だけどそれは分かりきっていたことだ。僕だって、それに対抗できる自信はあった。

 激しく暴れまわる心臓を落ち着けるように、目を閉じてその瞬間を待つ。
再び小清水先生が口を開いた。

「そして後攻、古河春樹の点数は――」

 胃が締め付けられる。聞きたいけど、聞きたくない。怖い、耳をふさぎたい。だけど、そんな僕の気持ちはお構いなしにその時は来た。

「芸術性五点! わくわく度合四点! 新鮮さ四点! 合計得点……十三点だ」

 最後の数字を聞いた瞬間、心臓が止まった気がした。

 十三点ということは、つまり――

「勝者、古河春樹!」

 僕は驚いて目を開いた。と、加瀬くんが飛んできて、

「やったな! 文句なしの出来だったぞ!」

 赤川さんもそれに続いて近づいて、

「……おめでと。間違いなく今までで最高に近い企画だったと思うよ」

 なんだか、噛み締める暇もなかった。加瀬くんも赤川さんも、きっと僕よりも嬉しそうな顔をしている。

「おめでとう」小清水先生が優しく微笑んだ。

 勝てたんだ、青葉に。

 じわじわと染み込むように実感が広がっていく。まだ少し半信半疑だけど、だんだんと喜びと安堵を感じられた。

 そうだ、青葉は。

 ハッと、廊下の奥に立っている彼女の方へ目を向けた。うつむいていて、その表情は見えなかった。そばに寄ろうと一歩を踏み出すと、ポツリと声が聞こえた。

「……やだ」
「え?」

 あまりにも弱弱しい声に、思わず訊き返していた。

「春樹にだけは、絶対負けたくなかったのに。負けられなかったのに……!」

 その両肩が小さく震えているように見えた。予想外の反応に、僕は動けなかった。と、青葉は顔を上げて僕を見た。その目は、明らかに赤くなっていた。

「お願い、いなくならないで……」
「いなくなるって……僕が?」

 困惑した。どうして青葉がそんなことを口にしたのか、分からなかった。この勝負に負けて、青葉が一番に気にするのは青春部のことだと思っていた。このまま卒業までの間、ずっと部活を続けていくことが彼女の願いだったはずだ。

 青葉は僕の方へと一歩距離を詰めると、絞り出すように言った。

「初めて春樹と喧嘩してから、すごく怖かった。失敗ばっかりして、私がこんなにダメだから春樹は離れていちゃったんだって気づいて……私は、春樹が憧れる私で居なきゃいけないのに。だから、春樹にだけは絶対に負けちゃいけなかったのに……」
「そんなこと……」

 青葉の考えていることが分からなくて、言葉に詰まった。青葉は、ますます言葉から力をなくしていた。

「この勝負も、本当は私と決別するためだったんでしょ?」
「違うよ! これはただ――」

 と、それを遮るように首を横に振った。

「さっき、春樹に負けた時に気づいたの。私がずっと頑張ってこれたのは、春樹にとっての憧れでいたかったから」

 何も言えなくなった。僕が青葉の頑張る理由になっていたなんて、そんなことは考えたこともなかった。

 呆然としていると、青葉はさらに続ける。

「ずっと独りぼっちだった私に、初めて居場所をくれたのが春樹だったの。みんな私を怖がって、遠ざけたのに……それでも、春樹だけは違ったから。私に憧れて、追いかけてきてくれたから。――だけど、春樹にとっての私はもう違う」

 一番近くにいながら勝手に完璧なイメージを押し付け続けて、それが青葉にとっての負担になるんじゃないか。それが、ようやく見つけた僕の答えだった。ある意味でそれは正しかったのかもしれないけど、それだけじゃなかったんだ。

 誰かからの憧れに応えるために頑張れる、そういう形もあったのか。僕は、ただ青葉の負担になっていただけじゃなかったんだ。

 だけど、ただ一方が憧れるだけなんてそんなのは寂しすぎるし、きっとその関係がこの先に続いていくことはない。だから――

「ううん。違うんだよ、青葉。憧れのままじゃ先へは進めないから。僕が決別するのは青葉じゃなくて、ただ青葉のことを見上げるだけで満足していた僕自身に決別するんだ」
「え……?」

 今度は青葉が絶句する番だった。

「羽ばたいてよ。頑張る理由がないなんて言わないでさ。僕は、青葉と同じ景色は見られないかもしれないけど。それでも、これからは青葉の隣を歩いていきたいんだ」

 僕は、この青春部に入ってからの数ヶ月で手に入れた強さと、青葉と出会ってからの十数年分の想いを込めて、それを伝えようとした。

「もう絶対、青葉を一人になんてしないから。高校が終わっても、部活が終わっても、終わらないものは絶対にあるから」

 青葉はしばらく呆然とするように僕の顔を見つめた後、やがて「うん」とうなずいてから破顔した。

 それは、今まで僕にだけ見せていた穏やかな微笑みとも、部活の時のはじけるような笑顔とも違った、素直な表情だった。

 きっとこの笑顔はまだ誰も知らなかったはずだ。新しい表情を知れたのが嬉しくて、またこれから、もっとたくさんの青葉を知っていきたいと思った。

 と、隣から足音がして、振り向くと晃嗣くんがこっちに向かって歩いていた。顔には厳しい表情が浮かんでいるのが見えて、つい今までの青葉とのやり取りを思い出した。間違いなく怒られる。目の前で立ち止まると、「春樹先輩」と名前を呼んだ。

 身構えていると、晃嗣くんの表情は意外なものだった。少し決まりが悪そうに足元に目を向けている。

「……オレは、誰が青葉先輩をおかしくしたのかと、あなたに問いました。そして、それはあなたのせいだと。だけど、違ったんですね。オレたちが勝手に完璧だと決めつけて、本当の先輩を見ていなかった」

 どこか悔いるような、恥じるような、淡々とした声だった。

 そうだ、晃嗣くんも僕と同じだったんだ。前に晃嗣くんが語ってくれた、青葉のことを慕う理由を思い出す。たぶん、青葉は晃嗣くんにとっての道しるべのような存在だった。

 晃嗣くんは、青葉のことを一瞥してからまた僕の方を向いた。

「オレは、先輩のことを見上げるだけの存在だと決めつけていました。だけど、あなたはそれを打ち破った。……完敗です。今まですみませんでした」

 晃嗣くんはそう言い切ると、深く頭を下げた。誰かに頭を下げられるのなんて初めてで、思わずしどろもどろになった。

「そ、そんなこと。僕なんて全然だし、僕が変われたのは、ここにいるみんなのおかげだから」

 それを聞いていた青葉が晃嗣くんの前へと出ると、二人は向き合うような形になった。

「晃嗣は、私とは違うから。晃嗣にしかない長所だってあるし、だから、自分らしく頑張ればいいと思うし。……たぶん、そういうことだと思う」
「はあ」と、晃嗣くんはため息のあとに苦笑して、「そういえば、会長にも欠点ありましたね。そういう口下手なところとか」
「え、そうだったの……?」

 青葉はそれに驚いてから、唇を尖らせて少し拗ねた様子だった。だけどそれも一瞬で、二人は目を合わせると小さく笑い合った。

 と、突然加瀬くんが手を上げながら一歩前へ出た。

「終わりみたいな感じの空気のところ悪いけど、実は俺からもちょっとした企画があるんだよな」

 そういえば部室でみんなを待っている時、何もしないで終わるのは悔しいからちょっとしたものを用意した、とそんなことを言っていたのを思い出した。

 それを一緒に聞いていた赤川さんは冷静で、あとの三人はみんな、驚いたあとに苦笑していた。

「企画はいいけど、サクッと頼むぞ?」

 小清水先生が言うと、加瀬くんは能天気な声で「もちろん」と弾むように答えた。ほらほら、と加瀬くんは先導するように廊下を歩き出して、上り階段の方へ向かっていく。

 どうやら、まだ部活は延長戦に続くみたいだった。