「失礼しました」

 職員室に向けてお辞儀をしてからドアを閉める。

 少し勉強を教えてもらうだけのはずが、話が広がって三十分近くも職員室に居座ってしまっていた。

 一度教室に戻ろうと職員室に背を向けると、目の前に人影があった。

「あ、小清水先生」

 小清水先生が僕の顔を認めると、ニッと口角を上げて笑顔を見せた。

「おお、古河か。なんだ、また勉強聞きに来てたのか?」
「ええ、まあ……」
「最近よく来るな。授業しんどくなってきてるのか?」

 小清水先生が担任になったことはないけど、職員室で会うたびにいつもこうして気にかけてくれていた。小清水先生は、きっと僕の不器用を心配してくれているのだと思う。

「三年生になってからはどうしても……国立の方のコースを選んじゃったので」
「へえ、国立にしたのか。どっか行きたいところでもあるのか?」
「実はまだ、進みたい方向とか決まってなくて……全然、自分が何をしたいのかも」
「ま、そういうやつもまだ少なくないさ」
「でも、みんなはだんだん志望校も絞ってますし……」

 みんな、と口にしながら、一人の幼馴染の姿が頭に浮かぶ。青葉は、父を追って同じ大学の同じ学部に進学し、そして弁護士になるという夢を持っている。それなのに、幼馴染である僕には何もない。

 僕の人生は、ただ青葉を追いかけるだけだった。

 思わず目を伏せていると、あっけらかんとした小清水先生の声が降ってきてハッとする。

「他はいいんだよ。おまえの場合は、真面目ばっかしてないでたまには遊べって」

 それは、あまりにも教師らしからぬ言葉と口調だった。

 小清水先生は歳も若いから生徒との距離が近いけど、こういうフランクなところも生徒から好かれている理由なのだと思う。

 だけど、これからの大事な時期に遊ぶなんて……

 先生からの無茶なアドバイスにどんな言葉を返せばいいのか、反応に困っている時だった。先生の身体の向こうから、女子の声がした。

「拓馬せんせー」
「なんだよ、勉強の相談以外なら乗らないぞ」

 先生が振り返ると、向かいから小走りで近づいてくる女子の姿が見えた。

 この人、たしか赤川さんだっけ。

 一度も同じクラスになったことはないけど、名前だけなら覚えていた。小柄な身体と明るい性格で、まるでアイドルみたいな可愛い顔をしているから、学校内でも有名人だ。走る拍子に左右で二つに結ばれた髪が上下に小さく弾む。ニコニコと自然な笑顔を浮かべた彼女からは、明るい空気がにじみ出ているように感じられる。

 近くで見ると、たしかに顔は小さいし目は大きいし、すごく可愛い。

 赤川さんも、僕に気づいたみたいだった。

「あ、ごめんね。話邪魔しちゃった?」
「ううん、大丈夫だよ。……それじゃあ、失礼しました」

 話を切り上げるように、先生に小さく会釈をする。生徒と友達みたいな感覚で接する小清水先生も、先生を下の名前で呼んでしまう人気者の赤川さんも、僕にはとても眩しくて、つい逃げるみたいに二人に背を向けていた。