6
そして、その時はすぐにやってきた。
数日後の帰りのHRの時間だった。
担任の中村先生が、いつも話をやめるタイミングで「最後に連絡事項だ」と、話の前振りをした。何気なく話を聞いていた僕は、その瞬間にハッと先生の顔を見た。
嫌な予感がして、すぐにその予感が正しかったことを突きつけられた。
「夏休みから、旧校舎の取り壊しが始まることが決まった。しばらくは少しうるさくなるかもしれないけど、我慢してくれよな」
「やっとかよー」「このタイミングで?」と、あちこちから声が上がる。僕はとっさに青葉の方を見た。じっと教壇の方を見つめたまま固まっているのは後ろ姿で、その表情までは分からない。
「それと」と、先生は話を続ける。「旧校舎の中に、定期的に誰かが出入りしている形式が見つかったらしい。もともと禁止されていたわけじゃないけど、これからは立ち入り禁止になるから絶対に近づかないようにな」
まるでなんてことないように伝えられたその声に、何かが音を立てて崩れ去ったような気がした。
その何かに名前があるのだとすれば、きっとそれは「今」と呼ばれるものだ。
放課後、僕たちは部室で集まっていた。
小清水先生を除いた五人で、ただ黙って椅子に座って先生が来るのを待っている。部屋に漂うのは重苦しい空気だ。放課後に入って、十五分くらいが経過していた。
「加瀬くんは部活大丈夫なの?」
「先生に呼ばれたから遅れると伝えてある。少しなら平気だ」
と、ドアの開く音がして、小清水先生が入ってきた。みんなは一斉に立ち上がって先生のもとに集まると、黙ってその言葉を待った。
先生は申し訳なさそうに、ゆっくりと首を振った。
「ダメだった。裏口も窓も全部封鎖されている」
先生の告げたその言葉に、みんなが息を呑んだ。
旧校舎に生徒を入れないため、本当に鍵が閉められているのか。小清水先生には放課後の時間になってすぐ、その確認をしてもらいにいっていた。そして、その結果は懸念していた通りだった。
「ねえ、連絡通路は? そこから入れないの?」
名案とばかりに赤川さんが言った。それを小清水先生が言いづらそうに否定する。
「……いや。そこは鍵がないから通れるだろうけど、そもそもこっちの新校舎に鍵がかかってる」
「あ、そっか……」
赤川さんが肩を落とすと、そこでまた沈黙が部室に訪れる。
沈黙がそのまま重さを持って、全身にのしかかっているようだった。心臓が、目には見えないてのひらに鷲掴みにされているみたいだ。
沈黙の中やっと絞り出せた声は、ひどく弱弱しいものだった。
「じゃあ、もう無理なの? 旧校舎には入れなくて、もう企画もできないの……?」
またそこでしばらくの沈黙が流れて、それを断ち切ったのは加瀬くんだった。
「そういうことだろう。旧校舎に入れないのなら企画は無理だし、この部活自体もう……晃嗣以外は三年なんだから、ある意味でいい潮時だったのかもしれないな」
加瀬くんの声と、その顔に浮かべた表情は落ち着いていた。あるいは、それは諦めだったのかもしれない。
だけど、加瀬くんの言葉は間違いなく正しかった。僕たちは必ずどこかで引退をしなくてはいけなくて、唐突だけど、それが今だったというだけなんだ。
終わりの時は、いつか必ず来る。
「そうだね。加瀬くんは大会もあるし、僕たちももう勉強に集中しないとだもんね」
僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。
赤川さんも晃嗣くんも、悔しそうにうつむきながらも、どこかそれを受け入れようとしているように見えた。
納得へと向かう、その空気を引き裂いたのは青葉だった。
「三年生だからなに? 受験だとか、卒業した後のこととか、そんなのは全部どうでもいいから。私は、まだ部活はやめたくない」
それは、どこまでも冷たい声だった。思わずひるんでしまいそうになる。
「青葉……? 気持ちは分かるけど、旧校舎はもう……」
「別に旧校舎じゃなくたっていい」と、青葉は奥歯を噛み締めるように顔をゆがめて「みんなと遊んでいられるなら、それだけでいいのに……!」
「青葉……」
その言葉は、まるでわがままな子供のそれだった。
好きとか、嫌いとか、いやだとか。それだけの気持ちだけで行動を決めるような、それは幼い子供と変わらない。
思わず、諭すような声になっていた。
「そんなのは無理だよ。ほとんどの部活は夏で引退なんだから、それと同じでさ……もう遊びは終わりにして、これからは受験に集中しないと」
それでも、青葉の表情は揺るがない。
「他の部活がどうかなんて関係ないと思う。ここにはそんなルールなんてないんだから。ねえ、みんなもそう思うでしょ?」
青葉はみんなの方を見て問いかけた。だけどみんなはそれに応えず、いたたまれないように目を逸らしたりしている。
「ねえ、莉愛は……?」
反応がないことに焦ったのか、青葉は赤川さん一人に視線を向けた。赤川さんは申し訳なさそうに答える。
「……私は、伊織が決めたことならそれでいいと思う」
そう遠回しに否定された青葉は、今度は晃嗣くんの名前を呼んだ。青葉に見つめられた晃嗣くんは、「オレは……」と言葉に詰まって、困惑した様子だった。最後にすがるようにして小清水先生の方を見つめると、先生は小さく首を振るだけだった。
これ以上こんな青葉を見ていられなくて、禁じ手だとは分かっていながら、僕はそれを口にしてしまった。
「もうやめようよ。青葉だって、このままだと大学危ないんだよね? これから追い込みの時期なんだから、もっと頑張らないとなんじゃないの?」
「なんで、それ……もしかして聞いてたの?」
「ごめん。……だけど、青葉はお父さんを追うんじゃなかったの? お父さんの後を追って、司法の世界に入るって。このままじゃ――」
「もういいの!」
青葉はそう強い言葉で遮った。自分の大きな声に驚いたような表情を見せた後、小さく続けた。
「なんだかもう、頑張る理由が分からないの……」
「それって、どういう――」
「もう、放っておいて……!」
青葉は突き放すようにそう言うと、うつむきながら足早に部室を去っていく。僕の足は部室の床に縫い付けられて、その背中を追いかけることはできなかった。
どうしてそんなことを言うんだろう。
父のことを追って司法の世界へ行く。それは、青葉にとっての揺るぎない目標だったはずなのに。それをもういいだなんて、そんなのは僕が憧れてきた青葉からは、あまりにもかけ離れている。
なんだか、この間から初めて見る青葉ばかりだ。弱気な姿も、わがままな言葉も、ムキなる態度も、何一つとして今までに見たことがなかった。
もしかしたら僕は、青葉のことを何も知らなかったのかもしれない。
今さらになって、そんなことを思っていた。
そして、その時はすぐにやってきた。
数日後の帰りのHRの時間だった。
担任の中村先生が、いつも話をやめるタイミングで「最後に連絡事項だ」と、話の前振りをした。何気なく話を聞いていた僕は、その瞬間にハッと先生の顔を見た。
嫌な予感がして、すぐにその予感が正しかったことを突きつけられた。
「夏休みから、旧校舎の取り壊しが始まることが決まった。しばらくは少しうるさくなるかもしれないけど、我慢してくれよな」
「やっとかよー」「このタイミングで?」と、あちこちから声が上がる。僕はとっさに青葉の方を見た。じっと教壇の方を見つめたまま固まっているのは後ろ姿で、その表情までは分からない。
「それと」と、先生は話を続ける。「旧校舎の中に、定期的に誰かが出入りしている形式が見つかったらしい。もともと禁止されていたわけじゃないけど、これからは立ち入り禁止になるから絶対に近づかないようにな」
まるでなんてことないように伝えられたその声に、何かが音を立てて崩れ去ったような気がした。
その何かに名前があるのだとすれば、きっとそれは「今」と呼ばれるものだ。
放課後、僕たちは部室で集まっていた。
小清水先生を除いた五人で、ただ黙って椅子に座って先生が来るのを待っている。部屋に漂うのは重苦しい空気だ。放課後に入って、十五分くらいが経過していた。
「加瀬くんは部活大丈夫なの?」
「先生に呼ばれたから遅れると伝えてある。少しなら平気だ」
と、ドアの開く音がして、小清水先生が入ってきた。みんなは一斉に立ち上がって先生のもとに集まると、黙ってその言葉を待った。
先生は申し訳なさそうに、ゆっくりと首を振った。
「ダメだった。裏口も窓も全部封鎖されている」
先生の告げたその言葉に、みんなが息を呑んだ。
旧校舎に生徒を入れないため、本当に鍵が閉められているのか。小清水先生には放課後の時間になってすぐ、その確認をしてもらいにいっていた。そして、その結果は懸念していた通りだった。
「ねえ、連絡通路は? そこから入れないの?」
名案とばかりに赤川さんが言った。それを小清水先生が言いづらそうに否定する。
「……いや。そこは鍵がないから通れるだろうけど、そもそもこっちの新校舎に鍵がかかってる」
「あ、そっか……」
赤川さんが肩を落とすと、そこでまた沈黙が部室に訪れる。
沈黙がそのまま重さを持って、全身にのしかかっているようだった。心臓が、目には見えないてのひらに鷲掴みにされているみたいだ。
沈黙の中やっと絞り出せた声は、ひどく弱弱しいものだった。
「じゃあ、もう無理なの? 旧校舎には入れなくて、もう企画もできないの……?」
またそこでしばらくの沈黙が流れて、それを断ち切ったのは加瀬くんだった。
「そういうことだろう。旧校舎に入れないのなら企画は無理だし、この部活自体もう……晃嗣以外は三年なんだから、ある意味でいい潮時だったのかもしれないな」
加瀬くんの声と、その顔に浮かべた表情は落ち着いていた。あるいは、それは諦めだったのかもしれない。
だけど、加瀬くんの言葉は間違いなく正しかった。僕たちは必ずどこかで引退をしなくてはいけなくて、唐突だけど、それが今だったというだけなんだ。
終わりの時は、いつか必ず来る。
「そうだね。加瀬くんは大会もあるし、僕たちももう勉強に集中しないとだもんね」
僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。
赤川さんも晃嗣くんも、悔しそうにうつむきながらも、どこかそれを受け入れようとしているように見えた。
納得へと向かう、その空気を引き裂いたのは青葉だった。
「三年生だからなに? 受験だとか、卒業した後のこととか、そんなのは全部どうでもいいから。私は、まだ部活はやめたくない」
それは、どこまでも冷たい声だった。思わずひるんでしまいそうになる。
「青葉……? 気持ちは分かるけど、旧校舎はもう……」
「別に旧校舎じゃなくたっていい」と、青葉は奥歯を噛み締めるように顔をゆがめて「みんなと遊んでいられるなら、それだけでいいのに……!」
「青葉……」
その言葉は、まるでわがままな子供のそれだった。
好きとか、嫌いとか、いやだとか。それだけの気持ちだけで行動を決めるような、それは幼い子供と変わらない。
思わず、諭すような声になっていた。
「そんなのは無理だよ。ほとんどの部活は夏で引退なんだから、それと同じでさ……もう遊びは終わりにして、これからは受験に集中しないと」
それでも、青葉の表情は揺るがない。
「他の部活がどうかなんて関係ないと思う。ここにはそんなルールなんてないんだから。ねえ、みんなもそう思うでしょ?」
青葉はみんなの方を見て問いかけた。だけどみんなはそれに応えず、いたたまれないように目を逸らしたりしている。
「ねえ、莉愛は……?」
反応がないことに焦ったのか、青葉は赤川さん一人に視線を向けた。赤川さんは申し訳なさそうに答える。
「……私は、伊織が決めたことならそれでいいと思う」
そう遠回しに否定された青葉は、今度は晃嗣くんの名前を呼んだ。青葉に見つめられた晃嗣くんは、「オレは……」と言葉に詰まって、困惑した様子だった。最後にすがるようにして小清水先生の方を見つめると、先生は小さく首を振るだけだった。
これ以上こんな青葉を見ていられなくて、禁じ手だとは分かっていながら、僕はそれを口にしてしまった。
「もうやめようよ。青葉だって、このままだと大学危ないんだよね? これから追い込みの時期なんだから、もっと頑張らないとなんじゃないの?」
「なんで、それ……もしかして聞いてたの?」
「ごめん。……だけど、青葉はお父さんを追うんじゃなかったの? お父さんの後を追って、司法の世界に入るって。このままじゃ――」
「もういいの!」
青葉はそう強い言葉で遮った。自分の大きな声に驚いたような表情を見せた後、小さく続けた。
「なんだかもう、頑張る理由が分からないの……」
「それって、どういう――」
「もう、放っておいて……!」
青葉は突き放すようにそう言うと、うつむきながら足早に部室を去っていく。僕の足は部室の床に縫い付けられて、その背中を追いかけることはできなかった。
どうしてそんなことを言うんだろう。
父のことを追って司法の世界へ行く。それは、青葉にとっての揺るぎない目標だったはずなのに。それをもういいだなんて、そんなのは僕が憧れてきた青葉からは、あまりにもかけ離れている。
なんだか、この間から初めて見る青葉ばかりだ。弱気な姿も、わがままな言葉も、ムキなる態度も、何一つとして今までに見たことがなかった。
もしかしたら僕は、青葉のことを何も知らなかったのかもしれない。
今さらになって、そんなことを思っていた。