そして、その時はすぐにやってきた。

 数日後の帰りのHRの時間だった。

 担任の中村先生が、いつも話をやめるタイミングで「最後に連絡事項だ」と、話の前振りをした。何気なく話を聞いていた僕は、その瞬間にハッと先生の顔を見た。

 嫌な予感がして、すぐにその予感が正しかったことを突きつけられた。

「夏休みから、旧校舎の取り壊しが始まることが決まった。しばらくは少しうるさくなるかもしれないけど、我慢してくれよな」
「やっとかよー」「このタイミングで?」と、あちこちから声が上がる。僕はとっさに青葉の方を見た。じっと教壇の方を見つめたまま固まっているのは後ろ姿で、その表情までは分からない。
「それと」と、先生は話を続ける。「旧校舎の中に、定期的に誰かが出入りしている形式が見つかったらしい。もともと禁止されていたわけじゃないけど、これからは立ち入り禁止になるから絶対に近づかないようにな」

 まるでなんてことないように伝えられたその声に、何かが音を立てて崩れ去ったような気がした。

 その何かに名前があるのだとすれば、きっとそれは「今」と呼ばれるものだ。



 放課後、僕たちは部室で集まっていた。

 小清水先生を除いた五人で、ただ黙って椅子に座って先生が来るのを待っている。部屋に漂うのは重苦しい空気だ。放課後に入って、十五分くらいが経過していた。

「加瀬くんは部活大丈夫なの?」
「先生に呼ばれたから遅れると伝えてある。少しなら平気だ」

 と、ドアの開く音がして、小清水先生が入ってきた。みんなは一斉に立ち上がって先生のもとに集まると、黙ってその言葉を待った。

 先生は申し訳なさそうに、ゆっくりと首を振った。

「ダメだった。裏口も窓も全部封鎖されている」

 先生の告げたその言葉に、みんなが息を呑んだ。

 旧校舎に生徒を入れないため、本当に鍵が閉められているのか。小清水先生には放課後の時間になってすぐ、その確認をしてもらいにいっていた。そして、その結果は懸念していた通りだった。

「ねえ、連絡通路は? そこから入れないの?」

 名案とばかりに赤川さんが言った。それを小清水先生が言いづらそうに否定する。

「……いや。そこは鍵がないから通れるだろうけど、そもそもこっちの新校舎に鍵がかかってる」
「あ、そっか……」

 赤川さんが肩を落とすと、そこでまた沈黙が部室に訪れる。

 沈黙がそのまま重さを持って、全身にのしかかっているようだった。心臓が、目には見えないてのひらに鷲掴みにされているみたいだ。

 沈黙の中やっと絞り出せた声は、ひどく弱弱しいものだった。

「じゃあ、もう無理なの? 旧校舎には入れなくて、もう企画もできないの……?」

 またそこでしばらくの沈黙が流れて、それを断ち切ったのは加瀬くんだった。

「そういうことだろう。旧校舎に入れないのなら企画は無理だし、この部活自体もう……晃嗣以外は三年なんだから、ある意味でいい潮時だったのかもしれないな」

 加瀬くんの声と、その顔に浮かべた表情は落ち着いていた。あるいは、それは諦めだったのかもしれない。

 だけど、加瀬くんの言葉は間違いなく正しかった。僕たちは必ずどこかで引退をしなくてはいけなくて、唐突だけど、それが今だったというだけなんだ。
終わりの時は、いつか必ず来る。

「そうだね。加瀬くんは大会もあるし、僕たちももう勉強に集中しないとだもんね」

 僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。

 赤川さんも晃嗣くんも、悔しそうにうつむきながらも、どこかそれを受け入れようとしているように見えた。

 納得へと向かう、その空気を引き裂いたのは青葉だった。

「三年生だからなに? 受験だとか、卒業した後のこととか、そんなのは全部どうでもいいから。私は、まだ部活はやめたくない」

 それは、どこまでも冷たい声だった。思わずひるんでしまいそうになる。

「青葉……? 気持ちは分かるけど、旧校舎はもう……」
「別に旧校舎じゃなくたっていい」と、青葉は奥歯を噛み締めるように顔をゆがめて「みんなと遊んでいられるなら、それだけでいいのに……!」
「青葉……」

 その言葉は、まるでわがままな子供のそれだった。

 好きとか、嫌いとか、いやだとか。それだけの気持ちだけで行動を決めるような、それは幼い子供と変わらない。

 思わず、諭すような声になっていた。

「そんなのは無理だよ。ほとんどの部活は夏で引退なんだから、それと同じでさ……もう遊びは終わりにして、これからは受験に集中しないと」

 それでも、青葉の表情は揺るがない。

「他の部活がどうかなんて関係ないと思う。ここにはそんなルールなんてないんだから。ねえ、みんなもそう思うでしょ?」

 青葉はみんなの方を見て問いかけた。だけどみんなはそれに応えず、いたたまれないように目を逸らしたりしている。

「ねえ、莉愛は……?」

 反応がないことに焦ったのか、青葉は赤川さん一人に視線を向けた。赤川さんは申し訳なさそうに答える。

「……私は、伊織が決めたことならそれでいいと思う」

 そう遠回しに否定された青葉は、今度は晃嗣くんの名前を呼んだ。青葉に見つめられた晃嗣くんは、「オレは……」と言葉に詰まって、困惑した様子だった。最後にすがるようにして小清水先生の方を見つめると、先生は小さく首を振るだけだった。

 これ以上こんな青葉を見ていられなくて、禁じ手だとは分かっていながら、僕はそれを口にしてしまった。

「もうやめようよ。青葉だって、このままだと大学危ないんだよね? これから追い込みの時期なんだから、もっと頑張らないとなんじゃないの?」
「なんで、それ……もしかして聞いてたの?」
「ごめん。……だけど、青葉はお父さんを追うんじゃなかったの? お父さんの後を追って、司法の世界に入るって。このままじゃ――」
「もういいの!」

 青葉はそう強い言葉で遮った。自分の大きな声に驚いたような表情を見せた後、小さく続けた。

「なんだかもう、頑張る理由が分からないの……」
「それって、どういう――」
「もう、放っておいて……!」

 青葉は突き放すようにそう言うと、うつむきながら足早に部室を去っていく。僕の足は部室の床に縫い付けられて、その背中を追いかけることはできなかった。

 どうしてそんなことを言うんだろう。

 父のことを追って司法の世界へ行く。それは、青葉にとっての揺るぎない目標だったはずなのに。それをもういいだなんて、そんなのは僕が憧れてきた青葉からは、あまりにもかけ離れている。

 なんだか、この間から初めて見る青葉ばかりだ。弱気な姿も、わがままな言葉も、ムキなる態度も、何一つとして今までに見たことがなかった。

 もしかしたら僕は、青葉のことを何も知らなかったのかもしれない。

 今さらになって、そんなことを思っていた。