それからの三日間は、ただ静かな時間だった。

 文化祭と企画の担当という二つの大きなヤマを越えて、一日のほとんどの時間を勉強に費やし、どこか懐かしいような感覚さえしたほどだ。僕と二人でいる時の青葉は、あれから特に変わった様子もなくて、職員室の前の教室で聞いたことが全部嘘に思えてしまう。もちろん、その時のことを青葉に訊くだけの勇気はない。

 その日、加瀬くんが次の活動について話し合うための集まりに指定したのは、放課後の遅い時間だった。放課後に入ると青葉は生徒会に向かい、僕は古文の授業で疑問に思ったことを訊くために、職員室へと来ていた。

「ありがとうございます。納得できた気がします」

 疑問を解消した僕は、教科書をカバンにしまいながら感謝を告げた。

「おう。また分からないことがあったらいつでも訊きに来ていいからな」

 今回、古文の内容を訊いていたのは、国語の授業を受け持っている担任の中村先生だった。僕がカバンを肩にかけて椅子から立ち上がると、「そうだ」と中村先生は思い出したように言った。

「最近、西峰に変わったことはないか?」

 中村先生の口から青葉の名前が出たことにドキリとする。この前、僕が二人の話を聞いていたことはバレていないと思うけど、あの時のことが思い出されて胸が苦しくなった。

 僕はできるだけ平静を装って、

「いえ、特には……」
「そっか。何か悩んでないといいんだけど……まあ、何か分かったら教えてくれ」
「はい」

 と、最後にもう一度頭を下げてから、先生のもとを後にする。

 中村先生は、青春部という非公認の部活の存在も、青葉がそれに所属していることも知らない。別に、最近になって急に活動が忙しくなったということはないけど、青葉の成績の降下にそれが関係していないはずがない。

 ダメだ、あの時のことを考えるのはやめにしよう。

 そう言い聞かせて、頭から振り払おうとした。職員室の出口に向かって歩く。と、その時、窓際の席に座った二人の男性教師の話し声が、耳に飛び込んできた。

「そういえば、ようやく旧校舎の取り壊しするんだろ?」
「らしいな。まあ、俺も詳しいことは分からないけど」

 思わず足を止めて、噂している二人の方を見た。それが聞こえた瞬間、職員室に響く他のすべての雑音が、耳から排除されたようだった。

 旧校舎を、取り壊す……?

 それは、旧校舎がなくなるということだ。旧校舎がなくなるということは、つまり……

 二人が僕の視線に気づくと、慌てて話をやめてそれぞれの仕事に戻った。僕も二人から目をそらして、足早に職員室を立ち去った。



 全員が部室にそろったのは完全下校時刻の三十分ほど前だった。

 最後に部室に現れたのは、部活を終えて袴姿から制服に着替えを済ませていた加瀬くんだった。

「すまない、遅くなった」
「部活だったならしょうがないよ」僕は言った。
「それにしても、次の組み合わせを忘れるとか、なかなかやらかしちゃったな」

 小清水先生は苦笑すると、赤川さんは椅子に座ったまま両足をプラプラと動かしながら、

「伊織と拓馬せんせーが勝手に決めて、メールで伝えるんじゃだめだったの?」
「ああ。事前に伝えた通り、今後の予定についても話しておきたかったからな」

 制服姿の加瀬くんは、いつも真面目な顔をしている。だけど今は、真面目というよりは真剣な表情だった。

「今後の予定、ですか?」晃嗣くんが訊いた。
「次が夏休み前最後の活動になる。だから、夏休み中の活動も含めて、今後どうしていくかを話し合っておきたかったんだ」

 加瀬くんの言葉に、みんなは「うん」「分かった」とうなずいて反応を示す。話が本題に入ろうとしているのを感じて、僕は「その前に」と、力を込めてその流れを絶った。

 みんなの怪訝な視線が僕を向いた。

「今後のことを話す前に、小清水先生に訊いておきたいことがあるんです」
「ん、なんだ?」
「……旧校舎が取り壊されるって、本当ですか?」

 実際にそれを口にすると、重たい何かが胸の中にずしりとのしかかった感覚がした。

 みんなは僕の言葉に驚いて、息を呑んだのが分かった。僕はそれに気づかないふりをして、じっと答えを待つ。

 小清水先生は一瞬だけ動揺した様子を見せた後、落ち着いて答えた。

「うわさ自体は本当だ。この夏休みに取り壊されるんじゃないかって、一部の教師が話をしている」
「そんな……」と、声を漏らしたのは赤川さんだった。みんなの表情を確認する勇気はなかった。
「けど、事実かどうかはまだ確認中だ。お偉いさんに訊いてみないと分からないしな」
「待って。じゃあ、次はどうするの……?」

 焦りを隠せないような声で青葉が言った。それは、また僕の初めて聞く声だった。

「それを考えるのは、あとの方がいいかもな。もしうわさが本当なら、旧校舎に立ち入るのも難しくなるかもしれないし。……俺の方でもちゃんと確認してみるから、今後のことはそれが分かってから考えようか」

 小清水先生がそう言うと、みんなは不安そうにしながらもうなずいて応えた。僕もそれに混じって、「分かりました」と応える。

 だけど、青葉だけはじっとうつむいたままで、影に隠れたその表情は見えなかった。

 その後、完全下校時刻が近いこともあってすぐに解散になると、僕と青葉は二人で家までの道を歩いた。

 二人になってからの青葉は、いつも通りの様子に見えた。穏やかに微笑み、余裕を感じさせる言葉で話す。だけどなんとなく、ざらざらとした違和感のようなものが胃の辺りを覆っている感覚がして、僕の心は落ち着かなかった。

 ずっと繰り返してきたことのはずなのに、青葉とどんな話をしたらいいのか、そんな余計なことばかりを考えてしまっていた。言葉にはできないけど、何かが確かに違っている。

 ふと顔を上げると、夏の乾いた夜空が広がっていた。

「夏休みもそろそろだね」

 僕は思わずつぶやいていた。

「うん、そうだね」

『夏休みに入れば、周りは今まで以上に受験勉強に熱を入れてくる』

 不意に、中村先生が青葉に話していた言葉がよみがえった。厳しい口調で告げられたそれは、紛れもない事実だ。

 僕だって、その「周り」と戦わなくちゃいけないことは同じだ。青葉と戦いのレベルはまるで違うけど、夏休みが勝負になることは変わらない。
いつまでも遊んではいられないことは分かっていた。