土曜日、久しぶりの活動日となるその日がついに訪れた。

 集合時刻の十九時にちょうどなろうとする頃、旧校舎の裏口から最後の一人となった赤川さんが顔を出して、青春部のメンバーが勢ぞろいをした。「おまたせ」と、みんなのところに集まると、なんだか懐かしいくらいの光景だった。

 文化祭の後夜祭の時間にみんなで集まりはしたけど、正式な活動で集まるのは一ヶ月近くぶりだ。加瀬くんや赤川さん、晃嗣くん三人の学校とのギャップ溢れる格好も久しぶりだった。

「なんか久しぶりだな。こんなに間隔があいたのは初めてじゃないか?」

 加瀬くんの嬉しそうな声に、青葉が応える。

「そうだね。去年はここまで忙しくなかったから」
「今年はみんな立場があったから、しょうがないよ」僕は言った。
「これを着るのも久しぶりだったぞ」と、いつものアロハシャツを見せびらかしておどける加瀬くんに、みんなは声を漏らして笑う。だけどその笑い声の中に、赤川さんのものはなかった。表情に乏しい顔のまま、笑みのこぼれるみんなの輪の中に立っている。

 今日、加瀬くんに伝えるって言ってたけど……

「盛り上がるのは始まってからな」と、小清水先生がみんなをたしなめてから、「四人とも準備は大丈夫か?」

 今回発表者の三人は小清水先生の方を見てうなずいて、僕も今回はたっぷりと自信を込めてそれに混じった。今までとの表情の違いに気づいたのか、小清水先生は僕の顔を見て満足そうに笑った。

「さて、じゃあ順番だけど……」

 と、小清水先生がうかがうように言うと、晃嗣くんが一歩前に出た。

「オレたちが先に行きます」

 事前に話していたのか、加瀬くんは驚く様子もなく見守っている。なんとなく、晃嗣くんが先攻を選んだ理由が分かった気がした。たぶん、僕が初めて企画を見せた時と同じ、先に見せつけることで、僕たちにプレッシャーをかけようとしている。

 だけど今回は、何を見せられようときっと折れない。

「二人はそれでいいか?」

 赤川さんと目を合わせ小さくうなずき合ってから、

「はい、問題ないです」

 力強く答えた。

「オッケー。じゃあ、先攻が伊織晃嗣ペアで、後攻が莉愛春樹ペアだな。まずは先攻の二人に見せてもらおうか」

 小清水先生のその声に、空気が引き締まった感覚がした。

 一ヶ月ぶりの勝負が、今始まる。



「さあ、ここが今回俺たちから提供するアトラクションの会場でございます」

 ふざけた敬語で加瀬くんが案内したのは、普通の教室の入り口だった。「3の1」とプレートが頭上に掲げられたそのドアの向こうに何があるのか。加瀬くんがまるでドアマンのようにそこを開ける。

 教室の中が見えるようになると、そこはまるで――

「ようこそ、球場へ。今回の企画は、名付けて『リアルペットキャップ野球盤』です」

 晃嗣くんが作ったような声で言った。

 教室の中に入ると、いよいよその全体像が見えた。スポットライトを模した装飾やホームランゾーンとなる観客席、そしてマウンドとバッターボックスと思われる床に貼れたテープ。そこはまさに、野球場そのものだった。

「リアルペットキャップ野球盤……?」

 イメージがつくようなつかないような。訊き返すと、加瀬くんが答えた。

「そう! 教室で野球の遊びをしたりするだろ? それをとことん極めてみたんだ」
「キャップ投げ野球は知ってます?」晃嗣くんが訊いた。

 首を横に振ると、みんなも同じ反応だった。

「簡単に言えば、ボールの代わりにペットボトルのキャップを投げて打つ遊びです」

 言いながら、晃嗣くんは教室の奥へ向かう。マウンドを模した円形のテープの中に立つと、ポケットからペットボトルのキャップを取り出した。と、軽く投げるしぐさで「こんな感じです」と、加瀬くんに向かってそれを放った。それはまっすぐに近い軌道で飛んでいき、きれいに加瀬くんの手の中に収まる。

「こんなに早く投げられるんだ……!」

 想像以上の速度に、思わず感嘆の声が漏れた。

「ああ、本格的だろ? それをこのバット打って得点を競うんだ」

 加瀬くんは、教室の隅に置いてあったプラスチック製のおもちゃのバットを手に取って見せた。

 見れば、足元には得点が書かれたテープの枠がある。それ以外にも的のようなものも置かれていて、そこにポイントが書かれている。

「面白そう!」

 顔を輝かせた青葉が期待に満ちた声を出した。対照に、赤川さんは少し不安そうな顔に見えた。

 加瀬くんは青葉の反応に満足そうにしながら、ゲームのルールを説明し始めた。

 語られたルールは、簡単なものだった。一人四打席が与えられて、そこでポイントを一番多く取った人が勝利となる。得点の書かれた枠の中にキャップを飛ばすか、得点の書かれた的を倒すことで、そこに書かれた数字がそのまま得点になる仕組みらしい。そして、ピッチャーは加瀬くんと晃嗣くんが務め、どちらかを指名する形だということだった。

「さあ、いつも通りまずは先生かな? 好きな方の指名をどうぞ」

 加瀬くんの挑発するような声に、先生が応える。

「オッケー。じゃあ伊織にお願いしようかな」
「待ってました」

 相手が決まると、二人は笑みを交わしてから、それぞれバッターボックスとマウンドに向かっていく。

 小清水先生がバットを構えると、加瀬くんもマウンドで不敵な笑みを浮かべて、

「それじゃあ、第一打席はじめってことで!」

 そう言いながら、投球(投キャップ?)動作に入り、その右腕を大きくしならせる。先生もピクリと動いて打ち返す準備をする。が、ほんの一瞬の後、キャップはまっすぐ吸い込まれるように、キャッチャー役の晃嗣くんの手に収まっていた。それは、さっき晃嗣くんが試しに投げて見せたものよりも、ずっと速いスピードだった。

 驚いているのか、小清水先生は打席で固まったままいる。

「こんなものじゃないぞ?」

 加瀬くんは得意げに笑うと、ポケットから取り出した新しいキャップを手に、再びモーションに入る。キャップが投げられる。と、それに向かってタイミングよく振られたバットが空を切っていた。キャップがバットに当たる直前、まるで突然浮力を失ったかのように落下していっていた。打てる感覚があったのか、「はぁ!?」と、先生は驚きの声を上げた。

「変化球……?」

 そうつぶやく青葉の顔が、ますます輝いていた。まるでおもちゃを前にした子供みたいだな、なんてことを思った。

 悔しがる先生に、加瀬くんは間髪入れずに投げる。鋭く外に逃げていくように曲がっていったそれをどうにか打ち返したけど、当てるのが精一杯だった。キャップは力なく地面をボトボトと転がって、結局得点の書かれた枠のところまでは届かなかった。

「おまえら、上手すぎだろ!」
「そりゃあもちろん、今日のために俺も晃嗣も練習してきたからな」

 その後も二人の勝負は続いていき、結局先生が四打席で手に入れた点数は三点だけだった。床の枠に書かれた得点は一から五点で、的には最大十点までが書かれている。ちなみに、ホームランも十点らしい。

「次、私行っていい?」

 とぼとぼとバッターボックスから先生が戻ってくると同時、青葉は身を乗り出すような勢いで言った。加瀬くんがどっちを相手にしたいかと訊くと、青葉が選んだのは晃嗣くんだった。「わ、分かりました」と、マウンドに向かう晃嗣くんは少し緊張して見えた。

「分かってると思うけど、手加減とかしなくていいから」

 青葉がバットを構えて打席に立つ。その構えからは、すでに風格が漂っている。

「心得ています」

 晃嗣くんは、はっきりした声でそう言うと、投げる動作に入った。繰り出されたキャップはきれいな直線を描き、そして、きれいなくらいにはじき返された。鋭いライナーで飛んで行ったキャップは、五点と書かれた的に直撃しそれを倒していた。

「さ、さすがです……」
「さあ、次!」

 驚嘆するような晃嗣くんに、青葉は誇るでもなく無邪気だった。二打席目、三打席と晃嗣くんは、言われた通りに手を抜いた様子もなくキャップを投げ込んでいく。晃嗣くんの投げるキャップは加瀬くんのそれに見劣りするものじゃなかったけど、青葉は必ずその上をいっていた。

 カン! と小気味の良い音が響いた。キャップは見事な放物線を描き……文句なしのホームランだった。

「んー、気持ちよかった!」

 青葉は大きく伸びをしながらバッターボックスを去っていく。これが四打席目、最後の打席だった。青葉の点数はこれで十八点になった。

「さて、次は……」と、加瀬くんが僕と赤川さんの顔をそれぞれ見た。

 一歩前に出たのは僕の方だ。

「僕がいくよ」
「おっけー、じゃあどっちかやりたい方を……」

 加瀬くんがそう言う中で、マウンドに立つ晃嗣くんが有無を言わせぬ視線で僕を見ていることに気づいた。

「じゃ、じゃあ晃嗣くんで……」

 無言の圧力に負けた僕は、バットを持って打席に入る。野球なんて授業でちょっとやったくらいで、バットを振るのは何年ぶりかも分からない。そもそも持ち方が合っているのか、不安に思いながらバットを構える。

「準備はいいですか?」

 僕はうなずいて答える。と、晃嗣くんは睨むような顔のまま、勢い良くキャップを投げた。ピクリと反応するのが精いっぱいで、一瞬のうちにキャップは僕の身体の前を通り過ぎていた。

 なんだか、さっき青葉に投げたのより速いような……

 さっきまで手加減をしていたわけじゃないとは思うけど、明らかに気合の入り方が違うような気がした。「頑張れ!」と、小清水先生の励ます声が聞こえた。

 晃嗣くんは考える暇も与えないように、間髪入れずに次を投げてくる。振らないと始まらないと思ってバットを振ってみても、やっぱりキャップに当たらない。何度も空振りを繰り返し、三打席目にようやくバットに当たったけど、ほんの少しボテボテと転がるだけだった。

「そんなものですか?」

 マウンドの晃嗣くんは、嘲笑するように口元を緩めた。

 僕なんかが晃嗣くんに敵うはずがない。それは分かっている。それでも、このまま終わりたくはないという思いがあった。

 最後の打席、その最初の一投が飛んできた。僕はそれをめがけて思い切りバットを振った。カン、と音がして、手にはかすかな感触があった。

 バットの先っぽにかすっただけのキャップは、力なく地面を転がる。けど、運よくタイヤのようにコロコロと転がっていき、得点の書かれた枠に向かって進んでいく。

 ……届け!

 ゆっくり転がっていくキャップに祈りを飛ばす。そして、ついに力尽きたそれは、ぱたりと倒れた。倒れたのは、一点と書かれた枠の中だった。

「春樹は一点か」

 小清水先生が言った。

 たったの一点だけど、僕にとっては十分な一点だ。ゼロ点のまま終わらなかったことに、ほっと一息をついていると、

「このままなら青葉が一位だけど……莉愛はどちらをご所望で?」

 今日の加瀬くんは、企画のホストという立場を意識してか、ずっとこんなキャラで通している。

「……じゃあ、伊織で」

 赤川さんは、じっと加瀬くんの顔を見つめて言った。

「オッケー。悪いけど、容赦はしないからな」

 バッターボックスに入った赤川さんは、明らかに慣れていない様子だった。バットの握り方を晃嗣くんから教えてもらっているけど、バットを持つのも初めてかもしれない。

「じゃあ、準備はいいか?」

 不敵に笑う加瀬くんに、赤川さんは不安げな顔で返す。

 投げる動作に入った。そして、宣言通りに容赦のない速さでキャップは繰り出され、晃嗣くんの手の中に収まっていた。赤川さんはピクリとも動けていなかった。

「どうした、振らないと当たらないぞー?」

 煽るような加瀬くんの声。赤川さんは不機嫌な声で、「うっさい」とひとこと。加瀬くんはそれを面白がるように笑うと、またさっきと変わらない速さでキャップを投げた。今度はそれに向かってバットを振ったけど、タイミングも振った場所もめちゃくちゃだった。正しいスイングの仕方は僕も分からないけど、赤川さんのそれがすごくぎこちないことは分かる。間違いなく、赤川さんは運動が苦手だ。

 その後も同じような光景が繰り返された。赤川さんのバットは空を切るばかりで、当たる気配がまるでない。加瀬くんはそれでも全く手加減はしないで、時折変化球も混ぜて翻弄している。

 結局、キャップにかすりもしないまま三振を繰り返し、いよいよ最後の打席になった。

「運動ができないやつには、ちょっときつかったかもな」

 小清水先生は気の毒そうに言った。

 部活中の赤川さんはもともと口数が少ないけど、いよいよバッターボックスの中で黙りこくってしまっていた。

 赤川さんは今日、加瀬くんに想いを伝えると宣言していたけど、これではとてもそんな空気じゃない。

 心配していると、青葉と小清水先生から応援の声が飛んだ。僕もそれに混じろうとした時、ふと、うつむいていた赤川さんが顔を上げ、その表情があらわになった。いたたまれないような、そんな顔があると思っていた。

 あれ……? もしかして怒ってる?

 赤川さんはそのまま加瀬くんを睨む。バカ、と、その口が動いたように見えた。

「このままだとゼロ点だぞ? さすがに気の毒だから、バットにくらい当ててくれよ」

 煽るような態度は最後まで変わらない。赤川さんはそれに無言で応えると、加瀬くんは容赦なく思い切りキャップを投げた。それは鋭い直線を引くように、まっすぐ晃嗣くんの手の中に向かっていき。――その直前、反対の方向へ向かってはじき返された。

 赤川さんが思い切り振ったバットに当たったキャップは、ライナーで勢いよく飛んだ。タイミングよく見事にはじき返されたそれは、マウンドに立つ加瀬くんに返されるように飛んでいく。

 スコーン! と、小気味の良い音が聞こえてきそうなほど、勢いよく加瀬くんの額に直撃していた。額にダメージを受けた加瀬くんはうめき声をあげながら、痛みにその場でうずくまった。

「これ、倒したら何点?」

 赤川さんが淡々と訊くと、晃嗣くんは驚きを隠せずに、

「……百点、とかですかね」
「莉愛、おまえが優勝だ……」

 うずくまったままの加瀬くんが絞り出した。

 この瞬間、暫定一位だった青葉の十八点を特急で追い越して、赤川さんが首位に立った。最後の最後の大逆転劇に、教室は歓声と拍手で包まれる。そんな中、赤川さんは勝ち誇った顔で、うずくまる加瀬くんを見下ろしていた。

 なんだか釈然としない幕引きに、こんなのでいいのかなあ、と僕は勝手に二人の関係が心配になっていた。

「まあ、最後は衝撃的だったけど面白い企画だったな」

 小清水先生が苦笑する。と、晃嗣くんが得意げにこっちを見ているのに気づいた。やれるものならやってみろと、そんな挑発的な表情にも見えた。

「じゃあ、後攻に移るとするか」

 いよいよその時がやってきた。僕も表情に自信を込めて「はい」と、力強く返した。今度はもう、始める前に折れたりは絶対にしない。



「僕たちが準備したのは、この理科室です」

 みんなを理科室の前まで案内すると、いよいよ胸の辺りがキュッとなるのを自覚した。緊張している。「なんだろう」「理科室っていうと実験系か?」と、みんなはそれぞれ楽しげに予想を立てている。それを聞いていると、その期待に応えられるか不安になってくる。

「それじゃあ入って」

 と、赤川さんは素っ気ない声で言いながらドアを開けると、みんなは言われた通りに中に入っていく。僕もその後ろについていってドアをくぐると、みんなの目が天井から吊るされたそれに集中しているのが分かった。

 入っていきなり用意したものが分かってしまったら面白くない。昨日の帰り際、全部の人体模型には布をかけて隠してあった。なんだなんだ、とその中身を期待する声が上がる。隠した成果はあったみたいだ。

 僕はこっそり教室の端まで移動して、用意した仕掛けの電源プラグを持った。これを差せば、仕掛けが作動して彼らが動き出す手はずだ。そこで、ふう、と一度息を吸って吐いた。

 僕たちの企画は、加瀬くんたちの参加型のものと違って、最初の掴みがすべてだ。引き込めなければ、点数は期待できない。

 理科室の中心に立った赤川さんと目を合わせる。準備はできていた。

「それでは、死者たちの社交パーティをどうぞお楽しみください」

 赤川さんは打ち合わせ通りの前向上とともに、一斉に布をはがす。着飾った人体模型が現れる。おお、と一斉に声が上がった。プラグを持つ手に力が入る。心臓が、バクバクとうるさいくらいに跳ねている。

 大丈夫。ちゃんと動く。動作確認は昨日散々したはずだ。

 言い聞かせて、思い切りコンセントにプラグを差した。それと同時に、素早くラジカセの再生ボタンを押す。

 動け……!

 スピーカーからは、優雅な旋律が流れ始める。と、それに合わせて人体模型が一斉に踊りだした。両手をプラプラと動かしたり、回ったり、リズムに合わせるようにしてその身体を動かしている。赤川さんの仕立てたドレスも、その動きに合わせてひらひらと揺れて、人体模型たちの動きに華を与えている。

 みんなは驚嘆の声を漏らすと、その顔をパッと輝かせた。

 ずっと見たかった表情が、そこにはあった。初めての企画を披露した時、いたたまれないような目だけが僕に向けられていた。今回は、あくまで赤川さんと二人で手に入れた結果だけど、胸の奥にじわりと達成感が広がっていく。

 だけど、ほっとするのはまだ早い。人体模型たちは同じ動きの繰り返しだけど、途中でトラブルがないとも限らない。再び気を引き締め直して、動きを見守ろうとした。

 と、おもむろに青葉が理科室の中心に歩み出た。どうしたんだろうと怪訝に思っていると、突然青葉はその身体を流れるように動かして、リズムに乗って踊り始めた。ガイコツや人体模型たちの輪の中に入って踊る青葉は、まるで死者を弔う聖女のようで、その姿に僕は見惚れてしまっていた。

 踊っている姿なんて初めて見たのに、本当にいつも青葉には驚かされてばかりだ。

「俺も!」と、加瀬くんは楽しげな声とともにそこへ飛び込むと、くるくると回るように青葉に倣う。それを見た晃嗣くんはしぶしぶと、小清水先生は照れ笑いを浮かべながら、二人に続いていった。

 予期していなかった展開に呆然としていると、踊るみんなは僕と赤川さんに手招きをする。人前で踊るなんて絶対に恥ずかしくて嫌だったけど、今この瞬間だけは、そんな恥は捨てられると思った。

 僕がその輪に飛び込むと、赤川さんも観念したように後に続いた。ドレスでめかした人体模型たちに混じって、夜の旧校舎でみんなと踊る。なんだか身体がふわふわとするような、不思議な感覚だった。

 踊り方なんて分からないし、リズムが合っているかも分からなかったけど、そんなことはどうでもよかった。高揚感だけが全身を包んでいた。

 このまま朝まで踊り続けるのだって悪くない。そんな風にさえ思えた。

 その時だった。すぐ横から、ガシャンと音が聞こえてきた。見ると、糸が切れた一体の人体模型が床に落ちてしまっていた。

「あ……」

 みんなもそれに気づいて踊るのを止める。それは、どこまでも続いていくように思えた夜の踊りの終わりの合図となった。赤川さんは電源のところまで向かうとプラグを抜いて、音楽も止めた。

「残念。まだ踊り足りなかったのに」

 加瀬くんが苦笑した。

「でも、すごく楽しかった」青葉はすがすがしい笑顔で言った。
「まあ、たまにはこういうのも悪くはないかもしれませんね」

 晃嗣くんが少し悔しそうな声で言うと、小清水先生が僕たちの方を見た。

「二人とも、これで終わりで大丈夫か?」
「はい。最後壊れちゃいましたけど、十分です」

 僕は力を込めてはっきりと言った。終わり方こそ残念な形になってしまったけど、少しも悔いなんてなかった。見せたかったものは見せられたし、僕たちが予想していた以上の反応も見せてくれた。

「オッケー。じゃあ、さっそく結果発表に移ろうか」

 その言葉に、その場に緊張感が走る。今回は今までにない手ごたえがあったけど、間違いなく加瀬くんと晃嗣くんのペアも高得点になるはずだ。

 僕たちは、じっと小清水先生の口元を見つめて、それが告げられるのを待った。そして――

「まず先攻、伊織晃嗣ペアの点数は――芸術性二点! わくわく度合三点! 新鮮さ四点! 合計得点……九点だ!」
「え、わくわく三点……?」

 予期せず伸びなかった点数に、加瀬くんは驚いた様子だった。

「いや、企画自体はよかったし、四、五点くらいあげてもと思ったんだけどな……おまえら、企画者のくせに楽しみすぎ。いや、青葉も楽しそうだったけど……」
「そんなこと……あったな」と、否定しかけてから過ちを自覚して、加瀬くんはガックリとうなだれた。
「すいません。オレも独りよがりでした」

 確かに、企画自体は面白かったけど、加瀬くんも晃嗣くんも本気すぎて、結局ちゃんと楽しめていたのは青葉一人だったかもしれない。

 小清水先生は仕切りなおすように、僕と赤川さんの顔をそれぞれ見てから、

「そして後攻、莉愛春樹ペアの点数は――芸術性四点! わくわく度合三点! 新鮮さ四点! 合計得点……十一点! ――勝者は莉愛春樹ペアだ!」

 その結果を聞いた瞬間、僕は赤川さんと顔を見合わせた。部活中は感情をあまり見せない赤川さんも、得意げに小さく笑っていた。

 勝てたんだ、ようやく……

 その事実が嬉しくて、でも素直にはしゃぐのも恥ずかしくて。僕はその喜びを胸の奥に秘めて、

「ありがとう」と微笑んだ。

 喜びの次に自覚したのは、充足感と安堵だった。僕はここにいてもいいんだ。そう、初めて心から思えた。

 おめでとう、と加瀬くんと小清水先生が祝福した。おめでとうございます、と、晃嗣くんは少し悔しそうだった。僕はそれに、ありがとう、と返しながら青葉の顔を見た。

「……おめでとう」と、それは期待通りの言葉だった。そのはずなのに、その声色と表情は期待していたものと違っていた。

 青葉ならきっと、優しく微笑んで祝福をしてくれる。そう期待していたのに、どこか感情がこもっていないような様子だった。

 なんで、と思っていると、「はいはい!」と、小清水先生がその場の空気を切り替えるように手を叩いた。場を仕切るのはいつもの先生の仕事だけど、今日はやけにタイミングが早い気がした。

「どうしたの?」青葉が訊いた。
「悪いけど、今日はちょっと時間が押してるんだ。二ヶ所とも片付けないとだし、サクッとやらないと」

 それを聞いた瞬間、一つの考えが僕の中でひらめいた。今日の活動も、あとはもう片づけを残すだけだ。

「だったら――」

 と、僕はとっさに提案をしていた。



 理科室で片づけをするのは、僕と加瀬くんと赤川さんの三人だけで、残りの三人はキャップ投げ野球の会場の片づけをしている。三人ずつで別れて、二ヶ所で同時に片づけをする。それが僕のひらめいた作戦だった。

 もちろんその目的は、赤川さんと加瀬くんが落ち着いて話せる状況を作ることだ。

「すごかったよ。完敗だ」

 理科室のテーブルの上に乗った加瀬くんは、天井の仕掛けを壊しながら言った。

 三人だけの状況を作ってみても、まずは自然と片づけをする流れになっていた。僕は人体模型から操るための糸を取り外し、赤川さんは教室の隅で衣装をたたんでいた。

「ありがとう。でも、勝てたのは赤川さんのおかげだよ」
「けど、仕掛けを作ったのは古河だろ? それで、莉愛が装飾担当だ」

 加瀬くんは見事に言い当てる。きっと赤川さんの得意分野や考えそうなことも、全部分かっているんだろう。

「さすが、よくわかったね」
「そりゃあ分かるって。いいコンビじゃないか」

 僕は加瀬くんと話をしながら、理科室を出て二人きりの状況を作るタイミングをうかがっていた。黙々と片づけを続ける赤川さんが話に入ってくる気配はないし、さすがに突然教室を出るのでは強引すぎる。

「加瀬くんは、わざと僕と赤川さんを組ませたんでしょ?」
「ん? なんのことだ?」

 わざとらしくとぼける加瀬くんを無視して続ける。

「おかげで、いろいろなことが分かったよ。……この部活のみんなには、ギャップがあるんだね。明るい人かと思っていたら暗くって、真面目かと思っていたら陽気な人もいる。特別な人に見えても、裏では悩みを抱えてて……僕にも、ほんの少しでも力になれるかもしれないって思えたんだ」

 加瀬くんに向かってしゃべるふりをしながら、赤川さんに伝えようとした。僕は味方だということと、こうして片づけのグループを二つに分けた意味を。

 だけど、結局言い出すのは赤川さんだ。僕がいるから言い出せないのかもしれないし、無理やり話を進めても迷惑になるかもしれない。だから、これでおせっかいは終わりにしようと思った。

 ――その時。

「伊織は」と、赤川さんが初めて口を開いた。片付けの手を止めて、じっと加瀬くんを見ている。
「私のことどう思ってる? この暗い私を」

 突然の言葉に、加瀬くんは少し驚いた様子だった。

 赤川さんおもむろに眼鏡をはずすと、ポケットからヘアゴムを取り出していつものように髪を二つ結びにする。

 微笑むと、学校での明るい赤川さんがそこにはいた。

「やっぱり、こっちの私が好き?」

 加瀬くんは、不意にヘラっと軽薄そうな笑みを浮かべると、

「じゃあ、逆に訊くけどさ。この俺を莉愛はどう思ってる?」

 いつものアロハシャツの裾をつまんで見せた後、額にかけられたサングラスをきらりと光らせて見せる。

 と、突然加瀬くんはその表情を引き締めて、普段の教室で見せる凛とした顔になった。

「俺だって、こんなバカ丸出しな自分をさらけ出すのは怖いさ」
「伊織……」

 つぶやいて、赤川さんは僕の方を見て小さくうなずいた。

 その表情で分かった。決意は固まったみたいだった。だったらもう、ここから先に僕は必要ない。僕は後押しするように赤川さんに小さくうなずき返してから、片付けの手を止めて、なるべくこっそりと理科室を後にした。

 気にならないと言ったらウソだけど、今度どっちかからこっそり教えてもらおう。それに、あの二人ならきっと大丈夫だ。

 廊下に出ると手持ちぶさただった。ドアの前にいるとつい聞き耳を立ててしまいそうだし、いったん向こうの片づけに加わろうか。そんなことを考えた時、廊下の向こうから晃嗣くんの姿が見えた。

「どうしたの?」
「ちょっと忘れ物を。そちらこそ、何をしているんですか?」

 晃嗣くんは怪訝そうに訊き返した。確かに、僕一人がドアの前で立っていたら不審に思うだろう。

「実は、ちょっとお取込み中で……」
「ああ、なるほど」と、晃嗣くんはそれだけで察した様子だった。「じゃあ、終わったらまた来ます」

 と、来た道を引き返すように翻る。その背中を僕は、「あ」と、引き留めるような声を出していた。

「なんですか?」

 晃嗣くんは振り返る。偶然だけど、今度こそちゃんと落ち着いて話をするいい機会だと思った。

 ずっと聞きたかった問が、思わず口を出ていた。

「晃嗣くんは、どうしてそこまで青葉を慕っているの?」

 黙ったままの晃嗣くんに、僕はさらに言葉をつづけた。

「いつも部活の時、そういう恰好をしているのはどうして?」

 部活の時の晃嗣くんは、いつも髪をオールバックにまとめて、シルバーのチェーンのついた相手を威圧するような恰好をしている。いつもの学校での穏やかな姿とはかけ離れている、その理由を知りたかった。

 晃嗣くんは、不機嫌そうに目を細めた。

「莉愛先輩のおかげで勝てただけなのに、ずいぶんとぐいぐい来ましたね」
「ご、ごめん……今回ペアを組めて赤川さんのことは知れたけど、まだ晃嗣くんのことだけは分からなかったから」
「まあいいです」と、晃嗣くんは観念したように、「青葉先輩は、オレを退屈から救い出してくれたから」

 晃嗣くんは廊下の壁に背中を預けると、ゆっくりと語り始めた。

「オレは昔からなんでもできて、だからこそ退屈でした。それで、不良みたいな刺激のある生活に憧れて、高校では優等生をやる傍ら、そっちの世界に入ったんです。だけどそんな時、青葉先輩に出会った。あの人は、オレにとって初めてのオレよりも上にいる人間だったから……副会長になったオレは、あの人を失脚させてやろうとしたんです」
「し、失脚……!?」

 突然の物騒な言葉に、思わず驚きが漏れた。

「ええ。不良の仲間を使って黒い噂を作ろうとしたんです。でもそれが露見して、逆にオレが不良だっていうこともバレた……なのにあの人はそれを全部不問にして、オレを副会長に置き続けたんです。器が違うんだって痛感しましたよ。そんな風に思える相手は初めてで……だから、一生ついていくことに決めたんです。あの人の後ろを」
「そう、だったんだ」
「ちなみに、もう不良からは足を洗ったんですけどね。こんな格好を続けているのはただの趣味です。どうにもカチッとした服は好きじゃなくて」
「ありがとう。聞かせてくれて」

 僕が感謝を告げると、「いえ」と晃嗣くんは壁から離れて、僕の方へ距離を詰めた。

「オレはあなたが嫌いですけど、一つだけ忠告をします」

 突然、そう切り出した晃嗣くんは真剣だった。忠告、という言葉が重くて思わずつばを飲む。身構えていると、

「あなたは、青葉先輩について回るなと言ってもついてきました。でも、これからはどうするんですか? あの人は必ず、あなたなんかの手の届かない世界に飛び立つ。それは、予定ではなく揺るぎない未来です」
「これから……」

 裸のままの晃嗣くんの声が胸に刺さった。それは鋭いナイフのような痛みではなくて、ギザギザとしたような嫌な感覚だった。

 青葉はどこまでも羽ばたいていく。僕だってそれは間違いないと信じている
し、期待もしている。だけどそれは晃嗣くんの言う通り、僕の手の届かないところへ行くということだ。

 分かっている。分かってはいたことだ。

「この時間にだって、必ず終わりは来るんです」

 晃嗣くんは、じっと僕の顔を見つめたまま言い放つ。それは少しの温度も感じられない声だった。

 その時、後ろの理科室のドアが開く音がした。振り向くと、いつもと変わらない無表情の赤川さんが顔を出していて、「ごめん。おまたせ」と言った。と、ちょうど向こうの片づけを終えた小清水先生と青葉も後ろの廊下からやってきて、そのままみんなで理科室の片づけを始めた。

 再び全員が揃った部活はいつも通りににぎやかで、そして、片づけが終わるとにぎやかなままにお開きとなった。