まぶしい青に、春は惹かれて


 その週末の土曜、だんだんと日も暮れ始めた頃、僕は重いリュックを背負って家を抜け出していた。ついに僕が企画を発表する時だった。

 青春部の活動は、隔週土曜の十九時からが基本的な活動日時で、時間はその時々によって多少の前後があるみたいだった。非公式で活動をしている青春部にとって人目を避けることは絶対条件であり、そのために生徒も教師もいない土曜の夜が活動日に選ばれたのだと青葉から聞かされた。

 あの場所へ一人で行くことが不安な僕は、家の前で青葉と合流してから旧校舎へと向かっていた。普段は滅多に使わない背中のリュックが、いやに肩にのしかかる。その中にはこの後の「企画」で使う荷物が入っている。荷物はそれなりの重さがあって、何より不用意に揺らしてはいけないのがきつかった。

 青葉に続いて正門を乗り越えて、学校の敷地に侵入する。背中の荷物の重さの分だけ足に負担がかかって、着地の瞬間は痛かった。

 夜の学校は相変わらず明かりもなく不気味で、青葉が一緒にいてくれる分だけ恐怖は和らいだけど、それでも胸の辺りが涼しくなる。

 ようやく旧校舎の裏口の前まで来たところで立ち止まると、青葉は僕の緊張に気づいたみたいだった。

「大丈夫? やれそう?」
「とりあえず準備はしてきたし、やれるだけはやってみるよ」

 半分は自分に言い聞かせた言葉だった。試験の前と一緒で、今さら不安に思ったところで何ができるわけでもない。

「なら良かった」

 青葉は安心したように微笑んでから、慣れた様子でドアを開けて中に入っていく。校舎の中にはわずかに明かりがついていて、今日はその中に入ることに抵抗はなかった。

 旧校舎の中では、先に来ていた四人がスマホをいじったり壁にもたれていたり、時間を潰している様子だった。

 そして、やっぱりみんなはこの前と同様に、普段の学校とはかけ離れた姿をしている。この姿を見るのは二回目だけど、どうにも慣れそうにない。

「ごめん、お待たせ」

 玄関から入ってきた僕の姿を認めた加瀬くんは、サングラスを上にずらすと、少し安心したような表情をのぞかせた。

「お、古河もちゃんと来たな。やれそうか?」
「まあ一応は……」

 そう答えながらも、隣から突き刺さってくる強い視線に意識がいってしまう。中に入った瞬間から、晃嗣くんの明らかに敵意のこもった視線には気づいていた。

「荷物、それだけで大丈夫なの? 事前の準備とかもしなかったんでしょ……?」

 ぼそりと、遠慮がちな声で赤川さんが言った。その声には、前に職員室の入り口で聞いた時のような明るさはかけらもない。

「う、うん。一応必要なものは全部リュックに入ったから」
「……そう」

 つぶやくと、すぐ目をそらすように手元のスマホに視線を戻した。旧校舎の赤川さんは、なんとなく話しづらい。

 と、晃嗣くんが前に出てみんなの前に立った。

「全員そろったことですし、そろそろ始めましょうか」
「お、やる気満々だな。じゃあ順番はどうする?」小清水先生が訊いた。

 答えたのは加瀬くんだった。

「そうだな。結局この前はお手本見せられなかったし、先行けるか?」
「分かりました……ただ、オレの企画がお手本代わりになるかは分からないですけど」

 晃嗣くんは不敵な笑みを浮かべた。自分の企画にどれほどの自信を持っているのか、その表情から伝わってくる。

「じゃあ、晃嗣が先攻で、春樹は後攻ってことでいいな?」

 小清水先生の言葉に、晃嗣くんと同時に「はい」と応えた。

 改めて「後攻」という言葉を使われると、勝負事なんだと意識してしまう。たとえ企画の面白さを競い合うだけのものだとしても、勝負事はあんまり得意じゃない。

 晃嗣くんは、自信たっぷりな笑みを浮かべて、

「オレが用意したのは、この上の階です」
「この上っていうと、中教室とか?」青葉が言った。
「来ていただければ分かります」

 晃嗣くんは、意気揚々と階段の方を目指して歩き出す。みんなはその後ろをついていきながら、これから見せられる企画を予想し合っている。僕はさらに後ろを歩きながら、その楽しげな様子をなんだか遠くの出来事のように感じていた。

 階段を上り一つ上の階に着いてすぐ、廊下の奥に視線を向けた瞬間に、それは目に飛び込んできた。

 平たいひものような形をした真っ黒なビニールが暖簾のようにいくつも垂れ下がり、廊下の奥の様子を隠している。廊下の電気は点いていなくて、頼りになる明かりといえば、廊下の窓から差し込むわずかな外の光くらいだ。暗さのせいで満足に目が利かなかったけど、それでも、この真っ黒な暖簾の奥にあるものが何なのかは分かった。

「おばけ、屋敷……?」

 暖簾の前に立った晃嗣くんは、得意げに語る。

「春樹先輩との対決だと聞いた次の日から毎日一人で忍び込んで、コツコツと準備を続けてきた力作です」

 ごくり、とつばを飲み込んだ。入り口しか見えないこのおばけ屋敷に、いったいどんな仕掛けが用意されているかは分からない。けど、夜の旧校舎が持つ問答無用の不気味さも手伝って、いかにも不穏な雰囲気がある。

 ていうか、企画ってこんなに本格的なものなの……?

 自分のリュックの中に用意したものが頭に浮かんで、いたたまれない気持ちになる。片やこの巨大なおばけ屋敷で、片やこんなリュックに収まるようなちっぽけな……

「こりゃあ、久しぶりに大作の予感だな」
「ね。今回のはなかなか楽しめそう」

 加瀬くんと青葉の感心するような声。まだ何も始まってすらいないのに、すでに僕に勝ち目なんてなかった。

 いや。勝ち目がないのなんて、たぶん最初からだ。

「じゃあ、まずは俺が先に行って採点だな」

 小清水先生が入り口の方に進んでいく。

「悲鳴はほどほどにしてくださいね」晃嗣くんは不敵に笑う。
「言うねえ。それじゃあ、お邪魔しますよっと」と、余裕の様子で暖簾をくぐって入っていく。先生が消えていった暖簾の向こうをしばらく見守っていると、「ぎゃああああ!」と悲鳴が聞こえてきた。

 思わず、またつばをのんだ。

「小清水先生って、怖いの苦手だったりする……?」

 そんなわけないと思いつつ、つい青葉に訊いてしまう。返ってきたのは、案の定の答えだ。

「そんな話は、私も聞いたことないけど」

 それからも小さい悲鳴が繰り返し聞こえてくる。声の位置から、どうやら廊下だけじゃなくて廊下に面した教室も使っているようだった。

「そろそろ大丈夫ですかね。次は誰が行きますか?」
「……じゃあ、私行く。伊織も一緒に行かない?」

 加瀬くんのことを誘った赤川さんの声は、さっき玄関のところで僕に話しかけた時より、ずっと自然な声に聞こえた。

 加瀬くんはからかうような声で、

「なんだ、一人じゃ怖いのか?」
「別にそんなんじゃないけど……」
「晃嗣、二人一緒でも大丈夫か?」
「まあ、お二人なら大丈夫ですよ」

 晃嗣くんが答えると、「じゃあ行くか」と、軽い調子の加瀬くんが赤川さんを引っ張るようにして、二人一緒に奥へと消えていった。

 わざわざ二人で行こうとするくらいなんだから、すぐに赤川さんの悲鳴が聞こえてくるだろうと思っていたら、すぐに聞こえてきた「うわああああああ!!」という情けないくらいに大きな悲鳴は、加瀬くんのものだった。

 いよいよ、この入り口の手前で取り残されたのは、僕と青葉だけになった。定期的に聞こえてくる加瀬くんの悲鳴がだんだんと遠くなってきたころ、青葉が僕の方を向いて訊いた。

「どうする、私たちも二人で行く?」
「……ううん。僕が先に行く」

 これは、加瀬くんと赤川さんが二人で入っていくのを見た時から決めていた答えだった。

 僕たちが二人で行くことを、晃嗣くんは絶対に許さないだろう。だけどそれ以前に、これは一人で乗り越えなければいけない壁だと思っていた。

「春樹先輩も、どうぞ楽しんできてください」

 挑戦的な晃嗣くんの声。その言葉の応えの代わりに、暖簾をくぐって中に入った。

 暖簾の奥の廊下の窓には暗幕が張られていて、ますます視界が悪くなっている。けど、わずかに隙間から漏れる明かりのおかげでうっすらとは見えて、その曖昧な視界が逆に恐怖心を煽っている。

 全身の神経が集中しているのが分かる。目を凝らすと、椅子の上に鎮座している古びたテディベアが見えた。その体勢は、ぐったりと力なくうなだれているみたいだ。少し歩いて左を見ると、教室のドアらしきものが見えた。ドアはもともと開いていて、そのまま中へと入る。教室は真っ黒なパーテーションのようなもので区切られていて、細い道のようになっていたけど、特に細工のようなものはほとんど見当たらない。夜のうす暗い教室そのものが持つ不気味さが、そのままに引き出されている。

 教室の壁には絵画のような額がいくつか飾られていた。子供が描いたような不気味な絵や、人物画、見ていて不安になるような不思議な模様の絵まである。どこかから水滴が垂れる音がする。と、足元にひんやりとした風が漂って、ぞくりと背筋に鳥肌が立った。どこから風が来たのか、辺りを見回そうとした時だった。

 ガタリ、音がした。目を向けると赤子を抱いた女性の描かれた人物画が傾いていた。

 ドサッ、と、背後からまた物音。とっさに音のした方を見ると、足元には赤ん坊の人形が落ちていた。と、突然その人形がガタガタと震えだす。「ヒィッ」と、思わず小さく悲鳴を漏らし、人形から距離を取るように後ずさる。かろうじて絶叫はしなかったけど、心臓がバクバクと暴れている。

 ただ圧倒されていた。

 これだけのものを、一個人がたったの一週間で、しかも放課後の時間だけを使って作ったというのか。クラスメイト全員で力を合わせて作る文化祭の出し物のレベルさえ超えている。

 間違いなく、これだけのものを作るのは簡単じゃなかったはずだ。部活だなんて言っても、結局はただのおふざけで、そんなものにこれだけの労力をかけるなんてバカみたいだ。

 いったい、これを作るためにどれだけの時間や手間をかけたんだ。バカらしさに呆れてしまう。だけどどこか、こんなことに本気になれるのが羨ましかった。

 理解してしまった、突きつけられてしまった。

 これが、青葉が所属している青春部なんだ。

 早くここを抜け出したかった。勝負はもう、僕の負けでも何でもいい。うす暗い教室の中を恐る恐る進んでいく。その後も容赦なく襲ってくるいくつかの仕掛けに小さな悲鳴をあげつつ、それでもゴールを目指して突き進む。と、入り口と同じ暖簾が、教室のドアに取り付けられているのが見えた。ようやくゴールできる。そう思った時、身体のすぐ近くで何かが動く気配があった。思わず足を止め、視線を向ける。

 と、それは確かにそこにいた。

 この学校の制服に身を包んだ髪の長い女子生徒。長い前髪で顔は隠れ、表情は見えない。が、明らかにその姿に生気はない。

 人に似たカタチのそれは両手を僕の方に伸ばすと、滑るようにしてその距離を近づけてきた。

 そして――

『ねえ、一人にしないで……』

 確かに声が聞こえていた。一瞬にして全身から血の気が引いていく。

「う、……うわあああああああああああああ!!」

 もう耐えられなかった。ここまで我慢していた悲鳴が、ついに口からあふれ出た。

 逃げ出すように、慌てて出口に向かって一直線に走る。暖簾をくぐって廊下に出ると、窓から差し込む光と、慌てる僕の様子を見て笑っている三人の姿が見えて、胸の中に安堵が広がっていった。

 教室の方を振り返っていても、「あれ」が追いかけてきている、なんてことはない。大きく息を吐くと、どっと疲れが押し寄せて、全身が冷や汗でびっしょりと濡れてしまっていることに気づいた。

 呆然と出口の方を見つめたままいると、奥から人の気配が近づいてきて、「あー、怖かった」と、さわやかな笑顔を浮かべた青葉が暖簾をくぐって現れた。

「あれだけの目にあって、なんで青葉はそんなに余裕なのよ」
「意味わからん……」

 赤川さんと加瀬くんの、どこか恐ろしいものを見るような目にも、青葉は爽快な笑顔を浮かべたまま応える。

「そんなに余裕でもないよ。すごく刺激的で楽しかった」

 青葉のこんな笑顔、見たこともなかった。

 学校での青葉は感情を見せないようなクールな表情を浮かべるだけで、僕と二人の時だけは優しい笑顔をのぞかせる。だからこそ、僕だけが青葉の本当を知っているみたいで、密かにそれを誇らしく思っていた。なのに、こんなに溌溂とした笑顔があるなんて、想像をしたこともなかった。

 初めて見たその表情に僕はドキッとして、そして悲しくなった。こんな笑顔、僕と二人でいる時には絶対に見せてくれない。

 負けだ。

 ひたすらに負けだ。敵う要素なんて一つもない。勝敗なんて、もう分かりきっている。

 すぐにでもこの場から逃げ出したかった。この後、自分がどんな企画を発表するのか、自分だけが知っている。

 これだけの企画を見せつけられた後に? そんなの、ただの恥さらしの罰ゲームだ。

 打ちひしがれていると、教室の出口から晃嗣くんが出てきた。手には大きな懐中電灯を持っている。

「ふう。自分で作ったものでも、改めて入ると怖かったな」

 みんなは一斉に企画者である晃嗣くんを囲むと、面白かった、怖かったけど楽しかった、と口々に感想を伝えている。

 僕は輪の外に立ってそれを見ていると、やがて晃嗣くんがこっちに向かって挑戦的な視線を向けた。

「さあ、次は春樹先輩の番ですよ」
「……うん」

 もう逃げられない。もうどうにでもなってしまえ。

「すぐにできそうか? 準備とかがいるなら待つけど」心配そうに加瀬くんが訊いた。
「……いや、大丈夫。もういけるよ」

 何か大掛かりな準備いるわけじゃない。この背中のリュックの中身さえあれば、すぐにそれは見せられる。

「えっと、場所は旧校舎の中ならどこでもいいんだよね?」

 改めてそれを確認すると、加瀬くんが「ああ」とうなずいて答えた。僕はその答えに安心しつつ、企画を見せるために選んだ場所を伝えた。



 僕が場所に選んだのは、旧校舎の調理室だった。

 授業で使われなくなった今、調理をするための機能が生きているかは分からないけど、水場さえ使えればそれでよかった。

「調理室っていうと、前に莉愛が魚の解体をした時以来だな」
「ちょっと伊織……?」赤川さんは、ぎろりと冷たい目を加瀬くんに向ける。
「ああ。解体ショーをやるとか豪語してたくせに、ふたを開いてみたらただイワシを三枚におろして終わっただけの、あの」
「青葉も、黒歴史なんだから思い出させないでよ……私だって、本当はちゃんとマグロを解体するはずだったんだから。ただ、高すぎて手が出せなかっただけで……」
「普通、企画を思いついた段階で気づくと思うけどな」

 小清水先生も加わって、赤川さんは集中砲火を食らっている。

「そんなこともありましたね」と、晃嗣くんも言うと、赤川さん以外のみんなは、くっく、と笑い合っている。赤川さんは拗ねたように唇を尖らせて不満顔だ。

 普段の学校では絶対に見られない光景だった。

 これがこの青春部の素の姿なんだろうなと思って、少しだけ寂しさを覚えた。反応に困っていると、加瀬くんが気づいた。

「悪い悪い、話を脱線させちゃったな」

 加瀬くんの笑いを噛み殺しながらのひとことで、みんなの視線が一斉に僕を向いた。

 みんなが僕を見る目は興味深げで、この新人は何を見せてくれるのだろうかと楽しみにしているのがありありと伝わってきた。

 心臓が締め付けられるような感覚がした。みんなが絶賛したあの企画の後に見せられるものじゃないことは分かっている。恥ずかしい思いをするくらいなら、やっぱり今からでも逃げ出してしまいたい。

 でも、青葉の前でそれはできない。

「春樹なら大丈夫」青葉が言った。

 僕はそれに視線で応えて、一度深呼吸をしてから、背中のリュックを下ろしチャックを開けた。

 リュックから取り出したのは、二リットルタイプのコカ・コーラと、包装紙でスティック状に包まれたメントス。それを見た全員が何かを察したような顔になったのは気づいたけど、気づかないふりをした。今はただ予定通りに続けるしかない。

「え、えっと。今からこのコーラにメントスを一袋入れて、どうなるのか実験しようと思います……」

 反応はない。それでも続ける。

 みんなの方を見るのが怖かった。メントスコーラをやると決めてから、頭の中で何度もシミュレーションは繰り返してきた。だから、今はシミュレーション通りに続けるだけでいい。

 コーラのボトルを調理場の流しに置く。あふれても平気なようにと、この場所を選んだ。ボトルのキャップを開けると、プシュッ、と勢いよく炭酸が抜けて、少しだけ中身もこぼれた。

 この企画を選んだのは、たくさん調べた結果だった。動画サイトでは、いろいろな人が本当にいろいろなことをしていたけど、僕にできることは限られている。自分は初心者だからあんまり冒険はしないように……と、そんなことを考えた結果だった。

 メントスの袋を破いて、コーラの飲み口のところにセットする。期待通りにならなかったらどうしよう。心臓が早鐘を打つ。ここに来るまでかなり揺らしたから、コーラの炭酸もだいぶ抜けてしまった。

「これを、一気に入れます……!」

 袋の中に入ったメントスをボトルの中に押し込むと、ぼとぼと、とコーラの中に落水する音がした。

 こい……!

 コーラのボトルに祈りを込める。

 と、一拍を置いてからそれは起こった。想定よりも少ない量のコーラがボトルから噴出して――想定はしていたけど、やっぱり歓声は上がらなかった。

 沈黙が耳に痛い。それをごまかすかのように心臓がバクバクと鳴っている音だけが耳に届いていた。

 ぶくぶくとボトルから溢れ続ける、泡のようになったコーラがむなしい。が、それもすぐに収まって、いよいよ調理室の時間が止まってしまった。

「えっと……終わり、です」

 かろうじてそう絞り出すと、拍手が一つだけ聞こえてきた。顔を上げると小清水先生だった。その後を追うみたいに、青葉や加瀬くん、他の二人が続いていく。

 まばらなその音に、いたたまれない気持ちになる。

「なんというか、王道できたな」加瀬くんは苦笑する。
「いろいろ考えたんだけど、やっぱり最初は基本に忠実にいった方がいいのかなって」
「青葉の幼馴染で伊織の推薦だっていうから、どんな企画をするのかと思ってたけど……なんかお役所みたい」

 赤川さんがそっけなくつぶやくと、青葉は言いにくそうに、

「莉愛、春樹のお父さんは本当に公務員だから」
「あ、ごめん……?」
「でも、イワシといい勝負じゃないか?」からかうような加瀬くんの声。
「うっさい。美味しかったからいいでしょ」
「実際、三枚おろしは本当に上手かったし、さすが調理部って感じだったからね」

 不服そうな赤川さんを青葉がフォローすると、場をまとめるように小清水先生が少しだけ大きな声を出した。

「はいはい。そろそろ、二人の得点発表に移っていいか?」
「得点発表?」
「そう。それぞれの企画に先生が点数をつけて、その点数で競い合うの」答えたのは青葉だった。
「はあ」

 小清水先生が補足をする。

「もちろん、個人の主観が入らないように、点数の基準は設けてる。『芸術性』『わくわく度合』『新鮮さ』、それぞれ五点満点の合計十五点だ」

 自分の企画を思い返してみる。当たり前だけど、どの項目にも当てはまるわけがない。

「採点基準に疑問はないか?」
「……はい」

 答えると、小清水先生は小さく息を吐いて溜めを作ってから、

「まず先攻、館野晃嗣の点数は――芸術性四点! わくわく度合五点! 新鮮さ四点! 合計得点……十三点だ!」

 先生がその点数を言い切ると、途端にみんなが沸いた。どれだけ優れた得点だったのかは、その反応で分かった。

「もしかして最高得点?」

 赤川さんの驚いた声とは対照に、晃嗣くんは落ち着いた声だった。

「……いえ。伊織先輩の記録には一歩及ばず、ですね」
「やっぱり伊織の壁は高かったね。あの宝探しの企画はなかなか抜けないよ」

 青葉が言った。

 小清水先生は脱線した話を、コホン、とわざとらしい咳払いで遮って、

「後攻、古河春樹の点数は――」
10
 結果発表が終わると同時にみんなは調理室を後にして、どうやら再び晃嗣くんのおばけ屋敷の方を目指して歩いているようだった。相変わらず僕はそれについていくようにして歩いていると、その途中の廊下で青葉が慰めるように言った。

「点数や勝敗は気にしなくていいよ。今回が初めてだったんだから」
「大丈夫だよ。そこまでは落ち込んでないから」

 僕はなんでもない風を装うように、苦笑を浮かべてみせた。

 小清水先生が発表した今回の僕の得点は、過去最低点だったらしい。けど、驚きもなかったし、悔しさもなかった。こんな結果、最初から分かりきっていたことだ。

「それならいいけど、春樹はなんでも気にしすぎるから」
「まあ、間違ってはいないけどさ……」
「青葉、なんか古河に対してだけ態度が違くないか?」

 前を歩く加瀬くんが振り向きながら、からかうように言った。青葉はそれを「うるさい」と一蹴する。

 そんな話をしていると、再び晃嗣くんの作ったおばけ屋敷の入り口が見えた。真っ黒で不気味な暖簾は変わらずに、次の来訪者を待つようにわずかに揺れている。

 晃嗣くんはその入り口の前に立つと、一度背中を伸ばして、

「――さて。それじゃあ片づけを始めましょうか」

 その声を合図にするように、みんなも一斉におばけ屋敷へと向かっていく。今から何が始まるのかを直感して、僕だけが動けずにいた。

「やっぱり、このおばけ屋敷はもう壊しちゃうの?」

 その声に答えたのは晃嗣くんだった。

「ええ、そうですよ。企画っていうのは、その一回のためだけのものですから。だから、このおばけ屋敷はお役御免で取り壊しです。次回は別の誰かが、また別の面白いものを見せてくれますから」

 言いながら、晃嗣くんは入り口の暖簾のひもを、吊り下げている廊下の天井からむしり取っていく。ベリッ、ベリッ、と音を立てて、それはあっけなく壊れていった。

 それを作ったはずのその手で、今度はそれを躊躇もなしに破壊をする。一見すると、それはとても残酷な行為に思えた。

「こうして、ちゃんときれいに片付けるまでが企画なんだ」

 加瀬くんは、額の上に乗せていたサングラスを目の位置にかけなおしながら言った。

「そう。準備は個人が、片づけはみんなでやるのもこの部活のルールだ」

 小清水先生がさらに補足を加えた。入り口が壊されると、いよいよみんなはお化け屋敷の中に入っていき、その内装を解体していく。

 ベリベリと音を立てて、教室にコースを作っていたパーテーションの壁が壊される。不気味な雰囲気を醸し出す絵画たちが取り外される。足元に風を送っていた送風機が、その姿をさらした。

 あんなに怖かったはずの景色が、一瞬にしてその姿を変える。その中でみんなは楽しげに談笑をしながら、ただ破壊を続けていた。

 確かに残酷な行為かもしれない。だけど、それをしているみんなの姿は、とてもきれいなものに見えた。

 みんながこの一瞬に生きている。今という瞬間を、全力で生きているんだ。
だからたった一回きりの企画のためにどこまでも全力になれて、そしてそれを壊すことに躊躇うことをしない。

 それに気づいた瞬間、僕の身体も動き出していた。楽しげに片づけを続けるみんなに加わって、僕もそれを壊し始めた。



 それから三十分ほどが経って、だんだんと片付けも佳境に入り、中教室がほとんど普通の教室の姿を取り戻した頃だった。

 青葉は中教室を見渡して、しみじみと言った。

「こうしてキレイさっぱりなくしちゃうと、なんだかあっけないね」

 その声に加瀬くんが応える。

「だな。でも仕掛けが分かったりして面白かったけどな。けど、最後の女子生徒のシルエットみたいなやつ、あれはどうやったんだ? それっぽい仕掛けは見当たらなかったけど……」
「女子生徒の? いえ、そんなものは別に用意していませんが……」

 そう答える晃嗣くんは、本当に何のことか分からないような様子だった。その反応に、一瞬にして空気が凍りつく。

「……え? みんなも見ただろ? うちの制服を着た、髪の長い……」

 慌てる加瀬くんの言葉に、みんなは小さくうなずいた。僕自身、その時のことは鮮明に覚えていた。無造作に伸びた長い髪も、袖からのぞいていた青白い手も、全部確かにこの目で見たはずだった。

『ねえ、一人にしないで……』

 その時に聞いた彼女の声がよみがえる。その時は動転していて気づかなかったけど、あれは耳に直接届くような不思議な感覚だった。

「うん、あの声もすごく変な感覚だったし」

 僕がつぶやくと、加瀬くんは目を見開いた。

「なっ……古河おまえ、声まで聴いたのか!?」
「え、うん」

 どうやら声を聞いたのは僕だけだったのか、他の誰も同感する人はない。ますます空気が重くなって、しばらくの沈黙が流れた後、赤川さんがぽつりと言った。

「これって絶対、旧校舎に出るって噂の幽霊だよね……?」

 相変わらず青葉は冷静に、

「幽霊は怖い話をすると出てくるっていうから。おばけ屋敷に反応したのかも――」
「やめろおおお!! 俺たちは何も見なかった! いいな!?」

 加瀬くんが叫ぶ。おばけ屋敷に入った時も悲鳴を上げていたけど、どうやら怖い話は苦手らしい。みんなはわざと怖い話をしたりして、怖がる加瀬くんのことをからかって盛り上がっている。

 その輪の外で、真剣な顔をした小清水先生が「やっぱり、まだいたんだな」と、小さくつぶやく声が聞こえた。
11
 土曜の疲れが残っていた日曜日は身体を休めているうちに過ぎて、あっという間に月曜日がやってきた。

 平日の学校は何百もの生徒や先生たちでにぎやかで、いつもと変わらない時間が過ぎていく。教室の加瀬くんや青葉も、廊下で見かけた赤川さんも、また普段通りの表情を見せている。

 まるで全部が嘘みたいだったみたいに思えるこの感覚は二回目だけど、やっぱりまだ慣れそうにない。

 だけどそれが嘘ではないと言うように、小清水先生から企画の得点を告げられた時に覚えた無力感は、今も身体の芯にこびりついて離れていなかった。その瞬間みんなの間に漂った静寂も、まだこの耳が覚えている。

 自分に勝ち目がないことなんて、自分には面白いことをする才能がないことなんて、最初から分かっていたことだった。なのに、そこへ手を伸ばそうとしたことは、おこがましいことだったのかもしれない。

 悔しさはない。そのはずだった。それなのに、胸の辺りに何かがつかえる感覚は、いつまでも消えてくれなかった。

 やがて帰りのHRが終わり、放課後の時間になった。特に教室に残る用事もなくて、荷物を背負うと真っ先に教室を後にした。

 だけど廊下を出てすぐ、僕の名前を呼ぶ声があった。落ち着きのあるその低い声は、振り返らなくても分かった。

 加瀬くんに呼び止められた僕は、そのまま同じ階にある小さな教室まで連れられていた。そこは、椅子や机といった備品がいくつか置かれているだけの空き教室だった。

「この教室は? 勝手に入ってよかったの?」
「ああ、ここは一応俺たちの部室になっているからな」
「部室って……非公認なんでしょ?」
「ここは、本来は小清水先生が表向きに担当している部の部室なんだ。けど、その部活には幽霊部員しかいなくなって、代わりに青春部が使っているというわけだ」
「へ、へえ……」

 いくら使う人がいないとは言え、勝手に使っていいのかなあ、とそんな疑問は口にしない。この部活にそんな疑問は今さらだ。

「さて」と、加瀬くんは教室に置かれていた古びた椅子に座った。「初めて活動に参加してみてどうだった?」
「……痛感したよ。僕には、みんなみたいに面白いことなんてできない。もしかしたら、なんて少しは思ってたけど、やっぱり僕には無理みたいだ」

 自嘲するように僕は言った。一度自分で企画をやってみて、骨身にしみて分かったことだった。

「まだ最初なんだから、結果を気にすることはないさ」
「ううん、結果だけじゃない。分かるんだよ、僕には向いてないんだ」
「そんなこと――」
「誘ってくれたのは嬉しかったし、みんなといた時は、少しは自分が変われたような気がしたんだ。……けど、やっぱり僕はみんなみたいに才能があるわけじゃないから。地に足つけて、真面目に生きるしかないんだよ」

 僕は、青葉や加瀬くんたちとは違う。華々しい人だけが立てるその舞台に、上がることは許されない。それくらいのことは、ちゃんとわきまえている。

 だけど加瀬くんは、強い口調でそれを否定した。

「才能は関係ない。本人に青春をしたい気持ちがあるかどうか、必要なのはそれだけだ」
「でも、あそこは僕なんかがいていい場所じゃないよ。みんなすごい人ばっかりだし」
「それはたまたまそういう人が集まっただけに過ぎない」
「でも――」
「それに、俺たちは古河が思っているようなたいそうな人間じゃない。みんな何かが欠けていて、何かを求めていて、それが青春という一つの共通の目的になっただけのことなんだ」

 加瀬くんの言葉が、すぐには理解できなかった。

 青葉や加瀬くんみたいなこの学校の有名人が、青春なんていうものを求めて夜の旧校舎に集まっていることの意味が、僕には想像できなかった。

「でもさ、そもそも何で僕を誘ったの?」

 加瀬くんが僕を部活に誘ったのは、初めて言葉を交わしたその日のことだった。唐突のことで驚いたのは、今でもよく覚えている。

「古河の求めているものも俺たちと同じだと思ったから。青葉とも幼馴染だと聞いていたし、この部活のことを話せるだけの信頼に足る人物だということは、話をしてすぐに分かったからな」
「まあ確かに、口は堅い方だけど……」
「そして、これはただの俺の直感だが……古河は、俺たちと真逆だと思ったからだ」
「真逆? 反対なのに誘ったの?」
「ああ。つまり期待しているんだ。この部活は、才能はあるが問題もあるやつらばかりだからな。古河なら何かを変えてくれるんじゃないか、と。……これだけの理由では足りないか?」

 そう語る加瀬くんの顔は真剣だった。

 この僕があれだけのメンバーがそろった部活を変えていけるなんて、そんな話はあり得ない。けど、それだけの期待をかけてもらえたことが嬉しかった。

「加瀬くんは、僕のことを買いかぶりすぎだよ。僕が何かを変えるなんて――けど、もし僕に出来る範囲でもいいなら、これからも頑張っていきたい。かな」

 僕は覚悟を込めた目で加瀬くんの顔を見た。もちろん不安は消えていないけど、これだけのチャンスを前にして逃げ出すことだけはしたくなかった。
加瀬くんは、安心したような笑みを浮かべた。

「……よかった。無理やり誘って、古河を困らせたんじゃないかと心配していたから」

 その時、ドアが開く音がして、見ると青葉が入ってきたところだった。

「探したよ。やっぱりここにいたんだ」
「ごめん、ちょっと加瀬くんと話してて」
「春樹にもここのことを教えたんだ」

 青葉の視線が加瀬くんの方を向いた。

「ああ。古河になら教えても大丈夫だと思ったから」
「でも、春樹はまだ部活に――」

 青葉は困ったように慌てて、僕はそれを遮った。

「青葉。僕、青春部に入るよ。どこまでできるか分からないけど、もう少し頑張ってみたいんだ」

 言葉に力を込めてそう宣言すると、青葉は一瞬だけあっけにとられた表情をして、やがて優しく微笑んだ。

「……そっか。うん、良かった」

 不意打ちなその笑顔はあまりにも反則で、きっと僕の顔は一瞬でのぼせ上ってしまっていた。そして胸の辺りがいっぱいになって、単純だけど、ますます頑張っていこうと思えていた。

 正式に青春部へ加入することを決めてから、僕の日常には確かな変化があった。

 教室での変化は少し加瀬くんと話をすることが増えたくらいなものだったけど、放課後に部室で何気ない時間を過ごしたり、二週に一度の活動日を待ち遠しく思うことも増えた。それは日常の中の小さな一部分に過ぎなかったけど、今まで単調な日々を過ごして来ただけの僕にとっては大きな変化だった。

 当然、刻一刻と迫る受験に向けて授業のスピードはますます早まっていき、毎日は瞬く間に過ぎていく。受験勉強と部活の二つに追われる毎日は今までよりもずっと忙しなかったけど、今までで一番充足感に満ちた日々だった。

 そんな風に日々が流れて、気づけば夏が近づく気配が漂い始める季節になっていた。その間も二回ほど企画に挑戦してみたけど、相変わらず点数は片手で足りるくらいで、当然勝利はつかめていない。

 そして、二カ月と少しが経っても相変わらずなのは、部活のメンバーたちとの距離感だ。赤川さんとはどうしても距離を作ってしまうし、小清水先生は先生という立場の壁があるし、晃嗣くんからの敵意は言わずもがなだ。

 どうにかその関係を変えていきたいと考えていた、そんなある活動日のことだった。

「勝者、西峰青葉!」

 小清水先生が勝敗を告げると、青葉は対戦相手の加瀬くんに、ふっ、と挑発的な笑みを向けて見せた。もちろん、こんな青葉は青春部だけの光景だ。

「やっぱり青葉は安定してるね。伊織も今回のは悪くなかったけど」

 赤川さんが言うと、加瀬くんが憤慨する。

「今回のは、ってなんだ。のはって」
「だって、伊織は両極端すぎるんだもん。面白いとはすごく面白いけど、つまらないときはホントつまらないし」

 赤川さんの冷静な声が、加瀬くんの胸をえぐる音がする。みんなもそれをフォローすることはしないで、共感するような様子だ。

「青葉はいつもこれくらいの点数なの?」僕は訊いた。
「青葉先輩は、安定して二桁に乗せてきますからね」

 そう答えたのは晃嗣くんだった。言葉には棘があったけど、どこか誇らしげだ。

 二桁なんて、僕には夢のまた夢の点数だ。まだ青葉と当たったことはないけど、間違いなく勝負にすらならない。

「バカにされてるけど、伊織だって最高得点保持者だし、青葉とも互角の戦績なんだぞ?」
「先生、そんなあからさまにフォローしないで……」

 小清水先生の励ましにも、加瀬くんは拗ねた様子だ。

 いつもみんなにからかわれているけど、加瀬くんがすごいのは分かっている。もちろん赤川さんも晃嗣くんも、レベルの高い企画を見せてきた。
せめて、いい勝負ができるくらいには頑張りたいけど……

「それより!」と加瀬くんは強引に話題を変えて、「そろそろ次の対戦カードの発表といこうじゃないか」

 待ってましたと言うように、みんなは期待のこもった目を加瀬くんに向ける。間が空いたから、次は僕の番がくるんじゃないかという予感があった。

「次は――」

 加瀬くんが数秒ほどの溜めを作る。その長さにみんながだんだんと焦れ始めた時、

「ちょっと変わり種を用意した」
「……変わり種?」晃嗣くんが怪訝に言った。
「そ。そろそろみんな普通の企画も飽きてきた頃かなあと思ってな。そんなみんなのために、ちょっとした刺激を用意したわけだ」
「前置きはいいから、結局変わり種ってなに」

 赤川さんからの冷静な急かす声を受けて、加瀬くんは隠れるようにサングラスをかけ直した。

「……コホン。次回はなんと、久しぶりのペア対戦だ」

 青葉と赤川さんが「おお」と歓声をあげ、晃嗣くんは怪訝な様子だった。

「ペア……?」
「晃嗣と古河は初めてだよな。ペア対戦っていうのは、要は二対二の対戦だ。

 二人ずつのペアでそれぞれ企画を考えて、ペア同士で競い合うわけ」

「ペア同士で……」

 つまり、今まで一人で考えて作っていた企画を、誰かと協力しながら作っていかなければいけないんだ。それは僕みたいな下手くそにとってはありがたいルールな気もする反面……

「青葉も莉愛も久しぶりだろ?」得意げに小清水先生が言った。
「……うん、一年ぶりくらいかも?」

 赤川さんが答えた。部活の間、基本的にメンバーは(僕を除いて)小清水先生に対してはタメ口だ。

「で、そのペアっていうのはどうするんですか?」晃嗣くんが訊いた。
「ああ、俺は準備がいいからな。もちろん組み合わせはもう決めてある」

 加瀬くんの言葉を受けて、みんなに緊張が走った気がした。もちろん僕もその一人だ。すべてを一人でこなす普段の活動と違って、協力が必要な今回の形式では、ペアの組み合わせが勝敗に直結するはずだ。

 それに、同じペアになれれば一緒にいる時間だって……

 僕は、ちらと青葉の方を見てから、すぐに加瀬くんの方を向いてその言葉を待った。

「まず一つ目のペアは――」

 加瀬くんはそこでまたタメを作る。思わず唾を飲み込んだ。

「晃嗣と俺。……そして二つ目は、古河と莉愛だ」

 加瀬くんからの発表を聞いて、ほうっと一度息を吐いた。青葉とペアになれなかった落胆と、赤川さんとペアを組む不安が入り混じった感覚だった。そこにたぶん、晃嗣くんとじゃなかった安堵も若干だけ混じっている。

 思わず赤川さんの顔をのぞき見た。不安と不満が混じったような、そんな表情に見えた。

「……私、伊織とが良かった」
「まあまあ、俺とのペアは前に一回やっただろ?」
「でも……」と、まだ釈然としていない赤川さんに青葉が加わる。
「ねえ、伊織。ペアの変更はダメなの? 莉愛と春樹が組むのはまだ早いと思う。私が莉愛と替わった方が……」
「ダメだ。これは俺が昨日のうちにあみだで決めたことだからな。あみだの結果は変えられない」

 加瀬くんは、青葉の提案をピシャリと退けた。

「ねえ、対戦カードって毎回あみだで決めてるの?」

 そう訊くと、答えたのは小清水先生だった。

「基本的には、俺が伊織と相談しながら決めてんだ。同じカードが続いたり、一人に負担がかかったりしないように、満遍なくな。ただ、悩んだときは全部伊織の一存だ」
「というわけで、今回は俺の一存! 俺の決定が絶対だ! 部長の言うことに従いなさい!」

 青葉と赤川さんは、加瀬くんの強引なその言葉に不満顔を浮かべながらも、これ以上文句を言うことはなかった。

 こうして加瀬くんに押し切られる形で、次回の活動の対戦カードは、僕と赤川さんペア対加瀬くん晃嗣くんペアとの対戦に決定したのだった。

 週明け月曜日の放課後、帰りのHRが終わると同時に教室を出ると、ちょうど青葉と一緒になった。青葉の表情が何か言いたげで、立ち止まって話し込む形になる。

「ペア、本当に大丈夫? もう一度私から、伊織に交代できないか頼んでもいいし」
「大丈夫だよ。せっかく同じ部活に入ったんだから、赤川さんともちゃんと話せるようになりたいし」
「それならいいけど……」

 心配そうに眉を下げる青葉の表情に、少しだけ寂しくなる。この青春部に入ってから、青葉にこんな顔をさせることが多くなっている。青葉の心配そうな表情を見られるのはきっと僕だけで、少し前まではそれが嫌いじゃなかった。だけど部活中の青葉の溌剌とした顔を知ってしまった今、こんな顔しかさせられない自分が悲しくなる。

「でも、企画のことはもう考えてるの?」
「……まだ。けど、この後赤川さんと相談するんだ」
「そう、莉愛と……」

 そうつぶやく青葉の口調が、なんとなくそっけない気がした。

「はあ、そろそろどうにか勝ちたいなあ。いや、せめていい勝負くらい……」

 今回の対戦相手が晃嗣くんに決まって、リベンジをしたい気持ちはもちろんある。だけど、最初に見せつけられたおばけ屋敷の圧倒的なイメージが強すぎて、勝てるビジョンはまるで見えてこない。しかも相手は晃嗣くんだけじゃない。加瀬くんだって、最高得点の記録を持つ実力者だ。

「春樹はまだ入ったばかりなんだか、あんまり気負わなくていいよ」
「うん、ありがとう。できる範囲で頑張ってみるよ」

 赤川さんとは帰りのHRが終わり次第、部室で合流する約束になっている。きっともう先に着いている頃だろう。「じゃあ、もう行くね」と青葉に別れを告げてから、部室を目指して歩き始めた。



 部室に入ると、先に待っていた赤川さんが頬を膨らまして出迎えた。

「こら、遅いよ~」
「ご、ごめん。ちょっと青葉と話し込んじゃってて……」
「まあいいけどさ、この後部活あるからサックっと始めちゃお」

 この時間の赤川さんは、裸眼に二つ結びという普段の学校で見せるアイドルのようなスタイルだった。少しずつ赤川さんの際立った容姿にも慣れてきたつもりではいたけど、小さな部室で二人きりになると嫌でも身体に力が入る。

「う、うん」と、久しぶりの明るい赤川さんに圧倒されつつ、少し離れた椅子に座る。近くに座れないのは僕の意気地なしだ。
「部活って、ちゃんとした方の?」
「そ。調理部だよ。まあ、そっちも自由な部活だから、わりと適当だけどね。それよりどう? 何かアイディア考えたりしてきた?」
「ごめん。まだ何も……それを今日話し合うのかなって」

 事前に赤川と話したのは、この時間に次の企画の相談をするということだけだ。誰かとペアを組むのは初めてで、どんな段取りになるのか分かっていなかった。

「まあそれもそうなんだけどね、もし古河くんに何かアイディアの用意があるならそれが使えるかなって」
「ごめん、用意とかも全然してなくて……でも、アイディアを考えるのは赤川さんの方がいいよ。押し付けるわけじゃなくて、僕のアイディアじゃあの二人には勝てないから……赤川さんの足は引っ張りたくないし」

 僕の考える企画ではみんなと戦えないことくらい、もう身に染みて分かっている。僕のつまらないアイディアのせいで、誰かの足を引っ張ってしまうなんて耐えられなかった。

 そんなことを考えてつい顔をそらしていると、叱るような声だった。
「言っておくけど、古河くんのアイディアを使うかどうかは私が決めることだからね」

 赤川さんの方を見ると、頬を膨らませながらも、どこか真面目な顔だった。

「ご、ごめん……」
「もう。これだから役人ジュニアは。少しは伊織のバカを見習って、つまらない企画を堂々と見せるくらいの気概はないの? いや、堂々と見せられても困るけど……」
「ご、ごめん……」と、ついまた謝罪が口を出ると、赤川さんはまたムッとして、
「もう決めた。企画の原案は古河くんが担当ね! 明日までに、いくつかアイディアを考えてくること。宿題だから!」

 学校での姿をした赤川さんは、部活の時とは打って変わって言葉に力がある。僕は「う、うん」と勢いに流されて頷くのが精一杯で、それを見た赤川さんは「じゃあ私は部活に行くから」と、慌ただしく部室を去って行った。

 企画の原案なんて荷が重過ぎるよ……

 赤川さんがいなくなった後、ようやく抗議の言葉が頭に浮かんできたけど、あまりにも今更すぎたし、それを本人に言えるだけの勇気もない。どうなっても知らないぞという諦めと、やっぱり足を引っ張りたくない想いとがせめぎ合う。

 椅子の上で頭を抱えていると、ドアの開く音がした。顔を上げると、小清水先生が入ってくるところだった。

 小清水先生がこの部室に顔を出すのは珍しい。

「あれ、もう終わっちゃったの?」
「え?」言葉の意味が分からずに訊き返す。
「莉愛と話し合いしてたんだろ? さっきたまたま西峰に会って聞いたんだよ」
「ああ。赤川さんに用事ですか?」
「いや。用事っていうか、おまえらがどうしてるかなーって興味本位で。やけにしょげた面してるな」

 言いながら、小清水先生は部室の隅に置かれた椅子を僕のすぐ隣に移動させてそこに座った。先生の言葉は軽い調子だったけど、その中に気遣うような響きがあって、つい弱さをこぼしてしまう。

「僕じゃ、赤川さんの足を引っ張るだけなんです」
「決めつけるなよ。おまえにできることだってあるさ」
「企画の準備くらいならできますけど」と、僕は苦笑してから、「本来、僕はみんなとは住む世界が違いますから」
「……それは、おまえがそう思い込んでるだけじゃないのか?」

 僕は首を振って応える。

「なんだか、いろんな人に気を遣われている気がするんです」

 先生は言葉を待つように、ただ黙ったままでいた。
 
 いつも僕を心配するような目を向けてくれる青葉と。そして、

「加瀬くんはきっと、僕と赤川さんの仲を取り持とうとしてペアを組んだんです。あみだなんて、わかりやすい嘘までついて」
「まあ確かにな。活動中の伊織はバカっぽく見えるかもしれないけど、実際はバカじゃないし。いろいろと考えてるだろうさ」
「で、ですよね……」
「けど、別に気を遣われた結果でもいいんじゃないのか? 部員と交流を深めるチャンスだってことに変わりないんだから」

 確かに、青葉や加瀬くん以外の部員との間にある壁をなくしたいと思っていたのは事実だ。今回ペアを組めたことは、間違いなく距離を縮めるためのきっかけになるとは思う。だけどどうしても、加瀬くんが組み合わせを発表した時の、あの赤川さんの不満そうな顔が思い出されてしまう。

「なんだか、赤川さんに悪くて……今日は普通に話してくれましたけど、部活の時はまだまだ僕にだけ素っ気ないし……」
「まあ、あいつはなあ……」と、小清水先生は困ったように頭を掻いてから「人見知りだからとっつきにくいかもしれないけど、あれで打ち解ければ楽しいやつなんだ」
「人見知りって、赤川さんがですか?」

 思わず驚いて訊き返す。

 学校での赤川さんはいつも明るい笑顔を振りまいていて、誰にでも分け隔てなく接する人だった。それに、同じクラスになった事のない僕でさえ何度も噂に聞いていたほど、顔だって広い。

「いつも活動の時に見てるだろ、あのじみ~な格好。普段の学校の姿を見てると信じられないかもしれないけど、あっちが本当のあいつだよ」

 僕が何も言えずにいると、先生はさらに続ける。

「あいつらにとっては、この部活だけが自分をさらけ出せる場所なんだ」

 本当は、あの部活での姿と表情を見た瞬間に、学校での赤川さんは作られたものなのかもしれない、と頭をよぎらなかったわけじゃない。

 そして、それは赤川さんだけじゃない。加瀬くんだって教室での姿とはかけ離れた浮かれた格好で、晃嗣くんも普段の知的で真面目そうな身なりとは真反対だ。

 だけど三人とも普段の学校での姿もすごく自然で、それが作り物だとはとても信じられなかった。

「……じゃあ青葉も?」
 
 あの四人の中で、青葉だけは普段と大きく姿を変えていなかった。確かに学校では表情を隠しているのに対して、部活の時はよく笑うし言葉だって砕けているけど、それは見知った仲間しかいない空間だからという理由なだけにも思える。

「ま、今は悩め悩め」と、小清水先生はいたずらっぽく笑うと、勢いよく立ち上がった。そして、「それじゃあ頑張れよ」と別れを告げてから、ひらひらと手を振りながら部室を去っていく。

 再び部室に一人になった僕は、なんとなくすぐには帰る気になれなくて、意味もなく部室をくるくると歩いてから、ようやく帰路についた。

 家に着いて自分の部屋へと入った僕は、今すぐにベッドで横になりたい衝動を抑えて、そのまま椅子へと腰を掛けた。

 いつもならここで問題集でも開くところだけど、今日は大事な宿題がある。問題集の代わりに開くのは、まだまっさらなノートだ。

 赤川さんが満足するような面白いアイディアなんて、僕に考えつくのかは分からない。それでも、今は自分にできることをする以外にはない。

 ペンをとって、さっそく思いついた企画の一つを書き出してみる。が、すぐにあまりのセンスのなさに頭を抱えた。恥ずかしさですぐにそれを消したくなったけど、ぐっと我慢をした。今回は質には目をつぶって、思いついたままに書いていこうと決めていた。

 またそこからうんうんと唸りながら、思いついたものをぽつぽつと書き出していく。「かくし芸大会」「カラオケ大会」……思いつくのは社会人の宴会みたいなものばかりで、盛り上がる予感もなければ、そもそも僕自身がやりたくない。納得のいくものは、一向に思いつかない。

 考えているうちに夕食とお風呂の時間になって、それを済ませてからまた考える。そこからはまたネットの動画サイトを漁って、それを参考にしつつ探し続けた。

 一つのことに集中していると、時間はすぐに過ぎる。いよいよ夜も遅い時間になった頃、ついにこれ以上アイディアが絞り出せなくなり、机の上にうなだれた。ごろりと机の上で上半身を横に向けると、地面に置かれたジオラマキットの箱が目に入った。小さなものを組み立てるのが好きで、幼いころからずっと作り続けてきていたけど、新しいものを二年生の終わりに買ったきり、今日まで全く触れていなかった。

 受験がひと段落するまではお預けかな。

 時計を見ると、もうとっくに日付が変わっていた。さすがに今日はもう寝ようと、椅子を立ち上がりかけた時だった。

 ふと、明日の授業の予習ができていないことを思い出す。次の日の授業の予習だけは、どんなに忙しくても今日まで毎日欠かさずに続けてきたことだった。それをここでやめてしまうのは簡単だ。けど――

 僕は「よしっ」とつぶやいて、眠りを求める身体に鞭を打つ。もう一度机に向かい合って、明日の授業の教科書を開いた。



「ど、どうでしょうか……」

 次の日だ。この日も授業の終わりに部室で落ち合って、僕はびっしりとアイディアを書き出したノートを赤川さんに見せていた。

 赤川さんは受け取ったノートをぱらぱらとめくりながら、そこに書かれた文字を目でなぞっていく。いったい何を言われるのか緊張が走る。部室には静寂が漂い、ノートをめくる音がやけに大きく聞こえた。

 耐えきれずにつばを飲んだ、その時だった。やっと顔を上げた赤川さんは、恐ろしいものを見たかのような目をしていた。

「これ、全部昨日の夜考えたの……?」
「う、うん。やっぱりちょっと勢いで書きすぎちゃったかな……」

 思いついたものを書き連ねているうち、結局一冊のノートがアイディアだけでびっしりと埋まってしまっていた。

「書きすぎっていうか、これだけあってことごとくつまらないんだけど……」

 つまらない、それは覚悟していた一言のはずだった。だけど実際に突きつけられると、心にくるものがある。ごめん、と言葉が出かかった時だった。

「でも、まさかノートまるまる一冊埋めてくるとは思わなかったな」と、赤川さんが苦笑した。

 それは普段学校で見せる完璧な笑顔じゃなくて、部活の時に加瀬くんたちに見せるような素直な笑顔だった。そして、それが僕に向けられたのは初めてのことだった。その表情に照れ臭くなる。

「面白いものを考えつく自信がなかったから、せめて少しでもたくさん考えていかないとと思って」
「それで夜通し考えてたの? 目、すごいクマできてるよ?」

 言いながら、赤川さんは僕の顔を覗き込む。顔の近さにまたドキッとして、つい目をそらしてしまう。学校での赤川さんは、こういう仕草が自然に出てきてやっぱり卑怯だ。

「まあ……それもあるけど、授業の予習とかもしてたら深夜になっちゃって」
「これだけアイディアを考えて、それで予習までしたの?」
「次の日の予習は日課だから、どうしてもやらないと気が済まなくて……結局、そのせいで授業中居眠りしかけちゃったんだけど」
「なにそれ、本末転倒じゃん」

 僕が自嘲気味に笑うと、赤川さんはまた自然な笑みで返した。しばらくそうして笑い合っていると、赤川さんはふと目を細めて、

「正直、古河くんって最初は役人みたいでつまらない人かと思ってたけど……いや、今もつまらないことに変わりないんだけど、でもなんか面白いね」

 なんとも言えない褒め言葉の反応に困っていると、赤川さんは再び視線を手元のノートに移してぺらぺらとページをめくりだす。

「ねえ、もしかして工作とか得意なの? なんか仕掛けを作るようなネタが多そうだけど」
「工作っていうか、何か仕掛けを考えたり細かい作業をしたりするのは少しだけね。……でも、やっぱり現実的じゃないのばっかりだよね」

 うーんと唸りながらページをめくっていると、ふとその手が止まった。

「これ、ちょっと面白いかも……」
「え?」とページをのぞき込む。そこに書かれていたのは、とても赤川さんの気を引くような面白いものには思えなかった。
「これをやるの?」
「うん。このままじゃ微妙だけど、アレンジしたらきっと映えると思う!」

 力強いその言葉に背中を押される。どうすればこのアイディアが映えるのか想像もつかなかったけど、きっと赤川さんには考えがあるはずだ。

「じゃあ、次は何の準備をすればいい?」
「うーん、アレンジはこっちで考えるから、企画はいったん放置しよっか。どうせ、そっちだってこれから忙しくなるでしょ?」
「忙しく?」

 忙しくなるような要因が思い当たらず首をかしげる。と、赤川さんは少し呆れたように、

「文化祭の準備、そろそろ始まる頃でしょ?」
「あ……」

 言われて思い出す。この森宮第一高校の文化祭は、毎年七月の頭に開催されることになっていた。忙しく過ぎていく毎日の中ですっかり抜け落ちていたけど、いよいよ準備も始まる頃だった。

「お互い、まずは目の前の文化祭を頑張ろ」

 高校最後の文化祭が、もうすぐそこまで迫っていた。

 クラスのHRで文化祭の出し物について話し合われ始めると、学校中には一気に浮足立った空気が漂い始める。文化祭の準備期間中は青春部の活動は休止になるようで、普段は隔週の活動もさらに間隔が開いてしまう。

 文化祭が近づくにつれて生徒会長である青葉の忙しさも増していき、一緒に登下校ができる頻度もずいぶんと減ってしまっていた。

 そして、いよいよその週の週末に文化祭をひかえたある日。その日は週に一度のLHRの時間があり、その時間を利用してクラスの出し物の準備を始めていた。「こっちのり貸してー」「模造紙これで足りる?」「誰かこっち手伝って!」と、教室中には活気あふれる声が入り乱れる。教室の中がこんなににぎやかになるのは、一年のうちでこの時期だけだ。

 クラスの出し物は、先週の同じ時間の話し合いで喫茶店をすることに決まっていた。そこにたどり着くまでは早かったけど、ただの喫茶店じゃつまらないからコンセプトを決めよう、という意見が出てからが長かった。五十分の授業時間のほとんどを使い、最終的には一部の女子の意見で、童話のお城の雰囲気をイメージした喫茶店にすると決まったのだった。

 まだ実際に教室を飾り付けるわけにはいかない中で、前日の準備が少しでも楽になるように装飾のパーツを作ったり、衣装の準備に取り掛かったりしていた。

 教室の奥では青葉が黙々とウエイトレス風の衣装に小物を縫い合わせ、加瀬くんは数人の男子と一緒にテーブルの配置について話し合いをしている。同じ教室にいるはずなのに、やけに二人が遠かった。

 ここ最近はみんなで集まれる機会もなくて、一抹の寂しさがあった。

「西峰さん、当日は生徒会の方にかかりきりになるんだろ? めちゃくちゃ戦力ダウンだよな」

 僕と一緒に内装のパーツを作る作業をしていた山本くんが言った。

「うん。たぶん前日の準備から、ほとんど生徒会の方が中心になると思うって」
「まあ、そうだよな……加瀬だって部活の方で出店するんだろ? 二人が呼び込みでもしてくれれば、放っておいても千客万来だったろうに」

 そう口にする山本くんの手は、止まったり動いたりだ。

「二人は仕方ないよ。その分、僕たちが頑張らないと」
「頑張るってもなあ……三年にもなって文化祭頑張ってる場合じゃないし。正直、この時間だって受験勉強に当てたいくらいだよな」

 山本くんが乗り気じゃないのは、文化祭の準備が始まった時から気づいていた。そして、それは山本くんだけに漂う空気じゃない。一、二年生の時は文化祭に張り切っていたクラスメイトも、この三年生の文化祭ではいまいち乗り切れていないのが伝わってくる。

 きっと数ヶ月前までの僕ならこの空気の中に混じって、不満を抱えながらも流されるままに参加していたのだと思う。

 だけど今は、そうやって一歩引いて眺めているだけの自分にはなりたくなかった。

「僕は……これが最後の文化祭なんだから、手は抜かずに頑張りたいな」

 視線は手元の模造紙に向けたまま、それを大きな窓の形にハサミで切り取りながらそう言った。その言葉に、隣では山本くんが驚いているのが伝わってきた。

「春樹、三年になってから少し変わったよな」
「うん、そうかも」

 それがいい変化なのか、確証なんてない。だけどもし、それが自分で決められることなら、間違いなく僕は前を向いている。

 その日はすぐに家には帰らず、学校の図書室を使って勉強をしていた。

 つい集中をし過ぎて、気づけば完全下校時刻までもう少しだ。だんだんと司書の人が店じまいの準備をしているのが見えて、慌てて荷物を片付けて図書室を後にした。

 日が伸びたこともあって、こんな時間になってもまだ廊下は明るい。築数年の真新しい校舎の壁は、窓から差し込む夕日に照らされて輝きを放っている。ふと、廊下の奥へと目を向けた。この先には旧校舎へと続く連絡通路の扉がある。その扉のさらに向こうにある古びた内観が頭の中によみがえり、ほんの少しそれが恋しくなった。

 その時、廊下の奥の影から一人の姿が現れて、連絡通路の方へ向かっていく。そして、そのままその扉を開けて旧校舎の中へと入っていった。
遠目だったけど、今旧校舎に入っていったのって――

「何をしているんですか?」
「うわあっ!」

 突然の背中からの声に驚いて思わず跳ね上がる。慌てて振り向くと晃嗣くんだった。

「ちょっと図書室で勉強してたらこんな時間になっちゃって……それより今、小清水先生が旧校舎の方に入っていったように見えたんだけど、何か知らない?」
「さあ。今は部活も休止中ですし、普通に見回りとかじゃないですか?」
「そ、そうだよね」

 当たり前に考えれば、晃嗣くんの言葉はもっともだ。だけど旧校舎の扉を開ける時の小清水先生の後ろ姿に、何か引っかかるものを感じていた。

 どこか寂し気だったような……

 と、晃嗣くんは廊下に誰もいないことを確認するように左右を見ると、不意にそのメガネの奥の両目を鋭くとがらせた。

「でも、ちょうどよかったです。春樹先輩と会えて」

 よかった、という言葉とは裏腹に、その口調は視線同様に棘があった。たじろいでいると晃嗣くんが続ける。

「あなたとは、一度ちゃんと話をしておきたかった」
「僕と……?」

 晃嗣くんが僕と話したいことなんて本当は分かっている。青葉について、それ以外にあるわけがなかった。

「単刀直入に言います。青葉先輩に付きまとうのをやめてください。あなたは、先輩にふさわしくない」

 ピシャリ、と、有無を言わせないような強い口調だった。さらにメガネの奥の鋭い瞳が僕の顔を射抜き、反論を封殺しようとする。

 耐えきれずにつばを飲む。思わずうなずいてしまいそうになるほどの凄みがあったけど、それでも折れるわけにはいかない。

「おまえは青葉にふさわしくない……散々言われてきたし、自覚はあるよ。けど、誰と一緒にいようが僕の自由だ」
「それは同じレベルの人間同士の場合だけに通用する理論です。でも、そうじゃない。あなたは、青葉先輩の足を引っ張っている」
「僕が、青葉の……?」
「あなたに対する青葉先輩の態度は、明らかにおかしい。この間、伊織先輩がペアの組み合わせを発表した時に確信しました。誰かをかばうような、他人を甘やかすようなことは絶対にしない」
「それは……」

 図星だった。青葉の僕に対する態度は、他の誰に対するものとも違っていて、それは彼女にとって僕が庇護の対象になっているからだ。そんなことは、ずっと前から分かっていた。

 だけど、せめて後少しの間だけでも僕のわがままを許してほしい。

 言葉に窮していると、晃嗣くんは呆れたように目を伏せる。

「まあ、今さら少し言ったくらいで聞かないのは分かっています。ところで、次の企画のアイディアは決まりましたか?」
「え? まあ、ネタは決まったから細かいところをこれからって感じだけど……」
「そのネタは莉愛先輩が?」
「ううん、僕が考えた」
「へえ」と晃嗣くんは少し驚いた後、笑みを浮かべて、「もしそれが失敗したら、あなただけでなく莉愛先輩まで恥をかいてしまいますね。あなたみたいな凡人と関わってしまったばっかりに」

 言い返せずに言葉に詰まる。それを否定できるだけの自信が、僕にはわずかもなかった。

「まあ、企画なんて先の話です。文化祭ももうすぐですから。皆さんのためにオレたち生徒会も一生懸命準備しているので、ちゃんと楽しんでくださいね」

 晃嗣くんは穏やかな微笑みを携えてそう言うと、「それでは失礼します」とこの場を去っていった。

 僕はただ、その背中を見送るばかりだった。

 翌日の放課後、教室の前の廊下で僕は青葉を待っていた。

 毎日のように生徒会の仕事に追われていた青葉が、珍しく今日は活動がないと話をしていて、それなら、と久しぶりに一緒に帰る約束をしたのは朝のことだ。

 やがて、帰宅を急ぐクラスメイトに紛れて教室を出てきた青葉は、すまなそうな顔だった。

「ごめん、やっぱり今日も帰れなくなっちゃった」
「いいよ。生徒会でしょ?」
「うん。この時期はどうしても仕事が山積みで……」
「一年の一大イベントだもん。しょうがないよ」
「ありがとう。行ってくる」と、言うや否や慌ただしく去っていく青葉の背中を見送る。

 ここ最近の青葉はずっとこんな調子だ。文化祭関係の仕事に追われているみたいで、毎日完全下校時刻のギリギリまで生徒会に打ち込んでいる様子だった。朝早くから学校に行くことも珍しくなくて、ずっとすれ違いのような日々が続いていた。

 こんなに忙しくて、勉強する時間あるのかな?

 ふと青葉のことが心配になる。どれだけ超人のような才能と体力を秘めた彼女でも、さすがにこの忙しさは負担になっているんじゃないか、という心配が頭をかすめた。

 でも、とすぐに思い直す。さっきの青葉の顔に、疲れの色はなかった。今日の授業中、先生に問題を当てられた時だって、それが難問だったのにもかかわらず、あっさりと答えて教室を沸かせていた。

 やっぱり、青葉ならこの程度余裕なんだ。僕みたいな凡人と同じはかりで測れるはずがない。

 早く帰って勉強をしよう。そう思った時、スマホの震える感覚があった。短いバイブレーションは、メールの通知だ。

 ポケットから取り出して画面を見ると、差出人は赤川さんだった。

『今から部室!』