空に浮かんでいた太陽は数刻ほど前に沈み切り、それに替わるように、欠けた月といくつもの星々が鈍い光を放って浮かんでいる。
そのかすかな空からの光と近くの家々の明かりに照らされて、一つの学校がわずかに見える。
下校時刻もとっくに過ぎたその時間、まだ真新しい様子のその校舎は、昼間のにぎやかさを忘れてしまったかのように静まり返っている。教師たちも全員が帰宅したのか、そこには人の気配の一つもない。
静けさに満ちた学校の校舎からは、言いようのない不気味ささえ漂っているように感じられる。
――が、その隣。
真新しい校舎とは対照に、年代を感じさせるような古びた校舎がもう一棟。
窓枠の辺りには蜘蛛の巣が張られ、校舎を骨格するコンクリートにはひびが入っていて、日常的に使われている様子はない。
本来なら人が寄り付くはずもないそんな校舎の窓から、いくつかの人影が覗いて見えた。廊下の端から端へと、駆けるように移動するその影の数は、全部で五つ。
廊下を駆けるその影は、まるで踊っているかのようにさえ見える。
古ぼけたその校舎から、若い男女の楽しげな声が響く。
広い学校の敷地には彼らの他に誰もいなくて、その声が誰かに届くことはない。
どこまでもにぎやかなその声は、どこか青春を謳う歌声のようにも聞こえた。
1
住宅街の角を曲がると、まだ角度の浅い陽射しが飛び込んできた。季節外れのまぶしさに、僕は思わず顔をしかめた。
始業式から一週間が経ち、通学路の途中にある桜の木が完全に葉桜になった頃、まだまだ春も真っただ中のはずなのに、まるで初夏のような陽射しだった。
目を細めながら空を睨み、わずかな恨みを込めてつぶやく。
「今日は朝から暑いね」
隣を歩く青葉は、首元のリボンをずらして第一ボタンを開けていた。
青葉はいつもすぐに第一ボタンを開けるけど、学校で閉め忘れるのが怖い僕は、どんなに暑くても帰りの時間まではそのままだ。
「ね。もうブレザーが鬱陶しくてしょうがないくらい」
言葉の通りに、鬱陶しさのこもった声だった。
「生徒会の権限でどうにかなったりしないの? あんまり暑い日は冬服期間でもブレザーなしでオッケーとか」
「できなくはないと思うけど……やっと校則を変えた頃には、どうせ私たちもいないんだから」
「はは、それもそうだね」
校則を変えるためにどれだけの期間が必要になるのかは分からないけど、そんなに簡単な話じゃないだろう。三年生の僕たちにとって、この季節外れの暑さとの戦いも、衣替えまでのたった数ヶ月の間だけの問題だ。六月からは夏服になってブレザーを脱ぎ、十月には再び冬服に戻り、そして、一年後の春にはこの制服自体を脱ぎ捨てる。
校則を変えることは後輩たちにとっては意味のあるものかもしれないけど、そこまでの仕事は強要できない。もともと、青葉が生徒会長になったのも、学校中の人たちから推薦されたからだ。それでも、青葉が生徒会長として一番上にいてくれているおかげでこの学校がまとまっていることは、一人の生徒として肌で感じている。
その時、身体のすぐ横を自転車が通り過ぎた。自転車はそこでスピードを緩め、サドルにまたがっていた男子が青葉の方を振り向いた。
四角いフレームのメガネが似合う聡明そうな顔立で、そこには穏やかな微笑みが浮んでいる。彼の顔には見覚えがあった。
「会長、おはようございます」と、彼が青葉に告げると、青葉の方も「ああ、おはよう」と軽い調子でそれに応えた。
彼が再び前を向く直前、その視線が僕の方を向いた。その瞬間、穏やかだったその表情に影が差し、その目が鋭く尖ったような気がした。
けどそれも一瞬のことで、再び自転車をこぎ出した彼の背中はみるみる小さくなる。
「あの人って確か……」
「うん、うちの副会長で二年生」
「そうだ。朝会の時とか、ときどき壇上に立ってるよね」
彼のことを見かけるのは、朝会の時だけじゃない。青葉と一緒に歩いているのも、何度か目にしたことがあった。
「見た目通り、優秀な後輩だよ」
あの副会長の男子から去り際に向けられた視線を思い出す。あれは間違いなく、敵意に満ちた目だった。
自分の知らない相手から敵意を向けられるのは、別に珍しいことじゃない。青葉と二人で歩いていること、それ自体が妬みの対象になっていることは分かっている。
モデルのようなスタイルに、整った顔と白い肌。目を引くような外見だけじゃなく、県内屈指の進学校であるこの森宮第一高校に特待生で入学した学力も持っている。スポーツだって、何をやらせても人並み以上だった。
非の打ち所のない完璧超人。それが西峰青葉という人物だ。
それは、誰よりも彼女と付き合いの長い僕が一番よく知っている。
そして、僕みたいなつまらない凡人が彼女とつり合わないことも、僕が一番よく知っている。
近くにいるのに、手を伸ばせば触れられるはずなのに、ただ彼女が遠かった。
そんな想いを抱き続けたまま、もう十年以上もこんな調子だ。
あんな敵意のこもった視線を僕によこすのはお門違いだ。副会長という立場を持っている彼の方が、よっぽど僕よりも彼女に近い。
そんなことを考えていると、足早に歩く青葉との間に、気づけば距離ができていた。
脚の長い彼女は歩くスピードも速くて、油断をするといつもすぐに置いていかれてしまう。きっと青葉は自分が先に行ってしまっていることにも無自覚で、だから僕は短い足をせこせこと動かして、必死になってついていく。
男子である僕よりも先に成長期を迎えた青葉は小学校高学年の頃にうんと背が伸びて、当時の僕とは頭一つ分も背丈の差があった。中学に上がりさえすれば、僕だって背が伸びて、きっとすぐに青葉を追い抜ける。そんな希望を持ったまま中学に上がり、やがて高校に進学し、気がつけば彼女の身長に並ぶこともないままに、僕の成長は止まっていた。最大で頭一つ分あった身長差は、少しはマシになったけど、僕が見上げなくちゃいけない関係は変わっていない。
「そういえば、昨日の模試はどうだった?」
慌てて彼女に追いついた僕は、ふと思い出して訊いてみた。青葉の成績は聞かなくても分かるけど、なんとなくその口から聞いてみたかった。
「今回もちゃんとAだったよ。判定欄しか見なかったから、細かい点数は分からないけど」
「さすがというかなんというか……そのA判定って、また東大の法学部でしょ?」
「うん。だってお父さんが卒業したところだから。後を追うためには、まずそこに入らないと」
お父さんはそこの卒業生で今は弁護士の仕事をしているのだ、と昔青葉が誇らしげに語っていた。まだ幼かった頃に何度か会ったことがあるけど、いかにも真面目で厳格な印象の人だったのを思い出す。
お父さんを追って司法の世界へ行く。それが小さな頃からの青葉の口癖だった。普通の人にとっては困難なその道さえ、青葉ならきっと容易くやり遂げてしまいそうに思う。
間違いなく青葉は、遥か遠くの世界に羽ばたいて行く。そんなのは分かりきった未来だ。そして、そこに僕が張り込む余地はない。
だったら、高校を卒業した後の僕と青葉の関係はどうなるんだろう。
今までは、憧れである青葉に振り落とされないために、必死に努力を重ねてきた。でも、ここからは努力だけでどうにかできる世界じゃない。彼女は間違いなく、一部の人間しか足の踏み入れられない世界へ行く。
その時が来たら僕は――
そんなことが頭に浮かんで、すぐに考えるのをやめた。それを考えるのはまだ早い。
「やっぱり青葉はすごいよ」
素直に思ったままを伝えると、青葉は少し照れたように微笑んだ。
「そう言う春樹はどうだったの?」
「今回はちょっと……特に数学が足を引っ張っちゃって」
「数学くらい私でよければ教えようか? 今日の夜なら空いてるけど」
「ありがとう。でも今日の放課後に、先生に教えてもらうことになってるから」
「そう? わざわざ先生に頼ることないのに」
なんでもできる青葉についていくため、要領の悪い僕は、遊びの一切を捨ててただがむしゃらに勉強だけを続けてきた。青葉に勉強を教わらないのは、ちっぽけな凡人である僕の、唯一のくだらないプライドだった。
2
高校三年生の日常は、受験の対策が生活の中心になる。
この森宮第一高校は進学校を謳っているだけあって、受験には生徒と教師そろって本気な空気がある。三年生の教室が集められている二階の廊下は、他の階にはないようなピリピリした緊張感があるようにさえ感じるほどだ。
三年生からは、目指す大学や学部の種類によってクラスが細分化され、本人の希望に合わせてクラス分けがされている。
僕が選んだのは国立文系コースで、青葉と同じだった(別に青葉と一緒のクラスになるために選んだわけではない)。僕にとって国立は挑戦で、一気にスピード感を増した授業には、ついていくので精いっぱいだった。一日のほとんどを予習と復習の時間に当てて、本格的な受験勉強に時間を割く余裕はない。
一つの学年に百人以上生徒がいることもあって、このクラスになって初めて一緒になるクラスメイトもいた。新しいクラスになって一週間が経過した今でも、教室にはまだ少しよそよそしい空気が漂っている。
三年生にもなると、新しくクラスメイトになった人とあからさまに仲良くしようとする人はほとんどいなくて、このままなんとなくクラスメイトになって、なんとなく卒業になってしまいそうな、そんな雰囲気さえあった。
放課後、HRが終わって帰りの支度をしていると、数人の男子のグループが近づいてきた。去年までも同じクラスだった山本くんがその中心だった。
「なあ、この後、新しいクラスの交流会ってことでボーリングに行くんだけど、春樹も来るか?」
「え……」
その誘いに、わずかに逡巡した。
山本くんの周りには、話したことがあるやつもまだ話したこともないクラスメイトもいた。みんなは、これからの時間が待ちきれないような様子で、僕の返事を待っている。
この誘いを受けたら、今のクラスに感じるよそよそしさもなくなるのかな。
新しいクラスメイトとボーリング。それはとても魅力的な誘いに思えた。
けど――
「ごめん、この後先生に勉強の相談する約束しちゃってて……」
「えー。それって今から別の日にできないのか?」
「それは、僕の方からお願いしちゃったから……」
「……じゃあ仕方ないな」と、山本くんは肩を落とす。
「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
「いいっていいって、また誘うよ」
そう言うと、山本くんは「それじゃあな」と軽く手を振ってから、周りのみんなと一緒に教室を後にして行った。
それを見送りながら、胸の奥の方で、ぐちゃぐちゃとした想いが渦巻いているのを感じていた。
今日じゃなければ行けたのに運が悪かった、そんな風に言い訳をする声に、誘われたのが今日じゃなくても、どうせ何かしらの理由をつけて断ったに決まってる、と、反論をする自分もいた。
もちろん、今まで友達と放課後に遊んだことがないわけじゃないけど、クラスの交流会なんて華やかなものに縁はなかった。それに、三年生のこの時期に遊びに行くだけの勇気もない。たぶん僕は、今まで自分が敷いてきたレールを外れるのが怖かったんだ。
本当にこのままでいいのかな。気づけばもう三年生で、卒業まで一年もないのに……
ストライクを取ったらみんなでハイタッチをして、ガターになったらみんなで笑い合って、次の日になってもその時の話題で盛り上がれる。脳裏には、そんな光景が浮かんでいた。
みんなで笑い合ったり、ふざけあったり、たぶん、心がいっぱいになるその瞬間。僕がまだ、ただの一度も経験したことのないその瞬間の名前は――
僕は急いで荷物を背負うと教室を飛び出した。そして、玄関の方へと続く廊下の奥に、山本くんたちの姿を探す。
だけど、そこにはもうみんなの姿はなくて、この廊下を走ってみんなを追いかけるだけの勇気までは持ち合わせていなかった。
言葉を浮かべるのもこそばゆいけど、みんなについていったその先に、「青春」の二文字があるような気がしていた。
今までの人生で、あれが「青春」だったと胸を張って言える瞬間なんてない。
きっとこのまま、ただの一度もそれを経験できないままに卒業するんだろうな、と、そんな諦めと後悔が胸の中に浮かんでいた。
3
「失礼しました」
職員室に向けてお辞儀をしてからドアを閉める。
少し勉強を教えてもらうだけのはずが、話が広がって三十分近くも職員室に居座ってしまっていた。
一度教室に戻ろうと職員室に背を向けると、目の前に人影があった。
「あ、小清水先生」
小清水先生が僕の顔を認めると、ニッと口角を上げて笑顔を見せた。
「おお、古河か。なんだ、また勉強聞きに来てたのか?」
「ええ、まあ……」
「最近よく来るな。授業しんどくなってきてるのか?」
小清水先生が担任になったことはないけど、職員室で会うたびにいつもこうして気にかけてくれていた。小清水先生は、きっと僕の不器用を心配してくれているのだと思う。
「三年生になってからはどうしても……国立の方のコースを選んじゃったので」
「へえ、国立にしたのか。どっか行きたいところでもあるのか?」
「実はまだ、進みたい方向とか決まってなくて……全然、自分が何をしたいのかも」
「ま、そういうやつもまだ少なくないさ」
「でも、みんなはだんだん志望校も絞ってますし……」
みんな、と口にしながら、一人の幼馴染の姿が頭に浮かぶ。青葉は、父を追って同じ大学の同じ学部に進学し、そして弁護士になるという夢を持っている。それなのに、幼馴染である僕には何もない。
僕の人生は、ただ青葉を追いかけるだけだった。
思わず目を伏せていると、あっけらかんとした小清水先生の声が降ってきてハッとする。
「他はいいんだよ。おまえの場合は、真面目ばっかしてないでたまには遊べって」
それは、あまりにも教師らしからぬ言葉と口調だった。
小清水先生は歳も若いから生徒との距離が近いけど、こういうフランクなところも生徒から好かれている理由なのだと思う。
だけど、これからの大事な時期に遊ぶなんて……
先生からの無茶なアドバイスにどんな言葉を返せばいいのか、反応に困っている時だった。先生の身体の向こうから、女子の声がした。
「拓馬せんせー」
「なんだよ、勉強の相談以外なら乗らないぞ」
先生が振り返ると、向かいから小走りで近づいてくる女子の姿が見えた。
この人、たしか赤川さんだっけ。
一度も同じクラスになったことはないけど、名前だけなら覚えていた。小柄な身体と明るい性格で、まるでアイドルみたいな可愛い顔をしているから、学校内でも有名人だ。走る拍子に左右で二つに結ばれた髪が上下に小さく弾む。ニコニコと自然な笑顔を浮かべた彼女からは、明るい空気がにじみ出ているように感じられる。
近くで見ると、たしかに顔は小さいし目は大きいし、すごく可愛い。
赤川さんも、僕に気づいたみたいだった。
「あ、ごめんね。話邪魔しちゃった?」
「ううん、大丈夫だよ。……それじゃあ、失礼しました」
話を切り上げるように、先生に小さく会釈をする。生徒と友達みたいな感覚で接する小清水先生も、先生を下の名前で呼んでしまう人気者の赤川さんも、僕にはとても眩しくて、つい逃げるみたいに二人に背を向けていた。
4
教室の前まで戻ってくると、電気が消えていて、もう誰も残っていないようだった。
遊びに行ったり部活に行ったり、塾に行ったり、みんなそれぞれの場所へと向かっていったんだ。先生に勉強を聞くためだけに使った数学の教科書を置いていこうと、教室の中に入る。と、黒板が消されていなくて、授業で使ったままになっているのが目に入った。
誰か消し忘れちゃったのかな。
それを消すのは本来日直の仕事だ。黒板の角に書かれた日直の名前を見る。
「加瀬伊織」。そこにあったのは、弓道部の主将の名前だった。
なんでも全国で屈指の実力者だとかで、朝練から放課後の練習まで、授業以外の時間は常に部活漬けだと聞いたことがある。
きっと、加瀬くんは部活が忙しいんだろうな。
気づいてしまった以上このまま放置するのも気が引けて、窓の近くに干している濡れ雑巾を取って、黒板の掃除を始める。黒板は雑巾で拭くと綺麗にツヤが出て気持ちいいから、この仕事は嫌いじゃない。
四隅まできっちり拭ききって、改めて綺麗になった黒板を眺める。チョークのあとひとつない、完璧な仕上がりだ。
それを確認してから教室を出ると、ちょうど青葉の姿があった。そういえば今日は、生徒会の仕事がある曜日だった。
「今終わり?」
「うん、今日はたいして決めることもなかったから」
「そうなの? けど、いつもお疲れ様」
「それほど疲れる仕事でもないけどね」
「そう言えるのは、きっと青葉だからだよ」
本当になんてこともなさそうな青葉に苦笑していると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。見ると、向こうから加瀬くんが早足で歩いてくるところだった。一度部活に顔を出していたのか袴姿だ。日直の仕事を思い出して、慌てて戻ってきたのかもしれない。
青葉も加瀬くんに気づくと、「ごめん」と会話を打ち切って、まるで迎えに行くみたいに小走りで行ってしまった。「あ」と、思わず口から出た声はかすかで、きっと青葉の耳には届いていなかった。
隣の教室の前で、青葉と加瀬くんは話を始めている。話している内容までは聞こえてこないけど、二人の話す様子がすごく親しげなことだけは分かる。
加瀬くんはすらりと身長が高くて、一目で青葉よりも大きいことが分かる。弓道をやっているからか、身長が高いだけじゃなくて肩周りもしっかりしている。
細くてキリっとした目はいかにも日本男児風で、男の僕から見ても整った顔立ちだと思う。学内だけじゃなくて、他の学校にまでファンの女子がいるのだという話だって、噂に疎い僕の耳にまで届いていた。凛としたたたずまいに袴姿がよく似合っていて、どこか神聖な雰囲気さえ漂っているように見える。
どこからどう見たって、美男美女のお似合いカップルだ。
二人が話し込む様子を見ながら、唇を噛みしめる。
教室ひとつ分の距離しか離れていないはずなのに、その距離がとても遠い。実は二人とクラスメイトだなんて、まるで悪い冗談だ。
クラスメイト同士の会話のはずなのに、そこに僕みたいな凡人が入り込む余地は見当たらない。
せめて二人に気づかれないように、そっとその場を後にした。
5
次の日の昼休みの時間だ。
山本くんたちと学食でお昼を食べた後、教室の自席へ戻って、頭を抱えた体勢で目を閉じて休んでいた。今日は午前中から授業の内容がハードで、頭が飽和状態だった。
ふと目を開けて教室の様子を眺める。つい目が向かってしまうのは、左斜め向こうにある青葉の席だ。
今も青葉は一人で椅子に座って文庫サイズの本を読んでいる。彼女の周りに、クラスメイトは誰もいない。毎日の見慣れた光景だった。
学校での青葉は口数が少なく、クラスメイトと言葉を交わすことは滅多にない。けど、だからといってクラスメイトたちが彼女をネクラ扱いすることもない。ほとんどの生徒にとっての青葉は、話しかけるのも恐れ多い手の届かない存在だった。
そしてそれは、今に始まったことじゃない。僕が初めて青葉に出会った時から、彼女はずっとそうだった。
と、その時だった。隣に人の気配がして、「古河」と聞き慣れない声に名前を呼ばれた。誰だろう、と怪訝に思いつつ隣を見上げると、そこに立っていたのは加瀬くんだった。
「少し時間いいか?」
加瀬くんはそう言うと、廊下の方へ歩いていき、僕についてくるように促した。今まで話したことなんて一度もなくて、突然のことに驚きつつ、慌てて席を立って追いかけた。
教室を出ると加瀬くんは僕の方を向いて、
「昨日黒板消してくれたの、古河だよな? ありがとう、助かった」
「え、うん。でも、どうして僕だって……?」
「西峰から聞いたんだ。こんなにきっちり四隅まで綺麗になってるのは、間違いなく古河だって」
「そっか、あの後……」
昨日僕が廊下を去った後、青葉と加瀬くんの二人は教室に戻って、そこで綺麗になった黒板を目にしたのだろう。そして、青葉が僕の特徴に気づいたんだ。
「とにかく、昨日はありがとう。おかげで部活にも遅れずに済んだ」
「ううん。別に大した手間じゃなかったし」
後ろの教室のドアが開いて、通りの邪魔になっていることに気づく。一歩だけずれるつもりが、加瀬くんは廊下の反対側まで移って、なんだか落ち着いて話し込むみたいな形になった。
「それにしても、黒板本当に綺麗だった」
「性格かな、ついこだわっちゃうんだよね。何かを並べたり整頓したりさ、細かいことをきちっとやるのが好きなんだ」
僕の言葉に加瀬くんが小さく笑った。
加瀬くんの笑顔には落ち着きがあって、他の同級生が絶対に持っていないような大人の余裕みたいな穏やかさがある。
「古河は、西峰と幼馴染なんだってな」
不意なその名前に驚いた後、昨日二人が話をしていた姿がよみがえる。その時の二人の間にあった親しげ雰囲気まで思い出されて、ちくりと胸が痛んだ。
「昨日青葉から聞いたの?」
「ああ。幼馴染がいること自体は、前々から聞いてはいたんだけどな」
「前々から?」
二人は、三年生になって初めて同じクラスになったはずだった。教室でも二人が話しているのを見かけたことがないし、青葉は部活にも入っていない。
「ああ。俺は弓道部で主将を務めているんだが、その立場上、生徒会長と話すことはわりとあるんだ」
「そっか、生徒会で……」
二人の接点は分かったけど、昨日の二人の親しげだった距離感が変わるわけじゃない。なんとなく釈然としないでいると、加瀬くんは突然感心するような調子で言った。
「それにしても、あの西峰青葉の幼馴染が古河だったなんて。正直なところ意外だった。昔からずっと一緒にいると聞いていたから、どんなとんでもないやつかと……」
「期待はずれだったよね。ふたを開けてみたら、僕みたいな地味な男子で」
クラスメイトからの珍しくない反応に、僕は自嘲した。『二人が一緒にいるなんて意外』、『あの西峰青葉と幼馴染なんて不釣り合い』そんな風に言われることは今まで何度も経験してきたことだった。
けど、加瀬くんはそんな言葉をぶつけてきたどの人とも違う表情だった。
「そんなことはない。逆に納得したくらいだ」
「なんで? 僕は青葉と違って何の取り柄もないし」
「取り柄がないことはないだろう。西峰はでたらめだから、普通はついていくこともできない」
「そんなこと……僕はただしがみついているだけだよ。本当は勉強もできないんだけど、バカみたいに量だけこなして、なんだってできる青葉の足元にどうにかしがみついてる」
「なあ。どうして古河はそこまで頑張れるんだ?」
そう訊いた加瀬くんの顔がいやに真剣で、僕も真面目に自問した。
青葉の足元には、しがみつくことすら簡単じゃない。油断をすればすぐに振り落とされてしまいそうになる。それでも僕がしがみつくのは――
「ずっと昔に、自分でそう決めたから。どんなにみっともなくても、どんなに無謀でも青葉についていこうって」
その答えの半分は自分に向けたもので、だから隣に立つ加瀬くんの方は見なかった。
「すごいな、古河は」
「すごくなんて……同じ高校に入れたのだって奇跡だし。それに、本当は入れるレベルじゃなかったから、授業についていくだけでいっぱいいっぱいで……三年生の今になって、むなしくなってきたよ。――なんて、ごめんねこんな話」
さっきからつまらない話をしてばかりだったことに、今さらになって気がついた。いくらクラスメイトとはいえ、初めて話す相手にする話題じゃなかった。もっと面白い話の一つでもできるなら、少しは何かが変わっていたのかもしれないのに。
「……いや」と、加瀬くんは呆れるでもなく、まじめな声で返した。「古河は、うちに来たことを後悔してるのか?」
うちに来たこと――青葉のことを追いかけて、この森宮第一高校へ入ったこと。
この高校に入るために、そして入った後も授業についていくために、たくさんの時間を犠牲にしてきた自覚はある。
自分の身の程に合った高校に入っていれば、青葉に憧れなんて抱いていなければ、もっと違う高校生活があったのかもしれない。
「この学校に来たこと自体は後悔してないよ。……けど、もっといろいろとできたことがあるんじゃないかって気はしてる」
「このまま卒業したくないって思っているんだろ?」
「それは……」加瀬くんの目があまりにも真剣で、思わず顔を逸らした。
教室を出てくるクラスメイトたちの視線が、怪訝そうにこっちを向くのが分かる。僕が加瀬くんと話しているのを物珍しく思っているんだろう。
不意に、昨日の放課後の、ボーリングに誘ってくれた山本くんの顔がよみがえった。
「でも、三年生にもなって今さら……僕はみんなみたいに要領よくないし」
「そんなのは関係ない。大事なのは古河がどうしたいかだ」
加瀬くんは、身体を僕の方に向けて距離を詰めた。
力のこもった表情が目の前まで迫って、ドクン、と、胸がはねた。
「僕が、したいこと……?」
「ああ」と、それはその顔と同じくらいに力強い声で。
「――青春を、したいと思わないか?」
どこか近くの窓が開いていたのだろう。春の温かな風が廊下を吹き抜けていくのを、制服の上から感じていた。