1.2
 無性に煙草が吸いたくなって、俺は書置きを残しカウンターを離れた。
『少し席を離れます。十分くらいしたら戻ります。 佐原』
前任の司書の先生はとても真面目な方だったと、採用が決まった際にここの校長は自慢げに話していた。俺はもともとこの学校に通っていた生徒の一人で、当時、現校長はまだ教頭の立ち位置にいた。偉くなったもんだなと思いながら、その日俺は前を行く校長の薄くなった後頭部を眺めて歩いた。
「そういえば、佐原先生は喫煙者ですか?」
「あ、はい。そうです。」
校長は一階の廊下の途中で非常口の扉のある方を指さした。
「学校ですし、生徒の手前本来は全面禁煙と言いたいところですが、吸いたくなる気持ちもわかります。なので、生徒に見えないところで吸っていただく分には見逃すことにしています。大人なんですから、そこらへんはうまくやってくださいね。」
「わかりました。」
そういえばこの先生は昔からそうだった。
人の道を外れるような大きな過ちさえしなければ基本的に怒らない。
高校生になったばかりの頃、やんちゃして怒られたこともあった。
この先生はそのたびに同じ台詞をはいた。
「うまく隠せればなかったことと同じ。だから賢くなれ。」
立場上そんなことを言っていい人ではなかったはずなのに、こっそりそう教えてくれた当時の校長を俺は結構気に入っていた。
「校長先生は昔から変わりませんね、そういう考え方。」
「あなただって昔から変わっていないでしょ。人なんてね、そう簡単に変わりませんよ。」
「ごもっともです。」
他愛もない会話を続け、俺はこれから自身の職場となるこの図書室にたどり着いた。
そこから数か月、今ではこうして煙草休憩を挟むことも、仕事の手の抜きどころもある程度把握できるようになっていた。
「人間は慣れの生き物だっていうの、あれ本当なんだな。」
煙草とライターを持って、俺は図書室を離れた。
非常口の扉を開けると空はさめざめと泣いていた。
「ああ、雨降ってたんだ。」
この仕事をしているとずっと屋内にいるものだから、こうして意識して外に出ないかぎり天気すらも把握し損ねてしまう。
俺は箱から一本取り出すと、それを口にくわえた。ライターをカチカチ鳴らし、火をつける。
この動作が日常のものとなってから、どれほどの月日が経ったのだろうか。
そもそも俺はなんで、煙草なんて始めたんだっけ。
『まったく、悪い子だ。』
懐かしい声が頭のなかに甘く響く。
ああ、そうだ。彼女のせいだ。
本なんて好きじゃなかったのに。煙草だって、嫌いだったのに。
目の前の所在無い煙が、かつての白煙と重なる。
長い黒髪が、煙草を支える細い指先が、脳裏をチラつく。

「先生、それ海外のバンドの曲でしょ。えっと、曲名なんだっけ。」
高校二年生のはじめ、桜の花びらが雨のように降り注いでいた。
俺はここで彼女、蝶野静香と出会った。
彼女はこちらになど一瞥もくれず、ただ一言
「ワットエバー。」
そう答えた。
「あ、そうだ。それ。」
彼女の切れ長な瞳がようやく俺の姿を映す。
しかしそれ以上彼女はなにも言わなかった。
だから俺もそのまま黙って、彼女が煙草を吸うその横顔をただ眺めていた。
しゃがみ込んでじっと彼女の姿を見上げる。
美しいという言葉はきっと、彼女のためにこの世に生まれたんだろう。
そんな馬鹿げたことを考えながら。
「君、私になにか用?」
視線に耐えられなくなったのか、彼女はわざとらしくため息をついて俺を恨めし気に見つめた。
今思えばせっかくの休憩時間を邪魔されたのだから、そんな顔をするのも当然である。
しかしその時の俺はまだ幼くて、そんなことすらわからない子供だった。
だから思ったままの気持ちを、そのまま言葉にして、ぶつけた。
「いや、用事はないんだけど。」
「けど、なに。」
「綺麗だなって思って、見惚れてた。」
彼女は手にした煙草を取り落としそうになった。
心なしか顔を赤らめ動揺した姿に、こちらまでドギマギしてしまう。
「まったく、大人をからかうものじゃないよ。」
「からかってないし。」
「君は…なんなんだ。」
頭を抱える彼女に俺は自分の名前を名乗った。
「二年B組の佐原。佐原春人(はると)。」
彼女は未知の生き物でも見るような目でこちらを見ると、なにか諦めたような、または吹っ切れたような、そんな表情を浮かべた。
「そういうことを聞いたわけではないのだけど、面白い子だね。」
ふっと薄く笑うその顔がどこか妖艶で、俺は思わず息をのんだ。
いきなり立ち上がった俺に彼女は少し驚いていた。
「どうした、急に。」
「俺、もう行くよ。でもその前に名前、教えてほしい。もっと俺、あんたと話がしたいんだ。」
彼女は少し間をあけて、ふふと微笑んだ。
「なるほど、君は少なくとも一年間、この学校の図書館に足を踏み入れなかったんだね。」
「え?」
「蝶野 静香。ここの図書館司書をしている。」
「図書室の、先生?」
「そうだよ。佐原君。」
言われてみれば図書室なんて行ったことがなかった。
「この前の地学の授業、二年B組はたしか図書室で自習だっただろう。」
「あ。」
「まったく、悪い子だ。」
どこか楽し気なその表情に俺は居てもたってもいられなくなった。
真っ赤になった顔を見られたくなくて、俺はその場から逃げるように走り出した。
「じゃあ、その、先生、またね。」
彼女に届いていたのかはわからない。
彼女はただ桜の雨の降りしきる中で、ひらひらとその右手を振っていた。

「あ」
誰かの声がして、俺は我に返った。
声のした先を見ると、見知らぬ女子生徒と目が合った。
『生徒に見つからないように、うまくやること。』
校長との約束が頭に浮かび、少しの間動きが止まる。
彼女もまた、こちらを見つめたまま何も言わなかった。
雨の音だけがこの世界を支配しているような、そんな静寂に包まれる。
ああ、あの時の静香もこんな気持ちだったのだろうか。
悪いことをしているわけではないのだけれど、なんとなく気まずいようなそんな空気だ。
「ここは吸ってもいい場所なんだけど、ごめん、内緒にしてくれる?」
もっと他にうまい対処法もあっただろうに、悲しいかな俺にはそんな言葉しか浮かばなかった。
本を読まない弊害だ。圧倒的に語彙力というものが不足している。
しかし、目の前の少女はそんな俺を見て笑い出した。
「先生、大人なのに小さな子供みたいですね。」
彼女の言葉は的を射ていると思う。
大人なんて君らが思うほど中身は大人じゃないんだ。
それだってまあ、大人になったからこそ分かることなんだろうけど。
当時の俺が、静香を大人の女性だと思っていたように、今目の前にいる彼女にも、俺は大人の男に見えるのだ。
「ああ、それよく言われるんだよね。」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ。お前ってなに考えてるかわかんねえよなとか。ガキだなとか。」
「ええ、嘘でしょう?」
「僕は嘘なんかつかないですよ。」
そこまで話して、改めて俺は自分を見つめる少女の方を見た。
そして、彼女の目を見た時、その奥に微かに見えた見覚えのある潜熱に気付き、凍り付いた。
「どうしたの先生?」
俺は何も気付かなかったフリをして、彼女の肩に自分が着ていたカーディガンをかける。
「ブラウス一枚じゃ今日は寒いでしょ。それ持って帰っていいから、着て帰りな。風邪ひくよ。」
「でもそれじゃ先生が寒いんじゃ。」
「僕は今ちょっと暑いかなって思っていたからちょうどいいんです。もう戻るしね。」
俺は早くその場を立ち去りたい気持ちでいっぱいになった。
先ほど垣間見えた彼女の熱が、大きくなってしまわないように。
「先生って面白い人ですね。」
『面白い子だね。』
少女の言葉に、あの日の静香の声が重なる。
少なからず動じてしまう自分を隠したくて、咄嗟に俺はその場を取り繕った。
「なにそれどういう意味。」
「なんでもないですよ。」
彼女があまりにも嬉しそうな顔をするものだから、俺は古傷が疼くような、甘い背徳感のようなものを感じざるを得なかった。
思い出に浸りすぎたせいだろう、まだあどけないその恥じらう顔ですら、静香に似ているような気がした。
それはもしかしたら、彼女に会いたいという自身の抱いている願望に近かったのかもしれないけれど。
「ほら、用がないならもう帰りなさい。」
「先生みたいなことを言いますね。」
「これでも一応、先生ですからね。」
なかなか立ち去ろうとしない彼女に俺は「あ」と何かに気付いたふりをした。
「どうしたんですか?」
「これってセクハラにはならないよね?」
彼女は思いもしなかった言葉に呆気に取られているようだった。
俺はそこに追い打ちをかける。もちろん、打算込みで。
「黙らないでよ。怖いじゃん。俺まだ職失いたくないんだけど。」
「先生、普段は自分のこと俺っていうの?」
その返答を狙ったのに、気が付かないでいてくれたらよかったのにと矛盾したことを考える自分もいて、そんな自身の複雑な心の動きに少しばかり驚いた。俺は今自覚している以上に混乱しているのかもしれない。
「これ以上いるともっと秘密が増えちゃうから。先生困っちゃうんで。本当にもう帰りなさい。」
「じゃあ先生、その代わりまた会いに来ていい?」
彼女の問いに俺は苦笑を浮かべることしかできなかった。
彼女の今の感情を、自分は痛いほど知っていたから。
ああ、もう手遅れだったか。
「だめって言っても来るんでしょ?」
俺はもたれた壁から体を離した。
「なんてね、いつでもどうぞ。」
平静を装いながら図書室へ歩き出すが、背中には彼女の視線を痛いほど感じていた。
やはりあの日の静香も、きっとこんな気持ちだったんだろう。
今更になって、自分が同じ立場になって、初めて気が付いただなんて。
まったくもって馬鹿みたいな話である。
そういえば昔から国語のテストにたびたび現れていた「このときの主人公の気持ちを次の4つの選択肢の中から選びなさい」という設問は今まで正解できたためしがなかった。
―君はいつだってまっすぐだからね。きっとどれも本当の答えだと信じてしまうのだろう。
静香はいつもそう言ってこんな俺を笑ってくれたが、その心中はどんなものだったのだろうか。
答え合わせをしたいのに、静香はもういない。
今頃どこにいるのか、誰といるのか、何一つわからない。
会いたい、そう思っているのは俺だけなのかもしれないし、こんなにも思われているだなんて、きっと想像もできないだろう。あの日、名前を聞いたあの時、俺に向けて見せてくれた、あの少し得意げな笑顔をもう一度見たい。
初めて会ったのが高校二年生、そして今は社会人二年生。
振り返ればもう実に七年にも及ぶ片思いだ。
忘れようと何人かの女性と恋人関係に及んだこともあったが、それもいつもあの記憶の中の白煙が邪魔をした。
「いつになったら、俺は前に進めるのかね。静香。」
図書室までたどり着き、扉に手をかける。
力を込めた時、俺は先程の少女に大事なことを聞き忘れたのをふと思い出した。
「あ、そうだ名前。聞き忘れた。」
まあ彼女はきっと来るだろう。かつての自分が静香を求めたように。
こうして待っていれば向こうからやってくるにちがいない。
大人なんてものは、いつだってずるい生き物なんだ。