柔らかな花の風が、凝り固まった仮面をじんわりと溶かしてくれる。薄い雲に覆われた青空、Tシャツにデニムジャケットを羽織るぐらいがちょうどいい涼やかな気温、風に揺れる緑に染まりつつある桜の木。外に出るには絶好の気候で、私と琴音は東大の近くにある恩恵公園という、なんだかご利益がありそうな公園に来ていた。ベンチに腰を下ろし深くため息を吐くと、琴音は花柄のシャツワンピースを綿あめのように揺らし、私の肩に手を乗せた。
「なにか、あったの?」
「うん、色々ね」
 私は薄ら笑いを浮かべて目を落とし、誤魔化した。
「そっか。相談、乗るからね?」
「うん、ありがと。でももう、大丈夫だから」
 私は笑みを浮かべて返すけど、琴音にこのことを相談することはない。それは純粋に恋をしているような琴音に、合コンのことを話すのもなんだか気が引けるという理由。琴音は聞いても、きっと困ってしまうだろうから、琴音には相談しないと決めていた。
 合コンに行ったは良いものの、偶然知り合いがいて東大ということが速攻でバレてしまった。そのせいで開始早々に距離を置かれ、大失敗に終わった。失敗はよくあることだけど、こうもなんども実らないと、さすがに心が折れそうになる。この前は彼氏に東大生だと打ち明けたら、「ごめん、好きな人ができた」とか見え見えな嘘を吐かれて振られた。まあそんな安っぽいプライドしかないのなら、どうせ私が東大生でなくとも長続きしなかっただろうし、これで良かったのかもしれない。だとしても、振られたのが気に食わないのに変わりないけど。
 浅く息を吐き、私はベージュ色のトートバックからiPadと専用ペンを取り出し、アドビのフォトショップという、イラストを描くときに使うソフトウェアを起動させた。今日の目的は公園の風景を描くことで、合コンの愚痴を零すためではない。切り替えて目の前の風景に向け、ペンを走らせる。
 琴音いわく、最近のiPadの性能は高く、十分プロがイラストを描けるくらいには向上したらしい。他にも説明されて、正直よく分からないけど、とにかく持ち運びができて楽しく描けるなら、それに越したことはない。
 私がイラストを描こうと思ったきっかけは琴音にあった。六年ぶりくらいに再会した私たちはすぐに意気投合した。たぶん同じ習字教室に通っていた中学生のころより仲良くなったと思う。理由はないけど、よくあることだと思う。高校で再会した幼馴染もそんな感じだったし。話しているうちに琴音がイラストを描いていることを知り、私も便乗して始めようとしたとき、iPadでも描けることを教えてもらった。運の良いことに、iPadは気まぐれですでに買っていた。かかる費用はアドビという有料のアプリを入れるだけだったから、余裕でバイト代からまかなえた。こうして特に日にちなんて決めず、私たちはどこかに赴いたりして色んなイラストを描いていた。生物だったり、風景だったり、気の向くままに。琴音と違って私はまだまだ下手だけど、それなりに楽しいし、完成した絵を見ると子ども心をくすぐられるように胸が高鳴った。
 今回のお題は桜の木で、もうほとんど散ってしまったけど、それはそれで風情がある気がした。互いに黙々と描き続けていると、肩を叩かれて横を向く。
「凛ちゃん、これ知ってる?」
 琴音はスマホを見せてきて、そこには一枚のイラストが映っていた。桜を見上げる、髪の長い女子高生。花嵐とともに髪はなびき、髪を抑えるも、透き通る栗色の髪からは石鹸の香りが溢れ出ているような、そんな錯覚が私を襲った。
 作者は『アガ』。
 ずっと眺めていたいけど、他のイラストも見たくてスクロールする。浜辺や、学校や、商店街。場所は様々だけど、メインで描かれているのはどれも美しい少女や女性だった。加えて、もう一つ共通している部分があった。
 それは、どの絵も顔が描かれていなかった。
 たとえば逆光を利用していたり、手や物で隠したり、そもそも背を向いていたり。顔だけは直接表現せず、それ以外の方法で女性の美しさを表現しているのが、とても個性的で、魅力的だった。きっとそこに映るのは、自分の理想の顔。
 私の目には、琴音の笑顔が映っていた。
「きれいだよね」
 すうっとバニラのような香りが軌道に乗ってきて、琴音へと視線が吸い寄せられる。髪が茶色の髪が生きているかのように風に乗り、琴音は柔らかく手を添えた。まるでこの、『アガ』のイラストのように。
 琴音はとうとつに言い、私はつい噴き出してしまった。私が勝手に琴音の顔を絵に当てはめたせいで、まるでナルシストみたいだったからだ。琴音はなんで笑ったのかしつこく聞いてくるけど、私は「なんでもないよ」の一辺倒で受け流し続けた。琴音のこと本当に可愛いとは思うけど、いくらなんでも直接言うのは恥ずかしく気が引けた。ふくれっ面になっていたけど、チョコレートを一個あげれば、とたんに満開の桜のような笑みを零した。すると琴音は口を広げて待機していて、つまりおかわりということだろう。だけど卑しさはなく、むしろ笑顔にさせられてしまった。
 同時に、空風が吹くみたいに乾燥して、心が痒かった。
 琴音に嫉妬していないかといえば、とうぜん嘘になる。接していれば分かる。琴音の可愛らしい言動は作り物ではなく、自然と生まれていることを。琴音はきっと息苦しさを感じず、頑張らなくても、順風満帆に生きられるのだろう。
 ふわりと、青白い日差しをため込んだ春風が吹き抜ける。手のひらに桜の花が乗った。見上げて、だれもが笑顔になる桜を目の当たりにし、琴音に気づかれないように浅くため息を吐く。
 私も、琴音みたいになりたかった。
 そして琴音とは違って、恋なんかせず、淡々とずるがしこく生きたい。
 けっきょく春が来たところで、桜の花のように散り、また凝りもせず芽吹く。
 そんなの、時間の浪費でしかない。
 琴音の欠点といえば、恋という花が咲き誇ってしまったことだった。