東大に行くと損ばかり。
 日本で最高峰とされる大学、東都大学で一年過ごしてみて、私、飯島凛が一番に感じたことだ。死ぬ気で頑張った受験が終わったと思えば、入学後の勉強もそれなりに大変。一年経った今は要領を掴んである程度楽になったけど、高校の同級生の遊んでいる風景を載せたSNSを見ると、羨ましく思ってしまうことが多々ある。最近、東大を低く見る連中が増えているけれど、本気で受験してみて、それで東大のメンバーに加わってみれば思い知る。東大には、本当の天才がいるウジャウジャいる。そんな中で退学にならないよう、私は生き残らなければいけない。そのため他の大学に鑑みても、東大生は遊ぶ時間は少ない。やらなきゃいけないことはバカみたいに多いし、講義の内容だってついていくので精いっぱいだ。必然的に勉強に費やす時間が多くなり、だからコンパに行ける回数は減ってしまう。けれども、遊ぶ時間が少ないことなんて、まだ取るに足らないこと。
 なによりの問題は、モテないことなのだ。
 東大女子っていうだけで男子から距離を取られることは入る以前から知っていたけど、まさか東大内でも避けられるとは思いもしなかった。東大内には、東大女子禁止のサークルがある。当初は信じられなかったけど本当のことで、実際にバスケサークルに行ってみれば部室に入ることさえ許されなかった。中学生のころにバスケやっていたから少し残念ではあったけど、そこまで本気ではなかったから別にそこまで落ち込まなかった。それに代わりに始めたイラストを描くという趣味ができたから、なんとか楽しく生活できている。それでも、喉に魚の骨がつっかえるみたいに納得いかなかった。けど現実なんてそんなもので、世の中には理不尽が溢れている。その理不尽をどう被(こうむ)らずに生きていくかで、充実した人生を送れるか決まってくるのだと思う。
 私が東大に入学したのは、もともとそれなりに学力が高かったということもあるが、それだけではない。
 私はできるだけ肯定して生きてきた。人間関係は基本、浅く広く。女子グループにいて、気に食わない言動があったとしても、決して否定はしないし、意見もしない。ただただ言葉を反復するだけ。例えば「○○かっこいい」と言われれば、「かっこいいね」と返すだけだ。どうせ意見なんて求めてはいなくて、共感してほしいだけだから。
 男子が相手ならば、なおさら肯定する。「すごい」とか「かっこいい」とか微笑んで言って、自尊心を満たしてやるだけ。それだけで勝手に良い気になって、瞬く間に話しやすいと勘違いして、コロッと簡単に恋に落ちてくれるから。
 集団で生きていくだけなら、周囲の空気を読み、うまく合わせていく、肯定していくだけ。なにも難しいことなんてないし、なにより堅実な生きかただと、私は思っている。
 つまり、私の生きる上でのなるべくモットーは、『ずるがしこく』。
 なるべく、とか思っている時点で私の適当さが窺えるけど、じっさいそんなものだろう。明確な目標があって日々生活している人間なんてそうそういない。なんとなく勉強して、親や教師に言われるままに進路を決めて、目標が見つかれば良いな、と浅はかな考えで進学していく。私もその中の一人。進路の幅が多い方が良くて、イケメンの東大男子と付き合いたいからと、安っぽい理由で東大への進学を決めた。
 だけど入ってみればどうだろうか。薄々勘づいてはいたけど、イケメンの東大生にはすでに美女の彼女がいて、残っているのはモサい根暗ばかり。他校の高学歴イケメンを狙おうにも、東大生というだけで引け目を感じるのか、楽しく会話することもできない。そんなのおかしいとは思うけれど、だからといって私が表立って反抗することはありえない。
 でなければ、私のなるべくモットー『ずるがしこく』に反するからだ。
 今日も今日とて私はモットーを胸に、反抗することなく忠実に講義を受け終え、食堂でミートスパゲティを食べていた。胸の辺りまで延びる黒髪を後ろに回し、麺を巻いて口に運ぶ。トマトの甘みと肉の酸味の混じった匂いがするけど、目の前からは豚骨の脂っこい臭いが鼻を過ぎった。私の前の席に座っているのは、東大に入ってからの親友、立花琴音。ボブヘアーの横髪を耳にかけて、ずるずると麺をすすり、油こってり豚骨ラーメンを食べている。テカテカと油っこい桜色のリップは、同性の私をくぎ付けにするほど色っぽかった。
「いやー、東大に来て一番得したのって、学食がおいしいことだよね」
 鈴の音のようなムラのない声で言い、琴音は白シャツワンピースの胸元に斑点の染みをつけて、私に満面の笑みを向けてきた。つい小さく笑ってしまいながら服の染みを指さすと、琴音はコロリと目を剥いた表情に移り替わって、また、花のような笑顔になった。ああ、これはモテるなと感心しながら、私は頬杖をつきながらティッシュを渡した。
「そういえば、また告られたんだって?」
「うん、今回は先輩に」
「で、振ったんでしょ?」
「当たり前だよー。わたしには、好きな人がいるからね」
 汚れが取れずため息まじりに肩落としながらも、視線は斜め上を向いていた。私が同じ方向を見ても、当然そこにはなにもない。だけど、琴音の目にはさぞかし素敵な男性が映っているのだろう。記憶に浸るだけでほんのり頬を赤く染め、蛍光灯の明かりが琥珀色の瞳上で揺らいでいた。
 琴音は高校生のころから、ずっと同じ人に恋をしている。
 何回も、耳にたこができそうなほど聞かされたから、もう覚えてしまった。
 琴音は美術に特化した東京芸術高校に通っていて、美術部の部員だった。夏休みに学校見学があり、美術部の体験も並行して行われたそうだ。そこに現れたのが、琴音の初恋の中学生だったという。どこが好きなのかなんとなく聞いてみたことがあったけど、たしか雰囲気と言っていた気がする。あいまいだと感じつつ、人の印象なんてそんなものだろうとも思った。名前はなんだっただろうか。聞き流しているせいか、肝心な箇所を忘れてしまったけど、どうせまた話すだろうし、聞けば長くなりそうだからやめた。
 まさに、琴音は恋する乙女。気のせいかもしれないけど、フェロモンが目に見えるかと錯覚させられるほど魅力的だった。何もしなくたって男が寄ってくるのも頷ける。東都大の女子は避けられるというけど、琴音みたいな美女はとうぜん例外だ。羨めしく睨みつけても、琴音はにこりと笑って首を傾げる。鈍感で、純粋で、だれにでも優しいけど、きっと、琴音は損する。
 運命を実現してくれるほど、現実は優しくない。
 私も彼氏は欲しいけど、琴音みたいに恋をするなんてまっぴらごめんだ。
 ずるがしこく生きるのに、恋なんていらない。