道場の近くの公園で刀祢は心寧が来るのを待っている。ほどなくすると、黒髪のロングストレートの女子が公園の中に入ってきた。一瞬で心寧だとわかるが、いつもと雰囲気が違う。
心寧がゆっくりと外灯の下まで歩いてくる。心寧の姿が良く見えるようになった。
白のニットワンピースを着て、フレアーなスカートを履いて、少し化粧もしている。いつもよりも大人びて、上品で清楚に見える。
そのまま心寧は刀祢の近くまで歩いてくる。その可憐さと美しさに刀祢は言葉を失う。今まで学校で元気よく、刀祢と口喧嘩をしていた心寧の姿はどこにもない。ここにいるのは上品で清楚な美少女だ。
「誰だ? 本物の心寧か?」
「何言ってるの? 心寧よ」
心寧は不思議そうな顔で刀祢の顔を、優しい眼差しで見つめてくる。
心寧相手なのに刀祢は自分の体が自然と緊張していくのがわかる。
黒いまつ毛が濡れている。漆黒の瞳がとてもきれいだ。唇がグロスで濡れて光っている。頬がほんのりとピンク色に染まっている。どこから見ても完璧な美少女だ。
「今日は、化粧をしてきたんだな」
「似合ってるかな?」
「ああ」
刀祢はなるべく平静を装うが、声が妙に高くなってしまう自分を自覚する。心寧が刀祢の目の前で立ち止まって、刀祢を見上げる。瞳がウルウルと潤んでいて、瞳に吸い込まれそうだ。
「刀祢、突然だけど、私、刀祢のことが好き! 付き合ってほしいの!」
「え!」
突然の心寧の告白に頭が真っ白になる。全てのことが頭から吹き飛んで消え去る。心寧が何を言っているのか理解できない。
心寧は世話好きなので、刀祢のことを面倒みていると思っていた。中学生の頃は刀祢のことを心寧は嫌っていたはずだ。どこで変わった。心寧に何があったんだ?
心寧に何か変化がなければ、刀祢のことを好きになることなんてあり得ないと、刀祢は思った。
「心寧、何かあったのか? 相談になら乗るぞ」
「もう1回言うね。私は刀祢のことを本気で大好き。だからお付き合いしてください」
悩み事ではなかった。本気で心寧は刀祢と付き合いたいと言っている。少し時間が欲しい。理解がついていかない。心の準備が全くできていない。
今まで心寧のことは大事な友達だと思ってきた。これは本当だ。でも恋愛対象として女性扱いしていなかった。
「ちょっと待ってくれないか。頭を整理する時間がほしい」
「いつまででも待つわ」
こんな美少女を彼女にしていいのか?刀祢は心寧の顔を見つめ続ける。心寧が微笑んで1歩前に身体を寄せる。
心寧の可憐で美しい顔が目の前に迫る。心臓がドキドキと鼓動が激しい。これ以上、緊張すると、身体が硬直してしまいそうだ。
「刀祢は私のこと嫌い?」
刀祢にとって心寧は安定剤である。嫌いなはずがない。友達の中でも一番信頼できるのは心寧だ。家族よりも一番信頼も信用している。
「心寧のことは好きだ」
心寧は嬉しそうに顔をピンク色に染めて恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。そんな可愛い表情と仕草をされると視線を合わせていることができない。刀祢は照れて心寧から視線を逸らした。
「刀祢に好きって言ってもらえて、すごく嬉しい。胸がドキドキする」
既に刀祢の胸は高鳴り過ぎて爆発寸前だ。体中から汗が噴き出してくる。体が熱くて、喉が渇いて仕方がない。
「ちょっとジュースを買ってくるから、待ってろ」
「うん」
刀祢は緊張感に耐えられずジュースを買いに自販機へ走る。ジュースを2本買って、すぐにジュースのプルトップを空けて一気に飲み干す。ジュースが体に染み渡って、少しは頭が回転するようになった。
刀祢は歩いて戻ってくるとジュースを心寧に渡す。心寧は嬉しそうにジュースを飲んでいる。その姿もきれいだ。
「こんな俺のどこがいいんだ?」
「全部よ。 全部、大好き!」
心寧は深く頷く。そして嬉しそうに微笑む。
「付き合おう。しかし、男女の付き合いなんて俺にはわからないからな」
「刀祢は私の傍にいてくれるだけで十分に幸せ」
心寧は嬉しくて、刀祢の胸に飛びこんで、刀祢に抱き着くと、刀祢の胸の中で涙を浮かべている。刀祢は心寧の体を受け止めて、心寧が倒れないように背中に手を回した。
道場が終わった後に直哉に頼んで、刀祢の部屋に泊まってもらった。
「刀祢、今日は稽古中も真剣な顔をしていたが、何かあったのか? 心寧も顔を真っ赤にしたまま、刀祢のほうへ顔を向けないし、喧嘩でもしたのか?」
「―――――付き合うことになった―――」
「はあ?キチンと聞こえなかった。もう1度、大きな声で言ってくれ」
「俺と心寧は付き合うことになった!」
「な!」
直哉は刀祢の声を聞いて、爽やかな笑顔のまま固まっている。直哉の気持ちはわかる。刀祢自身も、心寧と付き合うことになったことが、未だに信じられない。
引きつった笑顔のまま、直哉が刀祢の両肩を鷲掴みにする。
「一体、どういうことなんだ? 詳しく聞かせろ!」
「俺だって、どうなってるのか、未だにわかんないんだよ。昨日、心寧に突然、告白されたんだ」
直哉に昨日の告白の出来事の全てを刀祢が説明する。始め緊張していた直哉だったが、段々と意味を理解してきたらしく、刀祢の顔を見てニヤニヤと笑っている。
直哉からすれば、刀祢も心寧も幼すぎというか、自分の気持ちに気づくのが遅すぎると思っていたので、とうとう心寧が自分の心を理解したかと、大きく頷いた。
「それで心寧からの告白にOKを出したんだろう」
「ああ、心寧を泣かせたくないと思ったからな。俺は心寧には笑顔でいてほしいからな」
「はあ? 理由はそれだけか?」
「それだけだが、変か?」
直哉は大きくため息をついて、首を横へ振った。
「お前は心寧のことをどう思ってるんだ?」
「最近、気づいたんだが、俺は心寧のことを妹のように思ってるんだと思う!」
「はあ? 妹? お前、何を言ってんだ?」
刀祢と心寧は小学校4年からの付き合いだ。道場の中でも2人は仲良く、一緒に稽古に励み、中学の時には良きライバルとなっていた。
それまでの間、刀祢が兄のように心寧のことを可愛がっていたと、刀祢が説明する。
中学へ入学した頃から心寧は剣斗を尊敬し始め、刀祢とは距離を離れていくことになるが、刀祢は剣斗を尊敬する心寧のことが気に入らなかった。
なんだか妹を取られたような気がしたと今、刀祢は当時を振り返って、直哉に説明する。
「だめだ。これは俺が思っていたよりも重症だ」
「誰か、重症患者でもいるのか?」
「お前のことだよ。この鈍感!」
直哉は刀祢の肩を握ったまま、ベッドに座らせる。そして刀祢の前に仁王立ちで立った。
「刀祢、お前はすごい勘違いをしている。自分自身のことで勘違いをしている。良く聞け。お前は昔から心寧のことが好きなんだ。心寧が初恋の女性なんだ」
「はあ? 直哉、一体、何を言い出すんだ?」
「刀祢、鈍感にもほどがあるぞ。刀祢は心寧のことを妹としてなんて見てない。初恋の女友達として、今まで友達でいたんだ。妹の部分を初恋の女子に変えて考えてみろ」
刀祢は軽いパニックを起こして、頭を抱える。
(今まで俺が思っていたのは勘違いだったのか!)
小学校で心寧に出会った時、既に刀祢は心寧に初恋をしていた。恋人としての付き合い方がわらかなかったので、心寧を妹扱いしていた。妹扱いをしなければ心寧に近づくことができなかった。
中学になってから心寧が剣斗を尊敬し始めた時、刀祢は嫌な気持ちになった。それは妹を取られた気持ちではなく、初恋の好きな女子を剣斗に取られたと勘違いしたためだ。だからこそ剣斗と異常なほど険悪な仲になった。
そして心寧に口喧嘩を吹っかけて楽しむのは、可愛い妹に対して、意地悪をして楽しむ兄の気持ちではなかった。好きな初恋の女の子に振り向いて欲しくて、意地悪をする男子の行動といえる。
そして、常に心寧のことが頭から離れないのは、妹のことを心配する兄の気持ちではない。初恋の女子である心寧のことで頭がいっぱいだったのだ。
刀祢は段々と、そのことを自分で理解しはじめる。すると体が緊張して、動きが固まる。
「俺の初恋は心寧だったのか―――知らなかった!」
「そうだ。知らなかったのは刀祢だけだ。俺や莉奈はそのことに気づいていたぞ」
「心寧は俺の大事な妹代りではなかったのか?」
「誰が幼馴染を妹と勘違いするんだ。妹のはずないだろう。お前は小さい頃から心寧のことを大好きだったんだ。お前が好きな女性は心寧だ」
刀祢は直哉にズバリと本当のことを言われて顔色を無くして狼狽する。
(俺が心寧を守りたいと思っていたのは、心寧のことを妹だと思って、守りたいと思っていたわけではなく、心寧に惚れていたからなのか)
刀祢はベッドの上にゴロンと寝転がる。ベッドの端に直哉が座った。
心寧が刀祢のことを好きでいてくれたこと、両想いであったことを、今更ながらに安堵する。心寧が他の男に奪われる前で良かった。
「これで自分の心を理解したか? まだ言い訳があるか?」
「いや、自分の心を理解した。直哉の言っている通りだ。俺が勝手に勘違いをしていただけだ。俺は小学校の頃から、心寧に惚れていたんだな」
「やっとわかったか。鈍感!」
直哉にそう言われても仕方がないと思った。自分で考えても鈍すぎる。刀祢の心の中にあったモヤモヤが一気に解消されていく。
そして小学校4年生の剣道大会の時、満面の笑顔で心寧が刀祢に贈った言葉を思い出す。
「刀祢、恰好いい! 大好きよ!」
あの瞬間から刀祢は心寧に初恋していたことを素直に理解した。
心寧の告白で、2人が付き合い始めてから1週間が経った。
なぜか、心寧と刀祢が付き合っていることは五月丘高校の生徒達に噂として広まった。
心寧は五月丘高校でも美少女として有名である。そして刀祢は、険しい顔と不機嫌な態度で有名だ。その2人が付き合ったのだから、噂にならないはずがない。心寧と刀祢は美女と野獣に例えられて噂が広まった。
心寧を狙っていた男子生徒達は、なぜ心寧の相手が刀祢なのかと不満をもらし、納得する者はいなかった。男子生徒達は心寧が思い直すように説得することに決めた。
刀祢と付き合ってから心寧に告白する男子生徒達の数が増えた。
「心寧さんは、絶対に騙されている。目を覚ましてほしい」
「刀祢は良い人です。皆が誤解しているだけです。私が好きになった人です。刀祢を信じてあげてください」
「あんな野獣のような男はやめておいたほうがいい」
「私はそんな刀祢が好きなの! だから諦めてね!」
心寧は告白される度に丁寧に断って、刀祢が良い人であり、皆が誤解していることを丁寧に説明していった。
心寧の刀祢を想う、献身的な説得で、男子生徒達は心寧に惚れ直し、涙に暮れる日々を送った。刀祢のことが怖いのか、誰も直接的に刀祢に心寧のことで文句を言ってくる男子生徒はいなかった。
昼休憩、刀祢はいつものように、机に顔を伏せて眠っている。刀祢の席の近くでは、心寧と莉奈が椅子に座ってお弁当を食べている。
昼休憩に刀祢が寝ていても心寧が刀祢を起こすことはない。刀祢の寝顔を見て、安心したように微笑んでいるだけだ。莉奈はそんな2人を見て、ニコニコと笑顔でお弁当を食べている。
「刀祢くんって、起きてる時は不機嫌な顔をしているのに、寝ている顔は可愛いよね」
「莉奈、そのことは言ってはいけないの。刀祢が照れて寝顔を見せてくれなくなるから。刀祢は警戒心が強いから、静かに見ないとバレちゃう」
「心寧が黙って、いつも刀祢くんの寝顔を見て、満足しているのね。もう何だか聞いてるほうが照れるわよ」
「だって可愛い寝顔をみたいもの! だから黙って傍にいるの!」
実は刀祢は熟睡している訳ではない。寝ていても耳だけは聞こえている。いつもの通りにしていたいので、寝ているだけだ。
心寧と付き合い始めたが、男女の付き合いというものがわからない。心寧と顔を合わせるのが照れくさく、気恥ずかしい。
「刀祢くんは心寧と付き合って、照れてるんだと思うわ」
「莉奈、そのことも言ってはダメなの。刀祢の前でそれを言うと、もっと照れて、恥ずかしがって、私の顔を見てくれなくなるから」
「心寧は刀祢くんの性格をよく知ってるわね。熱い、熱い」
寝てはいるが莉奈と心寧の会話は全て聞こえている。だから余計に顔をあげられない。刀祢はいつもの通りに眠りにつく。
心寧は刀祢と付き合ってから少し変化している。まず髪をポニーテールからロングストレートに変った。これからは剣道の時だけ髪を結えばいいという。
髪を下ろしている心寧を見ると、刀祢は未だに胸がドキドキする。まだ心寧が髪を下ろしている姿になれない。こんな美少女が自分と付き合って良いのか、自問自答してしまう。以前に刀祢は心寧にお願いしたことがある。
「心寧、普段からポニーテールにしてくれないか」
「髪を下ろしているほうが、刀祢が気に入ってくれてるから、下ろしておくね」
「――――――!」
刀祢が密かに心寧のロングストレートを気に入っていることを心寧に見透かされていた。そのことが恥ずかしくて照れくさかった。
心寧は毎日、お弁当を作ってくれるようになった。刀祢が早弁をしても以前のように文句を言ってこない。嬉しそうに刀祢が食べている姿を見て微笑んでいる。
「美味しい?」
「今日は美味しい」
「よかった。味がおかしかったら、いつでも言ってね。練習するから」
(そんなこと言えるはずないじゃないか!)
そんなことを言われると緊張する。照れる。
この1週間の間、心寧を見ては刀祢は照れている。そんな刀祢の姿を見て直哉がニコニコと爽やかに笑う。
「心寧と付き合って良かったな。2人が仲良さそうで見ていて嬉しいよ」
「直哉まで俺を冷やかすなよ!」
直哉に言い返したいが、言い返す言葉が見つからない。刀祢は直哉から顔を逸らす。顔が真っ赤である。
杏里は心寧の元に走って来ては、心寧に彼氏ができたことを羨ましがる。
「心寧が刀祢のどこが良かった――教えてよ!
「そうね。刀祢の優しい所かな。後、色々あって、全部言えないよ」
「刀祢は心寧のどこが良かったの? 女性のどこを好きになると付き合いたいと思うの?
「――――――!」
刀祢は顔を真っ赤しに俯いて、無言のまま椅子に座っている。
「いいなー! 心寧は彼氏ができて! 早く直哉も私に振り向いてくれないかな! ねー直哉!」
そして心寧に、刀祢のどこが良かったのか、色々なことを聞きたがる。心寧は杏里に問われても微笑むだけで答えない。
杏里は噂好きで、聞いた噂を流す癖がある。だから、心寧は杏里には何も言わない。心寧は杏里の扱いに慣れている。
「心寧と刀祢のことをもっと聞きたいな。私も彼氏がほしいから。参考にしたい」
「杏里、直哉は直哉だよ。刀祢とは違うから参考にならないわ」
「そっかー! そうだよね!」
刀祢は付き合うという意味がまだわからない。心寧は一緒に傍に居てくれるだけでいいという。だから、刀祢はいつもの自分のペースで暮らすことに決めた。わからないことで悩んでも仕方がない。
「刀祢は刀祢らしくしていればいいからね。そういう刀祢が好きなんだから」
「ああ、そうさせてもらう。 俺はやっぱり、俺らしくしかできない!」
付き合い始めてからも、刀祢と心寧の暮らしには大きな変化はない。変化したことは、刀祢の近くには心寧が黙って一緒にいることだ。
最近の心寧は以前より口数は減った。刀祢が心寧を見ると優しく微笑んでいることが多い。心寧の微笑みを見ると刀祢は安心する。
心寧と口喧嘩ができないので少し寂しく思うが、常に一緒にいるので嬉しい。こんな繋がりが、付き合うということかもしれないと刀祢は思う。こういう付き合いも良い。
中間考査が終わって、学校の廊下に50位までの成績上位者の成績が張り出された。莉奈は今回は4位の成績だった。心寧は34位と健闘している。
刀祢は自分の成績を思い出してため息をつく。とうとう国語で欠点を取ってしまった。
中学生の頃は授業中に寝ていても、それなりの成績を維持できた。
しかし、高校生になってからは、道場での稽古が終わった後に、勉強をしないと授業の勉強に追いつけなくなっていた。刀祢は夜にこっそりと勉強していた。
このままだとマズイという感覚は持っていたが、とうとう現実となった。
心寧には刀祢は自分の成績を言っていない。心寧からも聞いて来ない。昔の心寧なら、執拗に成績を聞かれ、勉強しなさいと言ってきたことだろう。
これからの勉強はコツコツと積み重ねが必要になってくる。公輝兄貴も剣斗兄貴も大学へ進学している。両親は当然、刀祢も大学へ進学すると思っている。
刀祢だけ大学に進学しないのは色々と対面が悪い。
刀祢は自分の机に座って、両腕を組んで考える。心寧も成績の悪い彼氏よりも、成績の良い彼氏のほうが良いはずだ。なんとか成績を良くしなければならない。刀祢は目を伏せて考え込む。
「どうしたの刀祢、すごく難しい顔をして考え事なんてして」
心寧が心配そうに刀祢の顔を覗き込む。
成績が悪くなったからといって、急に刀祢が真面目に授業を受けだしたらクラスの皆が驚く。そのことで刀祢が目立つのは確実だ。
刀祢としてはなるべくクラスでは目立ちたくない。しかし、これからは授業を聞いていないと勉強についていけなくなる。
「自分が思っていたより、成績が落ちた。なんとかしたいけど、良い案が見当たらない」
「道場で稽古がない日は、全て勉強に当てたらどうかしら」
なるほど、道場で稽古をしない日に集中して勉強すれば良いのか。なかなか良い提案だと思う。
しかし、果たして毎日、授業中に居眠りしている刀祢が、1人で勉強して、今の授業に追いつけるだろうか。今までも夜の時間は勉強に当ててきた。それでも、この成績だ。
「自分1人では勉強が追いつかない」
「私が教えてもいいよ?」
心寧に勉強を教えてもらうのは、自分の欠点を見せるようで恥ずかしい。しかし、頼りになるのは心寧しかいない。直哉ではあてにならない。
そういえば、直哉はなぜ成績が平均なのだろう。以前は刀祢と同じくらいの成績だったのに、高校2年生になってから成績が安定した。
「申し訳ないけど、心寧、俺に勉強を教えてくれるかな?」
「もちろん、喜んで大丈夫だよ。勉強する場所は刀祢の家でいいの?」
刀祢の家は道場と隣接している。心寧も小さい頃、刀祢の家に遊びに来たことがあり、道場にも通いやすい。自分の部屋へ心寧を入れるのは恥ずかしいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「ああ、俺の部屋で勉強を教えてくれ」
「任されました」
公輝兄貴も剣斗兄貴も進学塾に通っていた。刀祢も高校3年生になったら、進学塾に通う予定をしていた。
進学塾は高校の授業よりも高度な勉強を教えてくれる。進学塾へ通う前に下準備をしておく必要がある。今の刀祢の成績では進学塾から断られる可能性が高い。
「心寧、俺、3年生になったら進学塾に通いたいんだ」
「いいことだね。私も刀祢と一緒の進学塾に通いたいな」
大学に進学するなら、できることなら心寧と同じ大学を受験したい。しかし、今の成績では無理だ。相当の努力が必要だ。刀祢は今から勉強に打ち込むことにした。時期を延ばしたら、それだけ不利になる。
「今日は丁度、道場の稽古は休みだ。今日からでも頼めるかな?」
「うん、大丈夫」
心寧はとても嬉しそうに微笑んでいる。なぜ、心寧が浮かれているのか、理由がわからない。学校が終わってから、刀祢の部屋で勉強を教えてもらうことになった。1つだけ心寧に重要なお願いをする。
「心寧、勉強している時は髪型をポニーテールにしてほしい」
「刀祢がそういうなら、ポニーテールにするね。でも変なお願い」
勉強している間、ロングストレートの心寧を見ていると、美少女すぎて緊張して勉強が手につかない。
今日は学校帰りに一緒に刀祢の家へ一緒に行くことになった。初めて心寧と一緒に下校することになる。照れる。
田園地帯を抜けて旧市街地へと2人で自転車を押しながら歩いていく。心寧は何も言わずに刀祢の隣を歩いているだけだが、とても嬉しそうだ。刀祢の家は旧市街地にあり、心寧の家は市街地にある。
家に戻った刀祢は何も言わずに部屋へ向かおうとする。すると母親の由香里(ユカリ)に見つかってしまった。
「今日は心寧に勉強を教えてもらう」
「心寧ちゃんなの。すごくきれいなお嬢さんになったわね。刀祢がお世話をかけてゴメンなさいね」
「お久しぶりです。由香里小母様。今日はお邪魔させていただきます」
母の由香里に知られたということは、父の大輝の耳にも入る。父の大輝は何も言わないと思うが、両親に心寧のことを知られたことが恥ずかしい。
「心寧、早く行こうぜ」
刀祢は急いで心寧を部屋へと案内した。
階段を上って2階の刀祢への部屋へ向かう。扉を開けて刀祢の部屋へ入る。
刀祢の部屋は純和風で、机、洋服ダンス本棚ぐらいしか置いていない素っ気ないシンプルな部屋だ。洋服ダンスの上には道着が置かれ、部屋の隅には木刀が3本置かれている。
刀祢はどこかの部屋から座卓を持ってきて、部屋の中央に座卓を置く。刀祢の左隣りに心寧が座る。刀祢は鞄の中から国語、古典の教科書を座卓の上に置いて、ノートを用意する。
「今回、欠点を取ってしまったのは国語なんだ。5教科の中でも国語は苦手な教科の1つなんだ。特に古典が苦手でさ」
「うん、わかった。古典からやっていこうか」
心寧は深く頷くと上品に微笑む。
心寧の説明では、国語は積み重ねの勉強が重要な教科だという。確かに刀祢は中学生の頃は国語は悪い点数ではなかった。
段々と下降線を辿り、高校2年生になって欠点を取ってしまった。積み重ねを疎かにした結果だという。
「国語は積み重ねの教科なの。その点では他の教科と違うのよ。中学の時から、授業中に居眠りしているから、こうなるのよ」
「俺も失敗したと思ってる。そこを心寧の力で、なんとかしてほしいんだ! 頼むよ。協力してくれ!
「仕方ないわね。いいわよ。任せて! 何とかしてみせるから!」
心寧は頬をピンク色に染めて、恥ずかしそうに刀祢を見つめる。
刀祢なりに国語の勉強を夜にしていたが、心寧の指摘では基礎ができていないから、きちんと理解していないらしい。
特に古典は苦手で、同じ日本語だとは思えなかった。どこか違う国の言葉のように受け捉えてしまう。
「古典は現代語の延長線上にあると思ってね。別に考えると余計にわからなくなるから。古典も日本語の一部よ」
「国語の一部と言われてもピンとこないんだ。どうしても別の言語に見える」
「そうよね。刀祢から見れば別の言語にみえるよね。その気持ちは理解できるわ」
古典は、一旦、現代語訳に変換して、物語全体を把握した後に、それを基にして、1行1行の文章を理解していくことが大事と心寧は優しく教えてくれる。
心寧は刀祢のノートに古典の現代語訳をきれいな文字でサラサラと書いていく。その真剣な横顔はとても美しく、刀祢の目を惹きつける。時々見せる悩んでいる表情も可愛らしい。
「刀祢、あまり見つめないで。恥ずかしくなっちゃう」
「―――ゴメン。つい見惚れた」
「そんなこと言わないで、勉強ができなくなっちゃう」
慌てて刀祢が自分のノートへ目を移すと、古典の現代語訳が完成していた。これなら刀祢も読めるし、理解することも覚えることもできる。
ノートと教科書を照らし合わせて、古典文を理解していく。
心寧が身を乗り出して、指でノートの現代語訳と古典分の同じ箇所をきれいな指でなぞって教えてくれる。
心寧の手は肌が絹のようにツルツルしていて、指は長く、手が細長くて形が良い。そしてとても柔らかそうだ。剣術をしている手とは思えない。刀祢は心寧の美しい手に見入ってしまう。
「そんなに手を見ないで。私、手は自信がないの。恥ずかしいよ」
「そんなことないよ。心寧の手はとてもきれいだ」
心寧は手を隠して、恥ずかしそうに頬をピンク色に染めて口を少し尖らせる。その表情がとても可愛い。今まで心寧を見ても、こんな気持ちは湧いてこなかった。刀祢は自分自身の変化に驚く。
刀祢は心寧を真似て、古典文を現代文に訳してノートへ書いていく。段々と古典文の難しい言葉も理解でき、語訳できるようになってきた。
現代語訳と古典文を照らし合わせて、自分で同じ箇所を確かめていく。
刀祢が少し悩んでいると、心寧が身を乗り出して、指でなぞって教えてくれる。きめ細かい肌がきれいだ。思わず吸い寄せられるように心寧の手を取って両手で握る。
心寧の手は柔らかくてツルツルしている。剣術している手とは思えなかった。
「剣術をしていると、何度も手のマメが潰れたの。その時は手全体が硬くなっていたんだけど、今まで稽古しているうちに段々とマメができなくなって手が元通りに戻ったの」
「そうなのか? 心寧の手も指も剣を握ったことがあるように見えない。とてもきれいだ」
「へんな所を褒めないでよ。恥ずかしいでしょ」
心寧はそう言って、ゆっくりと刀祢の両手から自分の手を抜いて、隠してしまった。恥ずかしそうに刀祢から視線を逸らす。
心寧をあまり困らせてもいけない。刀祢は気分を切り替えて、国語へと教科を移す。
心寧の説明では、国語は全ての回答が教科書の中に載っているという。その答えを見つけ出す感覚を磨くことが大事だという。刀祢は初めて、そんな説明を聞いた。
心寧は刀祢のノートに地の文1つ1つの要点を書いてくれる。真剣に取り組んでいる横顔はスマートでとても美しい。
心寧の顔のきれいな造形がよく見える。刀祢は心寧の顔に見惚れて、視線を外せない。
心寧が刀祢のほうへ顔を向ける。その顔は目が潤んでいて、頬が上気している。さっきよりも顔と顔の距離が近い。
心寧の甘い吐息が刀祢の顔にかかる。刀祢の胸がドキドキと高鳴る。刀祢も吸い込まれるように顔を近づけていく。
「刀祢、どうしたの? 顔が近いよ! 恥ずかしいよ!」
「あ―――心寧の顔を見ている間に、段々と顔を近づけてしまった。すまない」
「キスするのかと、ドキドキした」
(キス――――! 俺はもう少しで、心寧にキスしようとしていたのいか!)
心寧は顔を赤らめて照れている。そんな心寧を見て、刀祢も顔を赤くして、照れる。
「ごめん。今度から気を付ける」
「私も、刀祢とは――― でもまだ、恥ずかしい」
「俺も照れる。恥ずかしい。」
お互いに見つめ合ったまま、顔を赤らめた。
「勉強の続きを始めるよ」
「ああ、頼む。俺も冷静に勉強に集中する」
そして国語の勉強の続きを始める。
「では、この会話文の「これ」とはどれを指しているでしょうか?」
心寧が即興で問題を出してくる。心寧が書いてくれたノートに地の文の要点が書かれている。心寧の問題の答えを探す。要点の中に書かれていた。刀祢は心寧に答えをいう。
「正解」
心寧が次々と質問を出してくる。刀祢はノートに書かれている地の文の要点を探して、次々と正解を言い当てていく。
確かに心寧の言った通り、国語の答えは全て教科書に書いてあった。そのことがわかっただけでも刀祢にとって進歩だ。思わず、刀祢は心寧の手を両手で優しく握りしめる。
心寧が傍にいてくれると安心した気持ちになる。刀祢が心寧の手を握り続けていると、心寧は頬を赤らめて顔を上気させる。その顔がとても愛おしかった。
直哉に誘われて久しぶりに剣道部へ行く。直哉は武道場へ着くと、更衣室で剣道着に着替えて、すっかり剣道部の仲間入りをしている。
刀祢は剣道よりも風月流剣術のほうが好きである。
剣道は竹刀の先端から約4分の1の部分までを刃部とする。弦は背の部分なので常に竹刀の上になければならない。
有効打突にするには、相手より声をあげて、気迫、気力でも優っており、竹刀で相手を打った時、自分の体制が崩れてはいけない。
有効打突を打ち終わった後も常に警戒して、防御姿勢を取り続ける必要がある。そうしなければ有効打突は取り消しとなってしまうルールである。
風月流の剣術は木刀を使用し、鍔の部分より上部は全て刃とみなす。よって鍔の近くであっても刃なので、木刀全体が刃といってもいい。木刀の刃の部分であれば、どこで相手を打っても有効なのだ。
もちろん、寸止めがルールで決められているので、木刀で相手を打てば危険反則とみなして、負けとなる。
木刀で打つの時に気合の入った声などわざわざ発する必要はない。審判に対して、気迫や気合を見せる必要はない。
剣道と風月流剣術ではこのような違いがあり、刀祢は風月流剣術を選んだ。小学校の頃から剣道も嗜んではいたが、ずいぶんと剣道からは足が遠のいていた。
直哉は風月流剣術よりも、相手に体当たりもでき、相手を叩くことができる剣道のほうが今はお気に入りのようだ。直哉は五十嵐達に混じって、竹刀で入念に素振りをしている。
刀祢は入念に剣の軌道を確認するように竹刀をゆっくり振って、体の微調整を行う。竹刀を振る時、少しでもブレると気持ちが悪い。
段々と竹刀の振る早さを早くしていき、身体と竹刀を一体化させていく。入念に準備運動ができた所で、直哉が刀祢の元へやって来た。
「刀祢、剣道で俺と正式に試合をしようぜ。道場では刀祢に勝てないからな」
直哉は風月流剣術に入門してから1度も刀祢に勝てたことがないが、刀祢よりも長身で体格の良い直哉なら、剣道では分があるかもしれない。
「直哉との勝負を受けてもいいぞ」
「本当か。それなら賭けをしようぜ」
直哉は試合を本気で楽しむつもりらしい。爽やかな顔で笑っている。
「刀祢が勝負に負けたら、もっと剣道部へ参加すること。五十嵐達とも、もっと仲良くなること。俺が負けたら、俺の奢りで焼肉食べ放題だ」
正式な試合形式ということで主審は五十嵐が行い、副審は新浜と南が行うことになった。直哉と刀祢と開始線にしゃがんで竹刀を構える。五十嵐の合図で試合は開始される。
「キィィェエ―――!」
「セリャァア―――!」
お互いに気合の入った気勢を発する。刀祢は中段に構える。お互いに気合の入った気勢を発する。刀祢は中段に構える。直哉は上段に竹刀を構える。
刀祢はすり足で直哉の左側へ回り込むように円を描いていく。直哉は中央に立って、刀祢と真正面を向き合うようにすり足で刀祢を追う。
剣道では打ち込んだ時の姿勢が万全でないと有効打突にならない。よって、刀祢は円を描くように動きながら直哉に万全な体制を取らせないようにしているのである。
「キィィェエ―――!」
直哉は強引に刀祢の真正面に立つと、身体ごとぶつかるように飛びこみ面を決めにくる。
刀祢は直哉が飛び込み面で先手を取ろうとしていることを予測していた。だから円を描くように動いて、直哉の心を焦らす作戦にでた。
やはり直哉は焦って、強引に体制を立て直して、飛び込んできた。今の直哉の胴はがら空きだ。
「セリャァア―――!」
刀祢は飛び込んでくる直哉の左側へ抜けるように足を捌きながら、上半身と腕を回転させて、直哉の胴へ一閃する。
そしてお互いが交差した後に、2人共、身体を回転させて、体制を整えて体ごとぶつかり合う。
その時、主審、副審2人の赤旗が上がる。「胴あり」と宣言が告げられる。そして赤旗を下げて「勝負あり」と五十嵐が大きな声を出す。お互いに開始線まで戻って竹刀を収めて試合を終了。
道場の隅まで歩いて、刀祢も直哉も面を外す。数分の戦いなのに息があがる。
「刀祢はやっぱり強いな。剣道でもやられたか」
「直哉、風月流剣術の基本を忘れてるぞ」
直哉は少し悩むとハッとした顔になり、恥ずかしそうに髪を掻く。
風月流剣術は実戦剣術道場である。そのため木刀でどこを狙ってもいい。剣道のように面を狙う必要はない。一番大きな体の中心を狙うか、足を封鎖するため下段を狙うことが基本となっている。
刀祢にとって2番目に得意なのは胴薙ぎなのだ。そのことを直哉はすっかりと忘れていた。
「俺も、もう少し道場で基本を覚え直したほうがいいな」
直哉は刀祢に向かって爽やかに笑った。
「俺達も焼き肉食べ放題へ一緒に連れて行ってくれよ」
五十嵐達が駆け寄ってきて、直哉に自分達も誘えと言ってくる。
「わかった! 皆で割り勘な!」
焼肉は大勢で食べたほうが楽しいだろうと刀祢は思う。
剣道部が終わった時、男子部員達は集まって、焼肉食べ放題へ行き、楽しく親睦を深めた。
最近、道場が終わると、刀祢が心寧の家まで送っていくことになっている。2人で自転車を押してゆっくりと歩く。
旧市街と市街地の間には田園地帯が広がっていて、田園地帯は外灯も少なく、人通りも少ないというか、人が全く通っていない。
車もほとんど通らない静かな道を2人並んで歩いていく。
いつも心寧は、この人通りのない、暗い道を帰っていたのかと思うと不安が募る。直哉が心寧の送り迎えをしてくれていた意味がわかる。
「心寧、怖くないか?」
「刀祢が一緒にいるから安心だよ」
刀祢は左側で自転車を押し、心寧は右側で自転車を押し、お互いに並んでゆっくりと田園地帯の道を歩く。
秋風が気持ちよく吹いている。道場の稽古が終わったので心寧は髪を解いてロングストレートに戻している。艶々した黒髪が風になびいて美しい。
心寧が刀祢に身体を寄せて、刀祢の右手の先を握る。心寧の手の温かさが刀祢に伝わってくる。心寧と手を繋いでいると気持ちが安心する。
心寧が指を動かして、ゆっくりと指を絡めて、恋人繋ぎにする。そして、手をギュッと握る。刀祢も心寧の手をギュッと握る。
心寧は嬉しそうに微笑んで刀祢の顔を見る。刀祢も笑って心寧の顔を見つめる。
田園地帯の寂しい道も、心寧と2人なら温かくて楽しい道へ変化する。とても心が落ち着く。
心寧が唐突に告白の時のことを思い出したかのように聞いて来る。
「あのね、刀祢に告白した時、刀祢から返事をもらえるとは思ってなかった。なぜ返事をしてくれたの?」
「心寧を大事と思ったからだよ! 心寧なしの学生生活なんて考えられなかった!」
「私もそう。刀祢なしの生活なんて考えられなかった」
心寧とは中学の頃から口喧嘩をしてきたけど、心寧がいない時は寂しかった。心寧と口喧嘩していない時はどこか楽しくなかった。
心寧でないと刀祢は心が楽しくなれなかった。誰でも変れるものではない。心寧がいないとダメだと刀祢は思った。
「心寧の代わりはいないからだ」
「そう言ってもらえると嬉しい」
「心寧はなぜ俺に告白なんてしたんだ?中学の頃、俺のことをあれだけ嫌ってたのに?」
「実は小学校4年生の時、刀祢が剣道の試合で優勝した時、刀祢がとても恰好よく見えて、刀祢が私の初恋の人なの」
刀祢は心寧の、いきなりの初恋の男子宣言に驚いた。
そんな小さな頃から、心寧が刀祢のことを想ってくれていたなんて、思ってもみないことだった。
心寧は昔を懐かしんでいるように、少し遠くを見て微笑んでいる。
「中学の時は剣斗兄さんの考えを信じてた。でも本当に仲良くしたかったのは刀祢だった。そのことに自分で気づいていなかったの。ずいぶん、自分勝手なことを押し付けてゴメンね」
「俺のほうこそ、口喧嘩を吹っかけてばかりで、迷惑をかけてゴメン。あの頃は俺も荒れていた」
2人でゴメンと謝り合って、顔を見合わせて互いに顔を赤くして微笑む。
秋風が田園地帯の稲穂の上を撫でていく。風が通る道ができるみたいに稲穂が風に揺れて頭を下げる。
中学、高校と本当に心寧と刀祢は色々とあって、その度にすれ違ったり、時にはぶつかったこともあった。
そして今、本当に仲直りできたように刀祢も心寧も感じた。
「心寧と付き合うことを選んで良かった」
「私も刀祢と付き合うことができて良かった」
心寧が優しい眼差しで刀祢を見つめる。刀祢は照れくさくなって顔を背ける。すると繋いでいた手を心寧がギュッと握りしめる。刀祢は顔を合せずに手をギュッと握った。
とても暖かくて落ち着いた幸せな時間が流れていく。刀祢と心寧は互いに、その時間を楽しむように黙って歩く。
田園地帯を抜けて市街地へ入る。住宅街が立ち並び、車の交通量が多くなってきた。
歩道の中へ入って、刀祢が先頭に立って自転車を押して歩く。その後ろに心寧が自転車を押して歩いてくる。
「これからは刀祢と何でも相談して、刀祢の意見を聞いてから行動したい」
「俺も、心寧の意見を聞いてから2人で一緒に考えて行動したい」
刀祢が後ろを振り返ると、心寧は嬉しそうに微笑んでいた。
心寧の家は7階建てのマンションの5階だ。家の前で2人とも自転車を止めて、2人寄り添う。
「家まで送ってくれてありがとう。今度、お母さんが刀祢を呼んできてって言ってた。挨拶をしたいんだって」
「わかった!」
思い出したように心寧が刀祢に告げる。心寧のお母さんと会うと思うと、少しだけ刀祢は緊張する。
久しぶりに心寧のご両親に会おう。心寧と付き合っているのだから、ご両親にご挨拶する必要があるだろう。
「近々、ご挨拶させてもらうと、お母さんに伝えてくれるかな」
「うん、わかったわ。ありがとう」
心寧が嬉しそうに微笑む。
「今日は送ってくれて、ありがとう」
「これから、ずっと送ってやる」
「うん」
刀祢は心寧に向けて両手を広げる。心寧は刀祢の胸の中へ飛び込んで、刀祢の体をギュッと抱きしめる。刀祢はそんな心寧を優しく両腕で包み込む。
「刀祢、大好きだよ。幸せ」
「ああ、俺も幸せだ」
2人はしばらくの間、抱き合ったまま幸せな時間を過ごした。
刀祢達が暮らしている街よりも隣街のほうが倍ほど大きく公共機関も充実している。隣街の医療総合病院に剣斗が入院している。
長男の公輝の話しでは、剣斗は脚もよくなり、今はリハビリできるまでに回復しているという。
刀祢は剣斗のことが嫌いだ。だから今まで入院していても1度と見舞いに行かなかった。長男の公輝が珍しく、刀祢に声をかけ、剣斗の見舞いにいくようにいう。父の大輝からの言伝だそうだ。
今更、剣斗に会っても、仲違いするだけで、剣斗も刀祢の顔を見て気分を悪くするだけだと思うが、父の大輝からの言伝なので無視できない。
刀祢にとって父の大輝は、反発はできても、逆らえない存在だ。その言葉を無視することはできない。
「今度、剣斗兄貴の入院先へ見舞いに行くことになった」
「私も剣斗兄さんの病院へ見舞いにいきたい。一緒に連れて行って」
刀祢が心寧に見舞いに行く話をすると、心寧も一緒に行きたいという。そして、休日の今日、隣町へ向かうために心寧と一緒に電車に揺られている。
「剣斗兄貴と俺が会っても、互いに機嫌を悪くするだけだぞ。本当に心寧は一緒に来てよかったのか?」
「うん。私も剣斗兄さんには今までのお礼を言いたいし、刀祢とお付き合いを始めたことを自分から報告したいの」
「そうか」
普通電車に揺られること30分。ようやく隣街の駅に着いた。刀祢と心寧は改札口を出て、バスターミナルまで向かう。
「入院している剣斗兄さんを見舞うんだから、手土産ぐらいは買って行きたい」
心寧はバスターミナルの近くの店で、剣斗に渡す見舞いの品を選び、ゼリーのギフトを選択する。
「これなら、日持ちするし、冷やして食べると美味しいわ」
刀祢はそんな心寧の言葉を聞いて、さすがは女の子だと感心する。
ゼリーのギフト詰め合わせが入った紙袋を刀祢が持ち、総合医療病院行きのバスを、バスターミナルで探す。
総合医療病院行きのバスを見つけた刀祢と心寧がバスに乗り込むと、直ぐにバスの扉が閉まり、バスが発車した。
吊革に刀祢が捕まり、心寧が刀祢の腕に捕まっている。
バスに乗って20分ほど走ると、白くて大きな病院が現れた。総合医療病院だ。刀祢達はバスを降りて、病院の玄関を潜り、案内カウンターへ進む。
案内カウンターで入院病棟へのエレベータの場所を聞いて、入院病棟の7階へ向かう。7階でエレベータを降りるとすぐ前に、ナースステーションがある。
ナースステーションで面接書類にサインをする。剣斗は7階の個室で入院していた。病室の前まで行き、表札を確かめて、ノックをする。
「どうぞ」
病室の中から、剣斗の声が聞こえる。刀祢は病室のドアを開けて中にと入る。刀祢の後ろから心寧が病室へ入り、ドアを閉める。
「刀祢と心寧か。俺の見舞いか?」
「ああ、父さんに言われてきた。これ持ってきた」
剣斗はベッドを操作して上半身をもたれさせてベッドに座っている。そのベッドの上に刀祢は紙袋を置く。
「剣斗兄さん、お身体の具合はどうですか?」
心寧が剣斗を心配そうに見つめる。
「ああ、膝の皿が見事に割れたり欠けたりしていたそうだが、簡単な手術で終わった。この後はリハビリをするが、これから先は激しい運動をすることはできない」
その言葉を聞いて心寧は口元を押えて青ざめる。
あの試合は剣斗と刀祢の真剣試合だった。刀祢が謝ることは剣斗の矜持を傷つけることになる。口元まで出かかっていた謝罪の言葉を刀祢は呑み込む。
「この間、父さんと公輝兄貴が見舞いに来て、破門は取り消された。しかし、この足ではまともな剣術もできない。もう剣術をすることもない」
剣斗はそう言って、吹っ切れたような笑顔をする。
「この病院で入院している間に色々なことを考えた。俺は弱者を許すという気持ちを持っていなかった」
剣斗は少し刀祢達から目を逸らせて話始める。
今までの剣斗は、自分の規律を基準として成り立たせようとばかりしてきた。その他大勢が、その規律についてこられるかどうかを考えたことはなかった。自分で作った自分の規律ばかりを見ていて、周りを見ていなかったという。
「木を見れば森は見えず。俺は1本の木しか見ていなかった。森の多くの木々を見ようとしなかった。それだけ自分の度量がせまかった。刀祢に負けて、館長である父に破門されて、自分の中の規律が崩れ去った時、初めて森が見えてきた」
剣斗の言葉は難しく、刀祢は全てを理解することはできないが、剣斗の中で大きく心が変化したことはわかった。
「人は自分の感情や人格を持っている。それを無暗に否定して、良いことでも押し付けてはならない。人がその良さを感じれば、自ずと欲するものだということがわかった」
あのプライドの高い剣斗が自分を省みるなどと刀祢は思ってもみなかった。
「刀祢は刀祢で生きろ。俺は俺で生きる」
剣斗は刀祢へ顔を振り向いて、落ち着いた表情でいう。この時、初めて刀祢と剣斗との間で、壁がなくなったことを感じた。
「お互いに今までのことを言うのはやめよう。これから始めればいい」
「ああ、そうだな。剣斗兄貴」
剣斗は薄く笑うとナースコールのボタンを押して、1人の看護婦を指名して呼び出す。しばらくすると、部屋に1人の若い看護婦が現れた。
「春日琴音(カスガコトネ)さんだ。俺が病室で落ち込んでいた時、熱心に相談に乗ってくれ、心身共に支えてくれた。そのおかげで立ち直ることができた」
今は琴音さんと付き合っているという。そして刀祢に、あの試合と怪我がなければ、琴音と出会えていなかったと剣斗はいう。
「入院した時はどん底のような気持ちでいたが、琴音と出会うことができて、俺は幸せだ」
春日琴音さんは小柄で童顔の可愛い人だ。この人が剣斗を変えてくれた。
「剣斗兄貴をありがとうございます」
「刀祢くんね。これから剣斗と私と仲良くしてね」
剣斗と琴音さんは幸せそうに見つめ合って微笑んでいる。
刀祢は心寧と付き合い始めたことを剣斗に伝えた。
「心寧は小さい頃から刀祢のことが好きだったからな。よかったな、心寧」
「今までありがとうございます」
「ああ、これからもよろしくな」
剣斗は優しい眼差しで心寧と刀祢のことを祝った。
剣斗との面会が終わった後に、今、刀祢と心寧はバスに乗って、駅前のバスターミナルへと向かっている。
バスの中は病院に通っているお客様で混雑していて、刀祢と心寧は身を寄せ合ってバスの中に乗っている。刀祢がバスのつり革をしっかりと掴み、心寧が刀祢の腰に捕まっている状態だ。
20分、バスに揺られてバスターミナルへ着く。刀祢と心寧はバスから降りて2人で目を合わせて見つめ合う。
「バスで少し疲れたな。少し駅前で休んでいこうか?」
「うん、ありがとう」
刀祢と心寧の2人はバスターミナルの近くにあるファーストフード店へ入る。ファーストフード店は混雑していて、受付カウンターには人の列ができている。
2人で列に並んで受付カウンターへ向かう。そしてハンバーガー、コーラ、ポテトのセットを2つ頼むと。すぐにトレイに載せられて商品がでてきた。
支払いを済ませて、それぞれにトレーを持って、2階の客室へ向かう。2階の客室は混雑していて、窓際のカウンター席しか空いていなかった。
「カウンターでいいよな」
「うん。刀祢の隣に座れるから、カウンターも好き」
カウンター席にトレーを置いて、椅子に座って窓の外を眺める。窓の外は、行きかう人々が足早に歩いていく姿が見える。
そしてバスターミナルへ入ってくるバス。発車していくバスの往来が、刀祢達の目を惹く。
駅前だけあって、人の往来が多い。刀祢達の地元では見られない風景だ。
「隣街なのに、なんだか不思議」
心寧が小さい声で呟きをもらす。
この街から比べれば、刀祢達の街は小さくて、田園風景もあり田舎だ。利便性を考えれば、この街のほうが便利だとおもう。しかし、その静けさというか、のんびり感を刀祢は良いと思った。
窓の外では、色々な人達が、色々な方向へと去って行き、色々な方向から駅とバスターミナルを利用するために集まってくる。
その光景を刀祢達は珍しそうに眺めていた。
刀祢達が医療総合病院で幸せそうに入院していた剣斗のことを思い出す。まさか入院している病院で看護婦さんと付き合っているとは思っても見なった。
あんな幸せそうな剣斗を見たことはない。性格も丸くなり、まるで別人のようだった。琴音さんの影響を大きく受けて、性格も丸くなったのだろう。
琴音さんは剣斗よりも3歳年上だという。剣斗が20歳なので、琴音さんは23歳ということになる。付き合うには丁度良い年齢といえる。しかし、仕切り屋の剣斗が年上の女性と付き合うとは刀祢も予想していなかった。
「琴音さんと剣斗兄さん、本当にお似合だったね」
「ああ」
病院の個室で刀祢と剣斗は久しぶり、色々と自分達の近況を話した。琴音さんと心寧が同じ病室に居てくれたことが大きい。2人だけなら、またギコチナイ雰囲気になっていたかもしれない。
心寧と琴音さんは常に刀祢と剣斗の話しが上手く流れるように、上手く話を流してくれた。女性2人の気遣いが刀祢にはありがたかった。
「今日は一緒にきてくれて、ありがとう」
「うん、私も剣斗兄さんのことが心配だったから」
琴音さんと心寧も言葉数は少なかったが、すぐに仲良くなり、笑顔で女性同士の話しもしていた。琴音さんと心寧であれば、次に会った時には、もっと仲良くなっていることだろう。
「琴音さんと心寧は何を話していたんだ?」
「女性同士の内緒話」
心寧は意味あり気な微笑みを浮かべる。女性2人で剣斗と刀祢のことを話していたに違いない。
窓の外にシアタービルが見える。
「ゆっくりと映画でも2人で観に行かないか?」
「うん。嬉しい」
心寧は嬉しそうに微笑む。
「これが初めてのデートになるのかな?」
そう言えば、刀祢と心寧は付き合い始めたが、2人きりで出かけたのはこれが初めてだ。心寧をどこへも連れていっていないことに気づく。
「そうなるのかな? これからはもっと、2人だけでどこへでも出かけよう」
「刀祢と一緒なら、どこへ行っても私は楽しいよ」
「ありがとう」
刀祢も心寧と同じ気持ちだ。こうしてファーストフード店で座っているだけでも心寧と一緒なら楽しい。
刀祢はハンバーガーの袋を開けて、ハンバーガーにかじりつく。心寧も小さな口でハンバーガーを頬張っている。和やかな時間が2人の間に流れる。
ハンバーガーをお互いに食べながら、目を合せる。それだけで楽しくなり、刀祢も心寧も嬉しくなって微笑む。
刀祢がポテトにケチャップを少しつけて、心寧の口元へ運ぶ。
「少し恥ずかしいな」
心寧は口を少し開ける。刀祢はそっと心寧の口の中へポテトを入れる。ポテトを食べ終わると、顔を真っ赤に染めて恥ずかしがっている。
「これって、すごく恥ずかしいから、刀祢も試して」
心寧はそう言って、ポテトを1本摘んで、ケチャップをつけて、刀祢の口元へ運ぶ。周囲の人達が、刀祢と心寧をチラチラと見ている。心寧の言った通り、これは、かなり目立って恥ずかしい。
刀祢は恥ずかしさを表情に出さずに心寧の手からポテトを食べる。
「うん、美味しい」
そう言って、照れたように窓の外を覗きこむ。その様子を見て心寧は楽しそうに微笑む。そして、コーラーのストローに口をつける。
まだ時間は夕方前だ。まだ地元に帰るには時間がある。
「さっきも言ったけど、映画でも観て帰ろうか」
「うん。楽しそう」
2人はハンバーガーを食べ終わると、ゴミを捨ててトレイを置いてファーストフード店を出る。
人通りが多いため、心寧が刀祢の右手を掴む。そして指を絡めてギュッと握る。手から心寧の温もりを感じる。刀祢も心寧の手をギュッと握る。
「逸れないように手を離すなよ」
「うん、離さない」
駅前の雑踏の中をシアタービルを目指して、刀祢と心寧は手をつないで歩きだす。目の前の信号が青色が点滅し始める。
「渡ってしまおう」
心寧はシッカリと刀祢の手を繋いで、2人で交差点の横断歩道を渡った。