どんな君でも、愛おしくてたまらない。




「少女は不治の病を患っていて、自分があとわずかしか生きられないと知り、外の世界に飛び出しました」



あぁ、やっぱり物語だ。何のお話だろうか。

唖然としていた脳内が整理された頃には、夢中になって物語を聞き入っていた。



「そこで少女は一人の少年と恋に落ち、二人は次第に惹かれていきました」


しかし、と。

低くなった声色のトーンとは裏腹に、葉上先生の表情は終始和やかだった。その差が何を示唆しているのか、わたしには読み解けない。



「運命には逆らえず、少女は永遠の眠りにつきました」



亡くなっちゃったんだ……。

ハッピーエンドだと勝手に思い込んでいたから、余計に悲しくなる。



「そして少年は、少女ように病に苦しんでる人を救いたいと決意し、医者になりましたとさ」



え。
医者になりました、って。

それって……!



「もしかして、今の物語……」


「そう、少年っていうのは俺のこと」



つまり、今聞いていたお話はどこかの物語じゃなくて、葉上先生の過去だったってこと?何かの童話だと思ってた。


それじゃあ、今の話は、何のフィクションもない葉上先生の人生なんだ。葉上先生が医者になったのは、一つの恋がきっかけだったんだ。



「話を聞いて、どう思った?」


「バッドエンドにならずに、二人に幸せになってほしかったって思いました」


「そうか」



左腕の検査を終えた葉上先生が、左腕から手を離し、椅子の背もたれにもたれた。重みに負けて、ギィ、と椅子が軋む。



「まあ、結末はバッドエンドだったけど、少女……俺の好きな人も俺自身も幸せだったんだ」



好き“だった”人じゃなくて、好きな人。

葉上先生は、今でもずっと、少女のことを想ってるんだ。きっと、これからも。


なんて一途で、儚い恋なんだろう。



「後悔とか、しなかったんですか?」


「そりゃあ、数え切れないくらいしたさ。振り返ってみれば後悔ばっかりだ」



じゃあ、どうして。





「どうして、ですか?」


「ん?」


「どうして、幸せだったって言い切れるんですか?」



純粋に、知りたかった。

悲しい最期だったのに、今こうやって朗らかに話せているワケを。


だって、それは簡単なようで、ちっとも簡単なことじゃない。幾度も悔いたのなら、なおさら。それなのに、どうして。



「“今”を精一杯生きたからだ」



葉上先生は答えに迷うことなく、真っ直ぐわたしを見据えた。



「そのせいですれ違ったり、苦しんで泣いたりもしたが……うん、やっぱり、そういう後悔も含めて、幸せだったよ」



あぁ、わたしも。
こんなふうになりたい。


逃げて、すくんで、もがいた日々を丸ごと全部抱きしめながら「幸せだ」って。


胸を張って言えるようになる日が、わたしにも来るのかな。



「莉子ちゃんも、」



骨ばった大きな手が、わたしの頭を優しく撫でた。



「“今”を精一杯生きろよ」



胸に熱く灯る。

それは、葉上先生なりに示した、悩んでるわたしへのエールだったのかもしれない。


“今”を、精一杯、生きる。
心の中で、何度も復唱した。



“今”を精一杯生きるって、どういうことなんだろう。


そう葉上先生に聞こうとしたけど、やめた。



自分で答えを見つけなければいけない。

わたしの人生なんだから。わたしがわたしの生き方を見つけて、決めていかなくちゃいけない。



頑張り方すら、まだ手探りで。

明瞭にわかっていない。


それなのに、精一杯生きることはできるの?


どうしたら、精一杯生きたことになるの?




わたしは、“今”をどう生きてる?







わたしを温めてくれたように


君を恋い慕う、この一瞬を


そばで、分かち合いたい。




Ⅴ.【 愛 】
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄







診察結果は、異常なし。

バケモノだと噂の異質な左腕は、感覚を奪われたまま、通常運転らしい。


よかったな、と葉上先生は得意げに笑った。次いで、わたしも噴き出していた。

だけどそれは、葉上先生の破顔につられたからではなくて。
説明されたら、わたしの左腕はこんなにも矛盾だらけの不可思議なものだったんだと、改めて再確認したらおかしく思えたからだ。



「ありがとうございました」



わたしは葉上先生に一礼して、診察室をあとにした。包帯を巻き直した左腕を、制服越しにさする。


今では、わたし、こんなに前向きにこの左腕を受け入れて、向き合えている。少し前まで考えられなかったな。

そのきっかけをくれた環くんを連想してしまい、つい苦笑いした。



病院を去り、バスに乗った。最初は満員に近かったバス内は、次第に席が空き始め、下車する二つ前のバス停からは乗車客は数えられる程度になっていた。


次、降ります。
慣れた手つきで降車の合図のボタンを押すと、機械音が流れた。


自然色の豊かな田舎町でバスを降りる。家で昼食を摂ってから学校に行くつもりなので、まずは家を目指した。



家に到着したのは、正午ごろだった。


玄関の扉は、不用心にも鍵はかかっていない。いつものことだ。この町にいる人たちはほとんどが顔見知りのため、鍵をかけてもかけていなくても何ら変わりはないらしい。



「ただいま」


「莉子ちゃん、おかえり」



家に入ると、かっぽう着をまとったおばあちゃんが出迎えてくれた。台所のほうから、香ばしい匂いが漂ってきた。



「ちょうどお昼ご飯できたけど、食べるかい?」


「うん、食べる」



居間のちゃぶ台には、ずらりとお皿が並んでいる。

きのこの混ぜご飯、きゅうりの漬物とたくあん、こだわりの味噌を使ったお味噌汁、揚げたてのコロッケ。


出来立てほやほやの美味しそうなメニューに、お腹がぐうううと大きく鳴る。お腹の虫はもう我慢できないようだ。



わたしとおじいちゃんとおばあちゃんでちゃぶ台を囲み、合掌をして昼飯を食べ始めた。

大好きなコロッケを豪快に一口頬張れば、サクッといい音がした。中身が口の中で熱を持ったままとろける。



おばあちゃんの作る料理は、いつだって温かくて、懐かしくて。

葛藤しつくして、えぐってしまった心臓と涙腺を、刺激する。



「左肩はなんともなかったのかい?」


「うん、異常なしだって」


「そうかいそうかい。よかったねぇ」



おばあちゃんのほっぺが、ほろり、とゆるむ。その笑顔が好きで、大好きで、わたしのほっぺもふにゃりとほぐれた。



葉上先生には診断結果以上に大切なことを教えてもらった。恋の悩みに関するアドバイス……というか、一種の宿題のようなもの。


『“今”を精一杯生きろよ』


何をどうして生きたらいいんだろう。

バスの中でずっと考えていたけれど、結局明確な答えは思いつかなかった。


もし、“今”を精一杯生きられたら、こんな風にくよくよしたりせず、堂々と環くんの隣を歩けるようになるのかな。





「莉子ちゃん」


「なに?おばあちゃん」



「今、好きな人でもいるのかい?」



イマ、スキナヒトデモイルノカイ。

脳が理解するまで、数秒かかった。カタカナで読み取られた言葉を正常に変換する。


お味噌汁を飲んでいたわたしは、つい噴き出しそうになって咳き込んだ。慌てて、お茶を喉に流す。しかしお茶はあっつあつで、舌を火傷してしまった。
い、いひゃい。



「……と、突然、どうしたの?」


「ふふっ。莉子ちゃんがそういう表情をしておったから、ちょっと気になってね」



そういう表情って、どんな表情!?

さっき葉上先生にもバレたし、わたしってわかりやすいの?


自分じゃ鏡がない限り、自分の顔を見れないからわかんないや。でも、たぶん、わかりやすいんだろうな。もしくはこの世にはエスパーが多く存在しているのか。できることなら後者にかけたい。



「わたしたちにもこんなころがありましたね、おじいさん」


「ああ、懐かしいな」



おばあちゃんとおじいちゃんも、そしてお母さんとお父さんも、わたしみたいに恋をしてきたんだ。「好き」を募らせてきたから、今、わたしはここにいるんだ。


そんな当たり前は、本当は奇跡で。
何年経っても、積み重なっていく。

きっと、百年後も。



「二人はお互いのどんなところに惹かれたの?」



火傷を気にしつつ、素朴な疑問を投げかけてみる。


二人はどのような恋をして、結ばれたんだろう。どんなふうに生きてきたんだろう。

わたしみたいに余計なことまで悩んだのかな。胸が痛くなるくらい苦しんだのかな。



「そうだねぇ……」


おばあちゃんはお茶をすすって、ほっと肩を下ろす。背中をゆるく丸めると、おじいちゃんのほうを向いた。



「わたしは、おじいさんの太陽のような笑顔に惹かれたよ」



いたずらに目尻を細めたおばあちゃんは、とても可愛らしかった。ふふふ、とこぼれた笑みには、反すうさせた昔話が含まれているんだろうな。



「おじいさんはこう見えても、昔はいつも元気でね……」


「茜(アカネ)や」



話の途中で、おじいちゃんが遮った。




初めて見た。

おじいちゃんが、おばあちゃんの名前を呼ぶところ。


なぜかわたしがときめいてしまった。



「なんですか、おじいさん」



見つめ……いや、睨み合う二人。

睨み合いで負けたおじいちゃんは、プイッと顔をそらした。



「おじいちゃんは、おばあちゃんのどんなところを好きになったの?」


「……っ」



おじいちゃんは黙々と箸を進めるだけで、応えてはくれなかった。

怒ってるのだろうか。


そんなおじいちゃんを横目に、おばあちゃんはわたしにこっそり耳打ちする。



「照れてるんじゃよ」



え?照れてる?


試しにもう一度、おじいちゃんのほうをチラ見してみる。おじいちゃんの耳たぶは、珍しく赤くなっていた。



「本当だ」



わたしはおばあちゃんと顔を見合わせて一笑した。


二人は愛し合っているから結婚して、今まで仲睦まじく暮らしてきたんだろうけれど、今もずっとお互いがお互いに恋し続けてるようだ。恋と愛は違う。だからこそ、二人はとても幸せで、愛らしく感じる。



すると、おばあちゃんが思い立ったように「そうだ」と声を上げた。



「莉子ちゃん、アルバム見ないかい?」



その提案に、すぐ賛成した。


時間はまだちょっとある。

おばあちゃんとおじいちゃんの若いころの写真とか、お母さんとお父さんがわたしと同い年くらいだったころの写真とか見てみたい。おばあちゃんの話を聞いて、いっそう気になったし。



ご飯一粒残すことなく綺麗に食べ終えてから、おばあちゃんが居間にある棚からアルバムを取り出した。食器を下げたちゃぶ台に、大きくて重いアルバムが広げられる。



「わあ……!」



アルバムの初めのほうのページには、少し黄ばんだ古い写真が保存されていた。写真から鑑みるに、おばあちゃんとおじいちゃんの写ってるものだろう。


あ、この写真、高校生くらいかな。制服姿のおばあちゃんとおじいちゃんが、ピースしてる。



「おばあちゃん美人!おじいちゃんイケメン!」



おばあちゃんもおじいちゃんも、すっごく楽しそうだなあ。





ページをめくっていくと、お母さんとお父さんが産まれたばかりのわたしを抱いてる写真が貼られてあった。カメラ目線ではないが、二人のわたしを見る目が愛しさを物語っている。


その写真の角はどれもよれていて、若干シワが目立つ。まるで、手で握り締めたみたいだ。

先日わたしも保健だよりをそうやってくしゃくしゃにしかけて――あ、もしかして、お母さんとお父さんはこの写真をしばらくの間、持ち歩いていたのだろうか。


もし、本当にそうだとしたら。


こんなところにも愛が隠れていたなんて知らなかった。もう両親の愛が増えることはないと思っていたのに。



あれ?写真の下に何か、薄黒い汚れがある。いや、汚れじゃない。これは小さな文字だ。


『莉子、生まれてきてくれてありがとう』


同じ文章がふたつある。だけど、字は違う。


この字には見覚えがある。今でも憶えている。
お母さんとお父さんの字だ。



「お母さん、お父さん……っ」



涙ぐむわたしの背中を、おばあちゃんが優しくさすってくれた。

こんなの不意打ちだ。泣くに決まってる。



ねぇ、お母さん、お父さん。


わたし、生まれてきてよかった。

わたしの親になってくれてありがとう。


そう、二人が生きていたときに、たくさん伝えればよかった。


もしも天国で見守ってくれているなら、わたしの気持ちを受け取ってね。あふれんばかりの感謝を。伝えきれなかった愛を。



気づけばついに、このアルバムの最後のページとなっていた。


そこには他の写真より一回り大きなサイズのものが飾られていた。八年前、近くの小さな公園にある大きな桜の木を背景に、家族みんなで撮ったんだ。

“あのときの少年”に会った、その前日に撮影した家族写真。


まだ九歳だった幼いわたしと、お母さんとお父さんと、おばあちゃんとおじいちゃん。


みんな、笑ってる。
桜色に彩られながら。


写真を指先でなぞる。


懐かしい。

もう戻らない、かけがえのない思い出。



「あ、れ?」



その写真に写る、一人の通行人に目が留まった。たまたま公園の目の前の道を歩いてるときに写り込んでしまったのだろう。


おばあちゃんに一言ことわって、アルバムから八年前の写真を抜き取る。その通行人をじっくり凝視した。



……間違いない。

桜の木の奥を紛れるように、けれど確かに写っている。


“あのときの少年”が。




なんでこんなところに写ってるのだろう。単なる偶然だろうか。
……本当に?


甘美な驚きが、胸に押し寄せる。コントロールしようにも、どんどんどんどん感情を引っ掻き回していく。八年前で止まっていたはずの初恋ごと、否応なく引き戻される。


桜だ。あの、綺麗な桜だ。
今、わたしは確実に、淡い薄紅に意識を乗っ取られている。

そのそばには、“あのときの少年”の姿。あやふやな記憶じゃない。鮮明にここに在る。


相も変わらず、質の悪い魔法だ、これは。



やっぱり、似てる。

“あのときの少年”と環くん。


ううん、似てるなんてもんじゃない。静やかな面影はもちろん、幼い顔立ちも、色素の薄い髪も、どこかを仰ぐ瞳も、大人びた雰囲気さえも、全く同じ。


記憶だけじゃ、自信がなくてはっきり判断できなかった。


だけど、この写真を見た今。

“あのときの少年”と環くんが、わたしの中で、ぴったり重なった。



「どういうこと……?」



他人の空似。そう片付けられるレベルじゃない。環くんと関係がないとは考えられない。


環くんにお兄さんはいなかったはず。じゃあ他の血縁関係者だろうか。それとも。



それとも――……



不意に。
脳裏を巡っていた映像が、逆再生されていった。その映像は、先ほど環くんを病院で見かけた場面で、カチリと一時停止される。



まさか。

“あのときの少年”って。




「莉子ちゃん」


おばあちゃんに声をかけられ、我に返る。ぐちゃぐちゃにこんがらがった思考回路はちょうど整理されたものの、混乱の余韻はたっぷり充満していた。



「な、なに?」


「そろそろ学校に行かなくていいのかい?」



あ、そうだ、学校!

焦って時計に視線を移す。時刻はすでに昼休みも後半に差し掛かった時間帯だった。


や、やばい!もう行かなくちゃ!


急いでカバンを取りに居間を出る。と、その前に、引き戸の前で立ち止まった。



「ねぇ、おばあちゃん」


「ん?」


「この写真、もらってもいい?」



おばあちゃんは悩むことなく、笑顔で「いいよ」と返した。




手にしたままだった八年前の写真を、ずっと持っていたかった。


理由なんかない。

ただ、なんとなく、手放しちゃいけない感じがしたんだ。



「ありがとう。行ってきます」と告げ、八年前の写真をスカートのポケットの中にしまった。


カバンを持って家を飛び出し、走って学校へ急ぐ。



推測してしまった。思い浮かんでしまった。ありえないであろう“あのときの少年”と環くんの関係性が、どうしてこんなにも頭から離れてはくれないんだろう。


信ぴょう性は薄いし、証拠も何もない。全然違うかもしれない。わたしの妄想でしかないのかもしれない。


でも。
でもっ。


泣いていないのに泣いているように見える、“あのときの少年”と環くんの横顔に想いを馳せるたび、どうしようもなく思ってしまう。

もしかしたら、って。




タンッ――最後の一歩で、ローファーの底を昇降口の正面につけた。



想像してたよりも早く学校に到着した。普段より疲れているのは、意図せず早歩きで来てしまったからだ。

まだ昼休みらしく、校舎全体が騒がしい。賑やかな空気感に沿うように、呼吸のリズムを整える。


わたしは靴を履き替え、教室に移動した。柔らかい上履きのほうがよっぽど歩きやすい。




「あ、莉子!病院どうだった?」



教室に入って早々、依世ちゃんが待っていたかのように、わたしに駆け寄ってきた。



「問題なかったよ」


「そっか、よかったー」



自分の席にカバンを置いたわたしに、クラスの女子が挨拶をしてくれた。わたしもたどたどしく挨拶を返す。


おはよう。おは……あ、今はお昼だからこんにちはか。あ、そうだね、こ、こんにちは。

不器用な挨拶だなあ。挨拶にここまで緊張したのはいつ振りだっけ。


昨日打ち解けて、関係が進展した結果だ。この緊張も、なんだかくすぐって、心地いい。



環くんにも挨拶をしたいな。

窓際の一番うしろの、環くんの席。そこに、環くんはいなかった。


教室を見渡しても、環くんの姿はどこにもない。