土曜日。
 八時四十五分、家を出発。今日は寝坊してしまった。約束の時間、九時まであまりない。猛ダッシュする。
 このように説明がつい箇条書きっぽくなるくらい慌ててしまったが、どうにかセーフ。八時五十五分に、待ち合わせ場所――例の、いつもの場所に到着した。
「あっ。おにーちゃん!」
 俺の姿を発見すると、ワンピース姿の愛梨が元気に手を振ってくれた。
「おはよ、愛梨。待たせたみたいだね」
 まずは、挨拶をする。
 むぅ……。五分前に着いたんだけど、愛梨はもっと早かった。人を待たすなんて情けない。
「んーん。愛梨もね、今来たばっかりだよ」
 笑顔で、そう言ってくれる。
 いつもいつも。優しい心遣い、ありがとうね。
「おにーちゃんのお洋服、初めて見た~。格好いい」
「お、俺の?」
 服、ということは私服の意味だよね。普段は制服だから、愛梨には新鮮に見えるのだろうね。でもこの服適当に着てきたから、まじまじ見られると恥ずかしいなぁ。
「そういう愛梨の服も、可愛いよ。大人っぽく見える」
「えへへ~。ありがとー」
 はにかみ、両方の頬っぺたに手を添える。
 うん。初々しい反応だなぁ。
「お世辞じゃなくて、とっても似合ってるよ。旅行中のお嬢さんって感じで――ってそうそう。ところでその荷物はなにかな?」
 さっきからずっと気になってたことを質問する。
 今日の愛梨は何故か、旅行用の大きなバッグを持っていたのだ。まさか本当に、『ツアー』に行くつもりなのだろうか。
「これはね、内緒だよー。でもでも、楽しみにしててね~」
「そっか、なら楽しみにしてるよ。それにしても、綾音は遅いね」
 もうそろそろ時間だし、来てもいいはずなんだけどなぁ。
「あれ? おにーちゃん、綾音ちゃんからお電話なかったの~?」
「電話? どういうこと?」
「あのね、昨日ね。綾音ちゃんにお電話したら、明日用事ができたから少し遅れる、って言ってたの。愛梨はスマホを持ってないから、おにーちゃんに連絡するって言ってたよー」
 俺に、ねぇ。
 あの子からの連絡は一度もないから、かけてみるか。
「愛梨。ちょっと待ってね」
 スマホを取り出して、タップ――あれ、綾音から不在着信が5件ある。どうやら走ってたから、バイブに気付かなかったんだ。
「…………もしもし、修です。ごめんね、気付かなかった」
『いえ。何度もすみません』
「いえいえ。ところで、何時くらいになりそうかな?」
『あの……。今日は、行けないんです』
「ええっ!? おっと」
 大声を出したから、愛梨がこっちを見てしまった。とりあえず、このことが悟られないように背を向けた。
「えっと。どういうこと?」
 ここからは、小声で話す。
『実は……昨日から、今日は家の用事があることが分かってたんです。けど、愛梨ちゃんが楽しそうにしてたから……。私が行けないと知ったら、多分止めてしまうから……』
 昨日の違和感は、それだったのか。やっぱり綾音も、優しいな。
「なるほど。じゃあ残念だけど、今日は俺と愛梨で遊ぶことにするよ」
『お願いします。ご迷惑をおかけしてすみません』
「いいっていって。帰りも、家まで送るから心配しなくていいよ」
『ありがとうございます。何から何まですみません』
「これに関しても、「いっていって」、だよ。綾音も、気を付けて出掛けてね」
『はい。失礼します』
 こうして、俺達の通話は終了となった。
 うあ~、意外な展開になってしまったぞ。俺一人で、大丈夫か? まあ、とりあえずは愛梨に説明をしないとだな。
「綾音は家の用事が長引くみたいで、今日はこれなくなっちゃったって。すごく残念がってたよ」
「……にゅ。そーなんだ」
 ああ、しゅんとなってしまった。楽しみにしてたから、がっかりも大きいよね。
「あのさ、綾音の代わりにはならないけど……。俺とじゃ駄目かな?」
「ううんっ。おにーちゃんと一緒だと楽しいよー!」
 良かった。綾音がいないから帰る、なんて言われたらどうしようかと思ったよ。
「綾音がいないのは、ホントに残念だけどさ。折角だから今日は楽しもうね」
「うん! 綾音ちゃんは、今度お誘いする~。その時は皆一緒だよー」
「………。そう、だね」
 ――今度って、いつだろう? その時まで、俺は一緒にいるのか?
 なんてことが、一瞬頭を過ぎった。
「? おにーちゃん?」
「ご、ごめん何でもないよ。あ、そのバッグ持つよ。重そうだからさ」
「んーん、大丈夫だよー。これは愛梨が持つの」
「そ、そう? 大きいから、キツくなったら遠慮なく――」
 グリュリュリュリュ!
 すっごい音がした。
 こいつは俺の、腹が鳴った音だ。
「……どうもごめんなさい」
 とりえず、謝っておく。
 聞き苦しいものを、すみません。
「おにーちゃん、おなかペコペコ。朝ごはんは?」
「実は、食べてないんだよね。寝坊しちゃってさ」
 起きたのは、八時三十五分だしね。そんな時間はありませんでした。
「やっぱり、九時って早かったのかなぁ。おにーちゃん、高校生だから忙しいよね……」
「違う違う、俺が寝すぎただけだよ。忙しくないし、年中暇人だからっ」
 言えない。深夜にテンションが上がった正樹から電話がかかってきて、5時まで寝かせてもらえなかったなんて。
 愛梨。高校生って、こんな生き物なんだよ。
「あ、でもでもっ。そうそうっ。おにーちゃん、お腹が空いてるんだよねっ?」
「ん? ま、まあそうなるね。お昼まで時間があるから、コンビニで何か買っていくよ」
「あのねあのねっ、愛梨ねっ、お昼ごはん作ってきたの! だから――あ……」
 言いかけて、慌てて両手で口を塞ぐ。
 今、お昼って。そのバッグの中身は、お昼ご飯だったんだ。
「……あぅ」
 あ~。ミステリーをばらしてしまったから、がっくりしてる。
 えーと。こういう時、俺はどうすればいいのだろうか。聞こえなかったフリをするのか、それとも続けるのか。
 ……やっぱり、聞こえないのは不自然だよな。この距離だし。
「へ~、お昼作ってきてくれてるんだ。楽しみで早く食べたいなっ」
「ほんとっ? じゃあおにーちゃんのために、あそこに着いたらお昼にしようよっ。『ぶらんち』って言うんだよね」
 おお、機嫌が戻ったみたい。てか、目的地は山なんだ。指差してるからそうだよね。
「そりゃあ有り難いっ。それじゃあ行こうかで、今日はしっかり遊ぶぞー!」
「おー!!」
 かなり強引にテンションを上げてから、出発。
 目的地は今居る場所から真っ直ぐ一キロ程歩き、左へ。そこから更にに五百メートル進むと、山の入り口に到着となる。
 山っていっても、ここはかなり小さい山。てっぺんまで車で行けるし、道も舗装されているから、歩いてでも楽勝。今回は一番上ではなく途中の、休日には親子連れで賑わう『アスレチック広場』がゴールだった。
「わぁ。お休みだから、人いっぱいだねぇ」
「うん。そうだね」
 午前中だというのに、親子連れで大盛況。長さが自慢(県下一らしい)の滑り台では、子供が頭から滑っていた。
 ……親は笑ってるけど、大丈夫なのか……?
「おにーちゃん。こっちこっち」
 心配していると腕を引っ張られ、人ごみから離れた場所にある大木の下に案内された。
 なるほど。ここで寛ぐのか。
「ここでお昼にしよっ。あのね、ちゃんと準備してきたのっ」
 愛梨はバッグを探り、青色のレジャーシートを取り出した。
 あーね。旅行用バッグはそのためだったのか。
「おおっ! 愛梨、ナイスだよ」
「えへへ~。えっと、ここをもって、あれれ?」
 五月の爽やかな風が、シート敷きを阻止している。そのため一人では到底無理なので俺も手伝い、飛ばないよう四隅に石を置いて完了となった。
「ふぅ~。座ったら足の疲れがどっときたなあ」
 日ごろの運動不足を露呈してしまった。やっぱりもう少し、運動しないとだな。
「おにーちゃん。大丈夫?」
「ちょっと疲れただけだで、問題ないよ。愛梨は平気そうだね」
「うん。愛梨ね、お散歩が大好きなの」
 やっぱり、普段から鍛えていると元気だなぁ。まあ、一キロちょっとで疲れた俺が異常なんだけども。
「ではではっ。お疲れのおにーちゃんに、お昼ごはんです」
 バッグを開け、中からお絞り、大きめのバスケットを取り出す。そして――彼女は、固まった。
「えっ。ど、どうしたのっ?」
「あぅ。水筒、忘れちゃった……」
 がっくり、としていた。けど、大丈夫だぞ愛梨。ここには先人の英知がある!
「待っててね。俺が買ってくるよ」
 アスレチックの近くにある、四角くて大きな機械。自動販売機を指差す。
「でも、愛梨……。お財布もって来てないから……」
「心配ないよ。そこは俺が出すから」
「んっ、んーんっ、大丈夫。愛梨、喉は渇いてないよ」
「お金は、気にしなくていいんだって。足りないけどお昼のお礼だから」
「…………。…………」
 まだ躊躇っている。
 この子はホント、真面目だな。正樹だったら即答だよ。
「俺に遠慮は、不要だよ。さってと、行ってくるね」
「あのっ! 愛梨が、いきますーっ」
 愛梨が先に、立ち上がった。
 これは、買ってもらうならせめて自分が、ということなんだろう。
「そっか。なら、お願いするね」
「うん。おにーちゃんは、何にするの?」
「そうだね、俺は…………愛梨と同じもので。はい、これお金です」
 両手で五百円を渡して、笑顔で愛梨を見送る。
 そうして雲が浮かぶ空をぼんやりと仰ぎ見ていたら、愛梨が戻ってきて対面に座った。
「おにーちゃん、ありがとー。はい、お釣りです」
「はい。どうも」
 丁寧に出された硬貨を受け取って――おや? お釣りが、多いぞ?
「これー。おにーちゃんのジュースですー」
 手渡されたのは、炭酸の500ミリペットボトル。愛梨の右手には、350ミリの缶。
 ああ、そういうことね。
「愛梨。そっちの缶、見せてくれる?」
「うん。いーよ。」
 俺は右手で缶を受け取り、左手でペットを渡す。
「??? おにーちゃん?」
「あのね、自分だけ小さいやつにしなくてもいいんだよ? 俺はこっちにするから、愛梨はそっちね」
「で、でも……。でもでも……」
「ぷはっ。生き返るぅ」
 有無を言わせないよう、開けて一気に飲んだ。
 ふふふ。これでも、遠慮はできないぞ?
「…………おにーちゃん。ありがとぅ」
「何度も言ってるけど、俺には気を遣わなくていいからね。あんまり遠慮してると、怒っちゃうぞ~?」
「……うん。わかった」
「はいよくできましたで、そろそろその中身を拝見したいなぁ。さっきから、何が入ってるかワクワクなんだ」
「ぇへへ。喜んでもらえるといいんだけど………………はい、どうぞー」
「おおっ! サンドイッチだ!」
 バスケットには二種類のサンドイッチがぎっしり。内容は定番のタマゴサンドとハムレタスサンドで、どっちも美味しそうだ。
「一人で作るの、初めてなの。上手にできてるか心配」
「十分、いや十二分の出来だよ。早速だけど食べていいかな?」
「うんっ。あ、おにーちゃん、お絞り」
 そうだそうだ。ちゃんと手を拭いて、まずはタマゴサンドを頂く。
「いただきます。…………うん、美味しい!」
 タマゴとマヨネーズの組み合わせ、素晴らしい! マヨネーズが多すぎず少なすぎず、タマゴの切り方、混ぜ方も丁度いい。
「はう~。よかったぁ」
 俺を見ながら、愛梨は安堵の笑みを浮かべてた。
「全然、心配する必要ないって。お先に頂いたけど、愛梨も食べてみなよ。すぐに分かるからさ」
「うん。でも、その前に……。おにーちゃんのお隣に、座っていい?」
「? いいよ」
「っ。ありがとーっ」
 パッと笑みを浮かべ、トテトテトテ。可愛らしく俺の右隣に移動して、ちょこんと座る。
「?? どうしたの?」
「えへへ~。おにーちゃんと一緒~」
 こ、こういうの、なんかこっちが恥ずかしくなるんだけど……。そんなとびっきりの笑顔を見せられたら、滅茶苦茶照れちゃうじゃないかっ!
「ふにゃ? おにーちゃん?」
「な、何でもないよ? ほ、ほら、タマゴサンドをどうぞ」
「ありがとー。…………ん、美味し。上手に出来た」
 自分で言って、小さく頷いてる。
「ね。美味しいよね。こっちのハムレタスも美味しい」
 薄く塗られたマヨネーズがハム&レタスを引き立てる。また、ハムの柔らかさとレタスのシャキシャキがなんとも言えない。
「嬉し~。沢山あるから、いっぱい食べてねっ」
「うんっ。じゃあ次はタマゴ――」
 ブーン ブーン ブーン
 スマホが、メッセージの受信をお知らせした。
 こんな時間に送ってくるのは……。まあ、正樹しかいないよね。
「ごめんね愛梨。えっと、内容は……」

《欲しいもの、ゲトゲトゲトゲトゲトゲトゲトゲト!》

 ゲシュタル崩壊かこれは。あいつめ、興奮しやがって。
 俺はしばし考えた後、
《おめおめおめおめおぬおめおめおめ》
 と返信した。
 ポイントは、一文字だけ『ぬ』になってるとこだ。正樹が相手だと面白い返事をしないといけないから、頭が疲れる――
 ポスッ
 突然、右腕に柔らかい感触があった。
「ん?」
 スマホを仕舞いながら確認すると、そこには愛梨がもたれ掛かっていた。
 こ、これは……。どういうことだろう……?
「愛梨、どうしたの? あい……」
 俺は途中で、呼ぶのを止めた。なぜならこの子は、
「すー。すー……」
 気持ちよさそうに、寝ていたから。
 まさか、数分の間に寝るなんて。どうして――ああ、そうか。
 愛梨は、朝早くからこれを作ってくれてたんだ。三人分だから量も必要だし、一人では初めてだって言ってた。時間も結構かかったんだろうな。
 ……この子は、俺が寝坊したこと心配してくれてたけど……。自分が一番、寝不足だったんだ。
「愛梨。ありがとうね」
 頭を撫でると、サラサラの髪の毛が少しくすぐったい。
「いつもいつも。ありがとうね」
「………………んにゅ? あれ、愛梨……」
 しまった! 起こしてしまった!?
「……………っ、おにーちゃん!? ご、ごめんなさいっ!」
 さすがにもたれたのは恥ずかしかったのか、少し顔を赤くして慌てて離れる。
「あぅ~。愛梨、眠ってた……」
「いいんだよ。俺達のために朝早くから作ってくれて、ありがとう」
「愛梨、お料理に時間かかるから……。でもね、楽しかったから平気だよ。おにーちゃん、もう一つどうぞっ」
「うん。気持ちがこもったお昼ご飯、たっくさん食べさせてもらうね」
 俺は三つ目のサンドイッチを受け取り、俺もまたサンドイッチを渡して、二人仲良く口に入れたのだった。