「おっ、と」
「すいませんっ!」

 廊下で誰かにぶつかって、俺は慌てて頭を下げる。エレベーターを待てず階段を駆け上がってきた。一秒でも早く、あいつのもとに行きたくて。

 スタジオにタピ子がいると教えてくれたのは、深夜番組後、仮眠をとっていたディレクターだった。
 地方局のADが突然やめてしまったとかで、俺が急きょ駆り出されることとなったのは彼女に想いを告げた日の翌日。出勤の準備をしていたらディレクターから電話が来て、2週間ほど地方に行ってほしいと言われたのだった。つい想いを伝えてしまったものの彼女が今は仕事以外のことを考える余裕がないのはわかっていたから、時間を稼げると内心ホッとしたのも事実だ。
 この2週間、俺は地方局でこちらとは違う様々なことを経験し、手ごたえを感じていた。そんな俺が早朝の電車で二週間ぶりに戻ってくると、ディレクターはソファの上で毛布にくるまれながら「タピ子、来てるぞ」と言ったのだ。

 2週間前までは、スタジオに来ても彼女が長くいることはなかった。それが前日の夜中に来て、今この時間までいるということは何か変化があった証拠だと思う。
 たとえば、声が出るようになったとか──。

 時刻は6時30分。スタジオの前、俺は深呼吸を繰り返す。こんな息を切らせて走ってきたなんて、カッコ悪いもんな。好きな女の前で男は、すこしでもカッコよくいたいもんだ。ふぅーっと口先から息を吐き出して、スタジオの重い扉を押し開ける。
 誰もいないミキサールーム。その奥に、マイクの前、デスクに突っ伏している彼女の姿があった。夜通し練習していたのだろう。手元にはたくさんの原稿が広がっていた。このスタジオは今日の昼まで空いているはずだ。少し寝かせてあげたい。
 音をたてないようにレコーディングルーム内に入れば、すう、すう、と小さな寝息が聞こえる。すこし痩せたな。そっとこけた頬を指先でなぞった。

 俺の言葉は、負担になってしまっただろうか。今の彼女に伝えるべきではなかったのかもしれない。だけど、本当に自然と、気が付いたら言葉になってしまっていたんだ。付き合いたいとか、独り占めしたいとか、そういう思いとはまた違う。ただ、愛おしくて、大切だと思った。俺がそばにいるから、守るから、だから安心していいんだと伝えたかった。
 そっとパーカーを脱いで彼女の肩にかけてやる。ぴくりと肩が小さく揺れたが、また規則正しい呼吸が聞こえて俺はそっとそこから離れた。

 パソコンを見れば、彼女が練習したのであろう内容の録音がいくつか残っているのに気づく。マイクをオンにしたものは自動的に録音される仕組みになっている。それをこのパソコンで削除したり編集したりするのだ。
 デスクトップにはいくつものファイルが並ぶ。ああ、やっぱり。マイクをオンにしても、声が出るようになったんだ。小さくその場でガッツポーズをした。これであいつは夢をあきらめないで済む。自分のことのように嬉しくて、馬鹿みたいかもしれないけれど、涙が滲んだ。

 ああよかった。本当に。

 彼女のマイク越しの声が恋しくなった俺は、ヘッドフォンをつけ再生ボタンを押す。ずっとずっと、聞きたかったんだ。マイク越しの、彼女の声を──。

『……ユージさんのばか』
『……ユージさんのあほ』
『ユージさん……ユージさんのことしか声が出ないよ……』

 いくつものファイルを開けて再生させていく。どのファイルにも溢れる、あのひとの名前。焦る気持ちと、酸っぱいような息苦しさが胸のあたりを駆け巡る。
 他の言葉だって、話せるはずだ。あのひとの名前しか出ないなんて、そんなこと──。
 最後のファイルなんて、開かなければよかったんだ。ヘッドフォンから響いてきたのは、震える彼女の声だった。

「──ユージさん、会いたい」