こうして俺のパーソナリティを目指す人生はスタートした。事務所に所属してレッスンを受ける日々。レッスンの前後にバイトを詰め込んだ。一日も早く、パーソナリティにならなければ。そんな思いが強くてガチガチに固められた俺は、とにかくがむしゃらに取り組んだ。
 オーディションをいくつも受けたけれど、ひっかかることすらない。レッスンを受けても、そうじゃないと怒られる。この年になって、こんなにも怒られるとかダメ出しをされるとか、結構つらいものがある。だけど、俺がつらかろうが苦しかろうが、現実は何も変わらなかった。

「顔死んでんぞ」

 そう言って声をかけてきたのは、同じ事務所のユージさん。この人はパーソナリティのエリートみたいなもので、事務所に入ってすぐのオーディションで合格を勝ち取り新人とは思えないほどの仕事をもらっていた。ユージさんの番組を聴けば、それも頷けた。頷けるどころか、感服するしかなかった。
 聞きやすいトーンに、穏やかな口調。けれど強弱もあり、トークによってテンションも自在に操る。さらには巧みな表現をそれとなくトークに織り交ぜる。そんな言葉、どこで知ったんだ?という語彙力。生まれながらの天才。すごいという、尊敬の念しかなかった。いや、違う。尊敬の念と、羨ましいという思い。

「ユージさんってさ、トーク中、何考えてる?」

 俺はレッスンのトーク中、色々なことを考える。どの答えを一番みんなは望んでいるのか。この話からどう展開していけばおもしろいのか。もっと聞きたいと思える返しはどういうものか。考えて考えて、途中でいつも混乱するんだ。俺は何を話したらいいのだろうって。
 オーディションでもそうだった。目の前の審査員の表情を見れば明らかだった。目だけで分かってしまうものだ。「お前の話はつまらない」──と。

「トーク中……?考えるというか、浮かんでくるんだよ」

 ユージさんは考えるように腕組みをして、そう言った。

「ふっ、はははっ……」

 思わず笑いがこぼれると、彼は眉をしかめる。

「なんで笑うんだよ」

 むっとする彼は、年上なのに幼く見える。だけど、彼には溢れんばかりの才能があって、きっとそれはどんな歳月をもっても、努力をもっても追いつくことなんかできない。不公平だよな、神様って。

「才能があって、うらやましいよ」

 思ったままの言葉が口から零れた。その言葉を聞いたユージさんは、目を細めて俺に返す。

「お前だって、才能あるじゃん」

 自分に才能があるから、そんなことを簡単に言えるんだ。経歴なんかなくたって、あっという間にチャンスをものにしたユージさん。努力しても努力しても、何の結果も出ない俺。誰がどう見たって、俺に才能があるなんて言えるはずがないのに。

 しばらくして、ユージさんは事務所から独立して、フリーのパーソナリティになった。パーソナリティとして自立するというのは、そうたやすいことではない。自ら仕事を管理し、取ってこなければならない。責任だってすべて自分で負うことになる。けれど、ユージさんはそれが出来るほどの経歴を重ね、局側との信頼を築いていた。彼がそれを構築する間、俺はどう変わったかと言うと、何も変わっていなかった。バイトとレッスンに明け暮れる日々。毎週のようにオーディションを受けては不合格の通知を受け取る。同期たちはみな、小さいながらに仕事を獲得していって、キャリアを重ね始めていた。俺だけが、取り残される。
 どれもこれも、才能がないせいだ。人間にはきっと、向き不向きというものがある。才能だって、人間にはきっと、なにかしらひとつくらいは備えられているのかもしれない。だけどその才能と、やりたいこと、が一致するひとはほんの一握りだ。そして俺は、明らかに一致しなかったタイプの人間だ。
 俺の才能ってなんだろう。少なくとも、パーソナリティの資質ではないことだけは確かなようだ。このままでいいのだろうか。いつまでも、このままで。

 独立してから、ユージさんと顔を合わせることはなくなっていた。
「CM録り、入ったぞ」

 ある日事務所へ行くと社長にそう声をかけられた。CMのオーディションなんて受けていなかったはずだ。

「新番組スポンサーのCM。お前に指名だ」

 しっかり準備して取り組めよ、と社長に渡された新番組の企画書。俺に指名?信じられない気持ちで手の中の資料に目を走らせた。

「聴覚と記憶は密接に繋がっている。音楽を聴けば、当時の記憶が鮮やかに蘇る。それはまるで、五線譜の上を滑るように、記憶を心を震わせていく。あの頃の自分に会いに行く。LPDレコード」

 時刻は深夜2時。誰もいない薄暗いスタジオ。マイクの前で、何千回目かの言葉を紡ぐ。とあるレコード会社のコマーシャル。秒数にすれば、ほんの20秒足らず。もう原稿を見なくてもそらで言える。それでも満足なんかできなかった。息継ぎのタイミングはおかしくないか。イントネーションはどうだろうか。一番伝えたい部分が伝わる読み方が出来ているか。万人に届くように言葉を紡げているのだろうか。何度も何度もペン入れをして、原稿はすでに真っ赤だ。
 レッスンとバイトが終わった後、俺は深夜のスタジオにこもってひたすらに原稿を読み込んだ。録音してチェックして、また修正して練習、録音、またチェック。そのことの繰り返し。いよいよ明日が収録本番だ。
 これでいいのか、よくないのか。まだ答えは見つからない。だけどきちんと応えたい。指名してくれた相手の想いに応えたい。

 初めて仕事として入る、本番のスタジオ。ディレクターに頭を下げれば、彼は「まああまり固くならずに」と言って椅子をくるりと回した。
 俺の声が、ある会社の魅力を伝えるツールとなる。俺の声が、電波にのってどこかへ届く。俺の声が、俺の声が──。
 窓の向こう、ディレクターがキューを出したのを確認して、俺は目を閉じ口を開いた。


「OK!!完璧!!」

 ヘッドフォンからディレクターの声が聞こえて、一気に肩の力が抜ける。がくんと身体が崩れそうになって慌てて体勢を立て直した。ばくばくと今更になって心臓が騒ぎ出す。
 完璧?俺の声が?一発OKが出たのだ。信じられない気持ちで向こうを見れば、ディレクターの横、穏やかな顔で頷いているユージさんがいた。

 ああ、ユージさん──。

 嬉しそうに頷きながら、彼はこちらへ入ってくる。

「やっぱり、お前にお願いしてよかった」

 久しぶりに会うユージさん。変わらない、才能で溢れているユージさん。まぶしくてたまらず目を細める。

「言ったじゃん俺。お前は才能あるよって」

 まだそれを言うのか。俺が今日を迎えるまで、この短い文章を、一体何時間かけて、何千回と読み込んできたかを知らないから、ユージさんはそんなことが言えるんだ。

「そんなわけないよ」

 無事に収録が終わったことで、ほっとしたのか、なんだか込み上げるものがあって下を向いた。

「お前には、”努力できる”っていう才能があるんだよ」

 努力できる才能──?

「努力をし続けるということが、誰もが出来ることじゃないって分かってないだろ?時間を忘れるほどにひとつのことを突き詰められるのはすごい才能だってこと、お前は知るべきだよ」

 ユージさんはそう言って、口角をあげた。コン、とデスクに抹茶色のタピオカが揺れるカップが置かれる。

「DJヒロさん、お疲れ様」

 そう言って、彼はスタジオを後にした。あの日、俺はDJヒロになることができたのだ。

 ユージさんには借りがある。いや、借りなんていうものじゃない。
 ──あのひとは俺の、恩人だ。


「人生を変える出会いって、お前は信じる?」

 赤ら顔でそうぼやいたユージさんの顔を思い出す。酒なんて飲めないくせに、珍しく飲みに行こうなんて言うからおかしいと思っていた。まさかアメリカ行きをそこで聞くとは思ってもいなかったけど。

「運命の出会いでも果たしました?」

 目の前のコロッケを一口ほうりこんで俺は聞く。するとユージさんは片手で顔をおさえて、うーんとうなる。これは酔っている。しかも相当に。

「運命って言えば、運命だよな……」

 この人がそんな話をしているところなんて見たことがなかったから純粋に興味もわいて、酔っているのをいいことに色々と聞きだした。こんなところでパーソナリティとしての仕事が役立つとは、なんてちょっとおもしろがっていたのもある。あとは、俺の中での直感を確かめたいという思いもあった。
 あいつは何も言わなかったし、ユージさんも知り合いかと聞いたときに違うと言ったけれど、俺には確信があった。この人とあいつの間に、なにかがあると。
 饒舌になったユージさんの口から流れたことは、まるでドラマの物語のようだった。このふたりは、運命で結ばれているんだとそう思ったし、こんなことが現実で起きるのかと感動もした。けれど、ユージさんは、アメリカに行くことを決意していた。
 俺はただ話を聞くことしか出来ない。あとは、この人の代わりに彼女を見守ることくらいしか──。

「なあ、頼むね。あの子さ、すっげえいい子なんだ。俺の人生を変えてくれた、特別な存在なんだ」

だからさ──

「俺がいなくなったあと、タピちゃんのこと、どうか頼むよ」

 そう言って俺にちいさなつむじを見せて、そのままユージさんは眠りの中へと吸い込まれていく。
 ──こんなのって切なすぎる。だけど俺は、何もできない。夢に向かって進むこの人を、同じように夢を掴もうと努力するあいつを、ただただ見守ることしか。
 すうすうと赤ら顔で寝息をたてるユージさんを見ながら祈らずにはいられない。
 ──二人の未来が、どうか明るくありますように。

「おっ、と」
「すいませんっ!」

 廊下で誰かにぶつかって、俺は慌てて頭を下げる。エレベーターを待てず階段を駆け上がってきた。一秒でも早く、あいつのもとに行きたくて。

 スタジオにタピ子がいると教えてくれたのは、深夜番組後、仮眠をとっていたディレクターだった。
 地方局のADが突然やめてしまったとかで、俺が急きょ駆り出されることとなったのは彼女に想いを告げた日の翌日。出勤の準備をしていたらディレクターから電話が来て、2週間ほど地方に行ってほしいと言われたのだった。つい想いを伝えてしまったものの彼女が今は仕事以外のことを考える余裕がないのはわかっていたから、時間を稼げると内心ホッとしたのも事実だ。
 この2週間、俺は地方局でこちらとは違う様々なことを経験し、手ごたえを感じていた。そんな俺が早朝の電車で二週間ぶりに戻ってくると、ディレクターはソファの上で毛布にくるまれながら「タピ子、来てるぞ」と言ったのだ。

 2週間前までは、スタジオに来ても彼女が長くいることはなかった。それが前日の夜中に来て、今この時間までいるということは何か変化があった証拠だと思う。
 たとえば、声が出るようになったとか──。

 時刻は6時30分。スタジオの前、俺は深呼吸を繰り返す。こんな息を切らせて走ってきたなんて、カッコ悪いもんな。好きな女の前で男は、すこしでもカッコよくいたいもんだ。ふぅーっと口先から息を吐き出して、スタジオの重い扉を押し開ける。
 誰もいないミキサールーム。その奥に、マイクの前、デスクに突っ伏している彼女の姿があった。夜通し練習していたのだろう。手元にはたくさんの原稿が広がっていた。このスタジオは今日の昼まで空いているはずだ。少し寝かせてあげたい。
 音をたてないようにレコーディングルーム内に入れば、すう、すう、と小さな寝息が聞こえる。すこし痩せたな。そっとこけた頬を指先でなぞった。

 俺の言葉は、負担になってしまっただろうか。今の彼女に伝えるべきではなかったのかもしれない。だけど、本当に自然と、気が付いたら言葉になってしまっていたんだ。付き合いたいとか、独り占めしたいとか、そういう思いとはまた違う。ただ、愛おしくて、大切だと思った。俺がそばにいるから、守るから、だから安心していいんだと伝えたかった。
 そっとパーカーを脱いで彼女の肩にかけてやる。ぴくりと肩が小さく揺れたが、また規則正しい呼吸が聞こえて俺はそっとそこから離れた。

 パソコンを見れば、彼女が練習したのであろう内容の録音がいくつか残っているのに気づく。マイクをオンにしたものは自動的に録音される仕組みになっている。それをこのパソコンで削除したり編集したりするのだ。
 デスクトップにはいくつものファイルが並ぶ。ああ、やっぱり。マイクをオンにしても、声が出るようになったんだ。小さくその場でガッツポーズをした。これであいつは夢をあきらめないで済む。自分のことのように嬉しくて、馬鹿みたいかもしれないけれど、涙が滲んだ。

 ああよかった。本当に。

 彼女のマイク越しの声が恋しくなった俺は、ヘッドフォンをつけ再生ボタンを押す。ずっとずっと、聞きたかったんだ。マイク越しの、彼女の声を──。

『……ユージさんのばか』
『……ユージさんのあほ』
『ユージさん……ユージさんのことしか声が出ないよ……』

 いくつものファイルを開けて再生させていく。どのファイルにも溢れる、あのひとの名前。焦る気持ちと、酸っぱいような息苦しさが胸のあたりを駆け巡る。
 他の言葉だって、話せるはずだ。あのひとの名前しか出ないなんて、そんなこと──。
 最後のファイルなんて、開かなければよかったんだ。ヘッドフォンから響いてきたのは、震える彼女の声だった。

「──ユージさん、会いたい」

「おい、そろそろ起きろ」

 ゆさゆさと肩を揺らしてやれば、ふにゃけた顔を彼女が向ける。愛おしい気持ちの隙間で、チリリと胸が焼け焦げた。

「あ、え……あれ?来栖さん……?あ……久しぶり……」

 それから時計を見て彼女は驚いた。こんなに寝ていたの?と。そんな彼女の様子を微笑ましく思いながら、大きな段ボールをデスクに置く。いつ渡そうかずっとタイミングを見計らっていたのだ。彼女はきょとんとしながら不思議そうにその箱を眺めている。

「開けてみて」

 そう言えば、彼女は導かれるようにそっと箱を開いた。

「え……」

 一瞬、怯えた表情をした彼女の肩にそっと手を置く。

「大丈夫。心配しなくていい」

 案の定肩は小刻みに震えていたけれど、彼女はそっと深呼吸をすると頷いた。そして箱の中へと手を伸ばす。
 たくさんの、メッセージ。はがきであったり手紙であったり、メッセージフォームに届いたものを印刷したものであったり。中にはぬいぐるみが付いている電報などもあった。これはすべて、リスナーからタピ子へのメッセージだ。震えながらゆっくりと目で文字を追う彼女。すぐにその表情は涙でぐちゃぐちゃになった。

「紹介してよ。そのメッセージを」

 そう言えば、彼女は涙で濡れた顔を俺に向けて、そして力強く頷く。ミキサールームに戻って、マイクをオンにすれば彼女の息遣いがマイク越しに聞こえた。
 大丈夫、出るよ。ちゃんと声は出るから。お前は、大丈夫だから。

「……らじお、ねーむ……キラキラ、さん」

 ほら。出たじゃないか。

彼女自身、驚きと戸惑い、涙が混ざり合ってうまく表情を作れないみたいだ。それでも彼女は口を開く。

「タピちゃんの、声が聴けなくて、彼女ととてもさみしい想いを、しています。だけど、いつまでも、待っています。人生は長い。焦らなくていいんだよ。いつでも俺たちはここにいるから。ずっと、ずっと待っています」

 時折鼻をすすりながら、時折息を詰まらせながら、彼女は必死に読んでいく。

 ラジオネーム赤いキツネ太郎さん。DJタピーさんの声が聴けないと安心して年も越せません。ぼくにコタツから出ろと言ってください。来年になってもかまいません。自分の中ではそれまで時を止めておきます。

 ラジオネーム犬身沢さん。タピーさんいかがお過ごしですか?癒し効果のあるハーブのサシェを入れたぬいぐるみを作ってみました。タピーさんのマスコットキャラクターを勝手にイメージしてみたよ。また新キャラを作ったら送ります。はやく元気になりますように。

 ラジオネームベーカリーボーイさん。いつだって休憩は必要だと僕は思う。お腹が空いていると、人間ろくなことを考えないものだよ。おいしいものをたくさん食べて、頭をからっぽにしてゆっくり過ごしてね。僕はタピーさんのトークを聴きながら食べるおうどんが世界で一番すきです!

 ラジオネームゆで卵丼さん。どんな人間にも大きな壁が立ちはだかるときがあります。そのときは大きな試練ですが、その壁の向こうには新しい世界が広がっています。壁を壊して突破するもよし、着実に上りきっていくもよし。色々な方法があると思います。タピーさんのやり方を見つけて世界へ飛び出てください。新しいタピーさんに出会えるのを、楽しみにしています。

 次々と取り出しては読まれていく彼女へのメッセージ。彼女への、ラブレター。

「……」

 するすると、泣きながらも読み上げていた彼女の声がぴたりと止まって俺は顔をあげた。厳しい内容のものはあそこには入れていないはずだ。まさか紛れ込んでいただろうか。
 心配になって首を伸ばすと、彼女はいっそう背筋をしゃんもさせる。それは、つい数秒前まで泣きじゃくりながら読み上げていた彼女とはまるで別人のようだった。一緒に番組をしていたころの、生放送中の彼女の姿。

「ラジオネーム、抹茶メモさん」

 その声が聞こえたとき、ああ、越えたなと、そう思った。しっかりとした声、芯のあるトーン。

 な、大丈夫だったろ。お前のことを待っているひとが、こんなにたくさんいるんだ。愛してくれるひとたちが、こんなにたくさんいるんだ。たとえ敵がいたとしても、味方だってこんなにいる。怖がることなんて何もない。

 ずっとずっと、待っていたよ。
 新しい姿を俺たちに見せてくれ。

 おかえり、DJタピー。
 ビジネスでも関わりの多い事務所の社長が、うちの新人ですと局に連れてきたのが一番最初だった。自分の娘と同じくらいの年齢か。──俺には娘なんかいないのだが。

 ぱっと見たときに、ああ、この子はいいパーソナリティになるだろうとそう思った。そんな風に、第一印象で感じたのは、あいつに会ったとき以来のことだった。



「は?DJユージ?聞いたこともないな」

 すみませんとぺこぺこと頭を下げるAD。あれは9年前の冬だった。世の中はクリスマスムード一色。ラジオの番組でも話題はクリスマスについてのことばかり。リクエスト曲もほとんどがクリスマスソング。なにをそんなに浮かれているのか。クリスチャンでもないくせに。なんて、頭の隅では鼻で笑いながら、クリスマスという一大ビジネスチャンスにラジオ局としても精を出していた時だった。人気の生放送番組のパーソナリティがインフルエンザにかかった。

 パーソナリティというのは、基本的には何があっても番組に穴をあけることは許されない。多少の熱や体調不良ならばやりきるのが当然だ。しかし、インフルエンザなどの伝染病となれば話は別。他のスタッフやパーソナリティにうつったら、それこそ大惨事。しかし、そのパーソナリティがインフルエンザだと診断されたのが当日の午前中というわけで、局内は慌ただしかった。他の番組を担当しているパーソナリティなどにあたってみるものの、当日の生放送を引き受けられる状況の人間はなかなかいない。皆それぞれ、芸人や歌手、タレントだったりと本職をもっている人間が多いというのもラジオ局の実情だ。

 そんな中、ひとり代理のパーソナリティが見つかりましたとデスクまでやって来たADは、俺に一枚の紙を渡してきた。それは、あるパーソナリティのプロフィール。事務所HPのプロフィール欄を印刷したのだろう。顔写真の欄にはへたくそな子供が書いたようなにこにことした顔のイラストがあり、その脇には生年月日と経歴。──が、CMのナレーター実績や音楽番組でのコール出演のようなものだけしか経歴欄に記載されていない。

「おい、生放送なんかやったことあるのかよ?」

 タバコを吹かしながらその紙を睨みつけるとADはううんと唸る。

「多分、ない……と思います」

 おいおいまじかよ。

「それじゃあ収録番組でもいいや。ひとりで番組まわした経験は?」
「それも多分ない……かと……」

 ADは気まずそうに視線を左右上下に彷徨わせながら答える。はあああ?と大げさでなく大声が出た。そんなドのつく素人に、人気の生放送番組をやらせようだなんてイカれている。

「そんなん無理に決まってんだろ!もう一度探し直せ!!」

 手に持っていた紙を床に投げつけた時だった。

「やってみないと分からないじゃないですか」

 落ち着いていて心にすっと入ってくる、まっすぐな声が響いた。声の主は、まるで少年のような出で立ちの、けれど強い意志を持った瞳が印象的な青年だった。
 ──こいつならば、やるかもしれない。
 直感的にそう思った。そんな経験は、長いこと続けてきたプロデューサー業の中でも珍しいことだった。
 そして俺の直感通り、彼は初めての生放送を、人気番組という重圧をものともせずに見事に回しきったのだ。新人なりの荒さや言葉の拙さ、不自然な間などは多少あったものの、それを考慮してもとても新人とは思えなかった。才能の塊。そんな言葉がしっくりとくるような男。しかしそれだけじゃないということを知るのは、もう少しあとになる。

 ユージの人気はあっという間に火が付いた。今後どの番組に出るのかという問い合わせが頻繁にきて、これはと思い正式にオファーを出した。冠番組をすぐにというわけにはいかなかったが、人気番組のアシスタント出演、ひとつのコーナーを持たせていくうちに、頭角をぐんぐんと現していった。
 彼が紡ぎだす言葉たちはまるで歌詞のようで、まっすぐに人々の心に届いた。

 マイクの前と、マイクがないところでの彼はまるで別人のようなのもユージの面白いところだ。普段は寡黙であまり多くは語らない。すすんで人前に出て行くようなタイプでもない。それなのに、いざマイクの前に立てば、彼の声は多くの美しい言葉たちや音たちを作り出していく。それはまるで、魔法を見ているような気分だった。



「お前、本当すごいな」
「なにがですか?」
「いや、才能があるっていうのは、お前みたいのを言うんだな」

 ある収録番組のあと、テラスのガーデンで一服していたら、同じように一息つきに来ていたユージと顔を合わせた。非喫煙者であるユージは気分転換に外の空気を吸いに来ていたのだ。
 二人きりで話す機会などはそれまでになかったから、素直に思った言葉を発してみた。普段あまり人を褒めたりしない鬼プロデューサーなんて異名を持つ俺だが、彼に対しては素直にそう思っていた。しかし、ユージは露骨に顔をしかめたのだ。

「それは、嬉しくないですね」

 彼のそういうところも、気に入っているところだった。立場や役職を気にしてへこへこしたり、媚びたりするようなタイプではない。しかしこの言葉には、さすがの俺も首をかしげる。おいおい、鬼と言われる俺が素直に認めてるって言うのに何が不満なんだ。

「才能、才能って。才能があれば、何もしなくても出来るって言われているみたいじゃないですか」

 ユージはそう言って、足元に転がっていた花壇の小石を蹴飛ばす。
 ああそうか。才能だけで、今の彼が在るわけではないのだ。様々な努力や苦悩があってこそ、彼の才能は光り輝いているのだ。

「悪い悪い。そういうつもりじゃなかったんだ」

 不満を漏らす彼は、年相応に見えてどこかかわいらしさすら感じてしまう。彼は天才パーソナリティかもしれないけれど、それと同時に、普通の人間なんだと当然のことに気付かされる。
 才能、という生まれながら持ってつけられている足かせによって、彼はどんな思いをしてきたのだろうか。どんなに努力をしたとしても、才能のおかげだねと軽くあしらわれていたのかもしれない。どんなに苦しんでいても、才能があるのだから大丈夫だろうと、誰にも打ち明けられなかったのかもしれない。周りからは憧れや尊敬ばかりを抱かれて、弱音をこぼしたくてもこぼせなかったのかもしれない。そうやって、ずっとひとりで抱え込んでいたのかもしれない。ずっと孤独の中、走り続けてきたのかもしれない。

「──まあ、一服してみろよ」

 そう言ってタバコを差し出してみたら、俺の売り物は声なんですけど、と思い切りしかめ面をされたから笑ってしまう。
 才能があるからじゃない。
 天才パーソナリティだからとかそういうことでもない。

 そういうことを抜きにして、こいつはいいパーソナリティになると、俺は確信したんだ。



 満を持してもたせた冠番組、ミッドナイトスターは局内でも一位二位を争うほどの人気番組へと成長した。普通人気番組というのは、月曜から金曜まで連続して放送する帯番組が多いのだが、週一回の一時間の番組。それも深夜の時間帯の番組がここまでヒットを飛ばすというのは開局以来の快挙だった。それでもユージは落ち着いていて、そして冷静だった。地に足がついていて、さらに上を、完璧を求める。常に新しいものをと考えては、自ら企画を持ち込むことも多々あった。

 そんなある時、ヒロの担当する番組でインタビューコーナーを新しく打ち出すことになった。よりリスナーに寄り添う企画を、ということで決まったもののインタビューを務めるリポーターが見つからない。話を聞くことがしっかりとできて、それでいて相手の言葉を引き出せる人物。いかんせん10分という短い時間だ。いかに第一印象で距離をつかむことが出来るか。それがとても難しい問題だった。
 いくつかの事務所から新人の候補者を募って審議をした。面接をする前に、まず書類である程度絞らなければならない。数人のディレクターやスタッフたちと頭を寄せて書類を見ていたときだった。

「何の番組ですか?」

 立ち寄ったユージが声をかけてきたのだ。番組とコーナーの趣旨を説明し机の上に広がる候補者たちの資料を見せると、彼は人差し指ですーっとそれらを滑らせながら興味深そうに眺めていた。ある一枚の紙の上──ぴたりと彼の指が止まるのを俺は見た。

「お前、知り合いか?」

 じっと見つめる彼の視線の先には、少し前に事務所の社長に連れられてきた、あの女の子のプロフィール。社長を含め3人で飲みに行くくらいの関係性にはなっている新人の女の子だ。しかし、まだ経験も浅い。いきなりリポーターとしてコーナーを持たせるのは時期尚早かと思い、候補者の束からはよけて端に置いてあった一枚だった。
 ユージは俺の質問に何も答えなかった。しかし、そのときに、ほんのすこし──彼の口角があがったのを俺は見逃さなかったのだ。

「いいリポーター、見つかるといいですね」

 ユージはそれだけ言うと、黒いジャンパーのファスナーを顎の下まできゅっとあげて、首をうずめながらポケットに手を入れて歩いて行った。
 彼の背中が扉の向こうに消えたあと俺は覚悟を決めて、一枚の紙を顔の前に持ち上げた。

「誰にでも、“はじめて”というものが、あるもんだよな」

 こうして、異例の抜擢は実現した。彼女は若さゆえの未熟さや青さがあり、何度もつまずき、そして立ち止まった。それでも本人の根性と、周りの支えによってそれらを克服し、吸収し、どんどんと成長していった。マイクの前で声を出せないという、パーソナリティとしては致命的ともいえる窮地に陥ったもののそこから見事這い上がり、それからもうあっという間に1年が経った。インタビュー番組、そして最近では朝の生放送のアシスタントパーソナリティを務めるくらいにもなった。
 彼女がこうやって立ち上がって進んでいけるのは、間違いなく、周りとリスナーからの支えがあるからだ。

 ユージに話す才能があるのだとしたら、彼女には周りから愛されるという才能があるのだろう。


「ひとつお願いがあります」

 ミッドナイトスターの最終回──最後の生放送を終えた夜。局を出る直前に、ユージがお世話になりましたと頭をさげ、そのときに残したものがある。

「俺がアメリカに行ったあとは、この番組を──」

 ついにこの約束を、果たせる日がきたのかもしれない。

「プロデューサー、お待たせしました。なんですか、折り入って話って」
「お、来たか。お前、そろそろひとつ番組もってみないか?」

 えっと驚いたように顔を上げるのはADの来栖だ。脱サラをして、ディレクターになりたいと履歴書と身一つでここに乗り込んできたあの日の彼の姿を思い出す。年を重ねてからのアシスタント業務は心身ともにしんどいことも多かっただろう。それでも文句ひとつ言わず、頑張ってきたことを俺はずっと見てきた。

「……それって……」
「ディレクターやってみろ。新しい番組の」

 ニヤリと笑って企画書を渡せば、彼は驚きと喜びで満ちた表情のままそれを受け取る。じっと読み込んで、それから信じられないという顔をした。

「もしかして……あのひとが、帰ってくるんですか……?」

 大きな瞳をさらに見開く彼を見て、ふんと鼻で笑ってやる。

──さあ、伝説番組の復活だ。