そんな時、スマホが鳴った。表示されたのは、あのカフェで働くチーフの名前だ。
あの後も、俺はカフェ子ちゃんに会うためにカフェへと通った。彼女には彼氏がいるというのは分かった。それでも、どうしても彼女に会いたくなってしまって、常連という言い訳を自分につかいながら店へと足を運んでいた。
ところがある日、彼女は忽然と姿を消した。最初は休みの日なのかと思っただけだった。しかし、その不在が3回ほど続いたとき、チーフである女性が声をかけてきたのだ。あの子は、就職先のインターンが入ったのでバイトをやめました、と。きっと俺が彼女を目で探していたのに気付いたのだろう。
「そうですか」と力なく答えた俺を見てチーフは、おいしいカフェラテを作ってくれた。そしてカップにペンを走らせた。 “これからも、ぜひお店に来てください” と。
カフェ子ちゃんがいないのならば、そのカフェに行く必要なんかなかった。それでも、彼女が働いていたこのカフェしか、俺と彼女をつなぐものは何一つない。諦めないとと思いながらもだらだらとそこへ足を向けてしまうのは、きっとチーフの作るカフェラテがカフェ子ちゃんの作るものととてもよく似ていたからだ。自分でもつくづく女々しいと思う。彼女がバイトをやめたと聞いた日に、以前教えてもらった連絡先に連絡をいれてみたけれど、メッセージに既読が付くことは一度もなくて、いつまでも待っている自分にも嫌気がさして、連絡先から削除した。
俺もちゃんと、前を向かないと。
チーフはいい人だった。年は俺よりすこし上で、きびきびしていて、そしてサバサバしている、気持ちのいい女性だった。何となく波長も合い、今ではふたりで飲みに行くような仲だ。だけど、そこに恋愛感情はない。
チーフは今でもカフェ子ちゃんと連絡をとっているのだろうか。それは、ずっと聞けなかった。どんなに酒に酔っても、どうしても聞けなかった。そして、彼女も言わなかった。カフェ子ちゃんがどうしているとか、連絡をとっているとか、そういうことは一切俺に言わなかったのだ。もう、彼女には会えない。連絡をとることもできない。どこにいるのかも分からない。もう、会えない。
それなのに、俺はいまでも、彼女のことが忘れられずにいる。
こくんと一口自家製コーヒーを喉に流し込んでからメッセージを開くと、そこには短い文章が映されていた。
“今日、あの子の誕生日だよ”
その文章の下に、知らない電話番号。あの子、とは。間違いない。カフェ子ちゃんのことだ。そしてこの番号は、きっと、多分、いや絶対──新しい、彼女の番号だ。
ドキンドキンと心臓がうるさく高鳴る。電話をしてみていいのだろうか。誕生日なのだから、彼氏と一緒にいるのではないか。いや、チーフが送ってきたということは、彼氏とは別れたということなのか。ぐるぐると頭の中で様々な憶測がまわる。
いや、もう考えるのはよそう。もしかしたら、会えるかもしれない。いや、会えなくてもいい。
部屋着のパーカーにジーンズだけ履き替えて家を飛び出した。前に一度だけ、母の日のプレゼントを買ったことがあった、あのカフェのそばの花屋を目指す。彼女にはどんな花が似合うだろう。誕生日に花束だなんて、キザすぎるかな。最近の若い子は、花なんかいらないだろうか。いやそんなことよりも、彼女に俺は、会えるのだろうか。
いらっしゃいませ、と年配の女性が声をかけてくれる。どんな花をお探しですか?と。花についての知識なんて、まったくない。
「綺麗で、凛としていて、落ち着いていて、だけどかわいらしさもあって。そんな人に贈りたいんです!」
もうずっと会っていないのに、頭の中には彼女の笑顔や優しい声や甘い香りがあふれ出す。気付けば必死にそんなことを口にしていた。
店の女性はふわりと淡いピンク色をした牡丹のように微笑むと、幸せなお嬢さんがこの世の中にはいるものねと言いながら、色とりどりの花を数本ずつ、活けられた容器から抜き出した。
──こんな俺から突然花束をもらったら、きみはどんな顔をするのだろう。
カサリと音を立てる、綺麗で凛としていて、それでいてかわいらしいオレンジを基調とした花束をじっと見つめる。すうと深呼吸をして、勢いのままに表示されていた番号に電話を掛けた。
プルルプルルと機械音だけが鳴り響いて、心臓はどくんどくんと大きく脈打つ。ただ立っているのが耐えられなくて、とりあえず歩き出した。どこへ向かうとか、そんなのは分からないのだけど、とりあえず、ただ立っているなんてできなくて。
「もしもし……?」
出た──。懐かしい、彼女の声。
「あ、突然ごめん。あの、俺、星倉です」
受話器の向こうでハッと息をのむのが分かった。しばしの沈黙。話さなきゃ。繋げなきゃ。
「あの、覚えてるかな……カフェにいつも行っていたんだけど」
「……もちろん覚えてます。星倉さん、お元気でしたか?」
声だけなのに、ふわりと笑う彼女の笑顔が心に咲いた。
「もしかして、チーフですか?番号……」
「あ、うん……。今日誕生日だって聞いて、それで」
受話器の向こうはざわざわと風が揺れていた。外にいるのだろうか。
「ごめん、どこか外だった……?」
誕生日の夜だ。やはりデートなのかもしれない。受話器を耳にあてたまま、足元の汚れたスニーカーをじっと見つめた。ぴゅうっとその脇を、黄色い落ち葉がすり抜けていく。
「……そうなんです。あの、いまから、デートなんです」
ああ──やっぱりそうか。そうだよな。
花束を握りしめていた左手がだらんと落ちた。帰ろう。俺ってば何をしているんだろう。こんな花束なんか買ったりして。くるりと体を反転させれば、すこし先にゆるりとしたパーカーを羽織った女の子がコンビニの袋を片手に歩いている後姿が見える。
「チーフとはうまくいってますか?星倉さんとのこと、チーフ全然教えてくれなくって」
受話器の向こうで、ガタンガタンと音がする。それは俺がいま歩いている道の横を、通過する電車の音とそっくりだ。
「あ、今日は彼氏がレストランを予約してくれているんですよ。わたしも幸せなので、星倉さんもチーフとしあわせに過ごしてくださいね!」
答えない俺に気付かないのか、彼女はひとり話し続ける。今日はお気に入りのワンピースを着ているだとか、プレゼントはネックレスを頼んだのだとか、嬉しそうに、幸せそうに、聞いてもいないのに話し続ける。
ねえきみはさ──
「そんなおしゃれなレストランに、パーカーを着たまま行くの?」
後姿だって、分かってしまう。どんな服を着ていても、分かってしまう。顔を見なくたって、分かってしまうんだよ。
目の前に立つ後姿の女の子は、ぴたりと足を止める。カサリと手に持っていたコンビニの袋が揺れた。その後ろ姿は驚いたように肩を震わせると、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……星倉さん……」
どうして嘘をついていたの?
そう聞きたかったけど、そんなことよりも、俺はきみに、最初に伝えなきゃいけないことがあるよね。
「お誕生日、おめでとう。きみがすきだよ」
ラジオの前で家族全員で身動きもせず、聴覚に全神経を集中させていた。10分間。じっと、誰も一言も発さず、呼吸の音すら出すまいと。
「まだまだ駆け出しのパーソナリティの卵ですが、温かく見守っていただけたら嬉しいです」
そんなヒロさんの声で、家族全員が呪縛から解けたように大きく息を吐いた。ついに、電波に私の声が乗ったのだ。
「お赤飯炊いたから!」とお母さんはご馳走を作り、「いい酒でも飲むか」とお父さんも上機嫌。なんだかそれだけでもう十分な気さえした。
ユージさんは聞いてくれただろうか。私の初めての声の仕事。リスナーさん達の心には届いただろうか。
あの夜ユージさんが番組で話した体験談は、不思議なほどあの日の私と状況が似ていた。しかし彼がそれを知るはずもないのだから偶然だったのだろう。それでも私はまた、ユージさんに救われたのだ。
カフェ子からおめでとうとメッセージが来ていた。
『聞いたよ!ユージさんに負けないくらい、素敵なDJタピーだった!』
そんなメッセージに素直に嬉しくなる。今日はカフェ子の誕生日だ。一緒に過ごそうと言ったら、初のオンエアの日なんだからいつも応援してくれる家族と聞きなさいと言ってくれた親友はわたしの宝物だ。それにカフェ子は、今日は地元の友達がパーティをしてくれるから、とそう言っていた。わたしからのお祝いは、また明日サプライズですることになっている。
『ありがとう!カフェ子も、改めてお誕生日おめでとう!素敵な一年にしていこうね。今年も一緒にたくさん笑おうね』
なかなか既読がつかなかった。実はその日はパーティなんかなくて、彼女はコンビニの小さなショートケーキを買って寂しくひとりで過ごそうとしていたということ。とある人からオレンジ色の花束をもらってそのケーキは2人で食べたことを私が聞いたのは、その翌日のことだった。
「みなさんこんばんはDJユージです。さあ今夜はですね、僕自身めちゃくちゃテンションが上がったメッセージがきたので一番に読ませてください。絶対みんなもすごくテンション上がると思う。ラジオネーム、キラキラさん」
翌週の月曜日。オープニングからテンション全開なユージさんの声が響く。こういうのってすごく珍しい。いつもは落ち着いている印象が多いのに。しかし、ラジオネーム、キラキラさんという言葉が聞こえた瞬間、確かに私の体温はぶわりと1度上昇した。
「『ユージさんこんばんは。お久しぶりです。事情があってずっとメッセージを送れなかったのですが、やっと送ることができます。実は前からここで相談にのってもらっていた片思いなんですが……遂に、彼女と付き合うことが出来ました。紆余曲折ありましたが、いま、とても幸せです』
うわああああ!キラキラさんっ!いや!ほんとに!ほんっとにおめでとうございます!いや今日だけは許してくれ!ほんっとに嬉しい!キラキラさんの恋が実って、すっげー嬉しい!!あ、まだ続きがあるんで読みますね!
『実は、彼女もこの番組の大ファンで今夜は一緒に聞いています。ユージさんやリスナーのみなさんのおかげで、今のぼくたちがあります。直接会ったことはありませんが、みなさんは僕の恩人です。本当にありがとうございます』
……ズッ……いや、あの……泣いてないです、泣いてないですよ。いやあの、ほんとに嬉しくて……なんかほんとに、あの……僕、番組と素晴らしいリスナーのみなさんに恵まれたなって……ズッ……泣いてませんから……!とにかく!キラキラさんっ、本当におめでとう!とりあえずここで曲!」
ラジオからはアップテンポな曲が流れる。パーティにもぴったりなダンスナンバー。ユージさんってば、絶対泣いてた。そういう私も号泣だけど。 ああ、本当に良かった。遠回りをしたけれど、2人は一緒になれたんだ。本当におめでとう。カフェ子、それからキラキラさん。
その後番組は、リスナーさんたちから送られてきたキラキラさんへのお祝いメッセージで溢れた。今日はキラキラさん特番だななんてユージさんは本当に幸せそうに笑っていた。 ピロンとカフェ子から写真が届く。男の人がスピーカーの前で号泣していて、その横で笑顔でピースをするカフェ子。
この人がキラキラさん。優しそうで、あたたかそうな人だ。私にもメッセージをくれた人。大丈夫。この人ならば、必ずカフェ子を幸せにしてくれるだろう。
祝福の音楽にメッセージ。自分のことのように嬉しそうなユージさんの声。やっぱり、この人の世界は、この人はすごい。やっぱりわたしは、ユージさんのような人になりたい。
「毎週金曜日の音楽番組、メインパーソナリティが産休に入るんだけど。やってみる気あるか?」
あれから1年という月日が流れていた。担当コーナーも好評で、単発の仕事もいくつかもらい始めた頃だった。プロデューサーが、メガネを持ち上げながら私に聞いたのだ。
週の音楽チャートを軸にして、メッセージやリクエストなども受け付けている生放送番組。一定期間の代理とは言え、まさか自分がメインで番組を任せてもらえる日が来るなんて。
「はい!!精一杯頑張ります!よろしくお願いします!!」
勢いよく頭をさげれば、プロデューサーは満足げに頷いた。
私はいまでも、ミッドナイトスターのヘビーリスナーだ。メッセージは相変わらず送っていないけれど、見習いパーソナリティとしてユージさんのトークや返し方からたくさんのことを学んでいた。時間帯が合わないからか、ユージさんとはあれ以来直接顔を合わせていない。だけどきっとどこかで、わたしの声を聞いてくれているんだと思う。きっとどこかで、見守ってくれているんだと思う。わたしは、ひとりじゃない。見守ってくれて、支えてくれて、そして応援してくれる人たちがいる。いつか、ミッドナイトスターのリスナーさんたちにも胸を張って報告したい。
椅子に座り、ヘッドフォンをつける。ガラスの向こうの番組ディレクターが小さく頷いてキューを出したのを見て、私は小さく息を吸った。
「みなさんこんばんは、そしてはじめまして。DJタピーです。今日から期間限定でこの番組を担当させていただくことになりました。よろしくお願いします」
軽快なBGMに声をのせる。緊張はもちろんする。だけどそれ以上に楽しくてわくわくする。ちらりとガラス窓の向こうを見れば、ディレクターがOKマークを出しながらパソコンを指差した。メッセージを読むタイミングだ。ディスプレイには送られてきたメッセージが表示される。ユージさんもヒロさんも、こんな風にメッセージを受け取っていたのか。
「ではメッセージを紹介しますね。うわあー私にとって記念すべき初メッセージです!ラジオネーム匿名希望さん。
『タピーさんメインパーソナリティおめでとうございます。初めてメッセージを送ります。ラジオネームが考えつかないのですがラジオネームをつけてもらえませんか?』」
ぶわりと懐かしい記憶が蘇る。ドキドキしながら大好きなあの人の番組に、初めてメッセージを送った時のこと。ラジオにメッセージを送ること自体初めてで、わたしはラジオネームも考えられなくて、そして── あの人に、ラジオネームをつけてもらったのだ。
脳裏に浮かぶ、やさしい笑顔。 口元に浮かぶ、ふたつのエクボ。 照れたように下を向くその仕草。 分かってしまう。 分かってしまうんだ。 このメッセージをくれた人は──
「匿名希望さん、メッセージありがとうございます。ラジオネーム、つけさせていただきますね。 “抹茶メモ”さん、でどうでしょうか?」
聴こえていますか?
わたしはあなたに追いつくために、一生懸命走っています。
だからどうか。 もう少し、待っててください。
必ず追いついてみせるから。
「よお売れっ子DJ」
ぽんっと肩を後ろから叩かれる。にやにやと笑うのはヒロさんだ。
「もうからかわないでくださいってば」
そう言えば彼は楽しそうに笑った。夜の番組を担当して2ヶ月ちょっと。やっと少し慣れてきたところだ。売れっ子なんかではないけれど、今の所番組は好調らしい。
まだまだ緊張するけれどリスナーの声に耳を傾けて番組を進めていく楽しさ。優しくあたたかいリスナーのみなさんからの言葉。時には厳しくありがたい言葉。リポーターコーナーではリスナーさんとのやりとりはなかった為、この番組で初めてそういった関係作りを学んでいる最中だ。難しい、そして楽しい。直接顔を合わせてではないし、声で直接会話するわけでもない。それでも確かにそこに人間関係は成立している。見えないけれど、確かにそれはそこにある。私に向けてメッセージを送ってくれる人は確かにこの世界のどこかにいてくれて、私の声を受け取ってくれる人もこの世界のどこかに存在しているのだ。
ラジオというのは想像していたよりもずっと不思議で、そして奥深い世界だった。
こんな風に番組を持つようになって改めて思うのは、ユージさんの偉大さだ。リスナーが毎回メッセージを送りたいと思うようなトークを展開していくのは簡単なことではない。顔は見えなくても、この人に聞いて欲しいと思う魅力がなければ誰もメッセージなんか送ったりしないのだから。
「お前、最近ユージさんに会った?」
唐突に放たれたヒロさんの言葉。特別な人の名前が出たことに私の心は大きく揺れた。局内で偶然会った時以来、ヒロさんの口からその名前が出たのは初めてのことだ。
「会ってないですけど……」
そう、あの日以来ユージさんには一度も会っていない。ミッドナイトスターは聞いているし、わたしの番組に抹茶メモさんからメッセージが来ることも稀にある。しかし、それが絶対にユージさんかと言えば、わたしの憶測に過ぎない。そしてもちろん、バイト先にも彼は訪れていない。
ふうん、とヒロさんは何か考えたような顔をすると、まあいーやと手を振って行ってしまった。
なんだったのだろう。小さな疑問は、あっという間に消えてしまった。
大きく深呼吸を3回。それからスタジオの扉を開ける。これは私のルーティンだ。
「おはようございまーす」
先に来ていたアシスタントディレクターの来栖(くるす)さんが顔を上げる。
「おはよ。なんかお前、今日声変じゃない?」
んんっと喉を鳴らしてみる。変かな?首を傾げていると、おはようとディレクターが入ってきた。
「んじゃタピちゃん、今日もよろしく」
こうして今夜も生放送が始まる。毎回緊張しながらスタートして、番組を進めていくうちに少しずつほぐれていく。やっと本調子になったかなというところで番組終わりの時間でタイムアウト。それがいつももどかしい。もっと早くスイッチが入ればいいのに。これも私の未熟ポイントのひとつだ。
放送後は、誰もいないスタジオでノートに今日の反省点を書いてから帰るのが日課だ。今日のササクレさんへの返し、あれで良かったかな。ちょっと自分の意見押し付けた感があったかも。最後の曲振りのテンション、もっと抑えるべきだったかな。自分の好きな曲だったから、ついつい熱が入ってしまった。ノートはいつもびっしり埋まる。反省ばかりの毎日だ。
今日の分の反省点を書き終えたところで息をつく。振り返れば振り返るほど自分の情けなさに嫌になる。だけどここで腐るわけにはいかない。腐るも輝くも自分次第。前にキラキラさんからもらった言葉は今でも、わたしの心の中に大切にしまってある。一息つこうと伸びをしていれば、バンと乱暴に扉が開いた。
「まだいたの?」
開かれたドアの先にいたのは、ヒロさんだ。彼は私の側までくると、ノートを取り上げて声に出して読み始めた。
「未熟ポイントノート①声がぶりっこっぽい。もっと猫かぶりじゃない声を!②返しが恩着せがましい。あと重い。もっとライトだけど深い返しを!ユージさんみたく。③音楽の知識が乏しい。ユージさんのように多ジャンルの知識を」
「わー!やめてくださいやめてください!見ないでください!」
必死に取り上げようとするものの、ノートを頭上に挙げられてしまっては届かない。ヒロさんは180センチの長身で、対するわたしは165センチしかない。ぴょんぴょんと飛び跳ねるわたしをヒロさんは楽しそうに見下ろしている。
「お前、本当にユージさんのことすきなんだな」
「ち、違いますっ!」
思わず大きな声が出て、わたしは飛び跳ねるのをやめた。
「……憧れなんです。ユージさんは、わたしの憧れなんです。あんな人になりたいし、あんなDJになりたいんです……それだけです」
そう言って、思わず俯いてしまう。それだけ、そう、それだけなのだ。
「……ゴメン。いじめすぎたな」
ヒロさんは、そんなわたしの頭にポンと手をのせると、ノートを返してくれた。それからこう続ける。
「お前はお前のままでいいんじゃない?まあこれもさ、ユージさんからの受け売りなんだけどね。お前にしか出来ないことがあると思うよ、俺も」
わたしにしか、出来ないこと──。
腹が減ったからたこ焼きでも食ってこうぜとヒロさんが言いながら扉を開けた。
「何これ」
扉を開けた外側のノブのところに、コンビニの袋がかかっていた。
「お前にじゃないの?」
「……誰からですか?」
「俺が知るかよ」
カサリと袋を覗いてみる。そこには、のど飴とあたたかい飲み物が入っている。そういえば、と頭にある人が浮かんだ。今日声変じゃない?と私に言ったあの人。気遣ってくれたのだろう。次に会った時お礼を言わないと。いつも心配してくれて、優しい言葉をかけてくれるあの人。本当にいい人で、わたしはスタッフにも恵まれている。
「ADさんからの差し入れだと思います」
あっそ、とヒロさんは興味もなさそうに言って、わたしたちはスタジオを後にした。
最近は声の仕事が増えてきてバイトに入る日も少なくなってきた。それでも放送のない月曜日だけはなんとなくずっと入り続けている。もうユージさんが来ないのは分かっている。それでももしかしたら──と、そんな小さな期待を握りつぶすことが出来ずにいた。
そんなある月曜日。常連のお姉さんと軽く会話をして手を振って見送ると「抹茶タピオカふたつください」と聞き慣れた声が聞こえた。そこには、上着のポケットに両手を入れたままのユージさんが立っていた。
「ユージさん……」
「久しぶり。元気そうだね」
そう言って、以前会った時と同じ顔で彼は優しく微笑んだ。一瞬で、体中がどきどきと脈を打つ。会いたくて、会いたくて、やっと会えたのに。それでもまだ、こんなに苦しい。
「頑張っているみたいだね」と彼は財布を取り出しながら言う。本当は聞きたいことがあった。わたしのラジオを聞いてくれていますか?抹茶メモさんはユージさんですか?そんなことを聞けない私は、「おかげさまで何とか頑張っています」なんて他人行儀な言葉しか口にすることが出来ない。
本当は嬉しいのだ。会えて嬉しい、来てくれて嬉しい。だけどそれを伝えられないから、ドリンクを作るのに集中する。どうかこのカップの中に私の “嬉しい”が たくさん流れ込んで、どうかそれを飲んだユージさんにこの気持ちが伝わりますように。素直に嬉しいと言えない天邪鬼な私の心が、ユージさんに少しでも伝わりますように。
いつもより丁寧にドリンクを作る。話せないくせに、少しでも一緒にいたくて。だけどどんなに丁寧に作ったって、あっという間にドリンクは出来上がってしまう。
「お待たせしました」
ユージさんはまた、ひとつだけカップを受け取る。そして、もう片方の手をわたしの前に差し出した。
「これ、タピちゃんに」
動かない私に、ユージさんは半ば押し付けるように手の中のものを渡す。
「ずっと応援してるよ」
そんな言葉と優しい笑顔を置いて、彼は小走りに去って行った。一瞬触れた手と手に、顔は、体は、熱を持つ。触れた指先が燃えてしまうみたいに熱かった。掌をゆっくりと開いてみると、そこには小さな赤いお守り。願い事が叶うというお守りがコロンと転がっていた。
「なんだったの……」
スタンドにひとつ残った抹茶ミルク。ストローに口をつければ、甘くてそして、ちょっとだけ苦かった。抹茶を入れすぎたかもしれない。ユージさん、大丈夫だったかな。せっかくの久しぶりの抹茶ミルクタピオカだったのに、おいしく飲むことが出来たかな。
そんなことを考えながら小さな赤いおまもりを、もう一度ぎゅっと握った。