「嘘ついていたこと謝る。本当にごめん」
ユージさんはそう言って、頭を下げた。男の人にこんな風に面と向かって謝られたことなんて今までない。どうしたらいいのか分からなくて膝頭をじっと見つめる。それでも、彼が頭をあげる気配がなく、仕方なく言葉を探し出した。
「いつから気付いていたんですか?私のこと」
今思えば、読まれこそしなかったものの、タピオカのお店でバイトを始めたとメッセージを送ったことがある。バイト先とユージさんのスタジオは目と鼻の先だ。
「ついさっきの本番中。メッセージもらってからガラスの向こうに見つけて、そこで初めて繋がった」
騙すつもりはなかったんだよ、ほんとに。そんな風に付け加える。そこに嘘はないのだと思う。ユージさんは業界の人で、さっきも言っていた通り声の仕事をしている。顔出しもしていなかったから、彼のプロとしての意識がそうさせたのだろう。彼が名乗っていた”星倉”という名前は、あるリスナーの本名を借りたのだと彼は説明した。確かにメッセージを送る欄に、ラジオネームと共に本名を記入する欄があったことを思い出す。
「まさかさ、あそこで働いていたあの子がタピちゃんだったなんて、思わなかった」
驚いたのは、彼も同じだったということ。何と返せばいいか分からなくて、口の中のタピオカをぐにぐにと噛み潰す。
「……怒ってる?」
伺うように言われれば、なんだか申し訳ない気持ちになってぶんぶんと首を横に振った。
「ただ、びっくりしただけです」
「そっか……うん、そうだよな……」
そこから会話はもうなかった。夜の公園のベンチで、不自然なほどの距離をあけて座った私たちの間を、風がひゅうひゅうと抜けていく。
ずっとずっと憧れていたあのひとが、いま隣にいる。会うことすら夢だったあのひとが。それと同時に、必死に想いを隠そうとしていた現実世界のあの人も、いま隣にいる。ときめきなんかじゃない、恋なんかじゃない、と必死に言い聞かせて来た相手が、いま隣にいる。──そのふたりが、同一人物だったなんて。
頭では理解しているのに、どうしても心が追い付いてくれない。スタンドにいつも来てくれていた彼とは、冗談を言えるくらいの仲だった。彼のはにかむ笑顔とか、笑った時に出来るふたつのえくぼを見ると、胸がきゅんとなった。
ラジオの中の彼は、いつも優しくて導いてくれる神様のようなひとだった。メッセージを通して、私はいつでも素直な心のうちを彼に伝えていた。伝えたいことはたくさんあった。聞いてほしいことも、報告したいことも、大きなことから小さいことまで、いくつもあった。
それなのに──どうしていま、私は何一つ口にすることが出来ないのだろう。何か話さないと思うのに、何も出てこない。
言葉を発する代わりにごくんとタピオカを飲み込んだ。と同時に、彼のスマホがぶるぶると震える。さっきからだ。さっきから、何度も何度も着信がきているのに、彼はそれを見ようともしなかった。
「……電話、でてください」
そう言えば彼は、ああ、と今気づいたかのようにポケットからスマホを取り出し、そして耳にあてた。
『ユージさん今どこですか!?打ち合わせ抜けるなんて言って突然出て行くなんて。社長も怒ってますよ早く戻ってきてください!』
電話の向こうの相手は相当焦っているのが、思いのほか声が大きくてこちらまで聞こえてきた。それに気が付いてか、ユージさんは立ち上がると、少し離れたところに移動して相槌を打ったり何か言ったりしていた。
ユージさん、仕事まだ終わってなかったんだ。それなのに、私に──来るかもわからない私に、会いにきてくれたの?
分かった分かったと言いながら電話を切った彼は、戻って来ると頭を下げた。
「俺、そろそろ行かないといけなくて。ほんとごめん」
行かないで。もうすこし。だってまだ、何も話せていない。
「分かりました。お仕事頑張ってください」
心の声とは裏腹に、そんな言葉が自然と出てくる。思っていることを伝えるって、こんなに難しいことだった?
それじゃ、と言うと、彼は背中を向けて歩いて行く。途中置かれたゴミ箱に、空のカップをころんと投げて、そのまま小さくなった背中は消えていった。
はあー、と大きなため息が溢れる。緊張した。知らない人みたいだった。手の中のカップには、まだ半分もドリンクが残っている。氷なんかすっかり溶けて、うすい、うすい味。
私、何をしていたんだろう。何も、出来なかった。何も、伝えられなかった。いや、何も分からなかったんだ。
空を仰げば、いちばん星だけきらきらと輝いている。こういうとき、どうしたらいいのかな。聞いてほしい、相談したい。そんな時にはDJユージさんがいた。ミッドナイトスターがあった。
だけど──こればかりは、メッセージとして送るわけにはいかないじゃないか。手の中のカップを、隣に置いて、ベンチの上で膝を抱えた。じわりと涙が滲んでくる。泣いたって仕方ないのに。
「知りたくなかったなあ」
誰もいないのをいいことに、わざと大きめの声で言ってみた。知りたくなかった。彼が、彼だということを。
「知りたく、なかった……」
現実世界で支えだったあの人が、実は遠い遠いあの人だったなんて、そんなこと。
私は知りたくなかったんだ──。
ちょっとお洒落なカフェをリサーチしておいた。
一世一代の大切な場だ。いわゆる洒落た店というのは彼女が働いているカフェくらいしか知らない。だからと言って、彼女の勤め先に誘い出すというのもなんだと思って会社の同僚に相談したら、この辺りがいいんじゃないかとおすすめの店をいくつか送ってきてくれた。妹がいるからこういうのは任せろと言ってくれた友人に感謝しないと。
勢いだけで誘ってしまって、さらに自分の正体も明かしてしまった。勢いって怖い。だけど時間は巻き戻せないし、送ったものは取り消せない。彼女から『分かりました』という短いメッセージが届いて俺は、慌てて準備に取り掛かった。Tシャツにパーカー、デニムで大丈夫かな。いつも会うときにはスーツ姿だから、なんだか変に緊張してしまう。靴は一番気に入っているものを取り出した。
「すみません!遅れちゃいましたか!?」
待ち合わせ時間すこし前。待ち合わせ場所に選んだのは、彼女のバイト先の最寄駅。
かっ、かわいい……!!カフェでの制服姿しか見ていないから、当然だけど私服を見るのは初めてだ。いつも高い位置で結ばれているポニーテールは、今日はゆるく巻かれて肩下で揺れている。カジュアルだけど、女の子らしさもあるスタイルで、メイクもいつもとは少し違う感じがした。女の子の流行などには疎い俺だから、うまく説明は出来ない。だけどかわいい。とにかくかわいい。思わずぼうっと見惚れていると、あのー、と彼女の戸惑うような声が聞こえた。
「あ、あんまり、その……見ないでもらってもいいですか?」
顔を真っ赤にして俯いている姿を見て、はっと我に返る。女性をまじまじと見るってのは失礼にあたるものだ。
「ご、ごめん!ちょっと、いつもと雰囲気が違ったからつい……!」
慌ててしまい、語尾で噛んでしまう。焦っているってバレバレだ。ああ本当にかっこ悪い。すると、そんな俺に彼女がくすっと笑うのが見えた。やっと見れたいつもの笑顔に、カチカチに固まっていた気持ちがほぐれていく。どんな服を着て、どんな髪型をしていても、笑えば俺の知っているカフェ子さんだった。
お腹すいている?と聞けば、少し。と彼女は控えめに答えた。カフェだけど料理もおいしいという店の場所を頭の中の引き出しからするりと取り出し、そこへと足を進める。本当は、料理のおいしいダイニングバーとかでもいいかなと思った。お酒も飲めて食事もおいしい場所の方がリラックスできるから、俺自身行くことは多い。
だけど、初めて外でふたりで会う記念すべき日。何より、俺は今日大事な話をしようとしてるんだ。そんなときに、酒の力を借りるようなことはしたくないなんて、そんなことを強く思った。
きちんと、自分だけの意思で、自分だけの言葉と、声で。
カランとガラス扉のベルが鳴ると、お店の人がいらっしゃいませと声をかけてくれる。一歩足を踏み入れれば、彼女はわぁと小さく声をあげて目を輝かせた。店内中央に飾られている洒落たシャンデリアを見ているようだ。よかった。どうやら気に入ってくれたらしい。
小柄な女性の店員さんに窓際の席を案内される。そっと椅子を引いてあげると、彼女は少し戸惑ったあとにはにかみながらそこに座った。
「星倉さん、何飲みますか?いつものですか?」
クスクスと笑いながら彼女が手元のメニューを見る。夢みたいだ。カウンター越しにいた彼女が、今、目の前に座っている。
「あ、俺、オレンジジュースにする」
そう言えば、こんなに寒いのに?と彼女は窓の外を見つめる。外では風がひゅうひゅうと吹いていて、時折並木道の落ち葉たちが窓の外で舞っている。外は寒いのだと思う。だけど今、俺は暑くて仕方ない。緊張と、嬉しさと、なんかよく分からない昂揚感と。気を抜けば、汗がたらりとこめかみから流れるくらいには暑い。
「じゃあわたしも」
彼女はそう言って笑った。それから、フードメニューに手を伸ばし、俺たちはふたりで同じハンバーグプレートを注文した。おしゃれな木の皿にかわいく盛り付けられたそれはおいしくて、そして俺にはちょっと量が足りなかった。だけど、彼女はお腹いっぱいとニコニコ笑っていたから、足りない分はそれでチャラだ。食後にホットコーヒーを頼んで、ふたりでカップに口をつけた頃合いを見計らって、俺は口を開いた。
「今日、どうだった?ユージさん。友達、喜んでた?」
話題を今日のラジオ番組にうつすと、彼女は顔をぱっとあげて、瞳をキラキラと輝かす。
「はいっ!ユージさん、すっごくすっごく素敵でした!いつもメッセージ送っているリスナーさんたちも何人か会場にいたみたいで!なんかこう、ユージさんとリスナーさんとの繋がりみたいのを直接感じられて!もう本当感動でした。しかもなんと私の友達がユージさ……」
機関銃のようにしゃべっていた彼女が途中ではっとした顔で両手で口をおさえた。ん?なんだ?
「……とにかく、すごく素敵でした。ありがとうございました。本当にありがとうございました」
そう言ってからぺこっと頭を下げた。どうやら楽しかったのは間違いがないようだ。よかった。こんなに喜んでもらえて、この笑顔が見られるのなら、俺はもうそれだけで十分だ。けれど、ふっと彼女の表情が曇ったような気がした。
「あとこれ、よかったらもらってください」
そう言って彼女が小さなカバンから取り出したのは、ミッドナイトスターと書かれた赤いステッカー。
「来場者特典で、1枚ずつもらえたんです」
すっとテーブルの上をそのステッカーが滑る。彼女の表情は笑顔なのになぜだか泣きそうに見えるのは、俺の勘違いだろうか。
「いやいやいいよ。今日の思い出に持っていなよ。俺は大丈夫だから」
すると彼女は俺の手をぎゅっと掴んで引き寄せると、手のひらにぐっとそれを置く。
「絶対に星倉さんに──いえ、キラキラさんに、渡したかったんです」
何か決意が込められたような声に、驚いて彼女の顔を見つめる。すると、彼女は下を向いて言ったのだ。
「わたし、応援します。キラキラさんの恋がうまくいくよう、応援します。ラジオで相談されていた相手って、うちのスタッフですよね?もしかして、チーフですか……?」
ああ。彼女は勘違いをしているのか。俺が他のスタッフが好きだと。違うよ。違う違う。俺がすきなのはさ──
口を開こうとしたときだった。
「キラキラさんの恋が叶うよう、わたし、精いっぱい協力します。チーフと星倉さん、お似合いだと思います」
これは恋が叶うお守りです。そう言って、彼女はステッカーをじっと見つめた。その瞬間、ガラガラと何かが崩れていく音がした。“チーフ”というのは彼女のバイト先であるカフェのチーフの女性。たしかに綺麗で、仕事のできそうな女性だ。だけど、違うのに。俺がすきなのは──
「チーフも前に、星倉さんのことかっこいいって言ってましたよ!」
そんな風に目の前で、笑顔で言われてしまったら、なんと答えるのが正解なのだろうか。
きみのことがすきだよ。
そのたった一言が、どうしても出てこない。
「あとでチーフのシフト送りますね!」
そんなかわいい笑顔で、そんな言葉のナイフを投げないでくれよ。
「もうすぐクリスマスですもんね!わたしも彼氏とどこにデート行こうかなあ」
ああそうか。きみには彼氏がいるんだね。
改めて、何も知らないのだと、彼女のことを何一つ知らないのだということを実感する。どこかへ出かけようと言う誘いを承諾してくれたのも、彼女自身に他意がないからだ。純粋に、俺とそのチーフの恋を応援したいと思っているからだ。それだけなのに、何を俺は浮かれていたんだろう。
ちょっとお手洗い行ってきますね、と言いながら彼女は立ち上がった。その時に、俺は気付かなかったんだ。彼女がそっと、財布からお金を取り出してカップの下に挟んだことを。
『すみません、急用ができたので先に失礼します。今日はありがとうございました』
そんなメッセージが着ていたことに気が付いたのは、受信して30分ほどが過ぎてからだった。
『もう家?』
ぴろんとスマホが通知を知らせる。カフェ子からだ。キラキラさんとうまくいったかな。私はこんな形になってしまったけれど、友達の幸せは心から祝福したい。そう思った私はすぐに彼女に電話をかけた。ところが、着信を取ったカフェ子は明らかに泣いている。
「どうしたの?!」
「わたし──本当馬鹿……」
てっきりうまく行ったと思っていたのに。カフェ子は自分の素直な気持ちを伝えられず、チーフとの仲を応援すると言ったらしい。そして自分には彼氏がいるなんて、嘘までついたと言うのだ。
「……他の人に会うためでもいいから……カフェに来てほしくて……」
泣きじゃくりながらカフェ子は話す。その気持ちは痛いほどに分かった。どんな形だとしても、会えなくなるよりはずっといい。カフェ子はばかだ。そして、私も大ばか者だ。
「……タピ子は?」
「私は……」
どうしたらいいか分からなかった。どうやって接したらいいか分からなかった。常連さんの星倉さんとして会話をすればいいのか、尊敬するDJのユージさんとして会話をすればいいのか。
「態度がおかしかった?」
「ううん」
そんなんじゃない。きちんと謝ってくれて、そして優しく接してくれた。態度がおかしかったのは彼ではなく私の方だ。戸惑いが大きすぎたのだ。
「よく分かんない……」
“星倉さん”のままでいてくれたら良かった。何も知らないまま彼と接していたら、自分の気持ちを隠しきれなくなるのも時間の問題だっただろう。実るか実らないかは分からない。だけどドキドキして楽しくて、会えるかなとそわそわしたり、彼の一挙一動に落ち込んだり期待したりして。そんな風に普通の恋ができたはずだ。もしかしたらそんな恋を、ラジオでみんなに相談していたかもしれない。「いよいよ俺たちの妹のタピちゃんにも恋の季節が!」なんてDJユージさんは言ってくれたかもしれない。だけどそれはもう起こらない。
「ドラマや漫画みたいにさ、そんな簡単にうまくいくものじゃないんだね」
「漫画ならば、好きな人と憧れの人が同じ人でした。両想いになりました!めでたしめでたし、ってなるのにね……」
さっきまで一緒にいたユージさんの戸惑うような顔が瞼に焼き付いて離れない。困ったような、気遣うような、あの表情が。あんな顔を見て、どうして浮かれて恋だのなんだの言えるだろうか。
「どうして、出会っちゃったんだろう……」
受話器越し、ふたりの声が重なって。私たちは声をあげてもう一度泣いた。
「みなさんこんばんは。月曜深夜いかがお過ごしでしょうか。DJユージです」
あれから初めての月曜日、私はバイトを休んだ。レッスンがあったわけではない。体調が悪かったわけでもない。だけど、なんとなくユージさんに会うのが気まずくて、バイト仲間にシフトを交換してもらった。
ユージさんは今日も、スタジオに入る前にお店に来たのだろうか。抹茶ミルクタピオカを頼んだのだろうか。一週間が経っても私はまだ、彼とどう接したらいいのか分からない。
「この間は生放送にたくさんのリスナーさんが来てくれて、嬉しかったです。やっぱ顔が見えるってすごいね」
ラジオからはいつもと変わらないユージさんの声が聞こえてきて、心臓がぎゅっと痛くなる。本当は今日も、聞くつもりはなかった。それでも時間になれば習慣のように、私はチューンをあわせていた。聞こえてくるユージさんの声。これはずっと憧れてきたDJユージさんの声だ。
私はこんなに心を乱し、バイトまでわざわざ休んで、気持ちもざわざわしているのに、ユージさんは何も変わらない。当たり前のことなのに、なんだかそれが悔しくて、なんだかとても切なくて、メッセージなんて送る気にもなれない。ラジオの向こうではリスナーさんからの最近あった滑らない話が読まれていた。
ところが、番組が終わる頃にはすっかり夢中で聞いていた。それは彼が誰なのかとか、自分の今持っているもやもやとか全て関係なく、結局は彼の作り出す世界に引き込まれてしまったということだ。それに気づいたときに、改めて思った。やっぱり、この人はすごいパーソナリティなのだと。
それはつまり、彼がどれだけ自分のいる世界とは違うところにいる人なのか、どれほど遠い遠い存在なのかということを改めて思い知らされたということでもあった。
私はパーソナリティになりたいと、ユージさんと共演したいとそう言った。だけどそれがどんなに大きすぎる夢なのかということを痛いほど感じる。それと同時に、“憧れ”と“すき”はまた違うのだということに、私は気付きだしていたのだった。