高校二年の最後の週の月曜日。この日は朝から雨が降り続いていた。
雨の日の昼休みは屋上に上がることはない。
よって、そこで彼女と偶然(?)に会うこともなかった。
雨は放課後になっても降り続いた。
今日は部活の日ではあったが、雨で外で練習ができないため、部室でのミーティングとなった。
結局、簡単な打ち合わせのあと、解散となった。僕はラッキー、と思いながらカバンを取りに自分の教室へと向かう。
校内の生徒はすでに帰宅してしまったようで、どの教室も人は疎らだ。
A組の教室の前を通った時だった。後側の扉が開いていたため、一瞬だが教室の中が目に入る。
そこに女子生徒が教室の奥の席でぽつりと一人で座っているのが見えた。
――あれ、鈴鹿さん?
後ろ姿ではあったが、僕はすぐ分かった。
扉から教室を覗き込む。どうやら他の生徒はみんな帰っていて、彼女以外誰もいないようだ。
僕はそおっと教室の中に入る。
僕の姿が見えてないのか、彼女は下を俯いたまま気がついていない。
ちょっと脅かしてやろうか、と悪戯心が湧いた。
わっと声を出そうと思った瞬間だった。俯いてる彼女のとても寂しそうな顔が目に入り、僕はそのまま動けなくなってしまった。
何も言えず固まったまま、しばらくの時が過ぎた。
すると彼女は急に上を向いたと思うと、スッと立ち上がり、振り返ってこちらを向いた。
「えっ!」
彼女はびっくりした顔で僕を見る。
結局、驚かせてしまった。
「名倉くんじゃん! びっくりしたあ。どうしたの?」
「あっ、ごめんね、驚かせるつもりじゃ。今日は部活が雨で休みになったんで帰ろうと思ったんだけど、鈴鹿さんが見えたから…」
「ふーん」
彼女はあっけらかんと答えた。
その彼女の声に僕はちょっと拍子抜けする。
「あの・・・何かあった?」
「え? なんで?」
「さっき、何かとっても寂しそうな顔してたから」
「え? いつから見てたの? 恥ずかし・・・」
「あ、ごめんね」
「いいよ謝んなくて。相変わらずだねえ、真面目くんは。別になんもないよ」
彼女は惚けたように顔を背けた。
「ホントに?」
「まあ私も多感な乙女ですからねえ。実はね・・・君のことを想ってたんだ」
彼女は上目使いに悪戯っぽく笑って言った。
「やめてよ、そういう怖い冗談」
「ごめんね。私、冗談言うの苦手なんだ」
彼女はにこっと微笑んだ。
それはいつもの明るい鈴鹿さんだった。
「名倉くんて、何部だっけ?」
「ごめんね、テニス部だよ」
「フフッ、また謝ってる。そっかあ、テニス部かあ。ケイ君目指してるとか?」
「なれるわけないでしょ!」
「だよね」
彼女はそう言いながらクスッと笑った。いつもの眩しい笑顔だった。
うん。やっぱりいつもの鈴鹿さんだ。心の奥底で僕はホッとした。
「ね、テニスって楽しい?」
「うん、そうだね。練習はちょっと辛い時もあるけど。でも自分の思い通りのショットが打てた時はすごく気持ちいいよ」
「そっかあ、私も今度やってみたいな。テニス」
「鈴鹿さんは何かスポーツやるの?」
「ううん。私、運動苦手だから」
会話はここで止まった。
彼女は教室の正面にある時計のほうに目を向けると、ちょっと寂しい顔になった。
「あのさ・・・」
彼女がぽつりと呟く。
「何?」
「睨めっこしよ」
「え? ここで?」
「どこでやりたかった?」
「・・・・・」
「じゃあ、いくよ! 先に目を逸らしたほうが負けだよ。せーの、はい!」
彼女は僕をさっそうと睨み始めた。
僕は思わず周りを見渡したあと、慌てて彼女の顔を見つめた。
それはまさしく“睨めっこ”だった。
すると、不思議なことに時間が経つにつれて彼女から目を逸らさずに見続けることができるようになってきた。
それと同時に彼女の睨むような目が、だんだんと弱々しくなっていくように感じた。
そして、彼女の大きな瞳は急に潤み始め、ひとつの滴がゆっくりと頬を伝った。
――え? なに?
彼女はハッとしたように僕に背を向けた。
「どうしたの?」
思わず僕は叫んだ。
「ずるーい! そんな面白い顔しないでよ。笑いで涙が出ちゃったじゃない!」
彼女は僕に背を向けたまま窓のほうを見ながら叫んだ。
――え? 笑ってたの?
「今日は真面目くんの勝ちだね。参った参った」
「あ・・・あのさ・・・」
「ごめん。私もう行かなきゃ」
彼女は僕の声を遮るように立ち上がった。
「じゃあね、名倉くん」
彼女は僕のほうを見ずにそのまま出口へと向かった。
「あ・・・うん、またね・・・」
僕はただ挨拶を返すしかできなかった。
なにかモヤモヤと嫌な感じが残った。
彼女が教室の出口を出る直前、僕は彼女を呼び止めた。
「あの、一緒に帰らない?」
自分でもびっくりするような大きな声が出た。
「え?」
彼女はすっと振り向いた。
彼女は僕の声にびっくした顔をしていたが、その彼女の目が真っ赤だったことに僕もびっくりした。
――何?
「ごめん、今日はちょっと寄らなきゃいけないところがあるんだ」
彼女は顔を隠すように俯いた。
「あ・・・そう。ごめんね、じゃあ駄目だね。また・・・明日」
僕は苦笑いをしながら言った。
「じゃあね・・・」
彼女はぽつりとそう言うと足早に出口に向かい、一度も僕のほうに振り返らずにそのまま教室を出て行った。
彼女の後ろ姿を見送ったあと、静まりかえった教室に僕は一人きりになった。
さっき彼女は本当に笑っていたのだろうか。
僕にはそうは見えなかった。
何か言いようのない不安感に包まれた。一人には慣れているはずなのに、なぜか急に寂しさを感じた。こんな気持ち初めてだ。
翌日の火曜日の昼休み、僕はいつものように屋上の給水塔の脇で本を読んでいた。
天気はいいが、少し肌寒い風が吹いている。
昨日の彼女の態度が気になって仕方なかった。
僕は彼女を待った。
でも、その日、彼女は現れることはなかった。
次の日の水曜日。曇ってはいたが、気温は昨日より高く、生暖かい南風が吹いていた。
僕はいつものように屋上で彼女を待った。
グレーの空が僕の不安感を写し出しているようだった。
彼女に逢いたい。素直にそう思った。
その気持ちは逢えないことで心の中でどんどん膨らんでいった。でも、その日も彼女は現れなかった。
強い不安感に襲われた僕は教室に戻る途中、A組の教室を覗いた。彼女の席には誰も座っていなかった。
――どこかに行ってるのかな?
僕は放課後にもう一度A組の教室を覗いた。
やはり、彼女はいなかった。
――いない?
僕は思い切って近くにいたA組の生徒に尋ねた。
「あの、すいません。鈴鹿さん、いますか?」
「ああ・・・鈴鹿さんなら昨日からお休みだけど・・・」
その生徒はどういう関係だろうかと不思議な顔をしながらも答えてくれた 。
――え?
「あの・・・風邪かなにか・・・?」
「いや、詳しいことは・・・でも今学期はもう来れないかもって」
僕は目の前が真っ暗になったような感じがした。
どういうことだろう。風邪? この前会った時は、そんな具合が悪いようには見えなかったが。
僕の不安感はさらに膨れ上がった。
三学期の授業は今週で終わりだ。
実質的にあと二日で高校二年も終わる。
このまま終業式まで来なければ春休みが終わるまで彼女とは会えない。
学校の休みが恨めしいなんて思うのは生まれて初めてだ。
翌日の木曜日。久しぶりに真っ青な空と太陽が眩しい快晴になった。
僕の心とは正反対の天気だった。
明日は終業式。正規の授業は今日の午前中で最後になる。昼休みも無い。
――鈴鹿さん、どうしてるのかな・・・。
気がつくと、そんなことを考えていた。
二時限目の授業の時間だった。
数学の予定だったが、先生がなかなか来る気配が無い。
授業開始チャイムから五分ほどたったころ、学年主任の先生が入って来きた。担当教師が急用により来れないので自習となるとの説明がされる。
クラス内は歓声と共にどっと盛り上がる。自習といっても、それはほぼ自由な休み時間のようなものだったからだ。
教室の生徒みんなが各グループで雑談やゲームを始めた。
僕はかばんの中から文庫本を取り出した。そして、その本の栞が挟まったページを開いたと同時に、その本を閉じて僕は立ち上がった。そして何かに導かれるようにそのまま教室の出口へと向かった。
今までに自習の時に教室を抜け出したという記憶は無い。
僕は無心で廊下を歩いていた。
行く先は屋上だ。そう。僕は彼女が今、そこにいる気がしてならなかった。
全く根拠は無い。でも、不思議と確信を持っていた。その確信は僕を屋上へと向かわせた。
屋上に出ると、そのまま一気にペントハウスの階段を昇る。
息が切れた。
給水塔のまわりを見渡した。でも、そこには誰もいなかった・・・。
――ハハ、そりゃそうだよな。いるわけないよな。しかも休み時間でもないのに。
自分の馬鹿さ加減に僕は思いっきり苦笑した。
給水塔からの学校の外の景色を見渡すと、まわりに植えられている桜並木がの花が薄いピンク色に染り始めていた。
――ああ、なんか青春っぽいな・・・。
そんな自己陶酔している自分に呆れながらまた笑った。
今からこんなに咲き始めて、来月の入学式まで持つのだろうか・・・なんて、そんないならい心配をしながらぼーっと外を眺め続けた。春の風はまだ少し冷たく感じた。
――鈴鹿さん、どうしてるのかな・・・?
「あれ? なに真面目くん、サボりかい?」
「え?」
給水塔の下から聞こえてきた明るい声が僕の心に突き刺さる。
思わず僕は階段の下に目を向けた。
そこには彼女が立っていた。
――え? まさか・・どうして?
「ち、違うよ。僕のクラス、二時限目が急に自習になったんだ」
僕は動揺しまくりながらようやく答えた。
「ふーん」
「あの、鈴鹿さんは・・・サボり?」
「違うよ! そっちこそ不良扱いしないでよね。うちのクラスもニ時限目が自習になったの。今日天気すごくいいからさー、なんか空が見たくなっちゃってね」
あとで分かったことだが、この日は二年生の学年担当全員が新学期からのクラス編成の件で一斉に召集がかかり、緊急会議が実施されていた。
つまり彼女のクラスと僕のクラスが同時に自習となったのは特に偶然ということではなかったようだ。
彼女はゆっくり外階段を昇ってくると、立っていた僕の横にさりげなく並んだ。
ちょっと強めの春の風が体の脇をすり抜ける。僕たちは黙ったまま、しばらく外を見ていた。
「あの・・・」
僕は彼女を見ずに言った。いや、見ることができなかった。
「うん?」
「学校休んでたよね。おとといから・・・」
「あ、心配してくれてたの?」
彼女はちょっと嬉しそうな顔をした。
「風邪か、なにか?」
「うーん。ちょっとね・・・」
――ちょっと・・・何なの?
そう言いたかったが、言えなかった。
彼女に会えたことで一時的に収まっていた僕の不安がまた膨らんだ。
今日の彼女にいつもと違う雰囲気を感じた。
――あの時の涙。何だったのだろうか・・・。
そう思いながら僕は真横にいた彼女の顔を横目でじっと見つめてしまった。彼女はそれに気づき、僕を見て静かに笑った。
でも、その笑顔はいつもの彼女のものではなかった。
「なあに?」
「え?」
「だって、私の顔じっと見てるから」
「あ、ごめんね」
「また謝ってる。別にいいよ、謝んなくて。こんな私の顔でよければずっと見てて」
彼女は笑いながらそう言ったあと、僕からすっと目を逸らした。やはりいつもの彼女ではない。
――何か、あったの・・・?
僕はまた彼女を見つめていた。
僕の視線に彼女がまた気づいた。
「ごめん。やっぱ恥ずかしいからあんまり見ないで」
「あ、ごめんね」
またしばらく沈黙が続いた。
「ね、二人で学校抜け出さない?」
彼女がぽつりと呟く。
「え?」
その言葉に僕は固まった。
「あの・・・今から?」
彼女は黙ってニコリと微笑んだままゆっくりと頷いた 。
気がつくと僕は彼女と一緒に駅の改札口まで来ていた。
彼女のいつものペースでここまで来てしまった僕は、ここでふと現実に戻った。
「ねえ、学校サボるのはやっぱりマズいんじゃない? 今からでも学校に戻ろうよ。まだ三時限目間に合うよ」
僕の中の“真面目”な小心者がひょっこりと顔を出し始めた。
“通常のレール”から外れそうになると、僕の体内にあるセンサーがアレルギーのように拒絶反応を起こすのだ。
「ふん、いいよ。もう分かった。真面目くんは学校に戻んなさい。私一人で行くから」
ウジウジしている僕に彼女は呆れたように言い残し、そのまま一人で改札口を抜けて行った。
自動改札の電子音の響きが『意気地なし!』と叫んでいるように聞こえた。
僕はしばらく動けなくなり、改札口の前でぼーっと立っていた。
相変わらずの真面目さと臆病さに自己嫌悪に陥っていた。
――ええい!
僕は慌てて彼女を追って改札口を抜ける。自動改札の電子音の響きが、今度は『がんばれ!』と応援しているように聞こえた。
この時、僕は何も考えていなかった。
いや、考えることを止めたんだと思う。
プラットホームでようやく彼女に追いつく。
ホームの前のほうに立っていた彼女は僕に気づいた。
「来て・・・くれたんだ・・・」
彼女は驚いた顔をしたあと、優しく微笑んだ。
電車がゆっくりとホームに入ってくる。目の前のドアが開くと、電車に中から数人の乗客が降りてきた。
降りる乗客がいなくなったあと、ホームで待っていた人が電車に乗り始める。
しかし、なぜか彼女は動かなかった。
「どうしたの?」
彼女は下に俯いたまま黙っていた。
「やっぱり・・・戻ろうか?」
彼女がぽつりと呟いた。
「え?」
彼女らしくない弱々しいその声に僕は一瞬、息が止まった。
――どうしたんだろう?
発車のチャイム音がホーム内に響く。彼女は何かがっかりしたように俯いていた。
シュッとドアが閉まる音が鳴る。
その瞬間だった。僕はその音に対し、百メートル走のスタートホイッスルのように反応した。
僕の右手は彼女の左手をしっかりと掴み、次の瞬間ドアの内側へと飛び込んだ。
ガッチャっとドアの閉じた音が自分の後ろで響くのが聞こえた。
――あ? 乗っちゃった!
電車はガタンという大きな音と同時にゆっくりと動き始める。モーターの回転音が徐々に高くなってスピードが上がっていくのが分かった。
彼女はびっくりした顔をしていたが、それ以上のびっくりしていたのは僕自身だった。僕の右手は彼女の左手をまだしっかりと握っていた。
男声のアナウンスが車内に流れる。
『発車間際の駆け込み乗車は、まことに危険ですのでご遠慮願います』
「ダメじゃん。怒られてるよ」
彼女はそう言いながら僕を横目で見た。僕らはしばらく黙って顔を見合わせた。
僕は思わずプッとふき出したあと、堪え切れず笑い出してしまった。
でも彼女は笑わずに、そんな僕の顔をじっと見つめていた。
「えっ? 何?」
「名倉くん、初めて私の前で笑ってくれたね」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ」
そんなこと僕は全然意識したことはなかった。
「そうだった? ごめんね」
「だから謝んなくていいって」
彼女もようやく笑い出した。
「どこ行く?」
僕は笑いながら問いかけた。
「んー、海!」
彼女は上を向きながら叫んだ。
「え?」
「海、見たいなあ」
「海?」
「そう、海!」
「海か・・・いいね!」
僕は今、学校の授業を抜け出して、女の子と二人で電車に乗っている。
ずっとルールを守るのが当たり前だった僕には考えられないシチュエーションだ。
僕の心は不思議な気分で満ちていた。
学校をサボっているという罪悪感、不安感。そしてそれを払しょくするような高揚感。それは生まれて初めて感じる感覚だった。
「なにボーっとしてるの? あー、まさかエスケープしたこと今更後悔してるとか」
「違うよ。いや、なんか自分じゃないような気がしてさ。僕、授業をサボるなんて生まれて初めてだから。鈴鹿さんと違って」
「私だって初めてだよ」
「え? 鈴鹿さんはいつもやってるんだとばかり・・・」
「あのさあ、前から訊きたかったんだけど、君は私のこと、どういう風に見てるわけ?」
怪訝な顔で僕を睨んだ。
僕は彼女の元彼が言っていた、彼女が中学の時にグレていたという噂話が気になっていた。
――いや、あんなのはただの噂だ。僕は気にしない。
僕は心の中で叫んだ。
僕らはターミナル駅で降り、湘南方面行きの電車に乗り換えた。
平日の午前中のためか家族連れは少なく、買い物客とサラリーマン風の人がパラパラいる程度で、電車はわりと空いていた。
一時間ほどでその電車は終着駅に着いた。駅の改札口を抜けると、すぐ目の前に大きな海が広がっていた。そこから小さな島へと橋で陸続きになっている。
「うわー海だ、海だ! 潮の香りがするぅー! 気持ちいいー。ねえ、あっち行ってみよう」
彼女は子供のようにはしゃぎながら島に向かって伸びる橋のほうへと僕の手を引っ張る。相変わらずのマイペースだ。
平日ということもあるのか、思いの他に人は疎らだった。学生のカップルも多かったが、老夫婦の人たちがけっこういるのに驚いた。
「あんな歳になるまで仲良くできるなんていいね」
仲が良さそうに歩いている老夫婦を見て彼女が呟いた。
ちょっとびっくりした。僕も全く同じことを思っていたからだ。
彼女はいつも僕を不思議な気分にさせた。
海は壮大だ。ありきたりな表現だけど、やっぱりそう思う。
岸に打ち寄せる波の音が心地いい。小さい悩みなんか全て消し飛んでいってしまいそうだ。
長い橋を渡ると、島の奥に向かって路地が続いている。そこには多くのお店が連なっていた。
僕たちはゆったりとした坂道を登っていく。土産店や海の幸の食堂などが細い坂道沿いに所狭しと並んでいた。
「わー見て見て! 何あれ?」
彼女がある店の前に並ぶ人の行列を見つけた。ここの名物なのだろうか。
とても大きい下敷きのようなせんべいが売っていた。
「ねえ、おいしそうだよ。これ買っていこ!」
「え? これに並ぶの?」
「これだけ並んでるから美味しいんでしょ!」
僕は彼女に言うことに逆らっても無駄だということを既に学んでいた。
素直に僕は一緒に行列の最後尾に付いた。
結局、その行列に二十分ほど並んだだろうか。やっとのことで買った下敷きのようなせんべいをかじりながら、僕たちはさらに島を上へと登っていく。
徐々に標高が上がっていくにつれ、だんだんと見晴しが良くなってくる。
一面に広がっている春の花がとても綺麗だ。
僕はその花の美しさを噛みしめていたが、彼女はせんべいの味を噛みしめているようだ。
「美味しいねこれ。並んで買って正解だね!」
――幸せそうだな・・・彼女は。
思わず心の中で呟いた。
「あ! 神社があるよ。お参りしていこうか」
僕らは島の中腹にあった神社に立ち寄ることにした。
「見て見て! 絵馬がいっぱい掛かってるよ。『二人が結ばれますように』だってさ! きゃーはずかしー!」
一緒にいるこっちが恥ずかしかった。
そこには男女それぞれの想い想い恋の成就の願いが所狭しと並んで描かれていた。
「ここって縁結びの神様みたいだね」
彼女は何か言いたげそうに僕の顔を見つめた。
「あ、そうみたいだね・・・」
そう言いながら僕はなぜか恥ずかしくなり、思わず目を背けてしまった。
島の頂上に着くと、そこには展望台があり、正面には一面に青い海が広がっていた。空には雲ひとつ無く、見事に真っ青に染まっていた。
「うーん絶景だね! 来てよかったあ!」
彼女が叫んだ。
「うん。すごい気持ちいいね!」
素直に僕はそう答えた。
春の潮風が本当に気持ちよかった。
「ここね、中学の時に一度家族で来たことがあるんだ。その時に、またいつかここに来たいってずっと思ってたんだ。好きな人と・・・」
「ふーん」
僕は何て答えればいいのか皆目見当がつかず、無愛想な返事をしてしまった。彼女のほうを見てはいなかったが、何か刺すような視線を感じたのは気のせいだろうか。
「あのさ、人ってどうして春になると恋をしたくなるのかな?」
また彼女からの質問攻勢が始まった。しかし、こういう類の質問は僕にとっては難関大学の入試より難しい。
「鈴鹿さん、恋がしたいの?」
「君、したくないの?」
僕はまた答えに詰まってしまった。こういう時、何て言えばいいのだろう?
「したくても恋をするには相手が必要だよね?」
そう答えると、なぜかしら彼女は僕を横目で睨んだ。そしてその瞬間、僕の足の甲に激痛が走った。
――え?
「あいだあ!」
僕は思わず悲鳴を上げた。
その激痛の原因が彼女に足を踏まれたことなんだと認識するまでに数秒かかった。
「何するの?」
僕がそう言うと彼女はさっと僕から離れ、意地悪い顔をしてこちらを向いた。
「どうしたの? 大きな声出さないでよ、恥ずかしい」
彼女はくすっと笑うと先に歩き出して行ってしまった。
――何なんだよ。わけ分かんないな・・・。
「わー見て見て! すっごい綺麗!」
彼女が水平線を見ながら呟いた。確かにキラキラと輝く海面は綺麗だった。それを見ながら無邪気にはしゃぐ彼女の笑顔がとても輝いて見えた。
――あれ? 彼女ってこんなに可愛かった?
そう思ってしまった自分に僕はびっくりした。
「あっれー、何? もしかして今、私に見惚れてたあ?」
――えっ?
あまりにもタイミングよく突っ込まれたため、僕は何も言えずに固まった。
「ちょっとお、何か言い返してよ。言ったこっちのほうが恥ずかしいじゃん」
彼女はめずらしく照れながら反対のほうに顔を背けた。
島の頂上に着くと、そこは学生や外国の観光客で多く賑わっていた。
「すいません。シャッター押してもらっていいですか?」
突然、大学生らしき女の人から声を掛けられた。学生同士のカップルだろう。彼氏はサングラスをかけ、彼女らしき女性はブロンズ色に染めた長い髪を靡かせていた。
「はーい、いいですよお」
彼女が快く引き受ける。
「いきますよお。ハイ、ポーズ!」
携帯のシャッター音が軽やかに響いた。
「ありがとう。あ、君たちも撮ってあげようか?」
「え?」
その女性の気遣いに僕と彼女は思わず顔を見合わせた。
「えへっ! せっかくだから二人で撮ってもらおうよ」
「あ・・・うん」
僕はちょっと戸惑った。というのも、実は僕は写真を撮られるのが苦手だった。
うん・・・苦手というか、慣れていないというか、要は僕は写真を撮るときに笑えないのだ。僕は写真を撮られる時、無茶苦茶構えてしまってロボットのような顔になる。
―――どうしよう・・・ちゃんと笑えるかな?
僕の心配をよそに彼女は僕の手を引っ張った。
海をバックに二人で並んで立った。明るい笑顔のピースサインをする彼女の横で、僕は明かに顔が引きつっているのが自分でも分かった。
――うわあ、だめだ。やっぱり笑えない・・・。
「行くよー、はい笑って!」
・・・って言われるほど僕の顔は引きつっていく。
「んーカレシい、なにその顔? 無茶苦茶暗いじゃん。お腹痛いの?」
――うん。痛くなりそう・・・。
彼女がそんな僕を横目で見てクスッと笑った。
「ほらあ、カレシ笑って! それにもっとくっつかないと映んないよ!」
彼女さんの口調がだんだんと怖くなってくる。
――何で僕が怒られなきゃいけないんろう?
その時、彼女の手が僕の肘をグイと引っ張るように引き寄せた。
「ほらあ、真面目くん、笑うぞ!」
彼女が僕に微笑みかける。すぐ真横にあったその笑顔に僕の心臓はドキっと高鳴った。
「え?」
「おっいいね! はーい、いくよ!」
僕があっけにとられているうちにシャッター音が響いた。
「あは、どうかな?」
撮ってもらったばかりの写真をスマホの画面で確認する。彼女は相変わらずの眩しい笑顔で映っていた。
だが、驚いたのはその横にある見覚えのない顔だ。
僕が・・・笑ってる?
――え? これ、僕?
とても不思議だった。
こんなにも自然に笑っている自分の顔が、まるで自分のものではないような感じがした。
「きゃー、すっごくいい感じに撮れたね」
お礼を言ったあと、その大学生とは反対の方向に歩き出した。
「仲良くねー、かわいいカップル君たち!」
大学生は大きく手を振っていた。
「ありがとー!」
彼女もお返しに大きく両手を振った。
――そうか。僕たちもやっぱりカップルなのか。
聞き慣れないその言葉の響きはとても心地いいものだった。
でもカップルと言っても、僕たちは付き合っているわけではないのだ。
その事実に、僕はちょっと寂しさを感じている自分に気づいた。
島からの帰りの下りの坂道をブラつきながら歩く。
雑貨が並ぶ小さな土産店に立ち寄った。
「わー見て見て。これ可愛い!」
彼女が手に取ったのは小さなペンギンのストラップだ。
「鈴鹿さん、ペンギン本当に好きなんだね」
「フフ、大好き」
彼女は嬉しそうにそのペンギンを頬ずりする。
「実はさ、明日、私の誕生日なんだ」
「え! そうなの?」
僕は素直にびっくりした。
「あの・・・それは、おめでとう・・・」
「んふ、ありがとう。はい!」
彼女はお礼を言いながら手を伸ばし、そのストラップを僕に手渡しした。
「え? 何?」
「買ってくれる? 誕生日プレゼントに・・・」
「いや、別にいいけど・・・これくらい」
突然でちょっと戸惑ったが、これくらいのもので喜んでくれるなら、と思った。
「でも、こんなものでいいの?」
「これがいいの」
そして彼女は、なぜか同じストラップをもうひとつ手に取った。
「じゃあ、こっちのは私が君に買ってあげるね・・・記念に」
そう言いながらクスっと笑った。
「記念?・・・なんの?」
「んー・・・何でもいいじゃん!」
そう言うと彼女はそれを持ってレジに並んだ。
僕も別のレジに並び、同じストラップを別々に買った。そして自分の買った包みを彼女に渡した。
「あの・・・誕生日おめでとう」
「フフ、ありがとう。大切にするね。じゃあ、これは私から君に。大切にしてね」
彼女は自分の買った包みを僕にくれた。
これって意味があることなのだろうか?・・・。あるんだろうな、きっと。
「ねえねえ、下の岩場のほうに行ってみようよ」
彼女はそう言うと同時に僕の手を引っ張って歩き出した。
島を下って海岸に出ると、そこにはゴツゴツとした岩場が広がっていた。
小さいカニや小魚、あとはタニシにような貝がたくさん見えた。
「きゃーカニさんかわいいー!」
無邪気にはしゃぐ彼女は、悔しいがやはり可愛いかった。
僕は彼女を見つめながらそう思った。
そして何よりも彼女といると、自然な自分でいられるということに気がついた。
「なあに?」
「いや、ごめんね。別に・・・」
ボーッとしていた僕は思わず言葉に詰まった。
彼女は笑いながらまたカニを追っかけていた。
岩場をちょっと奥に行くと平らな大きい岩が連なっており、僕らはその岩の上に空を見上げながら寝ころんだ。
快晴の空には小さい雲ひとつ無かった。
仰向けになった体で空を見上げる。
視界に映るのは、一面の真っ青な空。まさしく青一色のみだった。
こんな光景は生まれて初めてかもしれない。
――なんて綺麗なんだろう。空ってこんなに綺麗だったんだ・・・。
「あー、気持ちいい!」
僕は思わず叫んだ。
学校をサボってしまったという罪悪感はどこかへすっ飛んでいた。
気持ち良すぎて、気がつくと僕は岩の上でウトウトと眠ってしまった。
しばらくすると、僕は周りに変な違和感を感じ始めた。
――あれ?
さっきまで周りあった岩が見えない。
あたりを見回すと、僕たちがいる岩場は水に囲まれていた。
「やっばい! 満ち潮だ!」
僕は叫んだ。
そう。僕たちは岩場に取り残されてしまっていた。
「どうしよう?・・・名倉くん」
彼女は今にも泣きそうな顔になった。
でも落ち着いて海面をよく見ると、まだ水面の奥に岩が透き通って見える。
「大丈夫、まだ浅そうだ。行けるよ」
僕は制服のズボンをヒザまでまくり、海の中に入って深さを確認する。
――うん、オッケー! 水はまだヒザ下までだ。
「大丈夫、靴と靴下を脱いで」
「うん・・・」
僕は彼女が脱いだ靴と靴下を受け取り、彼女の手を引く。
「ゆっくり下に降りて・・・滑らないように気をつけてね・・・大丈夫」
――よし、行ける! 行ける!
ゆっくり、ゆっくりと足場を確認しながら渡っていく。
ようやく最後の陸続きの岩まで来たところで彼女を先に岩の上に上げた。
――よかった。彼女はもう大丈夫だ。
「ありがとう。名倉くんも気をつけて」
彼女そう言って僕を引き上げようと手を差し伸べたその瞬間だった。
僕の視界に映る彼女の顔がだんだんと小さくなっていく。
僕は自分に何が起きているのか、すぐに理解ができなかった。
――あれ? 僕、どうしたんだ?
彼女の姿がだんだんと遠くなり、背中が後ろへと吸い込まれていく。
そして次の瞬間、視界が大きくぼやけたと同時に水のギュルギュルギュルという濁音が激しく耳を襲った。
僕はようやく足が滑って海の中に落ちたんだということを自覚した。
「名倉くん!」
彼女の悲鳴が響いた。
幸い満ち潮はまだ浅く、僕はすぐに立ち上がることができた。
「大丈夫? 名倉くん!」
遠くの向こう岸にいた釣り人は特に驚いた素振りも見せず、呆れた顔でちらっとこちらを見たあと、また釣りに没頭していた。
「バカな奴がいる」と、そんな顔をしていた。確かに客観的に見てもかっこ悪い。
彼女もこんな僕の姿をさぞ大笑いするだろうと思っていたが、彼女の反応は意外なものだった。
「名倉くん、名倉くん、大丈夫?」
海に落ちたことにはもちろん驚いたが、それ以上に驚いたのは彼女が泣くような顔で僕を心配して叫んでいたことだ。
彼女のこんな顔は初めて見た。まあこんなところで溺れ死ぬことはないと思うのだが。
「名倉くん、ごめんね、ごめんね」
「いや・・・大丈夫だよ。それに鈴鹿さん、全然悪くないし・・・」
「ごめんね、ごめんね」
彼女は謝り続けた。
いつも自分がしていたことなのだが、相手が何も悪くないのに謝られるってことがどんな気分なのかを実感した。
――ああ、でも参ったな。どうしよう・・・。
そう思いながら僕たちは歩き出した。
海水でズブ濡れになった服は予想以上に重く、冷たかった。服を着たままだったら本当に溺れるだろうと実感した。
「どうしよう・・・全然乾かないね・・・」
一向に乾かない僕の濡れた服を見ながら彼女が心配そうに言った。
「歩いていれば、そのうち乾くよ」
僕は半ば強がりを言いながら、しばらく道を歩いていたが、それが甘い考えであったことを徐々に痛感し始める。
三月になったとはいえ、濡れた体にはまだまだ寒さは厳しかった。
十分ほど歩いただろうか。水は滴らなくなったものの、服はまだまだ濡れていた。海水がぐっしょりと浸み込んだ僕の下着は体にビッタリと張り付き、気持ち悪いという感覚を超えていた。
そして、それは徐々に僕の体温を奪っていった。
「ハックショイ!」
思わずクシャミが飛び出す。
「大丈夫? 名倉くん。寒いよね?」
「あ、ごめんね。全然大丈夫・・・」
そう言いながら全身に悪寒が走った時だ。ひとつの洋風の建物の前で彼女が足を止めた。
これは僕の貧困な社会知識でも分かった。
いわゆるファッションホテルというやつだ。ラブホテルとも言ったっけ。
「ねえ、ここに入ってシャワーと着替えをさせてもらおうよ」
「ええ??」
思いもよらない彼女の言葉だった。
「あの・・・鈴鹿さん・・・と?」
「誰と入りたいの?」
「・・・・・」
僕は彼女に手を引っ張られながらホテルへと続く通路を歩いている。
外側から見ることはあっても中に入るのは初めてだ。
何だろう、この感覚は。後ろめたさと言うのだろうか、僕は強い罪悪感に包まれた。
罪悪感だけではない。不安感、緊張感、いろいろな気持ちが交錯しながら、僕の心臓がバクバクと大きな鼓動を上げ始める。
薄暗い自動扉があり、そこから中に入る。
迷路のような細い廊下を進むとフロントらしき場所に出た。でも、そこに人はいなかった。
その横の壁にはドラマとかでしか見たことがなかった部屋の写真が表示されている大きなパネルが掛かっていた。
――どうすればいいんだろう?
勝手が分からない僕はただオロオロとしていた。
「名倉くん、どうやって入ればいいのか分かる?」
彼女は困った顔をしながら小声で囁いた。僕は情けないかな、黙ったまま首を横に振った。
その時、フロントの脇にあったドアがガチャリという大きな音をたてて開き、
そこから中年のがっしりと太ったおばさんが出てきた。そのおばさんは怖い顔で、僕たちをじろっと睨むように見まわした。
非常にまずい雰囲気が漂う。
「あなたたち、高校生でしょ。ダメよ、高校生は入れないわよ!」
――そういえば僕たちは制服姿だった。やっぱりダメだよな。
そう思いながら僕は帰ろうとした。でも、彼女は諦めなかった。
「すいません。この人、海に落っこちちゃって。シャワーと、あと服を着替えるだけでいいんです。入れてもらえませんか? 私たちは何も・・・」
彼女は今にも泣きそうな顔になりながら懸命に事情を説明した。
「いいよ鈴鹿さん。僕、大丈夫だから、帰ろう」
「大丈夫じゃないよ!」
それを聞いていたおばさんは、僕の濡れた姿をもう一度じっと見まわした。そして彼女の訴えが効いたのか、その怖い顔は呆れたような顔したかと思うとすぐに穏やかな顔に変わった。
「ふふ、なるほどね・・・。しようがないわね。わかったわ。でも今日は週末で混んでいて満室なのよ。一番大きい部屋でよければすぐ準備させるけど、ちょっと部屋のお値段、高いけど大丈夫?」
――え? 入れてくれるの?
僕はおばさんの豹変にびっくりする。
「はい、入れていただけたらどこでもいいです」
「じゃあ、清掃を急がせるわね。待合室で少し待っててくれる?」
「ありがとうございます!」
彼女は深々とお辞儀をした。
おばさんは制服姿の僕達を親切に待合室まで案内してくれた。
待合室といっても小さなソファがあるだけの狭いコーナーだった。
僕たちはそのソファに並んで座った。ソファといってもとても小さく、いやでも体が密着した。
すぐ横にいる彼女の吐息が聞こえるようだった。僕の鼓動はだんだんと抑えが利かなくなっていく。
――まずい! 落ち着け、僕の心臓!
「やさしいおばさんでよかったね」
彼女が掠れるような小声で呟いた。
「・・・そうだね」
「本当はこういうところって高校生は入っちゃいけないんでしょ?」
さらに小さな声で彼女は囁いた。
――僕に訊かないで欲しい。
「これって、学校にバレたらやっぱりマズいかな?」
彼女の囁きは続いた。
――そりゃマズいでしょ!
しばらくの時間、僕にとって辛い沈黙が続いた。濡れた服が体の密着感をさらに強く感じさせた。だんだんと顔がポカポカと熱くなっていくのを感じる。
――あれ? 僕の体もマズいかもしれない・・・。
「寒い? 名倉くん」
「あ、ごめんね。大丈夫だよ」
彼女が僕の顔を覗き込む。
「名倉くん、顔、真っ赤だよ! もしかして熱、出ちゃった?」
びっくりした顔で彼女が叫んだ。
ヤバい。どうやら体のほうが正直に反応してしまっていたようだ。
「い、いや・・・これは熱って言うか・・・大丈夫だから・・・」
僕は慌てて誤魔化した。
その時、僕の服の濡れによって彼女の服まで水が染みているのに気づいた。
「あ、ごめんね。冷たいよね」
僕が離れようと立ち上がろうとした時、彼女の手が僕の手を抑えた。
「大丈夫。私は平気だよ」
「だって、鈴鹿さんの服が濡れちゃうよ」
「その分、君の服が早く乾くよ」
彼女はさらりと答えた。
「でも、それじゃ・・・」
このままでは彼女も風邪をひいてしまうのではないかと思い、無理やりにでも離れようと思った時だった。フロントのおばさんがニコニコしながらようやくやってきた。
「ごめんさないね、お待たせしちゃって。どうぞ、部屋の準備ができたわ」
おばさんはそっと僕にカード式のキーが渡してくれた。
「いい子じゃないの。がんばりなさい!」
おばさんはニタリと笑いながら僕にしか聞こえないように小さな声で言うと、僕の背中をバンと叩いた。
――がんばれって、何をよ?
僕は心の中で呟いた。
「おばさん、何だって?」
「いや、何でもない。カードキー失くさないようにって。それよりあのおばさん、何かやらしい顔してなかった?」
「うーん。今の君の顔ほどじゃないけどね」
彼女は悪戯っぽい顔で微笑んだ。
部屋に入ると同時に、僕は圧倒された。そこは僕が描いていたファッションホテルのイメージとは全く違った空間が広がっていた。
大きなシャンデリア、プロジェクター、ビリヤード、ダーツなど普通のホテルでは見られないものが並んでいる。もっと狭くて汚いイメージを持っていた僕は、ぽっかりと口を開けたまま茫然としていた。
――いったい何なんだここは?
中にある部屋は三つに分かれていて、それぞれがみんなムチャ広い。大勢でパーティもできそうだ。一番大きい部屋だと言っていたので、ここだけ特別な部屋なのかもしれない。
「名倉くんは早くお風呂に入って。私は何か着替えを買ってくるから」
そう言うと彼女は足早に部屋を出て行った。
――あれ? 行っちゃった。
部屋に一人残った僕は、ひとまず冷静さを取り戻した。まずはともあれ、この濡れた体を何とかしないと。
僕は彼女の言葉に甘え、お風呂に入らせてもらうことにした。
海水でズブ濡れになり、冷えきった体がどっぷりと熱い湯に浸される。
体の芯の芯まで十分に温まった僕は、覗き込むようにして浴室のドアを開けた。彼女はまだ帰ってきてないようだ。
僕は取りあえず、何か羽織るものを探した。彼女が着替えを買ってきてくれるまででも、さすがにバスタオル一丁というわけにはいかない。
おあつらえ向きのバスローブが備えつけてあるのを見つけた。外国の映画ではよく見るものだったが、実際に見るのは初めてだった。
バスローブを羽織った自分の姿を鏡で見る。
そこには違和感満載の変態っぽい男が立っていた。
――うーん・・・。
思わず僕は唸った。映画とかで見る俳優がスマートに着ている姿と何か違う。いや全然違う。
どちらかというと安っぽいドラマに出てくるスケベおやじを連想させた。バスローブというのは典型的な日本人の体形には合わないようだ。
呼び鈴が部屋の中に響いた。どうやら彼女が帰ってきたようだ。僕はそそくさと入口のドアを開ける。
「ごめんねー、遅くなって。なかなか洋服のお店が見つかんなくてさー」
息を切らしながそう言って、彼女はこちらを見た。すると、彼女は僕のバスローブ姿を見たとたん、砕け散ったように笑い出した。
「何だよ、急に!」
「いやー、どこのスケベ親父かと思ったよ。部屋、間違えちゃったかなーって」
「ふん。確かにカッコよくはないのは分かってるけど、そこまで笑わなくてもいいんじゃない」
「ごめん、ごめん。あ、スエットでよかったかな? フリーサイズなんだけど大丈夫だよね。ちょっと着てみて。あとあったかい肉まんとスープ買ってきたよ」
僕は買ってきてもらったスエットを受け取った。風呂場で着替えると、彼女の買ってきてくれたスエットは思いのほかピッタリだった。
「うん、似合うよ!」
「そう?」
「あのバスローブを着続けられたら私、笑い過ぎで呼吸困難で死んじゃうから」
僕はムスっとしながら彼女の買ってきてくれた肉マンを頬張った。
「ところでさ、私、前から思ってたんだけど、君って分析するの好きだよね。AB型でしょ」
やはり彼女の人を見る目は鋭いようだ。
「当たりだよ。よく分かったね。AB型は日本人では十分の一の確率なのに」
「やっぱりね。AB型って変人が多いしね」
あまり褒められてないなと思いながら、僕も彼女の血液型については自信があった。
「じゃあ鈴鹿さんの血液型も当てようか?」
「ううん、私はいい。血液型判断みたいの嫌いだし」
「ごめん。僕の記憶が正しければ血液型の話を振ってきたのそっちだよね」
彼女は黙ったまま、悪戯っぽく笑っていた。
「でもめずらしいね。女の子って血液型占いみたいのけっこう好きじゃない?」
「友達は確かに好きな子多いよね。でも私は嫌いなの。偏見の目で見られるからさ」
たった今、人を偏見で見てたのは誰だよ、と思いながら、僕は偏見で彼女の血液型を当てにいった。
「鈴鹿さん、ズバリB型でしょ?」
「ほーら、やっぱりだ。私、いつもB型って言われてすごく傷付くんだ。どうせ、わがままで自分勝手な性格だからB型とか言いたいんでしょ? だから嫌なんだよ、血液型当てゲームみたいなの。そういうのを偏見って言うんだよ! 偏見!」
「え、意外だな。ごめんね、B型じゃなかったんだ」
「ううん。B型だけど・・・何?」
「・・・」
あっさりとそう答えた彼女に対し、僕はリアクションに困った。
何だろう。この“全く納得いかない感”は・・・。
僕は思ったより帰りが遅くなりそうになったので、家に連絡を入れようと携帯を手に取った。
その時、新たな問題が発覚した。携帯の電源が入らない。携帯は僕と一緒に海に水没していた。
「あ、僕の携帯、ダメみたい・・・」
「えー大変! ごめんね」
「別に鈴鹿さんが謝ることじゃないよ。僕が勝手に滑って海に落ちたんだから」
携帯以外もポケットに入っていた物はみんなズブ濡れになっていた。
「あーかわいそうー。この子もびしょびしょだ。今乾かしてあげるねー」
そう、さっき一緒に買ったペンギンのストラップもズブ濡れになっていた。まあこのほうがペンギンらしい感じになった気がするけど。
彼女はその濡れたストラップを丁寧にドライヤーで乾かし始めた。
「君のペンちゃんも貸して。一緒に乾かすから」
「あっ、ごめん。僕がやるよ」
「いいよ、私がやるから」
「ダメだよ。海に落っこちて濡らしたの僕なんだから」
僕は半ば無理やりにドライヤーと濡れたストラップを受け取り、乾かし始める。
しばらくの間、部屋の中にドライヤーの音だけが響いていた。ホテルの部屋に女の子と二人きり。ドライヤーの響き。何か変な感覚だった。
彼女がこの部屋の番号を見て、何かに気づいたようだ。
「ねえねえ。この部屋229号室だって。なんか運命感じない?」
いきなりの話の振りに戸惑った。はっきり言って全く意味が分からない。
「229?・・・何だっけ?」
僕は素直に脱帽した。こういう時は誤魔化さずに正直に言ったほうがいい。
「えー、まさか分かんないの君? 酷いね。私たちが最初に学校の屋上で出逢った日だよ。二月二十九日は」
見事に微塵にも予想しなかった答えだった。
「鈴鹿さん、よく覚えてるね」
「うん。閏日だったからね。だって四年に一度の特別な日だよ。何かいいこと起きないかなって思ったりして」
「へえ・・・でも閏日なんて暦と地球の公転自転ズレのためのただの調整日だよ」
「君って、ほんっとにロマンチック度マイナスにひゃくぱーせんとだね」
彼女は僕を睨みながら叫んだ。
僕の会話能力の低さが露呈する。
「ああ、ごめんね。でも何かいい事ってあった?」
彼女はなぜかしら、さらに僕を睨んだ。
「そういえばさ、二月二十九日に生まれた人って誕生日は四年に一回しか来ないのかな?とすると四年に一回しか歳を取んないってこと?」
また彼女の突拍子もない疑問が始まった。こういう発想はいったいどこから来るのだろうか・・・。
「あの、そんな訳ないでしょ。二月二十九日生まれの人だってもちろん毎年きちんと歳は取るよ」
「でもさ、その人は誕生日が毎年来ないよね?」
「うん。歳を取るのは誕生日じゃないんだ」
「どういうこと?」
「年齢がひとつ上がるのは誕生日ではなくて、誕生日の前日という決まりなんだよ。だから二月二十九日生まれの人は、その前日の二月二十八日にひとつ歳を取るんだよ。もう少し正確に言うと誕生日の前日が終わる瞬間なんだけどね。そうすることで閏日生まれの人でもちゃんと毎年歳を取れるって仕組みになってるんだ」
「へーそうなんだ。よく知ってるね。さすが真面目くんだ」
「それってあんまり褒めてないよね」
「別に褒めてないもん」
彼女は悪気も無く、あっからかんと笑った。
「実はね、私も二月二十九日についてはひとつ知ってることがあるんだよ。知りたい」
「話したそうだね」
彼女はちょっと僕を睨んだあと、話し続ける。
「あのね、昔ヨーロッパでは一般的に女性から男性に求婚できなかったらしいんだけど、二月二十九日だけは女性から男性に求婚できる特別な日だったんだって」
「それは男にとっては下手な怪談より怖い話だね」
「だよねだよね。やっぱ怖いよね。女の私からみてもそう思うもん!」
彼女は怖いと言いながら、とても嬉しそうに話した。
「誕生日といえば、明日は鈴鹿さんの誕生日だったよね?」
「へー、よく覚えてたね!」
「さすがに今日聞いたことだからね」
「私、言ったっけ?」
「そのペンギンさんは誰からのプレゼントだっけ?」
彼女は舌をぺろっと出しておどけたように笑った。
「三月生まれで咲季・・・そうか、花の咲く季節という意味なんだね」
「そうだよ。私、この名前好きなんだ」
「うん。とてもいい名前だね」
「フフッ、ありがと」
彼女はめずらしく照れた表情をした。
「ねえ、そういえば君の誕生日っていつ?」
「僕? 四月五日だよ」
「なんだあ! 私と二週間しか違わないじゃん!」
「ああ・・・そうだね」
「そっかあ。よかったあ、ほとんど離れてなくて・・・」
――離れてない?・・・
僕は彼女の喜んでいる本当の意味を理解していなかった。
「あの・・・名倉くん」
彼女は何か思わせぶりの口調になった。
「え、なに?」
「私ね、ずっと君に言いたかったことがあるんだ・・・」
――え? まさか・・・。
僕は否が応にも変な期待をした。
「な・・・何?」
僕の心臓は一気に高鳴る。
「あのね・・・私・・・」
「う・・・うん」
「私・・・実は、明日で十八なんだ」
「え?・・・・ああ、そう十八」
――なんだ、歳のことか。びっくりさせないでよ。
そう思いながら僕はどっと肩を撫で下ろした。
「そう、もう十八か・・・・・え! じゅうはち?」
――あれ? 僕は今、何歳(いくつ)だったっけ?
自分の歳をあらためて確認する。
確か、来月の四月の誕生日で十八だよな、僕・・・。あれ?
彼女は恥ずかしそうに上目使いで僕を見ていた。
「え? もしかして鈴鹿さんって?」
「うん。本当だったらもうひとつ上の学年なの・・・私、中学の時にいろいろあって、中学二年生を二回やってるんだ」
――やっぱり元彼の言ってた噂は本当のことだったんだ・・・。
「私の中学時代のことの噂って、何か訊いてる?」
探ってくるような言い方で僕に訊いてきた。
「ううん、別に、何も・・・」
僕は咄嗟に嘘をついて、そのまま平然を装った。嘘をつくのが苦手な僕にしては上手く誤魔化せたと思う。
内心はやはりショックだった。でも、僕は彼女の過去のことは気にしないと決めた。
僕はしばらく黙ったまま下を俯いていた。
「君ってやっぱりいい人だね。何も訊かないんだね」
「別に・・・。だって鈴鹿さんは今の鈴鹿さんだから。それ以上でもそれ以下でもないでしょ」
彼女はそれを聞くと優しく微笑んだ。
「ありがとう。でもよかった。思ったより君よりおばさんじゃなくて。二週間だったら、ほとんど変わらないもんね。四捨五入したら同じになるし」
「それを言うなら十五捨十六入でしょ」
「君、細かいねえ・・・」
呆れたように彼女が言った。
「鈴鹿さんが大雑把過ぎるんだよ」
僕の拗ねた仕草に彼女はまた笑った。
「あ、あのさ・・・」
僕にしては唐突な話の出だしだった。
「うん?」
「実は、僕も前から鈴鹿さんに言いたいことがあって・・・」
「え? なになに? もしかして告白?」
――それ、言っちゃうかなあ・・。
「ごめんね。違うよ」
「なーんだ。じゃあ、なあに?」
「あの申し訳ないけど・・その『君』って呼び方、実はちょっと苦手なんだ・・」
「え? どうして?」
彼女はびっくりした顔で僕を見た。
「僕、『君』って呼ばれると、なんか先生とかに言われてる感じがして、萎縮しちゃうんだ」
「えーそうなの・・・私は親しみがあって好きなんだけど・・・」
今度はきょとんとして顔をしかめた。
「まあ君が言うならしょうがないな。よし、じゃあこれからは名前で呼ぶことにしようか。ね、雄喜!」
――え、名前って下の方なの? しかも呼び捨てって・・・。
「そうだ。じゃあさ、雄喜も私を下の名前で呼んでよ。友達もみんなも名前で呼んでるしさ」
予想外の話の展開に僕は焦った。今まで女の子を名前で呼ぶなんてもちろん無い。
僕にとって女の子の名前を呼び捨てにするなんて漫画やドラマの世界の中だけだった。
「え? な、名前って・・・何て呼べばいいのかな?」
「『名前で呼んで』ってお願いして『何て呼べばいいの』って聞かれたら、何て答えればいいの私・・・」
「さき・・・ちゃん・・・でいいのかな?」
何か無茶苦茶恥ずかしかった。いや、恥ずかしさを超えた何とも言えない違和感が心の中を走った。
「ああ、ちゃん付けはやめて。同じクラスに『亜紀ちゃん』がいるからさ、紛らわしいの。『さき』でいいよ」
――え、呼び捨て?
ハードルが上げられた。
「ああ・・・さ・き・・・・」
声が裏返った。
「あのお? 聞こえないよ」
彼女は悪戯っぽい声で言った。
「さき・・・」
「フフッ・・・」
彼女はとても嬉しそうな顔で笑った。
・・・なんて思っている時だ。何か焦げた臭いがまわりに充満していた。
「うあ! ちょっと雄喜ィ! 焦げてるよお!」
彼女が慌てた顔で叫んだ。
「ゲゲ!」
ドライヤーを近くで当て過ぎたのだろう。乾かしていたペンギンのお腹が見事にこんがりとした黄金色に焦げ始めていた。
「ああ、ごめんね! どうしよう・・・」
焦がしてしまったのは僕が彼女に渡したほうのストラップだった。彼女はその焦げたペンギンのお腹を痛々しそうにさすっていた。
「ああ、痛そう。君、ペンちゃんを焼き鳥にするつもり? 動物虐待だよ!」
「あの、ごめんね。僕のと交換するよ」
「ううん、こっちのでいいよ」
彼女は笑いながらあっさりと答えた。
「だって焦がしちゃったし・・・」
「こっちがいいの! このペンちゃんは君が私に買ってくれたものだもん」
「え? だって・・・同じじゃない?」
「同じじゃないよ! そっちのペンちゃんは私が君にあげたやつだからね。大切にしなきゃ怒るよ」
――そんなものなのかな・・・。
経験不足だからなのだろうか、僕はやはり女の子の気持ちが理解できない。
その時、ベルの音が部屋に鳴り響いた。二人とも突然の大きな音にビクっとなる。ベッドの脇にある電話の呼び出し音だ。
受話器を取ると、さっきのフロントのおばさんの声がした。
「あと十五分でご宿泊料金になりますが、どうなさいますか?」
――え? ご宿泊って?
「ど、どうしよう?」
電話口のおばさんの声がとても大きく、内容は彼女まで聞こえていたようだ。
・・・っていうか、あのおばさん、僕達が高校生って知ってて言ってるのだろうか。
彼女も困ったような複雑な顔をしていたが、何も喋らなかった。
――彼女、どうして何も言わないのかな? まさか・・・泊まる?
そうぐちゃぐちゃと考えている間に、僕は気持ちとは裏腹に反射的に返事をしていた。
「はい、あの・・・もう出ます」
彼女はホッとしたような、がっかりしたような、どちらでもとれる顔をしていた。
「うん、もう帰らなきゃ・・・ね」
彼女は下を向いたまま呟いた。僕も黙って頷いた。
名残惜しいというのが正直な気持ちだったが、高校生がこんなところに泊まるのはもちろん許されるわけがない。
たちはゆっくりと帰り支度を始めた。
忘れ物が無いかと部屋の中を確認する。すると、彼女が床に這って何かを探していた。
「何か落としたの?」
僕がそう尋ねたが、彼女の返事は無かった。
「何か捜してるの?」
また返事が無い。
――どうしたのかな?
僕は探し物を一緒に探そうかと彼女に近づいた。
すると、彼女の体が小刻みに震えていた。
「え?」
――違う!
僕は彼女の体に何か異変があることに気づいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ごめんね。ちょっと・・・・苦しくなっちゃって・・・・」
明らかに様子が変だった。
「大丈夫・・・すぐ治まると・・・思う」
彼女は苦しそうな声で呟いた。
――どうしよう・・・こんなところで・・・。
僕はどうしたらいいのか分からず、ただ茫然としていた。
徐々に彼女の息遣いが荒くなってくる。
僕は焦った。胸のあたりがかなり苦しそうだった。
「ドジだな私。薬・・・学校のカバンの中だ・・・」
――え? 薬って、まさか心臓?
目の前で人が苦しんでいるなんて生まれて初めてのことで、僕は頭の中が真っ白になった。
――どうしよう・・・どうしよう・・・。
頭の中で同じ言葉が反芻される。
もう彼女は喋ることができないくらい苦しい状態だった。
――もうだめだ。何とかしないと。そうだ救急車だ!
僕は携帯を慌てて掴んだ。
――あ、そうだ。携帯は海に落として壊しちゃったんだ、どうしよう。
僕はさらに頭の中がさらにパニックになる。
――そうだ、部屋の電話だ!
僕はベッドの脇にある電話の受話器を取った。
――この電話って直接119番に繋がるのかな?
焦って気が動転する。正面に『フロント0番』の文字が目に入り、僕はすぐにボタンを押した。
フロントの人に事情を話し、すぐに救急車のお願いをした。僕はもう何がなんだか分からなくなっていた。
――彼女の身にいったい何が起きたのだろう?
このあとの出来事については、僕は気が動転していて、断片的にしか記憶が無い。
憶えているのは、救急車が来た時、ホテルの前に人だかりができていたこと。僕は彼女と一緒に救急車に乗ったこと。
救命士さんから彼女の家への連絡先を聞かれたが、僕は答えられなかったこと。彼女が苦しみながらも自宅の連絡先を伝えたこと。
そのあとは・・・よく覚えていない・・・。
気がつくと、僕は病院の集中治療室の前に座っていた。
――そうだ。僕と彼女は救急車で病院へ運ばれたんだ。
僕は彼女の身に何が起きたのか、全く状況が理解できていなかった。横には中年の男性と女性が心配そうな顔で座っている。
頭の中はまだ混乱していた。
――思い出した。
彼女のお父さんとお母さんだ。病院からの連絡でここへ駆けつけたのだ。
誰も喋ることは無く、静寂が続いていた。
しばらくすると集中治療室から医師が出てきて、彼女の容態がなんとか落ちついたということを伝えられた。
僕は安堵の気持ちを抑えられなかった。
ホテル内でのことだったので事件性を懸念したのか、僕はこのあと警察の事情聴取を受けた。恐らくホテルのフロントのおばさんが連絡したのだろう。
事件性は無いと分かり、警察からの尋問は形式的なものだけで、僕はすぐに解放された。
ただ、このあとの彼女の両親からの尋問がすごかった。
学校をサボり、挙句の果てにホテルに一緒に入り、そこで倒れただなんて、何も言い訳ができるわけがなかった。
誰が学校をサボろうと言い出したのか? どっちがホテルへ誘ったのか?
特に彼女のお父さんからの質問の責めがキツかった。
僕は自分から彼女を誘ったと話した。彼女のお母さんからは本当なのか、と念押しされたが、そのまま頷いた。
別にカッコをつけた訳ではない。彼女がこのことで両親から怒られるのが嫌だったし、何より彼女が僕を誘ったようなウワサがたつのがもっと嫌だったからだ。
実際に最終的に電車に引っ張ったのは僕だし、ホテルに入らなければならない原因を作ったのも僕だ。そう。僕がはっきりと授業をサボるのをやめようと言えばよかったんだ。
僕の優柔不断さが、彼女をこんな危険な目に遭わせてしまった。それは紛れもない事実だった。僕自身がそれに納得していた。
彼女の父親は激怒し、もう彼女には絶対に会うなと言われた。父親として当然のことだろう。
僕もそう言われることは覚悟していた。でも、彼女が倒れた理由については何も教えてくれなかった。
「ごめんね。鈴鹿さん・・・」
僕はひとりで病院をあとにした。
このことは当然のこととして僕の両親や学校にも報告が行くことになり、かなりの大事になると覚悟していた。学校もサボってしまったし、ただでは済まないだろう。
しかし、帰ってから親から何も言われることは無かった。
その後の学校からの呼び出しや連絡も無かった。
彼女の両親はどこにも報告や連絡をしなかったようだ。
僕に気遣ったのか、彼女を気遣ったのか。
どちらにしても、僕がもう彼女に会えないということには変わりないだろう。
その日、僕は海に落として壊れてしまった携帯を持ってショップへ行き、修理に出した。
さすがに海に水没した本体は一目で修復不能と判断された。
しかし幸いなことに携帯内に記憶されていた電話番号やアドレスデータは読み取ることができ、復旧させることができた。彼女の連絡先を含めて。
しかし彼女のご両親との約束で僕のほうから連絡を取ることはもうできなかった。
彼女はどうしているのだろうか。元気になったのか?
そんなことを思う毎日が続いた。
彼女に会いたかった。それはもうできないのも分かっていた。
でも、せめて元気かどうかだけでも知りたい。そう思った。
学校は春休みに入ってしまったので、学校からの情報も何もない。彼女のことを教えてくれる友達もいなかった。
僕は、たとえようもない喪失感に包まれていた。心にぽっかり穴が開いたような感覚。
何をしてもつまらない。いや、つまらないという感覚さえ無くなっていた。
僅かな時間だったが、彼女と一緒に過ごした時間がとても愛おしいく感じられた。
――楽しかった?
うん、確かに楽しかった。でも彼女と一緒に過ごした時はそんな単純な感情ではなかった。
あんなにも自然でいられた自分がとても不思議だった。
でも、もう彼女に会うことは許されないんだ。
――彼女のことは忘れよう・・・。
僕に今できることは、そう努力することだけだった。
彼女が倒れて病院に入った日からちょうど一週間たった時のことだった。携帯の鈍い振動音が僕の部屋で響いた。
誰からだろう、と携帯に表示された文字を見て僕は思わず動揺する。そこには登録したばかりの彼女の名前が表示されたからだ。
――え? 彼女から?
僕は喜びと嬉しさで慌てながら受信ボタンを押した。
しかし、電話越しの声は彼女のものではなかった。
彼女のお母さんからだった。
僕は約束の時間よりも三十分ほど前に待ち合わせ場所に指定されたカフェに入った。理由は、間違っても遅れてはならないと思ったからだ。
店のドアを開け、店内に入ると迎えのウエイターから人数を訊かれる。
「えっと、今ひとりですが、待ち合わせをしているので、あとからもう一人・・」
たどたどしく答えていると、店の奥で手を挙げてこちらに合図する女性がいた。見覚えのある顔、そう、彼女のお母さんだ。
前に会った時も思ったが、とても綺麗な人だ。彼女はやはりお母さん似だ。まさかこんな早くから待っているとは思わなかった僕は、虚を突かれた感じになり焦っていた。
「すいません。お待たせしてしまって」
「何を言ってるの。まだ待ち合わせ時間の三十分も前よ。読みたい本があったから早めに来て読んでいたの」
お母さんはここに座ってと誘導するように反対側の椅子に手を差し向けた。
「お久しぶりね、名倉君。何飲む? ここのハーブディーはお勧めなの。ケーキもなかなかよ」
程なくウエイトレスがやってきて、僕はお母さんが勧めてくれたハーブティーを頼んだ。勧められておきながら他のものを注文する度胸は僕には無かった。
「ごめんなさい・・・」
僕は謝った・・・と言うより僕ができることは謝る以外になかった。
「僕の身勝手で咲季さんの体を危険な目に遭わせてしまって・・・本当にすいませんでした。もう咲季さんには二度と・・・」
そう言いかけた時、お母さんの声が僕を遮った。
「ごめんなさい」
今度はお母さんが僕に謝った。
「え?」
「謝るのはこっちのほうなの」
――お母さん、何を言ってるんだろ・・・?
今日、呼び出された理由は『ニ度と彼女の前に現れるな』との最終通告しか僕には考えられなかった。
「あの日、学校サボって外に行こうって言い出したのは咲季のほうね」
お母さんは優しい顔で僕に問いかけた。
「あ?・・・い、いえ。ぼくが・・・」
「本当に? 本当は咲季が言い出したんでしょ。本人が言ってたわ」
「咲季・・・さんが?」
お母さんが僕の顔を見つめる。僕はお母さんの目に委縮して思わず視線を逸らした。
「フフッ、あなたって本当に嘘がつけない性格みたいね。最初は咲季があなたを庇って言ったのかとも疑ったけど、あなたを見てたらどっちが本当かすぐに分かったわ」
「いえ。確かに最初は彼女から言い出したことですけど、最終的に行こうって言ったのは僕なんです。本当です。僕が優柔不断なばっかりに彼女を危険な目に・・・」
「本当・・・咲季の言う通り人ね」
「え?」
「あなたは何でも自分のせいにしちゃうのかしら? 咲季もね、嘘をつくのが昔からものすごく下手なの。すぐ顔に出ちゃうタイプなのよね。だからあの子が言ってることが本当か嘘かなんて私はすぐ分かるの。今日はあなたに文句を言いに来たわけじゃないのよ。あの子が入院したのはあなたのせいではないのよ」
「え?」
「学校のクラスメートの人には内緒にしてもらってたんだけど咲季はあの日はもうすでに入院してたの」
――すでに入院してたって・・・どういうこと?
頭の中の整理ができない。
「体の具合があまり良くないからって、その週の月曜日に病院に検査に行ったの。その検査の結果が良くなくて、そのまま入院になってしまったの」
その週の月曜日は彼女と教室で話をした日だった。
行かなければならない所があるって病院だったんだ。その日、彼女の様子がおかしかった理由が今、分かった。
「あの子は幼い時から病院の入退院を繰り返してたんだけど、高校に入ってからはわりと調子が良くて入院は無かったから、ちょっと落ち込んじゃってね。春休みになる前に一度だけ学校に行きたいって言うもんだから、病院から一日だけ外出許可をもらったの」
――あの日、一日だけ?・・・。
「今回の入院がどれくらい長くなるか分からないから、その前にきっと遊びに行きたかったのね」
――そんな貴重な時間だったのに僕なんかと・・・。
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「今日は来てもらったのは、あなたにお願いをしたかったからなの」
「お願い・・・ですか?」
「あなたにあの子の、咲季のそばにいてあげて欲しいの」
彼女をあんな大変な目に遭わせてしまった僕に何を言い出すのか、母さんの言葉の理解に苦しんだ。
「ああ、そうだ。あなたには報告しないとね。咲季、おかげさまで体のほうはかなり回復して元気になったわ」
「本当ですか。よかった!」
思わず大きな声が出てしまった。何よりも僕はその言葉を待っていたから。
「ただあの子あれ以来、ああ、あの倒れて病院に運ばれた日のことね。
体のほうは元気になったんだけど、気持ちが・・・全然元気にならなくて。あの子、聞き分けがいいから、もうあなたに会っちゃダメだって言ったら素直に聞いてくれた。ただその代わり、今回のことであなたを絶対に攻めないでって言ってた」
僕は苦笑いをするしかなかった。
お母さんが僕のカバンを見て何かに気づいた。
「あら、そのペンギンのストラップ・・・」
僕はあの日以来、あのペンギンのストラップをずっとカバンに付けていた。
「これ・・・ですか?」
僕はストラップをカバンから外してお母さんに見せた。
「咲季も同じもの持ってわね。もしかして一緒に買ったの?
あの子すごく大切にしてたわ」
――大事に持っててくれてるんだ。
僕は嬉しかった。
「でも、あの子のはこんがりとお腹が焦げてたわよ」
「ああ、すいません。それは僕がドライヤーで焦がしちゃったんです」
「フフッ、そうだったんだ。私が『あら焦げてるじゃない』って言ったら、
『だから世界にひとつしか無いんだよ』ってそれは嬉しそうに言ってたわ。
そっか、あなたが焦がしたものだったんだ・・・なるほどね」
お母さんは子供がはしゃぐように笑ったあと、今度は急に黙りこんで僕を見つめた。
「あの子に・・・・会ってくれる?」
「でもお父さんが、すごく怒ってたし・・・大丈夫ですかね」
「うん、だからね。私たち親には内緒ってことにして」
「え?」
お母さんの言っていることの意味がまた分からなくなった。
「私たちが病院に行かない時間をあなたに教えるから、その時間以外であの子に会ってあげてくれる?」
「どういう・・・ことですか?」
お母さんはまた少し黙ったあと、決心した感じで話し始めた。
「あなたには・・聞いておいて欲しいことがあるの。あの子の病気のことで」
「病気?・・・」
「あの子はね。咲季は生まれつき心臓がよくないの。心臓の病気でね。けっこう重い・・・」
何の冗談かと僕は思った。お母さんはこのあと彼女の病気について話し始めた。
彼女の病気は生まれつきの先天性のものであること。詳しい内容は理解できなかったが、心臓の弁の癒着とかの問題らしく、手術が非常に困難であること。
「でも、命にかかわるなんてことは・・・」
僕はまさかと思いながら訊いた。お母さんはまたしばらく黙った。
「高校に入ってからしばらくは安定していたんだけど、最近また発作を起こすことが多くなってきてね。咲季の心臓はいつ発作が起きても不思議じゃない状態なの。生まれた時は中学生になるまで生きられないだろうって言われての。だからあの子は、あとどれくらい生きられるかは分からない。あと五年なのか・・・一年なのか・・・一か月なのか・・・」
――ちょっと待ってよ。そんなこと急に言われても・・・ ありきたりの恋愛映画や漫画じゃあるまいし。
頭の中で叫んだ。気持ちの整理が追いつかない。
悪い冗談だろうと笑いたかった。でも、お母さんの膝の上にあるハンカチに滴り落ちる涙がそれを許してくれなかった。
「咲季・・・さんは自分の病気のことは?」
「全部知ってるわ。自分の心臓がいつダメになるか分からないってこと。あの子にはできる限り精一杯生きて欲しい。後悔なんかさせたくなかったからすべてを話したの。主人は反対したけど・・・」
そうか。彼女の笑顔がなぜあんなに眩しかったのか、今理由が分かった。
彼女は自分の持っている時間がとても貴重なものだと分かっていたんだ。彼女にとって一日一日は非常に大切なものだった。
いつまで生きられるか分からない。だからこそ、彼女の笑顔には常に一生分の笑顔が凝縮されていたんだ。
あの笑顔の裏側にどれだけの心の強さが必要だったのか、僕には計り知れない。
僕は何も分かっていなかった。
『人の寿命は予めDNAにプログラムされてる』だって?
『生物の本能に逆らうから人は死を恐れる』だって?
僕は何を偉そうに彼女に講釈を垂れていたんだ。死の重みもロクに分からない軟弱な奴が。
自分の馬鹿さ加減が情けなくて悔しくて、居た堪れなくなった。
「あの、もうひとつお願いがあるの」
お母さんは申し訳なさそうに話を続けた。
「はい?」
「今話をした咲季の病気のことは、あなたは知らないフリをしていて欲しいの」
「え?」
「同情で一緒にいるような誤解をあの子にさせたくないから。今までのように自然なお付き合いをして欲しいの。無理を言っているのは承知なんだけど」
そう、無理だ。僕は嘘が苦手だ。そんなことすぐ顔に出てしまうだろう。僕が嘘をつけない性格なのはさっき理解したばかりだろうに。
「ごめんなさい。お願い・・・」
お母さんの声が泣かないように必死にこらえている。
「わかり・・・ました」
僕は思わず答えてしまったが、すぐに後悔した。
僕はなんて無責任な奴なんだろう。彼女に嘘をつき通す自信なんて全く無いのに。