君が君らしくあるために 僕が僕らしくあるために

「ねえ、交換日記しない?」
「え? 鈴鹿さん・・・と?」
「誰としたかったの?」
「・・・・・」
 どういうつもりで言ってるのか、彼女は僕を睨んだ。
「だってせっかく可愛い日記帳買ったしさ。えー、嫌なの?」
「いや、あの嫌ってわけではないんだけど、実は僕も日記なんてつけたことないんだよね。文章を書くのすごい苦手だし。変に理屈っぽくなっちゃうんだ」
そう、僕は日記はおろか手紙すらほとんど書いた記憶がない。
「ふーん。そっか。ねえ、君が好きなクラスメートって、誰?」
いきなり話題変えて振ってくるのも、どうも彼女の癖らしい。しかもグイグイと顔を近づけて迫ってくる。

「いや、ごめんね・・・いきなりそんなこと訊かれても・・・」
「いいじゃない、教えてよ。誰にも言わないよ。大体、私クラス違うし」
僕は考えた。でも本当に答えに困った。気になる子がいるにはいたのだが、その子はクラスメートではなかったからだ。
「じゃあ。誰にも言わないでよ」
僕は、その子の変わりにクラスの中で一番人気のある女子の名前を挙げた。正直、僕はその一番人気の子に対して『好き』という感情は全く持ってなかった。しかし、誰の名前も挙げないと彼女の追及がめんどくさくなりそうだったので、つい好きでもない子の名前を挙げてしまったのだ。
「あー知ってるよ。長い髪の子だよね。美術クラス一緒だし。そっかー、ああいう子が好みなんだ。確かにあの子美人だし、男子に人気ありそうだね」
「でしょ。僕なんて全然相手にされないよ」
「んーそんなことないと思うよ。女の子ってけっこう積極的な男子に弱いからチャンスあるかも」
「だったら尚更だよ。僕は消極男子のクラス代表だよ」
「フフッ、いつ選挙があったの? 私も投票したかったな」
彼女はまたケラケラと笑い出した。本当によく笑う。いや、笑い過ぎだ。

「鈴鹿さんは? 付き合ってる人いるの?」
以前の僕ならこんなこと絶対に訊けなかっただろう。よく言った、と自分で思った。
「おお! 反撃にきたね」
僕の鋭いと思った質問に対し、彼女はなぜか嬉しそうな反応をした。
でも、そのあと急に困った顔になり、そして唸りだした。
「うーん・・・・」
とぼけているのだろうか。僕は思い切って核心に迫った。
「あのサッカー部の? 武田君っていったっけ? 彼は?」
「ああ、克也ね!」
僕の訊き方もわざとらしかったが、彼女の思い出したような答え方もわざとらしかった。どう見ても誤魔化しているように感じた。
「そうだね。彼はけっこうイケメンだし、スポーツマンだし、女子としては一番彼氏にしたいタイプかもしれないね」
付き合ってるの?・・・とさらに訊きたかったが、そこまで突っ込めなかった。

「ねえ、その子に告白してみなよ。私、応援してあげる」
「だから僕にはそんな度胸無いって」
「ああ・・もしかしたらフラれるのを、怖いとか、かっこ悪いとか思ってない?」
「そりゃだれだって・・・そう思うでしょ?」
「そんなことないよ。何も行動しないでそのまま終わるよりも、たとえ駄目だったとしても行動しないと。たった一度の短い人生だよ。もっと積極的に行かなきゃ」
僕は彼女の言葉に少しイラッときた。結局、彼女は気の弱い僕をからかっているんだ。
「別にいいよ。もともと僕は積極的な性格じゃないし、なろうとも思わない」

僕は嘘をついた。
彼女のような積極的な性格に本当は憧れてた。そうなりたいと思っていた。でも、どうせそんな風にはなれないと思い込んでいる自分が自分に嘘をつかせた。
「大体さ、鈴鹿さんは何でそんなこと僕に言うの?」
僕の声のトーンが無意識に大きくなっていた。
「んー。君っていつも一所懸命だから、応援したくなっちゃうから・・・かな?」
なぜだろう。僕の心の中がイライラ感に覆われてくる。彼女の言動のせいだろうか。もしくは昨日の彼の言った言葉のせいだろうか。自分の感情のコントロールが利かなくなっていた。
こんなこと初めてだった。

「もういいよ!」
僕は吐き捨てたように叫んだ。
「どうしたの? 名倉くん」
彼女は僕のその声の大きさにびっくりしていた。
「鈴鹿さんはさ、内気で恋愛下手の僕をおもしろがっているだけでしょ?」
「そんなことないよ。名倉くん、何でそんなこと言うの?」
彼女は僕の感情の高ぶりに戸惑っていた。僕自身、なぜこんなに感情的になってしまっているのか分からなかった。でも一度崩れた僕の感情は抑えられない。
「大体、僕が誰を好きになろうが、告白しようがしまいが、鈴鹿さんには関係ないでしょ! 鈴鹿さんはあちこちの男子と遊んで付き合ってるんだろうけど、僕は鈴鹿さんみたいに軽くないんだよ!」

「何? それ・・・」
彼女の声が急に強張った。

二人の間の空気が一瞬に張り詰める。
――今、何を言ったんだ、僕は?
僕は後悔の念に駆られた。
――怒らせた? 彼女を・・・。
僕は、言ってはいけないことを言ってしまったんだと気づいた。
こんなことを言うつもりはなかった。僕は彼女の顔を怖くて見ることができなかった。かなり怒っているに違いない。
――どうしよう。謝らないと・・・。

「あ、あの、ごめ・・・」
「そんなふうに思ってたんだ! 私のこと・・・」
彼女の強い口調の声が僕の声を遮ぎった。
そして、彼女はゆっくりと立ち上がった。
――怒鳴られる。
そう思った。でも僕にはもう言葉が無かった。

「君だけは・・違うと思ってたのに・・・」
――え?
僕はびっくりした。その呟くようなとても小さく悲しそうな彼女の声に。彼女のこんな声を聞いたのは初めてだった。
―─早く、早く謝らないと・・・。
焦ってそう思った時、彼女はそのまま出口のほうへ早足で向かっていってしまった。彼女の目が赤く潤んで見えた。
――涙?・・・。
それを見た時、僕は彼女を怒らせたのではなく、傷付けてしまったんだということに気がついた。

――最低なヤツだ・・・僕は。
今までに記憶に無いような猛烈な自己嫌悪感に僕は襲われた。
――僕は彼女に何を言ったんだ?
何であんなことを言ってしまったのか、僕自身も分からなかった。僕は彼女の何を知っているというんだろう。彼女のことなんてまだ何も知らないくせに。他人からの話だけを鵜呑みにして彼女のことを侮辱したんだ。

侮辱・・・それは僕が一番嫌いな行為だった。人に侮辱されることよりも、人を侮辱することが何よりも嫌いだった。僕は彼女を侮辱して傷付けたんだ。
僕はすぐに彼女のあとを追った。 店の外に出てまわりを見渡した。でも、彼女の姿はすでに見えなくなっていた。
僕は店の前で一人呆然と立ち尽くした。いつの間にか、あたりはすっかり暗くなっていた。
上着を店内に置いて出てきたせいだろうか、強い春風がとても冷たく感じた。
僕は一人で家に帰ってからも、頭の中は自己嫌悪でいっぱいだった。彼女のあんな寂しく悲しい声は初めてだった。

僕はなぜあんなことを言ってしまったのだろうか。
このまま彼女との関係は終わってしまうのだろうか。いや、関係といっても正式に付き合っていたわけではない。
このまま彼女に嫌われて、これっきりになるのかもしれない。でもそれも仕方がないことだった。僕が悪いのだから。
だけど、やはり僕は彼女はきちんと謝りたかった。彼女を傷付けてしまったことを。
――そうだ。明日、学校で彼女に謝ろう。
そう決意し、僕は寝床に入った。
なかなか寝付けなかった。

時間が経つのが異様に長く感じられる。
早く明日にならないだろうか。気ばかりが焦った。
彼女に早く謝りたい。そんなモヤモヤした焦る思いで体の中がいっぱいになっていた。
眠れない。こんなに気分が悪い夜は記憶に無い。

ウトウトしながらもゆっくりと時間が過ぎていく。
気がつくと窓の外は明るくなっていた。どうやら夜が明けたようだ。結局、夕べは眠れたのか眠れなかったのか、自分でもよく分からない。

朝食は全く喉を通らかった。僕は居ても立ってもいられず、早めに家を出ることにした。
彼女とはクラスも違うし、教室に入ってしまったあとは話せる機会が無いだろうから、登校前に校舎の前で彼女を待って謝ろう、そう考えた。

いつもより一時間ほど早めに学校に着く。時刻は七時半をまわったくらいだろうか。校門の前にある一戸建て住宅の屋根の上から朝日が眩しく差し込んできた。
登校している生徒はまだ疎らだ。早朝練習の部活の生徒がランニングをしていた。
今朝はいつもよりちょっと肌寒い。吐き出された息が顔の前の空気を白く濁した。小鳥たちのさえずりが聞こえる。

僕は下駄箱の前で彼女が現れるのを待つことにした。
そう言えば彼女はいつも何時ころ登校するのだろう? 
無計画極まりないが、僕は何時間でも待つ覚悟でいた。

早い時間は生徒が少ないため人を捜すことは簡単だ。だが時間と共に登校する生徒の数が増えてくると、それがだんだんと難しくなってくる。僕は彼女を見過ごさないように門から入ってくる生徒を懸命に目で追った。

 ――見逃すな・・・。

疎らに行きゆく生徒を何人か見送っている時だった。僕は気がついた。

 ――あれ?

僕の鼓動が全身に響いていた。ただ人を待っているだけなのに。

 ――何だろう・・・この胸が締め付けられる感じ。

それは今まで経験したことのない感覚だった。

待ち始めてしばらく経った時、遠目だが校門を通り抜ける彼女の姿が目に入った。稲妻のような緊張感が僕の心に突き刺さる。

 ――来た!

彼女が下駄箱の入口に入るタイミングに合わせるように、歩幅の間隔を合わせていく。
ちょうど下駄箱の入口に入る直前に彼女の横に付く。
その瞬間だ。僕に気づいたのだろうか、彼女が一瞬こちらを見た。

 ――よし! 今だ!

「お・・おはよう!」
僕は目一杯に気持ちを振り絞って声を掛けた。
しかし、彼女は黙ったまま下を向いていた。
何か呟いた気がしたが、こちらを向いてはくれなかった。

廊下の向こう側で彼女のクラスメートが手を振っている。
「咲季ィー、おはよー」
「あ、おはよ!陽菜」
彼女はクラスメートに元気に返事をして、小走りに行ってしまった。
僕はただポツンと一人取り残されたように下駄箱の前で突っ立っていた。

 ――ああ、無視・・・されちゃった。

覚悟はしてはいたが、こうあからさまに無視されるとやっぱりショックだった。
でもそれも当然だ。それだけ彼女の怒りが大きいということだろう。

彼女の教室へ行って、そこで謝ろうと機会を伺ったが、今日は合同の美術の授業は無かったし、彼女のまわりはいつも友達でいっぱいで二人で話ができるようなタイミングは全く無かった。

 ――もういいか。やろうとしたことはやったし。

言い訳がましく諦めようとする自分がいた。
いや、駄目だ。彼女を侮辱して傷付けた自分を許せない。

今までの自分であればここで諦めていたかもしれない。でも今回は違った。
彼女が僕を許してくれなくてもいい。ただ謝りたい。
その気持ちだけが諦めることなく、僕を動かしていた。

放課後のチャイムが鳴る。今日は部活の日だ。
でも僕の心の中は部活どころではなかった。

同じテニス部の二年生に体調が悪いので休むとの伝言を頼んで、僕は彼女を学校の帰り道で待つことを決めた。
部活をサボるのは高校へ入ってからは初めてだ。これも別に“真面目”というわけではない。サボる度胸が無かっただけのことだ。

待ち伏せ場所には学校近くの中央公園を選んだ。そう。以前、部活のランニング中に、彼女があの男子生徒と一緒に歩いているのを見た所だ。

 ――でも、またあの彼氏と一緒だったらどうしよう?

頭の中で余計な考えが走馬灯のようにぐるぐると回り始めた。
変に先に考えてしまうのは僕の悪い癖だった。

僕はなるようにしかならないと自分に言い聞かせながら覚悟を決めて待つことにした。
そういえば、このように女の子を待ち伏せするのは今日が生まれて初めてのことではないだろうか。

公園の中にある管理事務所の角で彼女を待つことにした。ここなら学校方面から来る生徒をきれいに見渡せる。
行きゆく生徒を何人か見送っている時、僕はまた同じ感覚に包み込まれた。

 ――あれ? また?・・・。

僕の鼓動が再び全身に響いていた。

 ――何か・・・苦しい・・・。

しばらくの時間が過ぎた。
でも彼女の姿はまだ見えなかった。

公園を歩道をランニングする人がたびたび通り過ぎる。
だんだんと風が冷たくなってくるのを感じる。
特に時間の意識をしていたわけではなかったが、一時間くらいは経っただろうか。
僕はちょっと遅すぎるように思い始めた。
もしかして帰り道を勘違いしてた? もしくは別の道で帰ってしまったか? 

西の空に傾いた大きな夕日が新興住宅街の向こう側へと傾きかけていた。
まわりの空気が冷え込んでくるのに合わせ、だんだんと僕の気持ちも弱気になってくる。

 ――やっぱり、ここは通らないのかな・・・。

今日はもう会えそうもないと思い、諦めて帰ろうと振り向いた瞬間だった。
見覚えのある生徒の集団が掛け声をかけながら走ってきた。

 ――あ、まずい!

僕は思わず心の中で叫んだ。テニス部の部員がランニングしてこちらに向かってきたのだ。
そう。ここはテニス部の練習締めのランニングコースだった。
そんなことも忘れるほど僕は冷静さを失っていたらしい。
今日は病院へ行くと言って部活をさぼってるので見られたらまずいのだ。僕はすかさず管理棟の建物の陰に隠れた。

部員の掛け声が管理棟の反対側を通り過ぎていく。

 ――どうかバレませんよに・・・。

祈りながら部員の掛け声が通り過ぎるのを待つ。
徐々に掛け声が小さくなり、遠ざかっていくのが分かった。

 ――いやあ、危なかったな・・・。

僕は、ほっと一息をついた。そして振り返って顔を上げた時に僕の体は氷のごとく硬直した。
彼女が目の前にびっくりした顔で立っていた。
もちろん、僕もびっくりした。
どうも自分が来た遊歩道とは別のルートで来たようだ。

「何してるの? こんなとこで」
彼女は少し怒ったような口調で言った。僕の頭はパニック状態に陥った。
――ああ、ど、どうしよう?・・・。
昨夜から言おうと、せっかく準備していたセリフはすべて頭から消し飛んでいた。
――そうだ、とにかく謝まらなきゃ。
「ご・・・ごめんね。きのう鈴鹿さんに酷いこと言っちゃって。本当に・・ごめんさない」
僕はひたすら謝った。それしかできなかった。
まわりから見たらとてもカッコ悪い姿だろう。でも、そんなことどうでもよかった。僕自身が許せなかったから・・・。僕自身がとにかく彼女に謝りたかったから・・・。
「もしかして私を待ってたの? ここでずっと」
僕は黙って頷いた。彼女の顔は見られなかった。
「まるでストーカーみたい・・・」
呆れたような冷たい口調で彼女は言った。そう言われても仕方ない。その通りだ。悪いのは僕なんだから。
しばらく嫌な沈黙が続いた。

――確かにこれじゃあストーカーだよな。
心の中で失笑した。
僕は、これ以上つきまとわったら彼女に迷惑だと思い、これで帰ることにした。
「本当にごめんね。じゃあ、さよなら」
僕はもう一回大きく頭を下げたあと、彼女に背を向けて歩き出した。
「ちょっと! どこ行くのよ?」
彼女が怒ったように叫んだ。
「え?」

腹の虫がまだ収まらないのだろうか。彼女は僕を呼び止めた。
――文句が言い足りないのかな? でも、仕方ないよな・・・。
僕は再び彼女のほうに振り向いた。
「あの、ごめんね・・・何?」
「あのさ、私の家、あっちなんだけど・・・」
彼女は僕が帰ろうとした道の反対の方向に顔を向けた。

「え? あの・・・・」
「ストーカー・・・怖いからさ、送ってくれる?」

僕は意味が理解できず、黙ったまま固まった。
彼女はそんな僕に目を合わせず、反対のほうを向きながら叫ぶように言った。

「だからあ、私を家まで送ってって言ってるの!」

――え?

どういうことなのか、やっぱり理解できない。

僕と彼女は新興住宅街の少し下り気味の坂道を二人並んでゆっくり歩いている。
すぐ横に僕の歩幅に合わせて歩いている彼女がいた。彼女はずっと黙っていた。僕は一緒に歩いてくれている意味がまだ分からずにいる。
これは何だろう? 
許してもらえたということだろうか? もしくは何かの罰ゲーム?
でも、言葉に出してそれを確認するのが怖かった。

「本当に・・・ごめんね」
僕はもう一度謝った。
すると、彼女はやさしく微笑みながら顔を横に振った。
「もういいよ。私こそ朝ごめんね。無視するつもりはなかったんだよ」
――え?
「私も君に『おはよう』って言おうと思ったんだけど、君とこんな風にもう話せないのかな、とか考えてたら悲しくなっちゃって声が出なかったんだ」
――え?
思いもしなかった彼女の優しい言葉に僕の頭の中は真っ白になった。
「あ、どれくらい待ったの? 陽菜がハンバーガー食べて行こうって言うからマックに寄ってきちゃったんだ。君が待ってるって分かってたら断ったのに・・」
「いや、僕が勝手に待ってただけだから」
「君はいっつも自分のせいにしちゃうんだよね・・・でも、よかった」
「え?」
「ううん。何でもない」

またしばらく沈黙が続いた。でも、さっきまで感じていた不安な気持ちは消えていた。
僕は彼女の歩幅に合わせて並んで歩いていく。歩く速さをお互いに合わせているような感覚だった。
なんだろう、この感じは。足に宙に浮いているような感覚だった。でも、何かとても気持ちがいい。
昨日も街中で一緒に歩いたが、人ごみの中で歩くのとは全く感覚が違った。二人きりでいるという感覚と春の暖かい風と香りが、僕を何とも例えようもない気持ちにさせていた。
目の前の夕焼け空が茜色に染まっていて、とても綺麗だった。

彼女の足が突然止まった。
「ここ・・・私の家」 
ずっとボーっとしていた僕はハッとなった。
――あ、家に着いたんだ。
二人で歩いていた時間がすごく短く感じられた。
――ここでお別れか。
せっかくいい感じになったのに残念だがまあいいか。彼女と仲直りできたし。
「あの・・・ありがとう、送ってくれて」
「うん。じゃあ、また明日」
「うん。じゃあね」
名残惜しい気持ちを抑え、来た道をそのまま戻ろうと反対を向いたその時だった。
「あのさ!」
彼女の声に僕は振りかえる。
「え?」
「あの、ちょっと・・・寄ってく?」
彼女は僕に目線を合わせず、空を向きながらさらっと言った。
予想外の彼女の言葉に僕は戸惑った。
「え? 鈴鹿さんの家に?」
「誰の家に行きたかったの?」
「・・・・・」

気がつくと、僕は彼女に連れられてレンガづくりの門扉をぬけていた。
玄関までの長いアプローチのまわりに色とりどりの花が綺麗に咲き並んでいた。きっと家族がガーデニング好きなんだろう。

彼女は制服のポケットから鍵を取り出し、玄関のドアに差し込んだ。
「あれ?」
驚いたように彼女が呟いた。
「お母さん。帰ってるのかな・・・」
どうやら鍵が開いていたことが意外だったようだ。
「あ、名倉くん、どうぞ」
「あ、うん。おじゃまし・・・ます」
僕は彼女のあとに続き、恐る恐る玄関のドアをくぐる。とてもいい香りがした。
女の子の家に入るなんていうのは、僕の記憶の限りでは小学校の学芸会での劇の練習でクラスメートの女の子の家に集まった時以来ではないだろうか。

「ただいま!」
彼女が家の中に声を掛ける。
「おかえり」
中から上品そうで綺麗な女性が出てきた。彼女のお母さんだろう。どうやら彼女はお母さん似のようだ。
「お母さん、今日は早かったんだね」
「ええ。さっき帰ったばかりだけど。会社の用事で寄るところがあって、そこからそのまま帰ってきちゃったの」
スーツが綺麗に決まっていた。キャリアウーマンという感じがする。

「あら、お友達?」
「うん、学校のお友達なの。名倉くん。ここまで送ってくれたんだ」
彼女はちょっと戸惑った感じで答えた。
――やっぱり、来ちゃマズかったのかな・・・。
僕は半分後悔しながらも緊張しているのを悟られないよう平然を装おうとした。だが、恐らく顔が強張っていてバレバレだったろう。
「あ・・・突然すいません。名倉・・・です・・・おじゃまし・・ます」
声がひっくり返った。
 ――ああダメだ! 緊張して思うように声が出ない。
「いらっしゃい。どうぞ」
ガチガチに緊張している僕を見ておかしかったのか、お母さんはクスっと笑った。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。そんなお母さんの様子を見てか、彼女はお母さんを睨んでいた。
お母さんは彼女に何か謝るような仕草をした。僕は意味が分からなかった。
「咲季の部屋にする? あとでお茶持っていくわね」
そのまま二階にある彼女の部屋へと案内された。
「入って。ちょっとちらかってるけど」
彼女の部屋は、僕がイメージしていた女の子の部屋とはけっこう違っていた。女の子にお決まりのぬいぐるみはあるものの数は少なく、少女漫画チックな飾りもない。必要なものがしっかりと揃っているシンプルなものだった。
「あ、誤解しないでね。この家に男の子入れるのは高校に入ってからは君が初めてだよ」
僕はその言葉に、意外という気持ちを感じずにはいられなかった。
「男の子なら誰でもホイホイ家に入れるような女の子じゃないよ」
彼女は頬を膨らませ、意地悪そうに僕を見つめた。
「ごめん。もうかんべんして」
「フフ。あ、座って座って。今お茶入れるから」

ドアのノックの音が鳴る。
彼女が返事をしたと同時にお母さんがお茶を持って入ってきた。
「あっ、ごめんなさい。ハーブティーだけどよかったかしら?」
「あ、はい。ありがとうございます」
彼女はお母さんからお茶を乗せたトレイを受け取った。
「あ、咲季。私これから買い物に行ってくるから。夕方まで戻れないけど、あとよろしくね。名倉君・・だっけ。じゃあ、ゆっくりしていってね」
――え? お母さん出掛けちゃうの?
もしかして気を利かせてるのだろうか?
「いってらっしゃい」
彼女がドアの前でお母さんを見送った。
――ていうことは今、家には彼女と二人きり・・・。
元々緊張しているところに僕の緊張はさらに膨れ上がった。
――まずい。もしかして僕、顔赤くなってる?

「あー君、今、もしかしてやらしいこと考えてない?」
彼女の絶妙なタイミングの突っ込みが鋭利な刃物のように僕に突き刺さる。彼女はカンがすこぶるいいのか、もしくは気配を読み取るのが得意なのか。いや、違う。ただ僕の態度がバレバレなだけだろう。
「ごめん。いや、女の子の部屋とか、こういうのに全然慣れてなくて・・・」
「フフッ、そんなに緊張しないでよ。もしかして女の子の部屋に入るの初めてとか?」
僕は顔をひきつりながら頷いた。
「ふーん」
彼女はなにやら嬉しそうにそう言いながらティーカップを僕の前に静かに置いた。カップの置き方がサマになっていていた。

彼女は僕の前に座った。僕はティーカップを口元には運び、お茶一口をすする。彼女もティーカップを持ち、少し口に含んだ。張り詰めたような沈黙の時が続いた。
時間としては多分僅かだっただろう。しかしガチガチに緊張した僕の体には拷問のように長く感じられた。
――何か喋らなきゃ・・・。
そう思いながらも、焦って気だけが空回りする。

「あの・・・さ・・」
僕は声を振り絞った。
「うん?」
彼女が首を傾げる。
「あの・・・ハーブティって・・・ハーブの味がするよね」
彼女はお茶を口に含んだまま目を大きく広げ、不思議そうに僕の顔を見つめていた。
――僕は一体何を言ってるんだ?
また自分に呆れ果てる。
人は緊張した時、そこで力を発揮するタイプと萎縮してダメになるタイプがいるというが、僕は圧倒的に後者だ。こんなことしか言えない自分が恥ずかしかった。彼女は懸命に笑いを堪えているようだ。

「名倉くんってやっぱりおもしろいよね。ちなみに君はハーブって食べたことあるの?」
「あ、そういえば・・・無いかも・・・」
堪え切れず彼女は大声で笑い出した。
「ごめん。そんなに可笑しかったかな?」
「あ、笑ってごめんね。でも名倉くんって絶対おもしろいよ。言われない?」
「まあ、確かに・・・言われることあるけど・・・」
「だよね!」
彼女はまた笑い出した。
「でも僕は人を笑わせようとしているわけではないんだよね。自分としては普通にしているだけなんだ。プロの芸人みたいに笑わせようとして笑わせてるわけじゃない。だから僕は人に笑われてるだけなんじゃないかなって思ってる」
そう。自分としては普通にしてるつもりなんだけど、みんなと普通がズレているのかもしれない。
「ごめん。私は君のこと変な意味で笑ってるわけじゃないよ。君といると、何かとっても楽しいんだ」
「ごめんね」
「だから、何でここで謝るの?」
彼女はまた笑い出した。

その時、僕は思い出した。彼女に本当に謝らなきゃいけないことがあったんだ。
「あの・・・きのうは本当にごめんね」
僕は昨日のことをまた謝った。
「フフ、だからもういいって。でも実は昨日、私も帰ってから思ったんだ。
私もなんかムキになって喋ってたし、何か怒らせること言っちゃったのかなって」
僕は黙ったまま首を横に振った。そんなことを思わせてしまってたんだ、僕の無神経な一言で。
僕はデートの日の前日に彼女のクラスメートの男子生徒から言われたことを全て正直に話した。そして、どうしてああいうこと言ってしまったのか、ということも。
下手な言い訳ができる頭を持っていなかったし、自分にできることはすべて正直に話すことしかないと思ったから。

「そうだったんだ。ごめん、私、何も知らなかった・・・」
「いや、僕が悪いんだから謝らないで」
「そっか。男の子から見たらそう感じちゃうんだね。やっぱり私が悪いのかな。私はみんなと仲良くしたかったんだ。みんな大切な友達だし、女の子も男の子も。だからさ、男の子から『友達からでいいから付き合って』って言われたら断れないじゃない?」
「じゃあ、その男子のことを好きじゃなくても『付き合って』って言われたら付き合うの?」
「うん。だってその男の子のこと嫌いじゃなかったし、本当にいいお友達だと思ってたし」
今になって分かった。彼女は誰とでも簡単に付き合うっていうわけではなかったんだ。少なくとも彼女自身はそう思っていた。彼女はみんなと仲良くなりたかっただけなんだ。
でも、男はそれを都合良く誤解してしまう。
「告白した男子からすると、交際をOKしてくれたんだから、やっぱり自分のことを好きになってくれたんだって誤解しちゃうと思うよ」
「そっか・・・やっぱりそうなんだね・・」
彼女は自分自身を納得させるように言った。
彼女の噂は、彼女の断れない性格、『友達から』という言葉を額面通りに受け止めてしまう素直さ、みんなと仲良くなりたいという積極的な気持ちと行動や言動が合わさってできあがった不幸な産物だったんだ。
彼女の言ってることはきっと正論なのだろう。しかし男はそこに自分勝手な都合のいい解釈をしてしまう生き物なのだ。でも、男の僕からしたら、それは責められることではない。

「あの・・・やっぱり彼・・・武田君とは付き合ってるの?」
――何を訊いているんだろう僕は。
気がついたら口から出てしまっていた。ずっと気になって仕方がなかったからだろう。
彼女はびっくりしたような顔で僕を見た。
――ヤバ・・・唐突すぎたかな?
「どうしてそんなこと訊くの?」
「え? あ、ごめんね」
まさかの逆質問に僕は戸惑う。
「あ、ごめん。私も逆質問しちゃったね」
彼女はハッとしたように謝った。
「ごめんね。前に武田君と仲良さそうに一緒に歩いてるの見たことあるから、付き合ってるのかなあって・・・」
僕は誤魔化したように答えた。こういうところが自分の嫌いなところだった。
「へえー、私のこと少しは見ててくれてたんだあ・・」
彼女はなぜか嬉しそうに言った。でも、そのあとしばらく黙ってしまった。
「うん。実はね、確かに付き合ってたよ。でもこの間、別れちゃったんだ。
そうか・・・だから克也、君にそんなこと言ったのかな・・」
「あの・・・どうして別れ・・・」
僕は慌てて言葉を止めた。
――また何を言い出すんだ僕は。
「ごめんね。今の忘れて」
「ふふ。君ってけっこうストレートなんだね。意外だな。でも大丈夫、気にしないで」
彼女は嫌な顔をするどころかニコリと微笑んだ。
「そうだね。彼のことは嫌いではなかったんだけど、やっぱり『好き』って気持ちにはなれくてさ。なんかずっとギクシャクしてたんだ。そしたら彼からちょっと酷いこと言われちゃって・・・・でも結局、私が悪かったんだね」
僕は正直驚いていた。自分から訊いたものの、こんな風に素直に話してくれるとは思わなかったから。
でも、せっかく話してくれたことに対して、僕は何も言えず、ただ黙って聞いていることしかできなかった。
「やっぱり女の子と男の子の関係って難しいよね。誤解したり、されたり・・・。こういうことって男の子に聞かないと分かんないことが多いんだね。でも私さ、確かに何人かの男の子と付き合ったことあるんだけど、別にいいかげんな気持ちで付き合ったつもりはなかったんだよ。
だけど、その男の子のことを好きだったかって言われると、確かに自信が無いんだ。今まで付き合った男子って、みんな向こうから告白してくれた人ばっかりで、私から告白した人っていないんだよね」
「好きな男子がいなかったの?」
「ううん、そんなことないんだけど・・・」
彼女はなぜか照れたような仕草をしながら考え込んだ。
「あのね。女の子って、積極的に見えたとしても、本当はすっごい臆病だったりするんだよ。臆病で恥ずかしがり屋だからこそ、わざと積極的に大袈裟に喋ったりふざけたりして、その恥ずかしさを隠したり誤魔化そうとするの」
とても意外な言葉だった。彼女に臆病なんて言葉似合わない、そう思っていたから。

「あの・・・さ」
彼女が急にかしこまった声になった。
「なに?」
「あのさ、君には誤解されたくないから言っておきたいんだけど、私は名倉くんのこと・・・」
「分かってるよ!」
慌てたように僕は彼女の言葉を遮った。
「鈴鹿さんは僕のことを恋愛対象としては全然みていないってことでしょ」
分かっているんだ。彼女に言いたいことは。僕は彼女から出てくるだろう言葉を自分のほうから切り出した。
ぼくは彼女の口からその言葉を聞きたくなかった。
僕は臆病で卑怯な奴なんだ。自分から言うことで自分が傷付くことを少しでも和らげようとしていたのかもしれない。

「え?」
彼女はちょっとびっくりした顔でこちらを見た。
「大丈夫だよ。僕は変な勘違いしないから。そんなに自惚れてないよ。
それに僕も鈴鹿さんのことは恋愛対象として全然考えてないから安心していいよ」
「あ・・・だよね。うん、よかった・・・」
何か戸惑ったような彼女の返事だった。僕は彼女と目を合わせることができず、ずっと外を眺めていた。

僕が彼女に対し恋愛感情が無いというのは嘘だった。でも、この嘘は彼女についたのではない。僕自身に嘘をついたのだ。
彼女はしばらく黙っていた。沈黙の時間が続いた。

――あれ?
気まずい空気になったのを感じる。僕はまた何か変なことを言ってしまったのだろうか。
すると、彼女は僕のほうを一回見たあと、優しく微笑んだ。
「あの、私、名倉くんは・・今のままでいいと思う」
「え?」
唐突な彼女の言葉に僕は戸惑った。
「ごめんね。私、昨日は君に、変わらなきゃダメだとか、積極的にならなきゃダメだとか言っちゃったけど、名倉くんは、やっぱり今のままでいいと思う」
どうやら彼女は昨日、僕にいろいろと言ってしまったことを気にしているようだった。
「ううん。いいよ気を使わなくって。鈴鹿さんの言ったことは正しいんだ。
実は僕自身もそう思ってた。だけど、鈴鹿さんに言われたことがあまりにも的を得ていたからかな。変に反論しちゃったんだ。ごめんね。鈴鹿さんは何も悪くないから気にしないで」
「違うよ!」
彼女は慌てたように叫んだ。
「え?」
その声に僕は驚いて顔を見上げた。
「違うよ・・・私、本当にそう思ってる。君は今のままでいい・・・」
「そんなことないよ。僕は今のままじゃダメなんだ。やっぱり自分を変えないといけないと思ってる。鈴鹿さんの言う通りなんだよ」
彼女は目を下に向けたまま黙って首を横に振った。
「無理に自分を変えてもだめだよ。無理に変えたら君が君でなくなっちゃう。
君らしい君じゃないとだめなんだよ。だって、私はそんな君が・・・」
そこで彼女の声が呑み込まれた。

「え?」
「ごめん。何か変なこと言ってるね、私」
「あの、僕らしい僕って・・・どんな人間なのかな?」
その僕の言葉に彼女はふっと笑った。
「そうか・・・君は自分の魅力が分かってないんだね」
「分かるもなにも僕に魅力なんてあるのかな?」
彼女は今度はふうっと大きくため息をついた。
「あるよ。その君の魅力を分かる人がきっといるよ」

「・・・どこに?」 
僕は一拍おいてから訊いた。
「うーん。この宇宙、きっとどこかにいるよ」
「せめて地球人でいて欲しいな」
「へーえ、君、ストライクゾーンけっこう広いんだね」
そう言っておちゃらけて笑う彼女を僕は横目で睨んだ。その僕の顔を見て、彼女はさらに目を細めて微笑んだ。
彼女はしばらく静かにしていたと思うと、ふっと突然僕のほうを向く。

「あの、実を言うとさ・・・」
また唐突に彼女が呟いた。
「え?」
「同じなんだ・・」
「何が?」
「君、前に言ってたじゃない? 人と話す時に相手の人の目が見られないって」
「うん、言った・・・」
「実は同じなの・・・私も」
「え?」
「私も人と話す時、相手の人の顔や目を見られないの」
彼女は視線を落としながら恥ずかしそうに言った。
「ほんと・・・に?」
「うん。だから同じ気持ちの人がいるんだなって分かって、私すごく嬉しかったんだ」
その告白とも言える言葉に僕は当然驚いた。と同時にとても嬉しくなった。僕の知らない彼女がどんどん見えてくるようだった。

「よかった。やっぱりいるんだ、同じ人。人と話をする時にその人の目を見ないでいると、『なんで人の目を見ないの?』とか言われちゃうこと無かった?」
「あったあった。でさ、そう言われるから懸命に目を見ようとがんばるんだけど、相手からジッと見つめられるとすごく恥ずかしくなっちゃうんだよね。私なんかすぐ目を逸らしちゃうんだ。なんでみんな恥ずかしくないんだろうね。そう思わない?」
「そう。僕もそう思ってた。頑張って目を見ようとするんだけど、ダメなんだよね。すぐ恥ずかしくなっちゃうんだ。でも鈴鹿さんはちゃんと人の目を見て話をしているように見えたけど」
「ああ、そう見える? 実は無茶苦茶無理してるよ、私」
「ほんとに?」
「うん。実は私、目を逸らすな~逸らすな~って念じながら相手の顔見てるんだ。気分はほとんど“睨めっこ”だよ」
彼女はそう言いながらケラケラと大きな声で笑った。

“人の目を見る話”で変に盛り上がる。
「そう言えば、“睨めっこ”って、本来は“笑ったら負け”ではなくて“目を逸らしたほうが負け”っていうルールだったらしいよ」
「不良のガンの付け合いみたいだね」
「今じゃそうなっちゃうね。元々は内気な人が多い日本人が他人に慣れるための訓練だったらしいよ」
「へえ・・・君って本当にいろんなこと知ってるね」
彼女は半ば呆れながら感心したように首を捻った。

「ねえねえ、じゃあ私たちも訓練しようか? 人の目を見るのが苦手な者同士で」
「何? 訓練って?」
「だから睨めっこだよ」
「え? 鈴鹿さんと?」
「誰とやりたいのよ?」
彼女は攻めるような顔で僕を睨んだ。
もう睨めっこが始まっている気分になる。
「あの? 今?」
「明日のほうがいい?」
「・・・・・」
 よく分からないうちに追い込まれている自分に気づく。

「先に目を逸らしたほうが負けだよ。いくよ! せえの、はい!」
彼女はそう掛け声を掛けると僕に向かって睨み始めた。
――そうか。睨めっこというのは睨みあう遊びだったのか。
そう思い出し、仕方なく僕も彼女の顔を見つめた。

睨めっこなんて何年ぶりだろうか。因みに女の子とは生まれて初めてだ。
僕は今、生まれて初めて入った女の子の部屋で、その女の子と二人で睨みあっている。
これは僕にとって事件だった。
彼女の目をじっと見つめる。彼女も僕の目をじっと見つめていた。

 ――うわ! だめだ。やっぱり恥ずかしい・・・。
そう思いながらも僕はけっこう粘った。彼女も懸命に僕を睨み続けている。心臓の鼓動の大きさが一気に膨らむ。過剰な酸素吸入は息を止めているのと同じ感覚になる。
すると、彼女は急に上目使いに色っぽい目をし始めた。
 ――え? 
僕はその艶姿に恥ずかしくなり、思わず目を逸らしてしまった。
「やったあ! はい、君の負け!」
「今のは反則じゃないの?」
「女の正当な武器だよ」
彼女はガッツポーズして喜んだ。
不思議な気分だった。女の子とこんな風に自然に話せるなんて初めてだった。
「フフッ、なんか不思議だな・・・」
――え?
彼女の発したその声にびっくりする。僕の心の声とダブっていたのだ。

「私ね、こんなこと男の子に話したの初めてだよ。どうしてだろう・・・」
何か意味深な彼女の言葉だった。でも僕は一瞬考えたあと、今の僕なり答えを出した。
「だから、そういうこと言うから男子から誤解されるんだよ。それはね、きっと僕が人畜無害なタイプだからだと思う」
「人畜無害? 君が?」
「自分で言うのもなんだけど、自己分析すると僕って可も不可もないタイプなんだよね。顔だってイイ男ではないけどそんなブ男でもないでしょ」
何を言い出すんだろう、僕は・・・。
「人畜無害ね・・・やっぱりおもしろいこと言うね、君」
彼女はクスっと笑った。

「ねえ、どうして人は人を好きになるのかな?」
今度は思いつめたような表情を浮かべて彼女は僕に問いかけてきた。
恋愛経験が貧困な僕には荷が重い質問だった。
「前に言ったことがあったよね。人は子供にDNAというバトンをリレーするために生と死を繰り返すって」
「うん」
「つまりDNAを一緒にバトンリレーするために男女は結ばれるんだ。そのために男女が惹かれあうんじゃないかな」
「一緒にバトンリレーをするために男女は結ばれるんだ。何かロマンチックだね」
「そうかな。要は人が人を好きになるのは人の本能っていうことになるんだ」
「本能?」
「そう、だから人を好きになるのに理由なんか無いんだよ。人は人を好きになるために生まれてきたんだから」

僕は何言ってんだろう。自分の言った言葉とは思えなかった。言ってしまったあと自分が恥ずかしくなった。
恐る恐る彼女を見た。黙ったままこちらを見つめていた。
――もしかして呆れた?
「あ、ごめんね。今のもしかして無茶苦茶キザっぽかったよね?」
僕は落ち込んだふうに下を向きながら訊いた。
彼女はゆっくりと首を横に振った。
「人は人を好きになるために生まれてくるんだ。フフ、なんかいいね」
いつもの眩しい笑顔で彼女は笑った。

「名倉くん、前に言ってたよね。人はその本能を全うすることができたら、死ぬのが怖くなくなるって」
「うん・・・言ったかな」
「そうだったらさ、人が人を好きになるのが本能だったらさ。もし本気である人を好きになれたら・・・死ぬの・・・怖くなくなるかな?」
「え?」
彼女の唐突な質問がまた始まった。
彼女が何を言いたいのか僕には理解できなかった。ましてや彼女の問いに対する答えなんて僕の中にあるわけがなかった。

「ごめん。僕には分からない・・・」
「君は、本気で人を好きになったこと・・・ある?」
僕の心臓にドキリと突き刺さった。そしてそれを自分自身に問いかける。
心の中に一瞬、答えが見えたような気がしたが、僕はそれを打ち消した。
「ごめん・・・分からない」
そう言葉に出したあと思った。
――僕は本当に情けない奴だ。
「ありがとう・・・」
彼女は静かに呟いた。
僕はお礼を言われるようなことは何も答えられていない・・・。

窓の外を見ると、空はかなり暗く染まり、道は街路灯の明かりでオレンジ色に染まっていた。僕はそろそろ帰らないとまずいと思い、その旨を彼女に伝えた。
彼女は、もう少しいいじゃないかと引き止めてくれたが、さすがにこれは社交辞令だろう。
玄関で靴を履いている時、ちょうどお母さんが買い物から帰ってきた。
お母さんからも夕飯を一緒にと誘われたが、これも社交辞令だろう。丁重にお断りした。

彼女の家からの帰り道、冷え込んだ空気の中で僕は不思議な感覚に戸惑っていた。寒いはずなのに、寒さを全く感じないのだ。
僅かな時間であったが、彼女とのひとときがとても楽しかった。でも他の友達を遊んでいる時の楽しさとは明らかに違った。いや、楽しさとは違うものかもしれない。
僕は他人とここまで自然に話せたことも今まで無かった。本気で話せたことは無かった。
僕の中にある感情が湧き上がるのを感じた。でも僕はすぐにその感情を抑え、否定した。
――そんなんじゃあない。彼女は僕を恋愛対象とは思っていないんだから。
それに僕だって彼女に対しは何も思っていないんだ。僕は自分にそう言い聞かせた。
そうしないと心がどこかに流されてしまいそうだったから。

高校二年の最後の週の月曜日。この日は朝から雨が降り続いていた。

雨の日の昼休みは屋上に上がることはない。
よって、そこで彼女と偶然(?)に会うこともなかった。

雨は放課後になっても降り続いた。
今日は部活の日ではあったが、雨で外で練習ができないため、部室でのミーティングとなった。
結局、簡単な打ち合わせのあと、解散となった。僕はラッキー、と思いながらカバンを取りに自分の教室へと向かう。

校内の生徒はすでに帰宅してしまったようで、どの教室も人は疎らだ。
A組の教室の前を通った時だった。後側の扉が開いていたため、一瞬だが教室の中が目に入る。
そこに女子生徒が教室の奥の席でぽつりと一人で座っているのが見えた。

 ――あれ、鈴鹿さん?

後ろ姿ではあったが、僕はすぐ分かった。

扉から教室を覗き込む。どうやら他の生徒はみんな帰っていて、彼女以外誰もいないようだ。
僕はそおっと教室の中に入る。
僕の姿が見えてないのか、彼女は下を俯いたまま気がついていない。

ちょっと脅かしてやろうか、と悪戯心が湧いた。
わっと声を出そうと思った瞬間だった。俯いてる彼女のとても寂しそうな顔が目に入り、僕はそのまま動けなくなってしまった。

何も言えず固まったまま、しばらくの時が過ぎた。
すると彼女は急に上を向いたと思うと、スッと立ち上がり、振り返ってこちらを向いた。
「えっ!」
彼女はびっくりした顔で僕を見る。
結局、驚かせてしまった。

「名倉くんじゃん! びっくりしたあ。どうしたの?」
「あっ、ごめんね、驚かせるつもりじゃ。今日は部活が雨で休みになったんで帰ろうと思ったんだけど、鈴鹿さんが見えたから…」
「ふーん」
彼女はあっけらかんと答えた。
その彼女の声に僕はちょっと拍子抜けする。

「あの・・・何かあった?」
「え? なんで?」
「さっき、何かとっても寂しそうな顔してたから」
「え? いつから見てたの? 恥ずかし・・・」
「あ、ごめんね」
「いいよ謝んなくて。相変わらずだねえ、真面目くんは。別になんもないよ」
彼女は惚けたように顔を背けた。

「ホントに?」
「まあ私も多感な乙女ですからねえ。実はね・・・君のことを想ってたんだ」
 彼女は上目使いに悪戯っぽく笑って言った。
「やめてよ、そういう怖い冗談」
「ごめんね。私、冗談言うの苦手なんだ」
彼女はにこっと微笑んだ。
それはいつもの明るい鈴鹿さんだった。

「名倉くんて、何部だっけ?」
「ごめんね、テニス部だよ」
「フフッ、また謝ってる。そっかあ、テニス部かあ。ケイ君目指してるとか?」
「なれるわけないでしょ!」
「だよね」
彼女はそう言いながらクスッと笑った。いつもの眩しい笑顔だった。
うん。やっぱりいつもの鈴鹿さんだ。心の奥底で僕はホッとした。

「ね、テニスって楽しい?」
「うん、そうだね。練習はちょっと辛い時もあるけど。でも自分の思い通りのショットが打てた時はすごく気持ちいいよ」
「そっかあ、私も今度やってみたいな。テニス」
「鈴鹿さんは何かスポーツやるの?」
「ううん。私、運動苦手だから」
会話はここで止まった。

彼女は教室の正面にある時計のほうに目を向けると、ちょっと寂しい顔になった。
「あのさ・・・」
彼女がぽつりと呟く。
「何?」
「睨めっこしよ」
「え? ここで?」
「どこでやりたかった?」
「・・・・・」

「じゃあ、いくよ! 先に目を逸らしたほうが負けだよ。せーの、はい!」
彼女は僕をさっそうと睨み始めた。
僕は思わず周りを見渡したあと、慌てて彼女の顔を見つめた。
それはまさしく“睨めっこ”だった。

すると、不思議なことに時間が経つにつれて彼女から目を逸らさずに見続けることができるようになってきた。
それと同時に彼女の睨むような目が、だんだんと弱々しくなっていくように感じた。
そして、彼女の大きな瞳は急に潤み始め、ひとつの滴がゆっくりと頬を伝った。

 ――え? なに?

彼女はハッとしたように僕に背を向けた。
「どうしたの?」
思わず僕は叫んだ。

「ずるーい! そんな面白い顔しないでよ。笑いで涙が出ちゃったじゃない!」
彼女は僕に背を向けたまま窓のほうを見ながら叫んだ。

 ――え? 笑ってたの?

「今日は真面目くんの勝ちだね。参った参った」
「あ・・・あのさ・・・」
「ごめん。私もう行かなきゃ」
彼女は僕の声を遮るように立ち上がった。

「じゃあね、名倉くん」
彼女は僕のほうを見ずにそのまま出口へと向かった。
「あ・・・うん、またね・・・」
僕はただ挨拶を返すしかできなかった。
なにかモヤモヤと嫌な感じが残った。

彼女が教室の出口を出る直前、僕は彼女を呼び止めた。

「あの、一緒に帰らない?」

自分でもびっくりするような大きな声が出た。
「え?」
彼女はすっと振り向いた。
彼女は僕の声にびっくした顔をしていたが、その彼女の目が真っ赤だったことに僕もびっくりした。

 ――何? 

「ごめん、今日はちょっと寄らなきゃいけないところがあるんだ」
彼女は顔を隠すように俯いた。
「あ・・・そう。ごめんね、じゃあ駄目だね。また・・・明日」
僕は苦笑いをしながら言った。

「じゃあね・・・」
彼女はぽつりとそう言うと足早に出口に向かい、一度も僕のほうに振り返らずにそのまま教室を出て行った。
彼女の後ろ姿を見送ったあと、静まりかえった教室に僕は一人きりになった。

さっき彼女は本当に笑っていたのだろうか。
僕にはそうは見えなかった。

何か言いようのない不安感に包まれた。一人には慣れているはずなのに、なぜか急に寂しさを感じた。こんな気持ち初めてだ。
翌日の火曜日の昼休み、僕はいつものように屋上の給水塔の脇で本を読んでいた。
天気はいいが、少し肌寒い風が吹いている。

昨日の彼女の態度が気になって仕方なかった。
僕は彼女を待った。
でも、その日、彼女は現れることはなかった。

次の日の水曜日。曇ってはいたが、気温は昨日より高く、生暖かい南風が吹いていた。
僕はいつものように屋上で彼女を待った。
グレーの空が僕の不安感を写し出しているようだった。

彼女に逢いたい。素直にそう思った。
その気持ちは逢えないことで心の中でどんどん膨らんでいった。でも、その日も彼女は現れなかった。

強い不安感に襲われた僕は教室に戻る途中、A組の教室を覗いた。彼女の席には誰も座っていなかった。

 ――どこかに行ってるのかな?

僕は放課後にもう一度A組の教室を覗いた。
やはり、彼女はいなかった。

 ――いない?

僕は思い切って近くにいたA組の生徒に尋ねた。
「あの、すいません。鈴鹿さん、いますか?」
「ああ・・・鈴鹿さんなら昨日からお休みだけど・・・」
その生徒はどういう関係だろうかと不思議な顔をしながらも答えてくれた 。

 ――え?

「あの・・・風邪かなにか・・・?」
「いや、詳しいことは・・・でも今学期はもう来れないかもって」
僕は目の前が真っ暗になったような感じがした。

どういうことだろう。風邪? この前会った時は、そんな具合が悪いようには見えなかったが。
僕の不安感はさらに膨れ上がった。

三学期の授業は今週で終わりだ。
実質的にあと二日で高校二年も終わる。
このまま終業式まで来なければ春休みが終わるまで彼女とは会えない。
学校の休みが恨めしいなんて思うのは生まれて初めてだ。

翌日の木曜日。久しぶりに真っ青な空と太陽が眩しい快晴になった。
僕の心とは正反対の天気だった。
明日は終業式。正規の授業は今日の午前中で最後になる。昼休みも無い。

 ――鈴鹿さん、どうしてるのかな・・・。

気がつくと、そんなことを考えていた。

二時限目の授業の時間だった。
数学の予定だったが、先生がなかなか来る気配が無い。
授業開始チャイムから五分ほどたったころ、学年主任の先生が入って来きた。担当教師が急用により来れないので自習となるとの説明がされる。
クラス内は歓声と共にどっと盛り上がる。自習といっても、それはほぼ自由な休み時間のようなものだったからだ。
教室の生徒みんなが各グループで雑談やゲームを始めた。
僕はかばんの中から文庫本を取り出した。そして、その本の栞が挟まったページを開いたと同時に、その本を閉じて僕は立ち上がった。そして何かに導かれるようにそのまま教室の出口へと向かった。

今までに自習の時に教室を抜け出したという記憶は無い。
僕は無心で廊下を歩いていた。
行く先は屋上だ。そう。僕は彼女が今、そこにいる気がしてならなかった。
全く根拠は無い。でも、不思議と確信を持っていた。その確信は僕を屋上へと向かわせた。

屋上に出ると、そのまま一気にペントハウスの階段を昇る。
息が切れた。
給水塔のまわりを見渡した。でも、そこには誰もいなかった・・・。

 ――ハハ、そりゃそうだよな。いるわけないよな。しかも休み時間でもないのに。

自分の馬鹿さ加減に僕は思いっきり苦笑した。

給水塔からの学校の外の景色を見渡すと、まわりに植えられている桜並木がの花が薄いピンク色に染り始めていた。


 ――ああ、なんか青春っぽいな・・・。

そんな自己陶酔している自分に呆れながらまた笑った。

今からこんなに咲き始めて、来月の入学式まで持つのだろうか・・・なんて、そんないならい心配をしながらぼーっと外を眺め続けた。春の風はまだ少し冷たく感じた。

 ――鈴鹿さん、どうしてるのかな・・・?

「あれ? なに真面目くん、サボりかい?」
「え?」
給水塔の下から聞こえてきた明るい声が僕の心に突き刺さる。
思わず僕は階段の下に目を向けた。
そこには彼女が立っていた。

 ――え? まさか・・どうして?

「ち、違うよ。僕のクラス、二時限目が急に自習になったんだ」
僕は動揺しまくりながらようやく答えた。
「ふーん」
「あの、鈴鹿さんは・・・サボり?」
「違うよ! そっちこそ不良扱いしないでよね。うちのクラスもニ時限目が自習になったの。今日天気すごくいいからさー、なんか空が見たくなっちゃってね」

あとで分かったことだが、この日は二年生の学年担当全員が新学期からのクラス編成の件で一斉に召集がかかり、緊急会議が実施されていた。
つまり彼女のクラスと僕のクラスが同時に自習となったのは特に偶然ということではなかったようだ。

彼女はゆっくり外階段を昇ってくると、立っていた僕の横にさりげなく並んだ。
ちょっと強めの春の風が体の脇をすり抜ける。僕たちは黙ったまま、しばらく外を見ていた。

「あの・・・」
僕は彼女を見ずに言った。いや、見ることができなかった。
「うん?」
「学校休んでたよね。おとといから・・・」
「あ、心配してくれてたの?」
彼女はちょっと嬉しそうな顔をした。
「風邪か、なにか?」
「うーん。ちょっとね・・・」

 ――ちょっと・・・何なの?

そう言いたかったが、言えなかった。
彼女に会えたことで一時的に収まっていた僕の不安がまた膨らんだ。
今日の彼女にいつもと違う雰囲気を感じた。

 ――あの時の涙。何だったのだろうか・・・。

そう思いながら僕は真横にいた彼女の顔を横目でじっと見つめてしまった。彼女はそれに気づき、僕を見て静かに笑った。
でも、その笑顔はいつもの彼女のものではなかった。

「なあに?」
「え?」
「だって、私の顔じっと見てるから」
「あ、ごめんね」
「また謝ってる。別にいいよ、謝んなくて。こんな私の顔でよければずっと見てて」
彼女は笑いながらそう言ったあと、僕からすっと目を逸らした。やはりいつもの彼女ではない。

 ――何か、あったの・・・?

僕はまた彼女を見つめていた。
僕の視線に彼女がまた気づいた。
「ごめん。やっぱ恥ずかしいからあんまり見ないで」
「あ、ごめんね」
またしばらく沈黙が続いた。

「ね、二人で学校抜け出さない?」
彼女がぽつりと呟く。

「え?」
その言葉に僕は固まった。
「あの・・・今から?」
彼女は黙ってニコリと微笑んだままゆっくりと頷いた 。

気がつくと僕は彼女と一緒に駅の改札口まで来ていた。
彼女のいつものペースでここまで来てしまった僕は、ここでふと現実に戻った。
「ねえ、学校サボるのはやっぱりマズいんじゃない? 今からでも学校に戻ろうよ。まだ三時限目間に合うよ」
僕の中の“真面目”な小心者がひょっこりと顔を出し始めた。
“通常のレール”から外れそうになると、僕の体内にあるセンサーがアレルギーのように拒絶反応を起こすのだ。

「ふん、いいよ。もう分かった。真面目くんは学校に戻んなさい。私一人で行くから」
ウジウジしている僕に彼女は呆れたように言い残し、そのまま一人で改札口を抜けて行った。
自動改札の電子音の響きが『意気地なし!』と叫んでいるように聞こえた。
僕はしばらく動けなくなり、改札口の前でぼーっと立っていた。
相変わらずの真面目さと臆病さに自己嫌悪に陥っていた。
 
 ――ええい!

僕は慌てて彼女を追って改札口を抜ける。自動改札の電子音の響きが、今度は『がんばれ!』と応援しているように聞こえた。

この時、僕は何も考えていなかった。
いや、考えることを止めたんだと思う。

プラットホームでようやく彼女に追いつく。
ホームの前のほうに立っていた彼女は僕に気づいた。
「来て・・・くれたんだ・・・」
彼女は驚いた顔をしたあと、優しく微笑んだ。

電車がゆっくりとホームに入ってくる。目の前のドアが開くと、電車に中から数人の乗客が降りてきた。
降りる乗客がいなくなったあと、ホームで待っていた人が電車に乗り始める。
しかし、なぜか彼女は動かなかった。

「どうしたの?」
彼女は下に俯いたまま黙っていた。
「やっぱり・・・戻ろうか?」
彼女がぽつりと呟いた。
「え?」
彼女らしくない弱々しいその声に僕は一瞬、息が止まった。

 ――どうしたんだろう?

発車のチャイム音がホーム内に響く。彼女は何かがっかりしたように俯いていた。
シュッとドアが閉まる音が鳴る。
その瞬間だった。僕はその音に対し、百メートル走のスタートホイッスルのように反応した。
僕の右手は彼女の左手をしっかりと掴み、次の瞬間ドアの内側へと飛び込んだ。
ガッチャっとドアの閉じた音が自分の後ろで響くのが聞こえた。

 ――あ? 乗っちゃった!

電車はガタンという大きな音と同時にゆっくりと動き始める。モーターの回転音が徐々に高くなってスピードが上がっていくのが分かった。
彼女はびっくりした顔をしていたが、それ以上のびっくりしていたのは僕自身だった。僕の右手は彼女の左手をまだしっかりと握っていた。

男声のアナウンスが車内に流れる。
『発車間際の駆け込み乗車は、まことに危険ですのでご遠慮願います』

「ダメじゃん。怒られてるよ」
彼女はそう言いながら僕を横目で見た。僕らはしばらく黙って顔を見合わせた。
僕は思わずプッとふき出したあと、堪え切れず笑い出してしまった。
でも彼女は笑わずに、そんな僕の顔をじっと見つめていた。

「えっ? 何?」
「名倉くん、初めて私の前で笑ってくれたね」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ」
そんなこと僕は全然意識したことはなかった。
「そうだった? ごめんね」
「だから謝んなくていいって」
彼女もようやく笑い出した。

「どこ行く?」
僕は笑いながら問いかけた。
「んー、海!」
彼女は上を向きながら叫んだ。
「え?」
「海、見たいなあ」
「海?」
「そう、海!」
「海か・・・いいね!」

僕は今、学校の授業を抜け出して、女の子と二人で電車に乗っている。
ずっとルールを守るのが当たり前だった僕には考えられないシチュエーションだ。
僕の心は不思議な気分で満ちていた。
学校をサボっているという罪悪感、不安感。そしてそれを払しょくするような高揚感。それは生まれて初めて感じる感覚だった。

「なにボーっとしてるの? あー、まさかエスケープしたこと今更後悔してるとか」
「違うよ。いや、なんか自分じゃないような気がしてさ。僕、授業をサボるなんて生まれて初めてだから。鈴鹿さんと違って」
「私だって初めてだよ」
「え? 鈴鹿さんはいつもやってるんだとばかり・・・」
「あのさあ、前から訊きたかったんだけど、君は私のこと、どういう風に見てるわけ?」
怪訝な顔で僕を睨んだ。

僕は彼女の元彼が言っていた、彼女が中学の時にグレていたという噂話が気になっていた。

 ――いや、あんなのはただの噂だ。僕は気にしない。

僕は心の中で叫んだ。

僕らはターミナル駅で降り、湘南方面行きの電車に乗り換えた。
平日の午前中のためか家族連れは少なく、買い物客とサラリーマン風の人がパラパラいる程度で、電車はわりと空いていた。

一時間ほどでその電車は終着駅に着いた。駅の改札口を抜けると、すぐ目の前に大きな海が広がっていた。そこから小さな島へと橋で陸続きになっている。
「うわー海だ、海だ! 潮の香りがするぅー! 気持ちいいー。ねえ、あっち行ってみよう」
彼女は子供のようにはしゃぎながら島に向かって伸びる橋のほうへと僕の手を引っ張る。相変わらずのマイペースだ。

平日ということもあるのか、思いの他に人は疎らだった。学生のカップルも多かったが、老夫婦の人たちがけっこういるのに驚いた。

「あんな歳になるまで仲良くできるなんていいね」
仲が良さそうに歩いている老夫婦を見て彼女が呟いた。
ちょっとびっくりした。僕も全く同じことを思っていたからだ。
彼女はいつも僕を不思議な気分にさせた。

海は壮大だ。ありきたりな表現だけど、やっぱりそう思う。
岸に打ち寄せる波の音が心地いい。小さい悩みなんか全て消し飛んでいってしまいそうだ。
長い橋を渡ると、島の奥に向かって路地が続いている。そこには多くのお店が連なっていた。
僕たちはゆったりとした坂道を登っていく。土産店や海の幸の食堂などが細い坂道沿いに所狭しと並んでいた。

「わー見て見て! 何あれ?」
彼女がある店の前に並ぶ人の行列を見つけた。ここの名物なのだろうか。
とても大きい下敷きのようなせんべいが売っていた。
「ねえ、おいしそうだよ。これ買っていこ!」
「え? これに並ぶの?」
「これだけ並んでるから美味しいんでしょ!」
僕は彼女に言うことに逆らっても無駄だということを既に学んでいた。
素直に僕は一緒に行列の最後尾に付いた。
結局、その行列に二十分ほど並んだだろうか。やっとのことで買った下敷きのようなせんべいをかじりながら、僕たちはさらに島を上へと登っていく。

徐々に標高が上がっていくにつれ、だんだんと見晴しが良くなってくる。
一面に広がっている春の花がとても綺麗だ。
僕はその花の美しさを噛みしめていたが、彼女はせんべいの味を噛みしめているようだ。
「美味しいねこれ。並んで買って正解だね!」

 ――幸せそうだな・・・彼女は。

思わず心の中で呟いた。
「あ! 神社があるよ。お参りしていこうか」
僕らは島の中腹にあった神社に立ち寄ることにした。
「見て見て! 絵馬がいっぱい掛かってるよ。『二人が結ばれますように』だってさ! きゃーはずかしー!」
一緒にいるこっちが恥ずかしかった。
そこには男女それぞれの想い想い恋の成就の願いが所狭しと並んで描かれていた。
「ここって縁結びの神様みたいだね」
彼女は何か言いたげそうに僕の顔を見つめた。
「あ、そうみたいだね・・・」
そう言いながら僕はなぜか恥ずかしくなり、思わず目を背けてしまった。

島の頂上に着くと、そこには展望台があり、正面には一面に青い海が広がっていた。空には雲ひとつ無く、見事に真っ青に染まっていた。
「うーん絶景だね! 来てよかったあ!」
彼女が叫んだ。
「うん。すごい気持ちいいね!」
素直に僕はそう答えた。
春の潮風が本当に気持ちよかった。

「ここね、中学の時に一度家族で来たことがあるんだ。その時に、またいつかここに来たいってずっと思ってたんだ。好きな人と・・・」
「ふーん」
僕は何て答えればいいのか皆目見当がつかず、無愛想な返事をしてしまった。彼女のほうを見てはいなかったが、何か刺すような視線を感じたのは気のせいだろうか。
「あのさ、人ってどうして春になると恋をしたくなるのかな?」

また彼女からの質問攻勢が始まった。しかし、こういう類の質問は僕にとっては難関大学の入試より難しい。
「鈴鹿さん、恋がしたいの?」
「君、したくないの?」
僕はまた答えに詰まってしまった。こういう時、何て言えばいいのだろう?
「したくても恋をするには相手が必要だよね?」
そう答えると、なぜかしら彼女は僕を横目で睨んだ。そしてその瞬間、僕の足の甲に激痛が走った。

 ――え?

「あいだあ!」
僕は思わず悲鳴を上げた。
その激痛の原因が彼女に足を踏まれたことなんだと認識するまでに数秒かかった。
「何するの?」
 僕がそう言うと彼女はさっと僕から離れ、意地悪い顔をしてこちらを向いた。
「どうしたの? 大きな声出さないでよ、恥ずかしい」
 彼女はくすっと笑うと先に歩き出して行ってしまった。

 ――何なんだよ。わけ分かんないな・・・。

「わー見て見て! すっごい綺麗!」
彼女が水平線を見ながら呟いた。確かにキラキラと輝く海面は綺麗だった。それを見ながら無邪気にはしゃぐ彼女の笑顔がとても輝いて見えた。

 ――あれ?  彼女ってこんなに可愛かった?

そう思ってしまった自分に僕はびっくりした。
「あっれー、何? もしかして今、私に見惚れてたあ?」

 ――えっ?

あまりにもタイミングよく突っ込まれたため、僕は何も言えずに固まった。
「ちょっとお、何か言い返してよ。言ったこっちのほうが恥ずかしいじゃん」
彼女はめずらしく照れながら反対のほうに顔を背けた。
島の頂上に着くと、そこは学生や外国の観光客で多く賑わっていた。

「すいません。シャッター押してもらっていいですか?」

突然、大学生らしき女の人から声を掛けられた。学生同士のカップルだろう。彼氏はサングラスをかけ、彼女らしき女性はブロンズ色に染めた長い髪を靡かせていた。

「はーい、いいですよお」
彼女が快く引き受ける。
「いきますよお。ハイ、ポーズ!」
携帯のシャッター音が軽やかに響いた。

「ありがとう。あ、君たちも撮ってあげようか?」
「え?」
その女性の気遣いに僕と彼女は思わず顔を見合わせた。
「えへっ! せっかくだから二人で撮ってもらおうよ」
「あ・・・うん」
僕はちょっと戸惑った。というのも、実は僕は写真を撮られるのが苦手だった。
うん・・・苦手というか、慣れていないというか、要は僕は写真を撮るときに笑えないのだ。僕は写真を撮られる時、無茶苦茶構えてしまってロボットのような顔になる。

 ―――どうしよう・・・ちゃんと笑えるかな?

僕の心配をよそに彼女は僕の手を引っ張った。
海をバックに二人で並んで立った。明るい笑顔のピースサインをする彼女の横で、僕は明かに顔が引きつっているのが自分でも分かった。

 ――うわあ、だめだ。やっぱり笑えない・・・。

「行くよー、はい笑って!」
・・・って言われるほど僕の顔は引きつっていく。
「んーカレシい、なにその顔? 無茶苦茶暗いじゃん。お腹痛いの?」

 ――うん。痛くなりそう・・・。

彼女がそんな僕を横目で見てクスッと笑った。
「ほらあ、カレシ笑って! それにもっとくっつかないと映んないよ!」
彼女さんの口調がだんだんと怖くなってくる。

 ――何で僕が怒られなきゃいけないんろう?

その時、彼女の手が僕の肘をグイと引っ張るように引き寄せた。
「ほらあ、真面目くん、笑うぞ!」
彼女が僕に微笑みかける。すぐ真横にあったその笑顔に僕の心臓はドキっと高鳴った。
「え?」

「おっいいね! はーい、いくよ!」
僕があっけにとられているうちにシャッター音が響いた。

「あは、どうかな?」
撮ってもらったばかりの写真をスマホの画面で確認する。彼女は相変わらずの眩しい笑顔で映っていた。
だが、驚いたのはその横にある見覚えのない顔だ。
僕が・・・笑ってる?

 ――え? これ、僕?

とても不思議だった。
こんなにも自然に笑っている自分の顔が、まるで自分のものではないような感じがした。

「きゃー、すっごくいい感じに撮れたね」
お礼を言ったあと、その大学生とは反対の方向に歩き出した。
「仲良くねー、かわいいカップル君たち!」
大学生は大きく手を振っていた。
「ありがとー!」
彼女もお返しに大きく両手を振った。

 ――そうか。僕たちもやっぱりカップルなのか。

聞き慣れないその言葉の響きはとても心地いいものだった。
でもカップルと言っても、僕たちは付き合っているわけではないのだ。
その事実に、僕はちょっと寂しさを感じている自分に気づいた。

島からの帰りの下りの坂道をブラつきながら歩く。
雑貨が並ぶ小さな土産店に立ち寄った。
「わー見て見て。これ可愛い!」
彼女が手に取ったのは小さなペンギンのストラップだ。
「鈴鹿さん、ペンギン本当に好きなんだね」
「フフ、大好き」
彼女は嬉しそうにそのペンギンを頬ずりする。

「実はさ、明日、私の誕生日なんだ」
「え! そうなの?」
僕は素直にびっくりした。

「あの・・・それは、おめでとう・・・」
「んふ、ありがとう。はい!」
彼女はお礼を言いながら手を伸ばし、そのストラップを僕に手渡しした。

「え? 何?」
「買ってくれる? 誕生日プレゼントに・・・」
「いや、別にいいけど・・・これくらい」
突然でちょっと戸惑ったが、これくらいのもので喜んでくれるなら、と思った。

「でも、こんなものでいいの?」
「これがいいの」
そして彼女は、なぜか同じストラップをもうひとつ手に取った。

「じゃあ、こっちのは私が君に買ってあげるね・・・記念に」
そう言いながらクスっと笑った。
「記念?・・・なんの?」
「んー・・・何でもいいじゃん!」

そう言うと彼女はそれを持ってレジに並んだ。
僕も別のレジに並び、同じストラップを別々に買った。そして自分の買った包みを彼女に渡した。

「あの・・・誕生日おめでとう」
「フフ、ありがとう。大切にするね。じゃあ、これは私から君に。大切にしてね」
彼女は自分の買った包みを僕にくれた。
これって意味があることなのだろうか?・・・。あるんだろうな、きっと。

「ねえねえ、下の岩場のほうに行ってみようよ」
彼女はそう言うと同時に僕の手を引っ張って歩き出した。

島を下って海岸に出ると、そこにはゴツゴツとした岩場が広がっていた。
小さいカニや小魚、あとはタニシにような貝がたくさん見えた。
「きゃーカニさんかわいいー!」
無邪気にはしゃぐ彼女は、悔しいがやはり可愛いかった。
僕は彼女を見つめながらそう思った。
そして何よりも彼女といると、自然な自分でいられるということに気がついた。

「なあに?」
「いや、ごめんね。別に・・・」
ボーッとしていた僕は思わず言葉に詰まった。
彼女は笑いながらまたカニを追っかけていた。

岩場をちょっと奥に行くと平らな大きい岩が連なっており、僕らはその岩の上に空を見上げながら寝ころんだ。
快晴の空には小さい雲ひとつ無かった。

仰向けになった体で空を見上げる。
視界に映るのは、一面の真っ青な空。まさしく青一色のみだった。
こんな光景は生まれて初めてかもしれない。

 ――なんて綺麗なんだろう。空ってこんなに綺麗だったんだ・・・。

「あー、気持ちいい!」
僕は思わず叫んだ。
学校をサボってしまったという罪悪感はどこかへすっ飛んでいた。
気持ち良すぎて、気がつくと僕は岩の上でウトウトと眠ってしまった。

しばらくすると、僕は周りに変な違和感を感じ始めた。

 ――あれ?

さっきまで周りあった岩が見えない。
あたりを見回すと、僕たちがいる岩場は水に囲まれていた。

「やっばい! 満ち潮だ!」
僕は叫んだ。

そう。僕たちは岩場に取り残されてしまっていた。
「どうしよう?・・・名倉くん」
彼女は今にも泣きそうな顔になった。
でも落ち着いて海面をよく見ると、まだ水面の奥に岩が透き通って見える。

「大丈夫、まだ浅そうだ。行けるよ」
僕は制服のズボンをヒザまでまくり、海の中に入って深さを確認する。

 ――うん、オッケー! 水はまだヒザ下までだ。

「大丈夫、靴と靴下を脱いで」
「うん・・・」

僕は彼女が脱いだ靴と靴下を受け取り、彼女の手を引く。
「ゆっくり下に降りて・・・滑らないように気をつけてね・・・大丈夫」

 ――よし、行ける! 行ける!

ゆっくり、ゆっくりと足場を確認しながら渡っていく。
ようやく最後の陸続きの岩まで来たところで彼女を先に岩の上に上げた。

 ――よかった。彼女はもう大丈夫だ。

「ありがとう。名倉くんも気をつけて」
彼女そう言って僕を引き上げようと手を差し伸べたその瞬間だった。
僕の視界に映る彼女の顔がだんだんと小さくなっていく。
僕は自分に何が起きているのか、すぐに理解ができなかった。

 ――あれ? 僕、どうしたんだ?

彼女の姿がだんだんと遠くなり、背中が後ろへと吸い込まれていく。
そして次の瞬間、視界が大きくぼやけたと同時に水のギュルギュルギュルという濁音が激しく耳を襲った。

僕はようやく足が滑って海の中に落ちたんだということを自覚した。
「名倉くん!」
彼女の悲鳴が響いた。

幸い満ち潮はまだ浅く、僕はすぐに立ち上がることができた。
「大丈夫? 名倉くん!」

遠くの向こう岸にいた釣り人は特に驚いた素振りも見せず、呆れた顔でちらっとこちらを見たあと、また釣りに没頭していた。
「バカな奴がいる」と、そんな顔をしていた。確かに客観的に見てもかっこ悪い。

彼女もこんな僕の姿をさぞ大笑いするだろうと思っていたが、彼女の反応は意外なものだった。

「名倉くん、名倉くん、大丈夫?」

海に落ちたことにはもちろん驚いたが、それ以上に驚いたのは彼女が泣くような顔で僕を心配して叫んでいたことだ。
彼女のこんな顔は初めて見た。まあこんなところで溺れ死ぬことはないと思うのだが。

「名倉くん、ごめんね、ごめんね」
「いや・・・大丈夫だよ。それに鈴鹿さん、全然悪くないし・・・」
「ごめんね、ごめんね」
彼女は謝り続けた。

いつも自分がしていたことなのだが、相手が何も悪くないのに謝られるってことがどんな気分なのかを実感した。

 ――ああ、でも参ったな。どうしよう・・・。

そう思いながら僕たちは歩き出した。

海水でズブ濡れになった服は予想以上に重く、冷たかった。服を着たままだったら本当に溺れるだろうと実感した。
「どうしよう・・・全然乾かないね・・・」
一向に乾かない僕の濡れた服を見ながら彼女が心配そうに言った。
「歩いていれば、そのうち乾くよ」
僕は半ば強がりを言いながら、しばらく道を歩いていたが、それが甘い考えであったことを徐々に痛感し始める。

三月になったとはいえ、濡れた体にはまだまだ寒さは厳しかった。
十分ほど歩いただろうか。水は滴らなくなったものの、服はまだまだ濡れていた。海水がぐっしょりと浸み込んだ僕の下着は体にビッタリと張り付き、気持ち悪いという感覚を超えていた。
そして、それは徐々に僕の体温を奪っていった。

「ハックショイ!」
思わずクシャミが飛び出す。
「大丈夫? 名倉くん。寒いよね?」
「あ、ごめんね。全然大丈夫・・・」

そう言いながら全身に悪寒が走った時だ。ひとつの洋風の建物の前で彼女が足を止めた。
これは僕の貧困な社会知識でも分かった。
いわゆるファッションホテルというやつだ。ラブホテルとも言ったっけ。
「ねえ、ここに入ってシャワーと着替えをさせてもらおうよ」
「ええ??」
思いもよらない彼女の言葉だった。
「あの・・・鈴鹿さん・・・と?」
「誰と入りたいの?」
「・・・・・」