学校に行くことなんて、なんでもない。
一日なんて、あっという間に終わってしまう。
そう思って支度をしながら、登校時間が近づくと不安になってくる。
鈴は自分が教室に足を踏み入れた時クラスメートがどんな反応をするのか二つのパターンを想像していた。
徹底的に無視をされるか。不自然に歓迎されるか。
たぶんどちらかで、どちらだとしても気分が良くない。
楽しいことなど全く想像できなかった。
「鈴、もう行くぞ」
同じく学校に行く支度をしていた拓海が、鞄を持って玄関に向かう。
拓海は母親に頼まれて、鈴を学校に送って行くことになっていた。しかし鈴本人はそのことを不満に思っていた。拓海が学校に遅れないように、鈴は少し早く家を出なければいけなかった。
「てか、普通に一人で行けるから。お兄ちゃんは先に行っていいよ」
「いいや。今日は絶対に一緒に行くんだよ。俺だって正直面倒くさいけど、頼まれてしまったからにはしかたない。俺たちが一緒に登校することで母さんが安心するならそれでいいだろ」
「お母さん、もう仕事に行っちゃったし、一緒に登校したことにしてもバレないよ」
「いや、駄目だ。なぜかそういう嘘はバレるもんだ。母親って、変なところで勘が鋭いからな。だから諦めろよ。ほら、早くしないと遅刻するぞ」
拓海は鈴を急かす。鈴は渋々拓海の後を追って玄関に向かった。
「嘘といえば、お兄ちゃんの嘘もバレているのかな?」
「あ? 俺の嘘って、なに?」
「西松さんがスクールカウンセラーだってことだよ」
「ああ。そういや母さん、最初に西松さんを見た時ものすごい顔をしていたな。とてもスクールカウンセラーに見えないって不審がっていた。人を見た目で判断するのはいけないことだと思うけど、なんだかんだ見た目は重要だよな」
「なんでよりによってスクールカウンセラーなんて嘘をついたの? 西松さん、明らかにそういう見た目じゃないじゃん」
「西松さん本人がついた嘘に便乗しただけだ。俺だって流石にそれは無理があるだろって思って聞いていた。あの時、母さんはあの人の嘘に気づいていたと思う。今も、どうなんだろうな。なにかおかしいと思いながら、俺が本当のことを話すのを待っているのかもしれない」
玄関には、真新しいローファーが用意されていた。それは母親が買ってくれていたもので、鈴はそのローファーに右足を入れてみた。けれど革がまだ固く、履くのに苦労した。これは靴擦れができてしまうかもと思いながら左足も同じようにする。先に靴を履き終えていた拓海は眠そうな目で鈴の足元も見つめていた。
「なんだかんだお母さん、西松さんのことを気に入っているみたいだよ」
「西松さんが病室に来た日に鈴が目覚めたってのが大きいんだろ。母さんの中で西松さんはご利益がある人って印象があるんだと思う」
「ご利益ね。あの人結局、何者なの?」
「さぁ。俺にもよくわからない。とりあえず、良い人じゃないけど、悪い人でもないよ」
「お兄ちゃんも、西松さんのことを気に入っているよね」
「鈴を助けてくれたのは確かに西松さんだと思っているからな」
拓海が玄関の扉を開ける。鈴は拓海に続いて外に出た。
空はどんよりとしていて、決して気持ちの良い天気ではない。
拓海は雨が降りそうだなと言って、再び玄関の中に入り傘を二本手にして戻ってきた。
「ねぇ、私、西松さんにお礼を言わないといけないのかな」
鈴は拓海から傘を一本受け取りながらたずねる。拓海はそうだなと軽く頷いた。
「でも、あんまり新宿には行きたくないんだよね」
「だろうな。人混みは色々と聞こえてきついんだろ。無理に事務所まで行く必要はないと思う。なにか伝言があるなら俺が伝えるよ。お礼をしたいなら、手紙を書けばいいと思う」
拓海は鈴の事情を理解しているように言う。この人は実際どこまで知っているのだろうと、鈴は複雑な気持ちになった。
「お兄ちゃんはさ、本当に信じているの? 人の心の中の声や、スタートで送られたメッセージが聞こえてしまうのって、どう考えてもありえないでしょ」
「だけど、確かに聞こえているんだろ?」
「そうだけど」
「なら信じる」
「そんなに簡単に言わないでよ。私は、お兄ちゃんのことが信じられない。私は私自身の変化を直ぐに受け入れられなかった。実際に聞こえないお兄ちゃんは、もっと無理だと思う」
「俺だって、すべてを受け入れられているわけじゃないよ。まだちょっと、どこかで疑っている。信じるってのも、とりあえずは信じてみるってことだ。そんなの中途半端だろうけど、今はそれでいいと思っている。理解しようと思って理解できることじゃないんだ。完全に信じている振りをしても、西松さんにはそれが嘘だと直ぐにバレるんだよ。余裕がある振りをするのも、やっぱり無意味だ。あの人の前では、なにも隠せない。なんだかんだ俺はいつも混乱しているよ。本当はどんなふうに受け入れればいいのか、それはたぶん西松さんだって答えを知らない。わからないことや、疑問に思うことがあれば、その都度考えて自分なりに納得していくしかない。問題なのは、現実から目を逸らすことだと思う。そんな力はないと決めつけるのは簡単で、だけどそれじゃあなにも解決しないんだよ」
拓海は玄関の扉の鍵を閉める。鈴はその後ろ姿をじっと見つめた。