「僕には好きな人がいます。つい最近まで付き合っていました。その子のことがどうしても忘れられないんです」
僕は一気に言った。
「ほう。そんな子がいたとは。で、隆司君はその子と結婚したいと思っているのかね?」
高津さんが顔色一つ変えず聞いてくる。
「僕はそう思っていますが、その子には婚約者がいます。だから、結婚は無理かもしれません」
「では、諦めた方がいいのではないかな」
高津さんは常識的なことを言う。
「でも、諦めきれないんです。今、アメリカにいるその子が結婚したことをこの目で見るまでは……」
樹里は結婚しないかもしれないようなことも言っていた。
「その子のことは私も知っています」
母さんが口を開いた。
「どんな子ですかな」
高津さんが興味ありげに聞く。
「その子は石野樹里さんと言います。アンナさんと違ってかなり元気のいい子で、はっきりものを言いますし、アンナさんのようにお淑やかでも礼儀正しくもありません。ただ、隆司のことをすごく好きだというのは見ていてわかりました。隆司も樹里さんが好きなことは親の目にもわかっていました。それに樹里さんのおかげで、隆司はマナーや女性の接し方とかいろいろ勉強できたようですし」
母さんが僕を見てニコッと笑った。
「ほーっ、石野樹里というんですか。ほうー。石野樹里さんですか」
高津さんが何度も頷き、アンナさんの方に意味ありげな視線を送っているような気がする。
「でも、その子はアメリカにいるとか。居場所は分かっているんですか?」
当然の疑問だ。
「石野さんが連れて行ってくれたフレンチレストランは家族の方も常連みたいなので、そこで何かわからないかと思っているんです」
樹里が連れて行ってくれたフレンチレストランはお兄さんが予約してくれていたし、スタッフの人は樹里のことをよく知っているようだった。
「なるほど」
高津さんは何か考えているような顔になった。
「ごめんなさい。アンナさん。隆司は樹里ちゃんのほうがいいみたいなの」
母さん、その言い方なんかおかしくない?
まるでアンナさんが樹里のことを知っているような言い方に聞こえるんだけど。
「……」
アンナさんは俯いたまま何も言わない。
「もし、その石野樹里という子が隆司君と結婚したいと言ってきたら、結婚させるおつもりはおありですか?」
今まで黙っていたアンナさんのお母さんが口を開いた。
「はい。隆司がその気みたいですし、私も主人も樹里ちゃんなら隆司の嫁になってもらってもいいと思っています」
「そうですか」
奥さんは黙って、娘の方を見た。アンナさんは下を向いたままだ。
「アンナさん、すみません」
僕はアンナさんに向かって頭を下げた。
「隆司君がそういう気持ちなら仕方ありません。アンナとのことは諦めます。だが、隆司君がアンナと結婚した時に、お譲りするつもりだった会社の株式の10%と100万ドルの小切手は受け取ってください」
高津さんが母さんを見る。
「それはできません。私は実家から勘当されて、両親が亡くなったときに、相続放棄の手続きも済ませています。高津様からいただくものは何もありません」
母さんは毅然として言い放った。
親を捨て、財産も捨てて、父さんとの愛を取った母さんの強さを見たような気がした。
「そうですか。では、隆司君が結婚する時に、一族の者として結婚祝いをしたら、それは受け取っていただけますか?」
諦めきれないように高津さんが言った。
「常識的な範囲のもでしたら、もちろんいただきます」
母さんが笑顔で答える。
「では、そのように考えさせていただきます」
高津さんは納得したようだった。
「今回のことは申し訳ありませんでした。主人は明日は休みが取れるようなことを申しておりましたので、お詫びかたがたお伺いします」
母さんが立ち上がって頭を下げた。僕も慌てて立ち上がり頭を下げる。
「お詫びなどいりませんが、一度ぜひご主人とはお会いしたかったので、いらしてください。部屋番号は秘書に聞いてもらえば分かりますから」
高津さんは母さんと握手した。
「アンナさん、本当にすみませんでした」
僕はもう一度アンナさんとお母さんに頭を下げた。
アンナさんは顔をうつ向けたまま肩を揺らしている。
泣いているんだろうか。
僕は申し訳なさでいっぱいになる。
「では、失礼いたします」
母さんが挨拶して部屋を出て行く。僕も高津さんに頭を下げて、母さんの後をついて出た。
帰りも高津さんのリムジンで送ってもらった。
リムジンの中では、僕も母さんもずっと無言だった。
さすがにリムジンで家の前まで行くのは近所の目もあるので、近くの道路で降ろしてもらう。
家に帰ると僕は母さんに頭を下げた。
「ごめんなさい。母さんたちが決めたことを断ってしまって」
「いいのよ。分かっていたから。樹里ちゃん、キレイだし、面白いもんね」
母さんはなんでもないように言う。
でも、母さんの本心だろうか?
夜、家に帰ってきた父さんにも謝った。
「お前の一生だ。父さんや母さんに気兼ねする必要はないよ」
父さんも母さんも優しい。
翌日、父さんと母さんは高津さんのところへ謝りに言ってくれた。
だが、謝りに行ったはずが、父さんは上機嫌で帰ってきた。
「高津さんはすごくいい人だね。これからも親戚付き合いをしたいと言われたよ」
そうか。高津さんは母さんと同じ一族だもんな。
そうなるとこれからもアンナさんと会う機会があるのかな。
なんとなく気が重いな。
四月になり、僕は大学生になった。
大学は高校と違って全て自己責任だ。
時間割も自分で作り、時間管理も全部自分でやる。次の授業がどこでやるかの指示はなく、全て掲示物などを見て動く。
大学生活には、なかなか慣れず、苦労したが、5月の連休明けには少し慣れてきて、少ないが友達もできた。
5月の終わりになると、僕はバイトをするようになった。
ずっとしたかった書店のバイトだ。
レジをしたり、新しく送られてきた本を並べたり、期間の過ぎた本を送り返したり、店内を掃除したりとかなり忙しい。
コンビニでバイトをした経験が多少役に立つ。
高校の時の図書委員と違い、本を読むことなどはできないが、本に携わる仕事ができて嬉しかった。
バイトでもらったお金は昼食代や本代、滅多には行かないが友達との飲食代に使い、残ったお金は貯金した。
樹里に会いにアメリカへ行くための貯金だ。
僕は初めてのバイト代をもらった時、両親と一緒に樹里が連れて行ってくれたあのフレンチレストランに行った。
本当は紹介者がいないとダメなんだそうだが、樹里と一緒に来たことがあるのをスタッフの人が覚えていてくれて特別に入ることができた。
僕はさらに図々しくも、もし樹里のお兄さんが来たら、樹里に会いたがっていると伝えてもらえないかと頼んだ。
スタッフの人は最初は渋っていたが、最後は根負けして、もし、樹里のお兄さんが来たら伝えるだけは伝えてくれると言ってくれた。
スタッフの人に頼んでからもなんの連絡もなく、やはり無理だったかと諦めかけた夏休みも終わろうとする9月の終わりに思いかけない人が家を尋ねて来た。
バイトが終わり、家に帰って、玄関に入ると、母さんと女性の笑い声が聞こえてくる。
玄関には黒いハイヒールがあった。
誰だろうと思い、ダイニングに入ると、腰まである黒髪の女の人の後姿が目に入ってきた。
「あら、隆司、お帰り」
母さんが言うと、その黒髪の女性が振り返った。
高津アンナさんだ。
「アンナさん、どうしたんですか? 日本にはいつ?」
「昨日、日本に来たところです」
相変わらず綺麗なソプラノの声で囁くように言う。
「せっかく、アンナさんが来てくれたから腕によりをかけて、夕食を作るわ。ちょっと買い物に行ってくる」
母さんは買い物に行ってしまう。
ひどいよ。二人っきりにするなんて。
アンナさんは俯いて何も喋らない。
「アンナさんは何かご用事で日本に来られたんですか?」
沈黙に耐えかねて僕は口を開いた。
「はい。隆司さんが私に会いたがっていると聞いたので」
囁くような小さな声だったので聞き間違いかと思った。
「僕が? アンナさんにですか?」
アンナさんは頷く。
そんなことを言った覚えがない。
「誰から聞いたんですか」
「『Avec Plaisir』の店長から隆司さんが私に会いたいと言っていると兄が聞いて、兄から連絡があったんです」
「ええー?」
僕はアンナさんのお兄さんを知らない。どうして店長はお兄さんにそんなことを言うんだ。
店長は樹里のお兄さんとアンナさんのお兄さんを間違えたのか?
「なにかの間違いでは? 僕はそんなことを言っていません」
「隆司さん、ひどいわ。私のことを忘れられない。離したくないって言ってたくせに。ひどい」
「そんなこと……」
僕は頭がおかしくなったのだろうか? アンナさんにそんなことを言った覚えも記憶もない。
初めて会ったあの日、僕ははっきりと断ったはずだ。
「ウフフ」
突然、アンナさんが笑い出した。
「まだ分からないの、隆司。相変わらず鈍いわね」
アンナさんの口から懐かしい樹里の低い声が聞こえた。
僕は驚いてアンナさんの顔を見る。
「私のことを忘れたの? 冷たいわね。隆司」
樹里が何か良からぬことが思いついた時にするニヤニヤした笑いと同じ笑いが頭を上げたアンナさんの顔に浮かんでいる。
「まさか。樹里?」
僕は信じられない思いで、アンナさんの顔を見た。
「そうよ。隆司の愛しい愛しい石野樹里よ」
やはり樹里の声だ。
「でも、顔が全然違う」
樹里の顔とアンナさんの顔は似ても似つかない。
「言ったでしょう。詐欺メイクだって。薄化粧はしているけど、今の顔がスッピンに近い顔よ」
「そうなの?」
まだ信じられなかった。
「でも、性格も全然違う」
アンナさんはすごくお淑やかだった。
「私は中学のときに演劇をしてたって言いましたよね。劇でいろんな役をしているうちに、色々な性格の人を演じることができるようになったんです。劇のためのメイクは自分でするので、いろいろなメイクの仕方も覚えました。州の演劇コンクールで主演女優賞を取ったこともあるんです」
アンナさんの声に戻っている。
つまり、アンナさんは石野樹里という役を演じていたっていうことか。
「でも、名前は?」
学校では偽名や役名は使えないでしょう。
「私は二重国籍なんです。アメリカでは、アンナ・ジュリー・タカツで、日本では石野樹里が正式な名前なんです」
そういえば、アンナさんはアメリカで生まれたようなことを母さんが言ってたな。
「じゃあ、僕を騙してたんですね」
許嫁だということを隠して、僕に近づいて笑っていたんだ。
「決して、騙そうと思っていたわけではありません。父に許嫁がいると、突然言われて、そんな知らない人と結婚しろと言われてもどうしたらいいかわからなくて……。どんな人か会いたくなって。でも、私の本来の性格では、知らない人と会うのが怖くて、樹里という気の強い、言いたいことをはっきり言う役になりきらないと会えなかったんです。ごめんなさい。役になりきるためにメイクもして隆司さんと会ってたんです」
住んだこともない国の見たことも会ったこともない男といきなり会うなんて怖かったんだろうな。
その気持ちはなんとなく分かる気がする。
だが……。
「でも、樹里とアンナさんがいくら同じ人だとはとても信じられれません」
あまりにも顔も性格も違いすぎる。いくら演技だと言われてもすぐには信じにくい。
「どうしても信じてもらえないんですね。メイクをしてきます。隆司さんは私より樹里のほうがお好みみたいですから」
少し嫉妬しているような目で僕を見たような気がする。
「申し訳ありませんが、洗面所を借りていいですか?」
優しい声だ。とても樹里と同一人物だとは思えない。
「どうぞ。使ってください」
アンナさんを洗面所に案内する。
「30分ぐらいかかりますけど、待っていただけますか」
アンナさんは今にも消え入りそうな声で話す。
「大丈夫です」
僕が言うと、アンナさんは安心したように洗面所に入った。
本当にアンナさんが樹里に変わるのだろうか?
僕は着替えをしてアンナさんが戻るのをダイニングで今か今かと待った。
アンナさんが洗面所に行って30分ぐらい経った。
「隆司、どう?」
樹里の声がした。声の方を見ると、黒髪の樹里が立っている。
僕は声も出ない。
アンナさんのいうことは本当だったんだ。
「なんて顔してるのよ。わたしに会えて嬉しくないの?」
樹里が怒ったような顔をしている。
「嬉しいよ。樹里。でも、酷いよ。ずっと僕を騙して。婚約者がいるとか嘘を言ってからかってたんだ」
樹里は僕が自分の許嫁だと知っていながら、ずっと騙していたんだ。その上、婚約者がアメリカにいるなんて嘘をついてからかっていたんだ。
「からかってないわよ。隆司が鈍いだけよ。わたしが許嫁だってわかるヒントをあげてたのに気づかないんだもん」
「ヒント?」
そんなものもらってたかな。
「アメリカにパパやお兄ちゃんがいるって言ったし、英語が喋れることも教えてあげたし、そもそも許嫁じゃないと、隆司と付き合おうと思うわけないじゃない」
樹里が大笑いをする。
凄い言われようだ。
「悪かったね。ああそうですよ。全然モテませんよ」
ええどうせそうでしょうよ。
「そんなに拗ねないの。本当のことだから」
樹里は傷口をさらにえぐるようなことを言う。
アンナさんの時とは凄い違いだ。
「それに婚約者がいるのも本当よ」
「やっぱり」
僕はガックリする。どんな婚約者か知らないが、僕が勝てるわけがない。
「何落ち込んでるの。婚約者って、隆司のことに決まっているでしょう」
「僕?」
樹里の言っている意味がわからない。
「他に誰がいるのよ。パパが決めた婚約者って、許婚のことでしょ。全然イケメンじゃないし、カッコ良くもないけど、優しい人って言ったじゃない。隆司のことに決まっているでしょう。この間、ホテルで会った時もわかるように隆司がくれたピアスをつけて行ったのに全然気付かないんだもん。笑っちゃったわよ」
「そうなんだ」
あのアンナさんの耳で揺れていたピアスはやっぱり僕が贈ったものか。よく似てるなあと思ったんだよな。
帰る時、アンナさんの肩が揺れていたのは泣いてたんじゃなくて笑ってたんだ。
「それに卒業旅行の帰りに『また会いましょう』って言ったでしょう」
「そんなこと言った?」
母さんに聞いたら、『さようなら』って意味だと言ってたけど。
「言ったわよ。“Au revoir”はまた会いましょうっていう意味の『さようなら』よ。二度と会わないんなら“A dieu”よ。常識でしょう」
そんな常識知りません。
でも、樹里とまた会えて嬉しい。
もう離したくない。
しばらくすると、母さんが買い物から帰ってきた。
「あら、樹里ちゃんになったの?」
樹里の顔になっているアンナさんを見ても母さんは驚かない。
「うん。おばさん」
樹里が頷く。
「母さんは樹里が許婚だって気がついていたの?」
母さんはきっと樹里が僕の許嫁だと前から気づいていたんだ。
「最初に会った時から気づいてたわ」
「嘘? どうしてわかったの?」
「だって、樹里ちゃんの苗字『石野』でしょう? 『石野』は私の旧姓よ」
「そうだったけ」
母さんの旧姓を聞こうと思って忘れていた。
「そうよ。それになんとなく私の一族の雰囲気があるし、英語が喋れるからたぶんそうだろうなと思ったのよ」
「どうして教えてくれたなかったの?」
「間違ってたら嫌だったし、隆司が気づくかなと思って見てたんだけど、全然気づかないから笑ちゃったわ。それより樹里ちゃんにプロポーズしたの? 結婚したいんでしょう?」
母親なのに、よく息子を笑えるな。
「まだしてもらってないわ」
樹里が期待のこもったような目で僕を見る。
母さんの前でするのか?
「樹里、結婚してください」
思い切ってプロポーズした。
「いやよ」
即座に断られた。
「えっ」
目の前が真っ暗になる。
「どうやってプロポーズをして欲しいか前に言ったわよね。忘れたの?」
あれ本気だったのか……。
母さんの前だけど、仕方がない。
樹里を抱きしめて唇にキスをする。
「結婚してください」
「しょうがないわね。してあげる」
樹里が僕の唇に唇を押し付けてきた。
「よかったわね。隆司」
母さんがホッとした顔をする。
「隆司。わたしのこと愛してる?」
愛していなかったら、プロポーズしないけど。
「愛してるよ」
「わたしと離れたくないわよね」
「もちろん」
なんか嫌な感じだ。
初めて樹里と話したときの会話の流れに似ている。
「隆司に大学院に行きたいって言ったわよね。行ってもいいわよね!!」
語気鋭く言う。
言ったのはアンナさんだけど。
「うん。いいよ」
別に反対しないから、威かすような言い方やめてくれる。
「じゃあ、一緒にアメリカで暮らそう」
樹里が満面の笑みで言う。
「ええーっ!! 嫌だよ。英語喋れないし」
行ったこともないアメリカで住むなんて無理だ。
「英語はわたしがビシバシ教えてあげるわ。わたしと離れたくないって言ったのは嘘なの?」
樹里の目が異様な光を放つ。
「嘘じゃないけど……でも、大学があるし……」
「大学はアメリカにもあるわ」
大学を変われってこと?
「それはそうだけど。『妖怪学』がしたいんだけど……」
「妖怪と私とどっちが大事?」
「……」
比べる対象がおかしいでしょう。
「どっちなの?」
樹里の眉間に皺が寄る。
「樹里」
他に言いようがないでしょう。
「だったら、アメリカに一緒に行こう」
「うーん。でも……」
「わかった。浮気する気ね」
樹里の顔が険しくなる。
「なんでそうなるの。僕はモテないよ」
樹里と付き合うまで女子と付き合ったことはない。
「そんなことないわ。隆司みたいな人が好きだっていう変わった趣味の人がいるもの」
僕を好きになるのは変わった趣味の人なんだ。
「好きなのは樹里だけだよ」
もともと女子は得意じゃない。
「そうかしら? ホテルでアンナのうなじをイヤラしい目で見ていたでしょう?」
うわぁ、気づかれてた。
「別にイヤラしい目では見てないけど……」
「見てたわよね」
樹里が詰め寄ってくる。
「見てました」
「アンナのことタイプだって言ってたし、やっぱり信用できない」
たしかに言った。
「でも、父さんや母さんのことも心配だし。僕は一人っ子だし」
頼りないかもしれないが、いざとなれば何かできる。
「私たちのことを心配することないわ。それに子どもは隆司だけじゃないし」
母さんの言葉にびっくりした。
「隠し子でもいるの?」
「ここにいるの」
母さんはお腹を撫でた。
「まさか……」
「赤ちゃんができたの。来年の4月に隆司の妹が生まれる予定よ。私たちのことは心配しなくていいから、樹里ちゃんと一緒に行きなさい」
母さんが頑張ろうとか父さんに言ってたけど、本当に頑張ったんだ。
「隆司、わたしを一人でアメリカに行かせて平気なの? 隆司は寂しくないの?」
樹里が寂しそうな顔をする。こんな顔の樹里を見たことがない。
胸が締め付けられる。
「寂しい」
思わず言ってしまった。
「一緒にアメリカに行ってくれるわよね」
訴えかけるような目で僕を見る。
そんな目をしてもダメだよ。
どうせ、またお得意の演技だろ。
「うん」
僕は頷いていた。
やっぱり樹里には敵わない。
「決まりね。樹里ちゃんのご両親は隆司との結婚を了承しているの?」
母さんが聞く。
「うん。もちろんよ。同意書ももらってきたわ」
「隆司。樹里ちゃんに逃げられないように明日さっそく婚姻届を出してきなさい。結婚式や披露宴は樹里ちゃんのご両親と相談してまた後で決めることにするから」
樹里に逃げられそうに見えるんだ。
「わかった」
僕は頷いた。
「ところで、一つ聞きたいんだけど、樹里は飛び級で大学に行くぐらいだから頭がいいよね。それなのにどうして僕に新聞記事の話を毎日させたんだよ」
ふと疑問に思ったことを聞いた。
樹里がテレビのニュースの内容が理解できなかったなんて信じられない。
「ああ、そのこと? だって、隆司が出された課題を3日もかけて書くっていうからよ。入試は時間が決まっているのにそんなにのんびり考えるくせがついたら、入試の時に時間が足りなくなるんじゃないかなあと思って。素早く自分の考えをまとめる練習になるでしょう」
「そうなんだ」
そのおかげで僕は大学に合格できた。
やっぱり、樹里は頭がいい。
樹里には一生敵わないだろうな。
夜は僕と樹里の結婚祝いパーティーになった。
母さんが赤飯を炊いてくれ、得意の鳥の唐揚げ、サラダを作ってくれ、母さんからのメールで僕と樹里のことを知った父さんがケーキを買ってきてくれた。
父さんに樹里が実はアンナさんだったという話をして、樹里と結婚したいと言うと、すぐに許してくれた。
結婚したら樹里と一緒にアメリカに住むことになる話もした。
「これからは日本も国際化していくから英語は絶対に必要だ。いい機会だ。行って来なさい」
父さんもなんの反対もしない。
ちょっと寂しい。
4人で話し合って、来年の春にとりあえず語学留学という形でアメリカに行くことになり、樹里は一旦アメリカに帰り、僕と住むところや留学先を探してくれることになった。
「いやあ、樹里ちゃんが娘になってくれて嬉しいよ」
樹里を気に入っている父さんは喜んだ。
「ありがとう。おじさん……じゃなかった。お義父さん。お義父さんとお義母さんこそおめでとう。赤ちゃんができたんだって」
「ありがとう。この歳になって恥ずかしいんだけど」
父さんが照れている。
「大したものはないけれどいっぱい食べてね」
母さんが樹里に言う。
「うん。いただきます。やっぱりお義母さんの料理は美味しい」
樹里は美味しそうに食べる。
「今日は泊まっていくんでしょう?」
母さんが聞いた。
「もちろん」
樹里がニッコリする。
「じゃあ、隆司、久しぶりに一緒に寝るか」
「そうだね」
父さんと一緒に寝るのは小学校の低学年以来だ。
「何言っているの、父さん。隆司と樹里ちゃんはもう結婚するんだから、一緒の部屋に寝てもらえばいいのよ。いいでしょう。樹里ちゃん?」
母さんが樹里の顔を見る。
「わたしはいいわよ。隆司が変なことさえしなければ」
樹里が意地の悪い笑みを浮かべた。
「し、しないよ。するわけないだろう」
顔が真っ赤になった。
「樹里ちゃんって、見かけによらず純情なのよね。大晦日のときに遅かれ早かれ結婚するんだから、泊まっていけばって言ったのに遠慮するんだもん」
母さんが笑う。
あの英語はそういう意味だったのか。
「あのね、お義母さん……」
樹里が母さんを睨んだ。
「まっ、とにかく今日は泊まってらっしゃい」
母さんがニンマリ笑った。
ご飯も食べ終わり、お風呂に入って、樹里が僕の部屋に寝るというので慌てて掃除をした。
母さんが「樹里ちゃんはベッドの方がいいでしょう」と言って、僕の布団とマットレスを取って、新しいマットレスと布団を敷き、ベッドの下に僕用の布団を敷いてくれている。
メイクをすっかり落とし、アンナさんの顔になった樹里が入ってきた。
「隆司さん、失礼します」
囁くような声がする。
メイクを落とした樹里はアンナさんに戻っていた。
「もう寝てください。疲れたでしょう。僕がいて寝られないんなら廊下で寝ますから」
僕が一緒にいてはゆっくり寝られないだろう。
「大丈夫です。ただ、メイクをして樹里をずっとするのは疲れるので、メイクはしなくていいですか? これからは、昼は樹里で、夜はアンナでもいいですか?」
やっぱり、別人をやり続けるっていうのは疲れるんだろうな。
「無理しなくていいです。僕はアンナさんも好きです。ずっとアンナさんのままでいてもらっていいですから」
アンナさんのようなタイプがもともと好きなのは本当だ。
「ごめんなさい」
アンナさんがなぜか謝る。
「謝ることないですよ。僕は何もしませんからゆっくり寝てください」
その気もない女の子に変なことをする気は無い。
「隆司さん。そんなこと言わないでください。アンナはもう隆司さんの妻です。隆司さんのしたいようにしてください。それとも、やっぱり樹里にならないとイヤですか? 髪を染めて、メイクをしてきましょうか?」
アンナさんの目に涙が浮かんだ。
「そんなことないです。僕はアンナさんのことも好きです。愛してます」
アンナさんに言った。
「アンナと呼んでください。樹里にしたように私も抱きしめてください」
「アンナ、好きだよ」
僕は言われたとおりにアンナを抱きしめ、唇にキスしてしまう。
「隆司さんの好きなようにしてください」
唇を離すとアンナは目を潤ませ、囁くように言う。
あまりの可愛さに僕はゆっくりアンナをベッドに寝かせた。
「初めてなんです。優しくしてください」
アンナがすごく愛しい。
僕は自分が男だということを自覚した。
その夜、紀夫がくれたDVDを見て勉強したことを実践した。
翌日、バイト先に事情を話して休ませてもらい、黒髪のままだが以前のように髪の毛を編んで胸の前に垂らし、ギャルメイクをした樹里と一緒に母さんに車を乗せてもらって、市役所に婚姻届を出しに行った。
母さんはそのあと、産婦人科に行くと言うので、僕と樹里は家まで送ってもらう。
家に入ると、樹里は僕を軽蔑したような目で見る。
「隆司のスケベ」
「いきなりなんだよ」
昨夜のことを言っているのか?
「真面目な顔してあんないやらしいものを見てたんだ。変態」
「……」
一瞬、樹里が何を言っているか分からなかった。
ひょっとして……。
「机の引き出しの中を勝手に見たの?」
紀夫からもらったDVDは机の引き出しに入れている。
「違うわよ。早く目が覚めて、暇だったから、何か読む本がないかなあと思って、本棚を見ていたら、本と本の間になんか挟まってるのが見えたのよ。なんだろうと思って取り出してみたら、いやらしい写真がいっぱい貼ったパケッジか挟まってたわよ」
しまった!!
樹里が突然泊まっていくって言うから机の上に置いていたのを慌てて本棚に隠したのを忘れていた。
「そ、そんなものあったかな?」
ここはしらを切り通そう。
「そう。これだけど知らないの?」
樹里が持っていたカバンから女の人が裸でエプロンを着けている姿が大写しになったDVDのケースを出した。
「これ、本当に知らないの?」
意地の悪い微笑みを浮かべて僕の目の前で振る。
「……」
わざわざ持ってきたのか。
「こんなの見て興奮してアンナを抱いたの? 変態。私のことを好きだって言ったくせに。アンナなんかを抱いて!! このドスケベ」
樹里の目が怒っていた。
ひょっとして樹里はアンナに嫉妬しているのかな?
アンナと樹里は同じじゃないの?
「樹里、アンナに嫉妬しているの?」
樹里が大きく目を見開いた。
「嫉妬なんかするわけないでしょ!! わたしのことを『好きだ。愛している』とか言ってよくアンナとあんなことができるわねって言ってるのよ。この浮気者」
樹里が目を逸らした。
明らかに嫉妬している。
ずいぶん前にテレビで俳優が自分の演じている役に嫉妬することもあると言っていたのを思い出した。
「樹里のことを愛している。僕が樹里のことをどんなに愛しているか樹里も知っているだろう」
樹里の手を引っ張った。
“You’re pervert , horny. You’re cheater ”
樹里が英語で叫び出す。
意味は全然分からないけど相当頭にきていることはわかる。
樹里は手を振り放そうとするが、僕は負けずに引っ張って、階段を上がっていく。
「僕が樹里のことをどんなに愛しているか教えてあげるよ」
僕の部屋に樹里を引っ張り込んだ。
「やめて。アンナとあんなことしといて」
樹里はなおも抵抗する。
でも、本気でないことはわかった。本気なら体格が勝る樹里に勝てるわけがない。
「いい加減に……」
樹里の唇を唇で塞いで、ベッドに押し倒す。
「……う、うっ……」
樹里が唇を離そうともがくが、僕は離さない。
樹里はしばらくすると大人しくなった。
「樹里、愛してる」
僕は唇を離した。
「バカ、変態……わたしにこんなことして浮気したら殺すからね……優しくしなさいよ」
樹里は真っ赤に火照った顔を横に向ける。
僕は樹里とアンナという二人の妻を持てて夢みたいだ。
樹里、アンナ愛している!!
僕は最高に幸せだ!!
【応募部門】
① 恋愛青春部門
【あらすじ】
高校3年生の澤田隆司は、ある日、両親から許嫁がおり、その許嫁と高校を卒業すると、結婚しないといけないということを知らされる。
それを聞いてどうすればいいか悩む隆司。
そんな最中、隆司は話の弾みで、顔はいいけれど性格は最悪という評判で知られる同級生の石野樹里と付き合うことになってしまう。
すぐ樹里と別れることになるだろうと思っていた隆司だが、付き合いが続くにつれて本気で樹里のことが好きになり始める。
樹里と離れ難くなっていく隆司だが、樹里から婚約者がにおり、卒業したらアメリカに行かなければならないと告げられる。
樹里がアメリカに旅立ち、隆司はアメリカから来た大人しくお淑やかな許嫁高津アンナと会うが、樹里のことを忘れられず、アンナとの縁談を断ってしまう。
大学生になった隆司の前にアンナが現れ、自分は二重国籍で石野樹里という別人を演じていたと言うと、隆司の前で樹里に姿を変える。
アンナと樹里が同一人物だとわかった隆司は樹里(アンナ)にプロポーズをする。