「そういうことなら、寂しい石野と薄情な隆司に1つ提案がある」
なんか紀夫の言い方が妙に恩着せがましいんだけど。
「なに?」
樹里が興味深げな顔をする。
「3月の学年末試験が終わった次の日に有馬に行かないか?」
うちの学校は3月の初めに学年末試験があり、それが終わると、卒業式の前日まで3年生は欠席しても出席扱いになる自由登校日になる。
「有馬?」
有馬ってどこだっけ?
「有馬を知らないのか? 神戸の温泉地だ。豊臣秀吉も好んで入ったという有名な温泉のあるところなんだ」
「知らなかったわ。山崎君、よく知っているじゃない」
樹里が感心して紀夫を見る。
「これぐらい常識だよ」
紀夫がそんな物知りだとは知らなかった。
「でも、どうして有馬なんだ?」
温泉なら関東にも箱根や草津などの温泉地がある。なにもわざわざ関西まで行く必要はないんじゃないの。
「それは、私と紀夫が大阪の大学に行くからその下見に行くのを兼ねてっていうことなの」
紀夫はともかく、渡辺さんは関西の大学を受けるって言っていたけど、入試はまだだと思うんだけど……。
合格は当たり前ってことか? たいした自信だな。
関西の地理はよくわからないが、大阪と有馬は近いってことなんだな。
「わたしたちと山崎君と真紀と4人で行くっていうこと? 日帰り?」
「まさか? 有馬で1泊するんだ。親父の会社が温泉の付いているホテルと保養所代わりに契約しているから、そこに泊まるんだ」
たしか、紀夫のお父さんは一流商社の部長をしているとか言ってたな。
「樹里たちと同じ部屋に泊まるのか?」
まだ高校生の僕たちがそんなことをしていいのか?
「何言ってんの、澤田君」
渡辺さんが軽蔑したように僕を見る。
「隆司の気持ちはよくわかるが、残念ながら男と女は別部屋だ」
「何が残念ながらよ。当然よね。樹里」
渡辺さんが樹里に同意を求める。
「真紀と一緒の部屋なの? 嬉しいわ」
樹里が渡辺さんに妖しい流し目をした。
「ちょっと、樹里、クリスマス祭みたいな冗談はもうやめてよ」
渡辺さんが少し赤くなる。
「あら、冗談じゃないわよ。本当に真紀ならOKよ。お互い覚悟を決める?」
樹里に見つめられて、渡辺さんの目が泳ぐ。
「おい、真紀。なに顔を赤くしてるんだよ」
紀夫が怒ったように言った。
「なによ。赤くなんかなってないわよ」
渡辺さんが顔を赤くしたまま言い返す。
「なんか真紀と石野を同じ部屋にするのは不安だなあ」
他にどんな組み合わせがあるんだ。
「冗談よ。すぐに本気にするんだから。山崎君も見かけによらず、気が小さいわね。ねえ、真紀」
「そ、そうね」
渡辺さんは動揺している。
「ちょっと」
と、言って樹里が立ち上がり、お手洗いの方へ歩いていく。
「ところで、澤田君。樹里にプレゼントを渡したの?」
渡辺さんは気を取り直したように僕を見る。
「まだ」
すっかりプレゼントのことを忘れていた。
「何してんの? まさか買ってないっていうことはないわよね」
「もちろん。買ってるさ」
胸を張った。
「なに自慢のしてるのよ。だったら、サッサッと渡しなさいよ」
「うん」
まったくおっしゃっるとおりでなんの反論の余地もない。
樹里が戻ってくるのと同じタイミングで店主がケーキとコーヒーを待ってきた。
「美味しい。このちょっと酸っぱめのイチゴと甘い生クリームがすごく合う」
一口食べて、渡辺さんが賛嘆の声を上げる。
「でしょう? コーヒーの苦味もこのケーキにちょうどいいのよ」
樹里が美味しそうにコーヒーを飲んだ。
僕もケーキを口に入れる。栗の味が口いっぱいに広がり、栗のペーストの下から現れたメレンゲもサクサクの食感で美味しい。
「モンブランも言うまいぜ。食べてみろよ」
紀夫が渡辺さんに勧める。
「うん」
渡辺さんは紀夫が食べた反対側にフォークを入れて、一口食べる。
「ホント。栗だけの味がする。お酒は入れてないのね」
モンブランは洋酒が少し入っていて風味付けをしているものもあるが、この店は栗の味だけで勝負している。
「樹里も澤田君から少しもらいなさいよ」
「いいよ」
僕は樹里の方に皿を押した。
「うん。ありがとう」
樹里はそう言うと、僕が食べかけている方にフォークを入れた。
「えっ、そっちは…」
止める間も無く、樹里は口に入れた。
間接キスにならないか?
「美味しい。栗がすごく甘い」
樹里が満足そうな笑みを浮かべる。
「隆司も食べていいよ」
樹里は自分が食べていた方を僕に向けて置いた。
「ありがとう」
樹里が気にしないなら僕は別に構わない。
一口大に切って、口に入れた。
「美味しい」
「そうでしょう」
樹里は自分の手柄のように言う。
「さっきの旅行の話だけど、8時半の新幹線に乗ろうと思うんだけど」
紀夫が僕たちの顔を見た。
「8時半」
樹里の顔が険しくなり、いつもよりさらに低いドスのきいたような声で聞き返した。
朝が苦手な樹里にとって8時半の新幹線は早すぎる。
「いや、別に隆司と石野は夕飯までに来てくれたらいいよ」
紀夫が慌てて言う。
「そうよ。私と紀夫は早めに行くけど、樹里たちはゆっくり来たらいいよ」
渡辺さんは怯えたような顔になる。
「そう。それならいいわ」
樹里が表情を緩ませた。
「じゃあ、僕と樹里は夕方ごろに行くよ」
「家まで迎えに来てくれるわよね」
樹里が当然のように言うので僕は頷いた。
「新幹線で新神戸駅まで行って、そこからタクシーに乗ればいいよ。ホテルは山崎で予約しているから」
「そうするよ」
行き方を知らないので、紀夫の言うとおりに行くしかない。
大体の旅行の予定を決め、僕たちは喫茶店を出た。
喫茶店を出ると、映画を見にくという紀夫たちと別れて、樹里と2人っきりになった。
「着物って苦しいのよね。早く帰って着替えたい」
紀夫に一緒に映画を見に行かないかと誘われたが、樹里はそう言って家に帰りたがったので、樹里を家まで送ることにした。
「樹里は着物が似合うよね」
心からそう思う。樹里は美人だから何を着ても似合う。
「ありがとう。でも、美容師の人がギュウギュウ締めるから苦しいのよね。それに結構食べたからな」
樹里はお腹を撫でる。
「大変だね」
女の人は綺麗にしようと思ったら大変だと思った。
「そうよ。女は大変なんだから。いいわよね。男はそんなラフな格好でいいんだから」
樹里が恨めしそうにスタジャンにジーンズという僕の姿を見る。
僕は樹里を見ながら、いつプレゼントを渡そうかと機会を伺っていたが、なかなか踏ん切りがつかず、樹里のマンションの前まで来てしまった。
「どうする。中に入る?」
この間、樹里のお兄さんに殴られたことが頭をよぎる。
「いいよ」
僕は遠慮した。
ここでプレゼントを渡さないと絶対渡せないと思い、ポケットから花柄の包み紙にピンク色のリボンがかけられている小さな箱を樹里に差し出す。
「なに?」
樹里がビックリしたように僕の顔を見る。
「樹里にプレゼント」
「うそっー。ウレシィ〜」
樹里の顔が綻んだ。
「そんなに喜んでくれるなんて」
「当たり前でしょう。今までさんざん尽くしたのになんのお返しもなかったんだから。やっと、報われたわ」
お返しがなかった?
たしかに、お弁当を作ってもらってたけど、僕もモーニングコールをしたり、迎えにいったりしてたんだけど。
「開けていい?」
「いいよ」
樹里が嬉しそうに開ける。
「ピアス?」
「うん」
「よくピアスの穴を開けてるって分かったわね?」
「渡辺さんに教えてもらった」
正直に答える。
「そうよね。隆司がそんなことに気がつくはずないもんね。でも、人に聞くっていうことを覚えただけで進歩だわ。教育した甲斐があったわね」
僕は樹里に教育されてたの?
「わあー、可愛いじゃない。『つけて』と言いたいところだけど、耳を血だらけにされそうだから自分でつけるわ」
「うん」
そこまでは教育されていませんから無理です。
「どう?」
樹里がピアスをつけて、こちらを向く。
和服姿だが、ピアスが似合っている。
「似合ってるよ。すごくキレイ」
「嬉しいわ……。キャア〜」
何もしていないのに樹里が、突然悲鳴をあげた。
「おねえしゃん、遊ぼう」
樹里の足元の方から声がする。
「チイちゃん……。ビックリするでしょう」
チイちゃんが樹里の足元に抱きついていた。
樹里がチイちゃんを抱き上げると、チイちゃんは両腕を樹里の首に回す。
「お母さんはどうしたの?」
「ねんね」
「しょうがないわね。お母さんにお姉ちゃんのところに行くって言いに行こう。隆司はどうする?」
「やっぱり帰るよ」
樹里と一緒にチイちゃんと遊ぶのもいいが、やはり女子の部屋に入るのは、また余計な誤解を招く恐れがあるので、やめておいたほうがいい。
「バイバイ」
チイちゃんが手を振ってくれた。
僕も振り返す。
樹里とチイちゃんが中に入って行く後姿を見送りながら、僕と樹里が結婚したら、あんな子どもが出来るのかなと、二人の横に自分を並べてみる。
すぐにその妄想を頭から振り払う。
そんなことになるはずがない。
僕には許嫁がおり、樹里には婚約者がいる。
そんなありえもないことを想像するのは虚しい。
冬休みもあっという間に終わり、学年末テストも無事終わって、いいよいよ卒業旅行の日になった。
樹里を迎えに行くと、樹里はキャリーバッグを持って、マンションの入り口の前に立っている。
今日の樹里はベージュのスウェットのプルオーバーに黒のロングスカートにマキシ丈のコートを着て,僕がプレゼントしたピアスをつけてくれている。
「すごい荷物だね」
僕はリュックサックひとつだけだ。
樹里の荷物はどう見ても一泊旅行には見えない。
「女の子には色々荷物があるのよ」
「持つよ」
僕はキャリーバッグを受け取ると、引っ張って歩いた。
樹里は当然と言う感じで僕の前を歩いていく。
東京駅に着くと、14時前の新幹線の2人がけの指定席を買い、新幹線に乗り込む。
「この旅行から帰ったら、もう学校には行かないから、モーニングコールも迎えもいらないわ」
席に着くなり樹里が言った。
「どういうこと?」
「旅行から帰った次の日にアメリカに行くの」
「卒業式は?」
「出席日数は足りてるから出ないわ。だから、隆司と会うのもこの旅行で最後」
樹里はそう言うと話を打ち切るように目を瞑って、寝始める。
「最後」
一瞬、涙が出そうになった。
泣いたらダメだ。分かっていたことじゃないか。
明るくしよう。
僕は持ってきた本を開いたが、樹里の言葉がショックで全然文字が目に入ってこない。
本を読むのを諦めて、窓の外を見ていたが、いつのまにかウトウトしてきて眠ってしまっていた。
「まもなく新神戸です」のアナウンスで目が覚めた。
横を見ると、樹里はまだ寝ている。
「樹里、もう着くよ。起きて」
「う、うん」
樹里がやっとという感じで目を開ける。
「新神戸、新神戸」
アナウンスが車内に響き、スーッと新幹線が駅に入っていく。
駅へ着くと、慌てて樹里のキャリーバッグを引っ張り、リュックを背負って、まだ眠そうにしている樹里の腕を引っ張った。
駅を出ると、タクシー乗り場に向かう。
タクシー待ちの列の一番後ろに並んだ。
樹里はまだ眠いのか低血圧のためかもたれかかってくる。
並んでいる間に紀夫に電話すると、ロビーで待っていると言われた。
順番がきて、タクシーのトランクを開けてもらい、キャリーバッグを入れて、まだボーッとしている樹里を奥に押し込んで、運転手さんに行き先を告げる。
樹里はタクシーの中でもずっと目を瞑っていた。
有馬というところには初めて来たが、ずいぶん山の上の方にあるんだなと思った。新神戸駅からだいぶ登っていく。
「はい。着きました」
運転手さんに言われ、お金を払おうとすると、
「これで」
と言って、樹里がカードを差し出した。
「僕が……」
「いいの。これでお願いします」
結局、樹里が払ってくれた。
僕は先に降りて、キャリーバッグを受け取ろうとタクシーのトランクの方に歩き出した。
「どこ行くのよ? 手を貸しなさいよ!!」
樹里が大声で僕を呼ぶ。
慌てて樹里のところに行って降りるのに手を貸した。
樹里はタクシーから降りると、僕をほっておいてホテルの方へと歩いていく。
運転手さんからキャリーバッグを受け取り、さっさと歩いていく樹里の後を追いかけた。
ホテルの玄関を入るとフロントがあり、その前に紀夫が待っていた。
「やっと来たか。待ちくたびれたよ。早くチェックインの手続きしろよ」
紀夫は疲れたような顔をしている。
「なんか疲れた顔しているな」
チェックインの手続きをして、樹里と紀夫のところに戻る。
「ああ。もう2回も温泉に入ってるからな」
それは疲れるわ。
「真紀はどこ?」
樹里が周りを見回す。
「部屋で寝てるんじゃないかな」
紀夫が渡辺さんに電話した。
「隆司たち来たよ。うん、うん。今から上がるよ……待ってるって。行こう」
エレベーターに乗り、部屋のある5階で下りる。
「俺と隆司はこっちで。石野は向かいだ」
樹里たちの部屋は僕たちの向かいみたいだ。
樹里がノックすると、ドアが開き、渡辺さんが顔を出す。
「入って」
「うん。隆司、カバン」
キャリーバッグを樹里に渡す。
樹里はバッグを引っ張って部屋の中に入っていった。
「あれ石野のカバンだったのか?」
「そう」
「お前は召使いか?」
それに近いかも。
部屋に入って、荷物の片付けが終わると、夕ご飯を食べに行こうという話になった。
樹里たちを誘ってレストランへ下りていく。
「今日の夕食は親父に頼んで奮発してもらった。夕食代分は親父が持つから心配するな」
「どうして山崎君のお父さんが私たちの分まで出してくれるの?」
樹里が紀夫を見る。
「俺にカノジョができた祝いだそうだ」
紀夫も僕同様一人っ子だ。よほど紀夫のことが可愛いんだろうな。
それにしても持つべきものは金持ちの友達だ。
たしかに食事は豪華だった。
胡麻豆腐にエビや野菜の天ぷら、鯛やマグロなどのお刺身三種盛り、神戸牛のサーロインステーキ、山菜ご飯に最後はシャーベットまで出てきた。
「フウー、もうお腹いっぱい」
渡辺さんが満足そうに言う。
「ホント。もうこれ以上はいらない」
樹里がお腹を撫でている。
「これからどうする?」
紀夫がみんなの顔を見回した。
「僕は温泉に入るよ。まだ入ってないし」
「わたしもそうするわ」
「樹里が入るなら、わたしも入るわ」
「えっ、また入るの? もう3回目だぜ。大丈夫か?」
紀夫が心配そうに渡辺さんの顔を見る。
「大丈夫よ。せっかく温泉に来たんだから」
渡辺さんは言い張った。
「まあいいけど。俺は部屋にいるよ」
紀夫は仕方なさそうに言った。
僕は着替えの用意をすると、樹里に電話した。
「用意できたけど」
温泉は大浴場になっている。僕は場所を知らないので渡辺さんに連れ行ってもらおうと思った。
「もうちょっと待って。用意できたら電話する」
「わかった」
電話待っていると10分ぐらいしてかかってきた。
「いいよ」
廊下に出ると、樹里と渡辺さんが立っていた。
「行きましょう」
渡辺さんが先に立って歩く。
1階のフロントの奥に大浴場があった。
もちろん男湯と女湯は分かれているので、入り口の前で樹里たちと別れた。
「後でね」
「先に帰っちゃダメよ。わたしたちが出てくるまで待ってなさいよ」
樹里が睨んでくる。
「わかってるよ」
樹里に手を振って浴場に入った。
5分ぐらい浸かって洗い場に上がるということを3回ほど繰り返して、もう限界と思い浴場を出て着替えを済ませ、廊下に出る。
女の人はお風呂が長いからまだいないかと思ったが、渡辺さんが立っていた。
「樹里はまだよ」
「待ってるよ」
待ってないと確実に怒られる。
「樹里、アメリカへ行くんだってね」
渡辺さんは窺うように僕を見た。
「そうみたい」
他に言いようがない。
「平気なの?」
「仕方ないよ」
「そう」
僕にはどうすることもできない。
2人とも押し黙っていると樹里が出てきた。
「何よ。2人とも暗いわね。隆司、散歩に行こう」
樹里が僕の腕を取る。
「真紀はどうする?」
「紀夫を呼んでお土産でも見てるわ」
「わかった。じゃあね」
樹里と僕はホテルの建物を出た。
敷地の外に出ると道がわからなくなるので、ホテルの敷地内の庭園のようになっているところを歩く。
有馬の3月は寒い。歩いている人はほとんどいない。
「もうすぐお別れだね」
樹里が組んでいる腕にギュッと力を入れた。
もう樹里と会えなくなると思うと、涙が出そうになる。
「うん」
「何かわたしに言うことはないの? もう会えないんだよ」
その言葉を聞いて、僕の心の中から何か込み上げてきて思わず樹里を抱きしめてしまった。
「好きだよ」
背伸びをして樹里の唇にキスをする。
背が低いとこういう時にサマにならない。
樹里が少し屈んでくれた。
僕はゆっくりと唇を離す。
「離したくない」
僕は樹里に囁いた。
「このまま2人でどこか行こうよ。誰も知らない所へ。何とかなるわ」
樹里が真剣な顔で言う。
僕も樹里も高校生で、しかも未成年だ。
そんなことができるわけがない。
「そんなの無理だよ。樹里も分かってるだろう」
樹里は決してバカではない。おそらくかなり頭がいい。
付き合ってみてそれが分かった。
「そうね」
樹里が僕の腕を振り払うようにして離れる。
「ごめん」
樹里を不幸にするとわかっていてそんなことはできない。
「そこが隆司のいいところでもあり、イライラさせらるところでもあるのよね。戻るわ」
樹里が部屋に帰っていく。
追いかけることもできず、黙って樹里の背中を見送った。
翌日、僕と樹里の間には微妙な空気が漂っていた。
僕と樹里の間に流れる不穏な空気に気づいたのか、ホテルでも新幹線の中でも紀夫と渡辺さんは明るく振る舞い、空気を変えようと努力してくれていた。
僕も樹里も表面上は何事もなかったように振る舞おうとしたが、やはりお互いの空気は淀んだままだ。
樹里は僕にキャリーバッグを持たさず、自分で引っ張ている。
「2人で大丈夫か」
最寄り駅に着くと紀夫が心配そうに囁く。
紀夫と渡辺さんの家は僕と樹里の家とは駅を挟んで逆方向だ。
「大丈夫だよ」
無理に笑う。
「樹里、元気でね。落ち着いたら手紙送ってよね」
「うん。送るよ。最後にキスしようよ」
樹里がふざけるように渡辺さんに迫る。
「もう。そんなにキスしたかったら、澤田君としなさい」
渡辺さんは樹里を睨んだ。
「アハハハハハッ。元気でね。真紀」
樹里は渡辺さんとハグをすると僕の方に歩いてきて何事もないように腕を取る。
僕も紀夫に手を振った。
紀夫たちと別れると僕と樹里は腕を組んだまま無言で歩く。
気まずい空気が流れ続ける。
自分のマンションの前まで来ると樹里は僕から腕を放した。
「元気でね。じゃあね」
樹里は手を振ると、マンションの中に入っていこうとする。
「やっぱりいやだ」
樹里の腕を掴んだ。
「一緒に逃げよう。誰も知らないところで2人で暮らそう」
僕はなにを言ってるんだ。
「隆司、無理しなくていいよ。隆司らしくないよ」
樹里が薄く笑う。
「愛してる。離れたくない」
樹里を抱きしめた。
「そう言ってくれるのは嬉しいわ。でも、無理って、隆司も言ったでしょ。もし、今度会う時、2人とも独身だったら結婚しよう」
樹里は優しく僕の腕を掴むと、そっと腕を解いた。
「でも、樹里は婚約者と結婚するんだろう?」
そして僕は許嫁と結婚する。
「そんなのわからないわよ。言ったでしょう。私をギュッと抱きしめてくれて、キスして、プロポーズしてくれないと結婚しないって」
なんか条件が増えてるような気がするけど。
「それに、隆司だって、許嫁に嫌だって言われるかもしれないじゃない」
僕が振られるっていうことね。それ母さんにも言われた。
「見送りに行くよ。明日は何時の飛行機?」
「来ないで」
樹里が冷たく言い放つ。
“Au revoir”
樹里は振り向きもせず、マンションの中に入っていった。
英語じゃなくて今度は何語?
どうして最後の最後まで煙に巻くようなことをするんだ。
翌日、いつものように5時に目が開いた。
学校へ行く必要もなく、勉強する必要もないので、布団の中でゴロゴロしているうちに6時になる。
無意識にスマホを取り、樹里に電話しようとした。
そうだ。もうかける必要はないんだ。手を止めて机の上にスマホを置く。
鼻の奥がツンとする。
することもなく寝ることもできないので、1階に下りていくと、いつものように母さんが朝食の用意をしていた。
「学校ないんでしょう? もう少し寝てたら」
「寝れないんだ」
「そう」
母さんは朝ごはんの準備を続ける。
父さんも母さんも昨日、帰ってきてからなにも聞こうとしない。何か気づいているんだろうか。
「樹里ちゃんはいつアメリカに行くの?」
母さんが何気なく聞いてくる。
「今日らしい」
「見送りにはいかないの?」
「来ないでって言われた」
「そう」
それ以上何も言わない。
「母さんは第二外国語はなに?」
大学では語学を2つ勉強すると聞いたことがある。
ひょっとしたら、樹里の最後の言葉の意味を知っているのではないかと思った。
「フランス語よ。どうして?」
僕の方を向く。
「昨日、樹里にオーブワとか言われた。何語だろう?」
“Au revoir”
母さんが樹里と同じような発音をした。
「それだ」
「さようなら……か。なるほどね」
母さんの顔が一瞬ニヤける。
「さようならって意味なんだ」
「そうよ。フランス語よ」
なにが『なるほど』なんだ。
別れの言葉だろう。
本当に樹里といい母さんといい訳がわからん。
学校が自由登校になり、毎日することもなく、家にこもっていると樹里のことを思い出してしまう。
あの偉そうな口調や僕を怒る時の声、気の強さも今は愛しい。
樹里ともう一度会いたい。
本を読んでもテレビを見ても何も頭に入ってこない。
そんなダラダラした生活を送っていると、卒業式の3日前に母さんが僕の前にエアメールを置いた。
「いつまでも呆けてる場合じゃないわよ。向こうから卒業式の日の午後に会いましょうって言ってきたわ」
僕はじーっとそのエアメールを見た。
「ひょっとして許嫁の人?」
「他にエアメールを送ってくる人はいないでしょう」
またずいぶん急な話だな。普通はもっと余裕を持って言ってくるんじゃないか。
父さんが帰ってくると、母さんがエアメールを見せた。
「まずいな。その日はどうしても仕事の都合がつかないんだが……」
お父さんの顔が渋くなる。
「別にいいわ。私と隆司で会いに行くわ」
「すまんな。頼むよ。隆司、自分の気持ちに正直にな。母さんとよく相談して決めるんだぞ」
父さんは母さんに僕のことを頼んだ。
「大丈夫よ。きっと上手くいくわ」
母さんが自信ありげに言う。
どこからくるんだその自信は?
卒業式の前日は、卒業式の練習や学年末テストが返されてくるだけで、卒業生は午前中には学校が終わり、午後からは在校生が卒業式の準備を始める。
終礼が終わり、帰ろうとする僕に紀夫が声をかけてきた。
「久しぶりに一緒に帰ろうぜ」
「いいよ。おじゃま虫をする気はないよ」
紀夫が気を使っているのはわかっている。
だが、紀夫と渡辺さんの邪魔をする気はない。
僕は鞄を掴むと、教室を出た。
ダメだ。
紀夫にまで気を遣わしてしまうなんて。
しっかりしないと。
明日は許嫁が来る。
許嫁に悲しい思いをさせてはいけない。
僕は自分を奮い立たせるように顔を叩いた。
卒業式の朝が来た。
目が覚めて、時計を見ると、やっぱり5時だ。
いくら寝ようと思っても勝手に目が開いてしまう。
完全に習慣になってしまった。
6時になると、スマホを手にして樹里の番号を表示する。
この習慣は今日で最後にしよう。
僕は許嫁と結婚するんだ。
今までも何度も何度も言い聞かせたことを繰り返す。
階下に降りると、朝食の用意をしている母さんの背中が見える。
「おはよう」
「おはよう」
母さんが振り返った。
「……おはようございます」
思わず言い直した。
見たこともない美人が立っている。
「どうしたのよ? ポカンと口を開けて」
「ひょっとして母さん……?」
「当たり前でしょう。他に誰がいるのよ。自分の母親の顔を忘れたの」
顔が違いすぎる。
母さんは少し細い目で、目尻がちょっと下がっているタレ目、全体的に凹凸の少ない顔で、笑うと笑窪が出る。肩甲骨ぐらいまである髪をいつもポニーテールにして、背も低いため可愛いという感じがする。
買い物に行って、僕の同級生に女子大生と間違えられてナンパされたぐらい見た目が若い。
だが、今、目の前にいる女性はどう見ても目鼻立ちのはっきりした大人の美人だ。
「どうした?」
父さんがダイニングに入ってきた。
「母さんの顔が違う」
「顔が違う? おっ、母さん、今日は気合い入ってるな」
父さんは母さんの顔を見ても別に驚いた様子を見せない。
「それはそうよ。隆司の卒業式だもん」
「驚かないの?」
僕は父さんに聞いた。
「母さんと出会った時はこの顔だったから、こっちの方が馴染みがあるんだが」
そうなんだ。
「そりゃそうよ。他の女の子たちに負けたくなかったから、毎日気合いを入れてメイクしてたもん。それより、早くご飯食べて。母さんも用意しないといけないんだから」
「うん」
僕は自分の椅子に座ると、なるべく母さんの方を見ないように食べる。
なんとなく知らない人と一緒に食べているようで気恥ずかしい。
「何照れた顔してるのよ。母さんに惚れてもだめよ。母さんは父さんのものだから」
何をバカなことを言ってるんだ。
それにしても今日の母さんは別人だ。
「すまんなあ。隆司。本当なら父さんも一緒に行きたかったんだが、どうしても仕事があってな」
父さんが本当にすまなさそうに言う。
「大丈夫だよ」
「母さんに全部任せている。自分の気持ちを素直に言っていいからな。誰にも気兼ねしなくていいんだ」
「分かっているよ」
僕は頷いた。
母さんは後でくることになっているので、先に家を出た。
いつもの通学路を通ると、樹里の住んでいた女性専用マンションの前を通る。
樹里が出てくるのではないかと、ありもしない期待をしながら、マンションの入り口を見た。
当然、出てくるわけはない。
もうこのマンションの前を通る道は使わないようにしよう。
胸が苦しくなるから。
教室に入ると、紀夫が後ろを向いて、僕の席に座っている渡辺さんと喋っていた。
「よっ」
「おはよう。澤田君」
「おはよう」
「やっと卒業だなぁ」
紀夫が嬉しそうに言う。
「なんか嬉しそうだな」
「そりゃそうさ。やっと卒業だ」
紀夫は晴れ晴れした表情をする。
「ところで、渡辺さんは大学合格したの?」
渡辺さんが関西の大学を受験するとは聞いたが、合格したかどうかは聞いていなかった。
「合格したわよ。当然でしょう」
当然なんだ。
「じゃあ、紀夫と一緒に住むの?」
「違うわよ。パパが今度、大阪支社長になるから家族全員で引っ越すの。だから、関西の大学を受けたのよ」
なるほどね。別に紀夫と一緒にいたいから関西の大学を受けたわけじゃないんだ。
それはそうだろうな。
「いつ大阪に行くんだ?」
紀夫に聞いた。
「来週の月曜日には行くよ」
「そうか」
紀夫とは人生の半分は一緒に過ごした仲だ。その紀夫がいなくなると思うと、寂しくなる。
「樹里からなにか連絡あった?」
渡辺さんが心配そうに僕の顔を見た。
「ないよ」
「そう。どうしてるのかな」
渡辺さんも少し寂しそうだ。
「石野のことだ。アメリカでうまくやってるよ」
紀夫が請け合う。
「そうだろうな」
樹里はきっと今ごろ婚約者と仲良く過ごしているだろう。結婚の約束をしているのではないだろうか。
そんなことを考えているとフツフツと嫉妬心が湧いてくる。
「ほら、何してる。そろそろ廊下に出て並べ」
担任の先生の声に全員廊下に出て並んだ。
校長先生の挨拶、卒業証書の授与、在校生代表の送る言葉、卒業生代表の返礼の言葉と続き、卒業式は滞りなく終わった。
卒業式が終わり、教室に戻ると、担任の先生から卒業証書を一人一人受け取り、最後の終礼が行われて、僕の高校生活は終わった。
「終わった。終わった。隆司、帰ろうぜ」
紀夫がカバンを持って立ち上がった。
「紀夫、大阪でね。澤田君、元気でね」
渡辺さんが手を振って、友達と一緒に帰っていく。
「また、連絡するよ」
紀夫も手を振る。
「俺たちも帰ろうぜ」
紀夫に促され、僕も立ち上がた。
「帰ってきたら会おうぜ。大阪にも来いよ。また連絡するし」
「そうだな」
僕は頷く。
夏休みにでも大阪に行ってみようかな。
僕と紀夫は職員室に行き、お世話になった先生方に挨拶をしていく。
その後、紀夫がクラブの後輩に挨拶に行くと言って、部室に行ったので、僕は司書の先生に挨拶をしに、図書室に行った。
図書室に行き、司書の先生に挨拶を済ませ、陸上部の部室の前に行くと、ちょうど紀夫が出てきた。
「じゃあ、行くか」
紀夫が僕と肩を組む。
保護者は卒業式が終わると、体育館の前で自分の子どもが来るのを待っている。
「あっ、いたいた」
紀夫が自分のお母さんを見つけて近づいていく。
「あれ、おふくろと喋っている美人は誰のお母さんだ?」
紀夫に言われて、僕はその女の人を見た。
「あれはうちの母さんだ」
母さんが紀夫のお母さんと喋っていた。
「嘘。顔が全然違う」
長い付き合いの紀夫は当然母さんの顔を知っている。
「気合いを入れて化粧をしたら、ああなるそうだ」
「本当か?」
紀夫は信じられないという顔をした。
母さんは、薄いパープルのパーティードレスにシルバーのハイヒールを履き、いつもポニテールにしている髪を下ろして、毛先をカールさせているのでいつもと違う大人の女性という雰囲気を漂わせている。
息子の僕でさえ信じられなかったんだから当たり前だ。
「あら、紀夫君。こんにちは」
母さんが挨拶すると、紀夫が恥ずかしそうに下を向き、「こんにちは」とボソッと言った。
「どうしたの。いつもは、『おばさん、お腹空いた。何かないの』とか言って元気があるのに、今日は大人しいじゃない」
母さんが紀夫を揶揄う。
「この子、澤田さんがあんまり綺麗になってるから照れてるのよ」
紀夫のお母さんが笑う。
紀夫のお母さんも整った顔をしているが、今日の母さんに比べたら、見劣りする。
「あら、惚れちゃあダメよ。私には夫がいるんだから」
いい大人が健全な青少年をからかったらダメだよ。
紀夫が真っ赤になってるじゃないか。
「帰りましょうか」
紀夫のお母さんが笑いながら言った。
「どこにいるのかしら?」
母さんがキョロキョロしながら、歩き出す。
「誰か探しているの?」
「迎えをやるからって手紙には書いてあったんだけど」
許嫁の家の誰かが来ているってことだな。
僕も周りを見るが、それらしい人は見当たらない。
正門の近くまで来ると、来賓用の駐車場に人が集まっている。
「どうした?」
紀夫が顔見知りに声をかけた。
「見ろよ。あれ。リムジンだぜ」
普通車2台分ぐらいの長さのリムジンが停まっている。
うちの学校は裕福な家庭の子どもが多いが、さすがにリムジンを持つほどの金持ちはいない。
「誰のだろう」
紀夫も興味ありげに見ている。
ブラックスーツを着た運転手らしい人が誰かを探しているように外に出てキョロキョロしていた。
「あら、岡田さんじゃない。岡田さん」
母さんがその運転手らしき人に手を振った。
「お嬢様」
岡田さんが母さんに気づき、近づいてくる。
「母さん、知り合い?」
「ほら、学校に車で送り迎えしてもらってたって言ったじゃない。あの人がその時の運転手さんよ」
あの話本当だったの?
「お嬢様。お待ちしてました」
岡田さんが母さんに頭を下げる。
「もう、お嬢様はやめて。わたし、もうすぐ50よ」
「何をおっしゃいます。まだまだお若いです」
岡田さんがお世辞を言う。
「じゃあ、あなたがお迎え?」
「はい。今は高津様のところで働いています。どうぞ」
母さんと僕はリムジンの方へ案内され、岡田さんがドアを開ける。
みんなの好奇な目が突き刺さってくる。
今日が卒業式でよかった。
僕と母さんを車に乗せると、岡田さんはどこかに電話をしだした。
「今、お会いできました。はい。30分ぐらいで、そちらに到着すると思います。はい。わかりました。では」
どうやら電話が終わったようだ。
「では、出発します」
岡田さんがドアを閉め、しばらくするとリムジンが静かに動き出した。
リムジンの中はすごく広い。二列シートが向かい合わせになっていて、シートとシートの間には床に固定された小さなテーブルまで付いている。
テーブルがあっても足元は十分ゆったりとしており、母さんと向かい合わせに座っても全然狭く感じない。
シートもフカフカして、いかにも高級車という感じだ。
走っているのにほとんど振動がない。
テーブルの上には、数本のオレンジジュースの瓶とコーラの缶とグラスが二つ置いてあり、個包装されたクッキーが皿に盛られている。
どうやら食べてもいいようだ。
「隆司、何飲む?」
母さんはグラスにオレンジジュースを入れて飲みながら、クッキーを食べている。
「このクッキー美味しいわよ」
すっかり寛いでいる。
僕なんかこんな高級車に乗ったことがないから緊張しているのに。
さすが元お嬢様。
「高津さんって、母さんのところの養子になる前の旧姓じゃないの? 今は高津じゃないんじゃないの?」
「アメリカ国籍を取得して、登録するときに旧姓の高津に戻したみたいね。手紙に書いてあったわ」
そうなんだ。
それにしても母さんの旧姓はなんだったけ。
「銀座だわ」
外の風景を見ていた母さんが呟いた。
外を見ると日比谷公園が見えてくる。
車は日比谷公園が見えると、道路からホテルの敷地へと入っていき、玄関の車寄せに止まった。
蝶ネクタイをして、燕尾服を着たホテルの従業員がドアを開けてくれる。
僕が降りて、母さんが続いて降りる。
母さんが降りやすいように手を出す。 母さんはびっくりしたように僕を見て、差し出した手を取り、車から降りる。
「ありがとう」
母さんが降りると、すぐに濃紺のスーツを着た背の高い黒人女性が近づいてきた。
「澤田様でしょうか?」
「はい」
母さんが返事する。
「お待ちしておりました。高津の秘書をしておりますキャサリン・ベーカーと申します。どうぞ、こちらでございます」
キャサリンさんがきれいな日本語で話す。
キャサリンさんの案内でホテルの中に入ると、1階はかなり広いロビーになっており、ロビーを抜けた正面には階段がある。
ロビー右手にはフロント、左手にラウンジがあった。
キャサリンさんの後ろに母さん、その後ろに僕がついて歩く。
キャサリンさんは正面の階段の前に立ち、
「申し訳ございません。2階ですので階段でよろしいでしょうか?」
と聞いてくる。
「構いませんよ。私たちはそんなお上品な人間ではありませんから」
母さんは笑いながら言う。
2階に上がり、すぐ左のほうに行くと、フレンチレストランがあった。
フレンチレストランといえば、樹里と行ったことを思い出してしまう。
「高津の連れのものです」
キャサリンさんが店のスタッフに言うと、「お待ちしておりました。お荷物をお預かりします」と言った。
僕は卒業証書の入ったカバンを預けた。キャサリンさんに代わりお店のスタッフが案内してくれる。
テーブル席の間を通り抜けて奥へ行くと、引き戸があった。引き戸をスタッフの人がノックして、開ける。
中にはダークグレーのスーツを着た男の人と着物を着た女の人が2人座っていた。
僕と母さんが部屋に入ると、3人が一斉に立ち上がった。
僕たちは部屋の奥に案内される。
奥に入ると、母さんが椅子の左側に立ち、僕も母さんの隣の椅子の左側に立つ。
母さんは僕をちらりと見て、小さく頷く。
「ようやくお会いできて大変嬉しく思います。初めてお目にかかります。高津浩二です」
高津さんは50過ぎぐらいで、身長190センチほど、肩幅も広くスーツの上からでもわかる筋肉質のガッチリした体格をしていて、口の周りと顎には綺麗に手入れされたヒゲが生えており、鼻が高く彫りの深い顔をしている。
「妻の詩織、その隣が娘のアンナです」
母と娘は同時に頭を下げる。母娘は双子かと思えるぐらいよく似ていた。
2人とも身長170センチぐらいで、色白の瓜実顔、切れ長のやや細い目、鼻筋は通っているが、凹凸の少ない顔で、薄い唇のおちょぼ口という着物の似合う黒髪の和風美人だった。
違いをあげるとすれば、お母さんよりもアンナさんの方がやや目尻が上がっている。それを除けば、アンナさんが老ければそのままお母さんという感じだ。
「こちらこそ両親や家のことまでしていただいたのにご挨拶にも伺わず申し訳ございませんでした。澤田雪乃でございます。隣は息子の隆司です。今日、夫は仕事の都合がどうしてもつかず、参らせていただくことができませんでした。申し訳ありません」
母さんが頭を下げるのに合わせて僕も頭を下げる。
「それは残念です。ご主人とも一度お会いしたかったんですが。お仕事であれば仕方がありません。どうぞおかけください」
僕たちが座ると、飲み物が運ばれてきた。
大人たちはシャンパンのようで、僕とアンナさんにはジンジャエールだった。
樹里とフランス料理を食べに言った時に見せてくれたように、僕は皿の上に載ったナプキンを二つ折りにして膝の上に乗せる。
母さんが僕の方を見て、黙って僕のしていることを見ていた。
「乾杯しましょう」
高津さんの乾杯の声に合わせてグラスを目の高さまであげる。僕は母さんを横目で見て真似をした。
「今、私は6000エーカーの牧場と300ヘクタールの農場を持っています。それと食品加工会社を経営していて、いずれは日本に支店を作りたいと思っています。その準備をアンナの兄にやらせているところです。これも澤田さんのご実家が私を養子にしてくださったおかげだと感謝しています。ですから、なんとしてもアンナと隆司君に結婚してもらい、私の財産の一部を受け継いでもらいたいんです」
高津さんはお腹の底から出ているような太く大きな声をしている。
「あなた、急ぎすぎですわ。まだ澤田様のお気持ちも聞いてないんですから」
奥さんが結論を急ぐ高津さんを諌める。
「隆司がアンナさんと結婚したいと思うなら構いません」
母さんが答える。
そんなことを言われても会ったばかりで何もわからない。アンナさんが僕のことを気にいるかどうかもわからない。
僕は斜め前にいるアンナさんを見る。
アンナさんは僕と目が合うと恥ずかしそうに俯いてしまう。
樹里とはすごい違いだ。樹里なら目が合ったら睨みつけてくる。
僕は頭を軽く振った。何を樹里とアンナさんを比べてるんだ。
スタッフの人が前菜を運んできた。
僕の前にも置く。一番外側のナイフとフォークを取った。視線を感じて横を見ると、母さんが心配そうに僕を見ていたが、安心したように自分の皿に視線を戻していた。
どうやら間違っていないようだ。これも樹里のおかげだ。
前菜はホワイトアスパラガスとモリーユ茸のソテー。次にビーフのコンソメスープと続き、魚料理にはオマール海老のココット、メインがシャリピアンステーキが出てきた。
どれもすごく美味しい。
デザートはクレープシュゼットが出てきて、最後のコーヒーを飲み終わると、母さんが僕を見た。
「天気もいいからアンナさんと日比谷公園でも歩いてきたら」
「そうだな。アンナ、行ってきなさい」
高津さんもアンナさんに勧める。
「はい。お父様」
初めてアンナさんの声を聞いた。女性らしいソプラノだ。
どこかで聞いたことがあるような気がしたが、きっと勘違いだろう。
樹里の低い声と比べたら遥かに女の子らしい声だ。
アンナさんが立ち上がろうとすると、後ろに立ってスタッフが椅子を引く。
僕も立ち上がり、戸口に向かうと、アンナさんが戸口のところで待っていて、僕を先に行かそうとする。
僕は手を出して、「どうぞ」と、アンナさんに先に行くよう促す。
「ありがとうございます」
アンナさんが囁くように言って先に出る。
僕はアンナさんの斜め後ろを歩いた。
スタッフの人が出口まで案内してくれる。
「エレベーターにしましょうか?」
着物だと階段は大変だろうと思って聞く。
「はい」
アンナさんが小さな声で答える。
アンナさんは紺地に松竹梅をあしらった振袖を着ている。
その着物がよく似合っている。
耳には樹里に贈ったものとそっくりの月形のピアスを付けている。
月形のピアスが今は流行っているのかな?
アップにした髪を後ろから見ると、うなじがいじらしいぐらい細くて可憐だ。
エレベーターホールに向かう。エレベーターが来ると、アンナさんに先に乗ってもらい、降りるときも先に降りてもらう。
「優しいんですね」
アンナさんが褒めてくれた。
なんて優しいんだろう。樹里にこんな言葉を言ってもらったことがない。