「樹里ちゃん、家だと思ってちょうだい。私も樹里ちゃんを娘だと思うから。そんな改まった言葉を使わなくていいのよ。これ、前に言ってた唐揚げのレシピ」
「ありがとうございます。わたし、言葉遣い悪いですけど、いいですか?」
「いいわよ」
母さんが樹里の前に年越しそばを置く。樹里の言葉遣い本当に悪いけど大丈夫かな。
「うわあー、すごい具沢山」
樹里が感嘆の声を上げる。
うちの年越しそばは具沢山だ。うす揚げや蒲鉾、ネギのほかに半分に切ったゆで卵、鶏肉を入れ、焼いた餅まで入れる。
樹里はが美味しそうにお汁を飲んで、蕎麦を啜る。
「蕎麦の風味が口に広がって、美味しい」
樹里が目を大きく見開く。
「信州の親戚から送ってもらったものだよ」
父さんが自慢げに言う。
父さんの信州に住んでいる親戚が毎年この時期になると、老舗のお蕎麦屋さんで買ったものを送ってくれる。
「そうなんだ。すごく美味しいよ。おじさん。それにこのお揚げも甘くて美味しい。うちのお揚げは全然甘くないの」
揚げを噛み締めて食べている。
「樹里ちゃんは甘い方が好き?」
「うん。好き。ちゃんと油抜きもしているし。うちのは油っぽいの」
「よかったわ。隆司も甘い方が好きよね」
「もちろん」
母さんの甘いうす揚げの入ったおそばが大好きだ。
「樹里ちゃんの家の年越しそばはどんなの?」
母さんが興味津々という感じで聞く。
「わたしのところはもりそばなの」
「そうなの」
「もりそばもいいな。うちも来年はもりそばにしようか?」
父さんはどうやらもりそばを食べたいようだ。
「ダメよ。寒い時にはやっぱり温かい蕎麦の方がいいわ。そうでしょう、隆司」
同意を求めるように僕を見る。
「そうだね」
正直どっちでもいい。
「おばさん、このお揚げの作り方も教えて」
「いいわよ。あとで作り方をメモしてあげるわ。樹里ちゃんが来てくれて、すごく嬉しいわ。うちは隆司だけでしょう。男の子は小さい時は可愛いけど、大きくなったらねえ。樹里ちゃんみたいな女の子がずっと欲しかったの。今から頑張る?」
母さんが父さんに流し目をする。
悪かったね、可愛くなくて。父さんが困った顔しているじゃないか。
樹里の前でそんな冗談やめてくれるかな。
「アハハハハハ。おばさん、それ面白い。隆司に妹ができるんだ」
樹里には大ウケしているけど。
「樹里ちゃんは明日も来てくれるんでしょう。お雑煮作るから食べに来て」
母さんが期待した目で樹里を見る。
「うん」
「樹里ちゃんは、振袖を着るのかな?」
父さんは樹里の晴れ着姿が見たいようだ。
僕も見たい。
「ええ。美容室で着付けをしてもらうの」
それは楽しみだ。樹里が着物を着たらきっと綺麗だろうな。
「樹里ちゃん、行ったり来たり大変じゃない? 今日は泊まっていけば?」
母さんがとんでもないことを言い出す。
「おいおい。樹里ちゃんにどこで寝てもらうんだ?」
父さんもビックリしている。
「あら、1日ぐらいなら、あなたが隆司の部屋で寝て、私と樹里ちゃんが一緒に寝ればいいでしょう。それとも隆司と一緒の方がいい?」
「なに馬鹿なこと言っているんだ。母さん」
思わず叫んだ。
前なら樹里と一緒に寝たとしても絶対何もしないと誓えるが、樹里にメロメロになりかけている今の僕は自信がない。
許嫁がいるのにそんなことになったら大変だ。
最も何かしようとしたら樹里に殴り飛ばされるだろうけど。
「おばさん、冗談やめて」
樹里も当惑している。
“Sooner or later”
突然、母さんが英語を喋った。
母さんって英語を話せるのか? どういう意味だ。
どうして僕の周りは英語を急に話し出すんだ。訳がわからない。
「おばさん、何言っているかわからないわ」
樹里が大きく目を見開き、顔を引きつらせて首を横に振った。
「そう?」
母さんの顔になんとも言えない微笑みが浮かぶ。
「じゃあ、もう帰るわ。明日、また来るわね」
樹里が立ち上がったので、僕も家まで送ろうと思って立ち上がった。
「送らなくていいわ。道はわかるから。明日は来る前に電話する」
樹里はそう言って帰って行った。
大晦日は紅白歌合戦を見た後、夜中まで起きているので、元旦はいつも日が高く上がるまで寝てしまう。
今年も例外ではなく、起きて階下におりていくと、もう日が高く上がっており、母さんが雑煮を作る準備をしたり、赤飯を炊いたりしていた。
「おはよう。よく寝れた?」
「うん」
「よかったわね。朝ご飯は遅くなるかもしれないけど、樹里ちゃんがきてからにしようか?」
「それでいいよ」
僕は頷いた。
「ねえ、母さん」
「なに?」
「母さんって、英語を話せるの?」
昨日聞くまで母さんが英語を喋っているのを聞いたことがない。
「あら、言わなかったかしら。英文科出てるんだけど」
「うそ」
父さんが法学部だから、母さんも法学部だと思っていた。
「本当よ」
「どうして、言ってくれなかったの。知ってたら英語を教えてもらってたのに」
大の苦手で大嫌いな英語を教えてもらえれば内申点ももう少し上がったのに。
「でも、卒業してから全然使ってないから錆びついてだめよ」
昨日のあの発音はネイティブみたいだったけどな。
「昨日、樹里になんて言ったの?」
「ヒミツ」
イタズラっぽい笑顔で答える。
また秘密か。
樹里といい、母さんといい女の人は秘密好きらしい。
部屋に戻ると、樹里からメールが来ていた。
今、着付けが終わったからこっちへ向かうと書いてある。
迎えに行こうかと、返信すると、行き方は分かっているので別にいいと返ってきた。
僕はキッチンにいる母さんに樹里がもうすぐ来ることを伝えた。
しばらく待っていると玄関のチャイムが鳴る。
玄関に出ると、赤地に松竹梅を散りばめた振袖に金地に花柄をあしらった帯を締めた樹里が立っていた。
華やかな振袖姿は樹里の美しさをさらに引き立てていて思わず見とれてしまう。
「何をボーッとしてるの。わたしの美しさに見とれてるの?」
樹里が小馬鹿にしたように言った。
「ごめん。入って」
樹里を中に招きいれる。
「おめでとう。樹里ちゃん、綺麗だわ。やっぱり樹里ちゃんは美人ね」
母さんは樹里を見て感嘆の声を上げた。
「おめでとうございます。おばさんも綺麗だよ」
母さんは淡いピンク地に小桜が舞っている小紋を着ている。
「樹里ちゃんに褒められて嬉しいわ」
母さんは樹里のような美人ではないが、僕より10センチほど背が低く、全体的に小作りで友達は小さくて可愛いと言っている。
着物もよく似合っている。
ダイニングに入ると、まだかまだかと樹里を心待ちにしていた父さんがニッコリ笑う。
「樹里ちゃん、おめでとう。やっぱり、女の子がいると違うね。家の中が華やぐよ」
紺の紬に羽織を着た父さんが樹里を眩しそうに見る。
「おじさん、おめでとうございます」
樹里は昨日と同じ僕の隣に座った。
「はい。どうぞ」
母さんがお雑煮をそれぞれの前に置いて、自分の席に座る。
「いいかな。明けましておめでとうございます」
父さんの声に合わせてみんなで新年の挨拶をした。
「じゃあ、お雑煮を頂こうか」
「いただきます」
お雑煮はおすまし仕立てになっている。これは代々母の家に伝わるお雑煮で、餅、蒲鉾、椎茸などが入っている。
「おばさん、本当に料理上手だよね」
樹里が感心したようなに言う。
「樹里ちゃんは本当に誉め上手ね。嬉しくなっちゃう」
母さんが目を細めている。
「今年は隆司も大学生だ。いろいろしっかり頑張らないとな」
父さんが檄を飛ばす。
「うん。頑張るよ」
僕は頷いて、お雑煮を食べている樹里の横顔を盗み見る。綺麗だ。
もう樹里の虜になりそうだ。
「ところで、樹里ちゃんは高校卒業すしたらどうするのかな? 隆司に聞いたんだが、アメリカに行くそうだね。留学でもするのかな?」
今まではぐらかされて聞けなかったことを父さんが聞いてくれる。
樹里はしばらく黙っていたが、重い口を開いた。
「実は、婚約者がいるの」
「ええッー」
僕は思わず叫んだ。
「でも、その婚約者はパパが勝手に決めた人で、会ったこともなかったんだけど、少し前に会ってその人はどうもわたしのことを気に入ったみたいなの」
少し前っていつ会ったんだ?
「じゃあ、その人はアメリカにいて、樹里ちゃんはその人と結婚するためにアメリカに行くのか」
父さんがそう聞くと、樹里は首をひねった。
「さあー。よくわからないんだけど、パパがいま仕事の関係でアメリカにいて、アメリカに来いって言われているの」
僕は樹里に婚約者がいると聞いてショックだった。
婚約者がいるのに僕と付き合っていたのか?
ひどいじゃないか。
「樹里ちゃんにも婚約者がいるのか」
父さんの言葉に僕は自分の立場を思い出した。
僕も許嫁がいるのに、樹里と付き合っていた。
人のことは言えない。
「だから、隆司と付き合えるのは卒業までなの」
樹里が微笑んだ。
どうせ樹里にとっては、僕は暇つぶしの相手なんだろうな。
僕の中では樹里の存在が大きくなってきてるのに。
母さんが下を向いて肩を震わせているのが見えた。
泣いているのだろうか。そんなに樹里と別れるのが悲しいのかな。
「クックックックッ」
笑いを押し殺したような声が聞こえてくる。
「なにを笑っているんだ、母さん」
父さんがびっくりしたように隣の母さんを見る。
「なんでもないの。樹里ちゃん、隆司と一緒に父智丘《ふちおか》神社に初詣に行ってきたら」
僕と樹里が食べ終わったのを見て、母さんが笑いを噛み殺しながら、樹里に言う。
「おばさん、笑いすぎよ」
樹里が不機嫌な声を出す。
「ごめんなさい。あんまり可笑しかったから。ほら、隆司、早く行って来たら」
何がそんなに可笑しいんだろう?
家を出ると、歩いて5分ぐらいにある父智丘神社に向った。
「ごめんね。母さん、失礼だよね。あんなに笑って。何がおかしかったんだろう?」
母さんの代わりに樹里に謝った。
「ううん。いいの。気にしてないわ」
気にしていないと口では言いながら、樹里は浮かない表情だ。
いつもはけっこう早く歩く樹里だが、今日は着物のせいかかなりおしとやかに歩いてる。
父智丘神社はこの辺りの氏神様なので、鳥居を通って、中に入るとかなりの人が行き交っていた。
「あら、澤田君と樹里じゃない」
聞いたことのある声が樹里を呼んだ。
「あら、真紀。おめでとう」
「おめでとう。紀夫も一緒だったんだけど、途中ではぐれちゃったのよ。見なかった?」
渡辺さんがキョロキョロと辺りを見回す。
「今来たところだからね。見なかったな」
僕は首を振った。
「そうか。どうしよう?」
渡辺さんが困った顔になる。
「鳥居のところで待っていれば? 鳥居を通らないと帰れないんだから絶対通るわよ。もし、山崎君を見たら真紀が待っていると伝えておくわ」
神社の中に入るのも外に出るのも必ず鳥居を通る。
「わかった。鳥居のところにいるわ」
ピンク地に牡丹の花が描かれた可愛い感じの振袖を着て、髪をアップにしている渡辺さんが鳥居の方へ歩いていく。
「行こう」
樹里がそっと手を引っ張る。
全国の有名神社ほどではないが、それなりに人出があるので、拝殿まで列ができている。
僕と樹里は列の一番後ろに並んだ。
「樹里の婚約者ってどんな人?」
樹里が言っていた婚約者のことがずっと気になっていた。
「気になる?」
意地の悪い笑みを浮かべている。
「会って話をしたの?」
「話したわよ。全然イケメンじゃないし、カッコ良くもないけど、優しい人よ。好きだとかは言ってくれないけど、わたしのことをすごく思ってくれてるんだなあっていうのは態度でわかるの」
最近、会ったと言ってたけど、僕と付き合う前のことだろうか?
いつ会ったんだろうか?
「樹里はその人のこと好きなの?」
だんだんイライラしてくる。
「そうねえ。その人が愛していると言ってギュッと抱きしめてくれて、結婚してくれって言われたら、堕ちちゃうかも」
胸が締め付けられそうになった。
だが、樹里に何も言うことはできない。
僕にも許嫁がいる。
樹里と僕はW不倫ということか?
あと3ヶ月もすれば卒業だ。卒業すれば樹里はアメリカに行き、僕は許嫁と婚約か結婚かすることになる。
どう足掻いてもそういう運命だ。
それなら今この時を楽しもう。
嫉妬とかするよりも今、樹里といれることを喜ぼうと思った。
そんなことを考えているうちに僕と樹里が拝殿の前に立つ順番になった。
僕は自分と家族の健康と幸せを祈り、そして、樹里が幸せになることを祈った。
隣の樹里は何を祈っているのだろうか?
参拝が終わり、僕と樹里は鳥居の中の参道沿いに並ぶ出店をあちらこちらと覗いて歩く。
「お二人さん仲がいいね」
綿菓子を買おうかどうしようかと悩んでいる僕たちの後ろから紀夫の陽気な声が聞こえてきた。
振り向くと、ダウンジャケットにジーンズ姿の紀夫が立っている。
「石野は見た目は本当に美人だな」
樹里を見つめて、紀夫がほくそ笑んだ。
「どういう意味よ!!」
樹里がムッとする。
「ただ、惜しいことにやっぱり着物には黒髪だよ。茶髪じゃちょっとな」
樹里はいつもどおり髪を編み、胸の前に垂らす髪型をしている。
「うるさいわね。別にあんたに好かれようとは思ってないわ。わたしは隆司に気に入られればそれでいいのよ。ねえ、隆司」
樹里が僕の肩を抱く。
長身の樹里に肩を抱かれると、小柄な僕が女みたいな感じになる。
「そうだね」
曖昧な笑みを浮かべた。
「それより渡辺さんが鳥居のところで待っていると言ってたぞ」
「出店覗いてたらはぐれてしまったからずっと探していたんだ」
紀夫が鳥居に向かって歩き出す。
僕たちはその後をついて歩いた。
「どこ行ってたのよ」
鳥居のところで下を向いて心細げに待っていた渡辺さんが頬を膨らませた。
「どこって……お参りして、射的をしてたりしたら真紀の姿が見えなくなったんだ」
紀夫が唇を尖らす。
「何度も携帯に電話したのに出なかったじゃない」
渡辺さんの目が三角になる。
「携帯、家に忘れた」
紀夫は昔からよく忘れ物をする。
「馬鹿じゃないの」
渡辺さんは軽蔑したような目で紀夫を見た。
「わたしたち、これからお茶をしに行くんだけど、真紀たちもどう?」
そんな話を聞いてないけど。
「でも、こんな元旦に開いている店があるのか?」
紀夫がもっともなことを聞く。
「休日に、どこにも連れて行ってくれない薄情なカレシはいるけど、友達はいないからこの辺りを一人でブラブラすることが多いの。この前、少しお腹空いたと思って、どこか食べるところないかなと思って探していたら、小さなお店だけど、ケーキがすごく美味しい喫茶店を見つけたの。その時、マスターに聞いたらお正月もやっているって言ってたわ」
薄情なカレシでごめんね。
「行くわ」
渡辺さんがケーキと聞いて、目を輝かせる。
樹里が言っていたお店は神社から5分ほど歩き、大通り沿いを奥に入った住宅街の中にあった。
樹里の言うように4人掛けのテーブル席が一つとカウンターだけという10人も入ればいっぱいという小さなお店だった。
4人掛けのテーブルに、僕の隣に樹里が座り、向かいに紀夫と渡辺さんが座る。
「いらっしゃい。何にします?」
髭面の店主らしい人が水を置いた。
「コーヒーとケーキでいい?」
樹里がみんなに聞く。
「ケーキは何があるの?」
渡辺さんがマスターを見る。
「今日は苺のショートケーキとモンブランがあるけど」
「じゃあ、ショートケーキ」
「わたしも」
渡辺さんに樹里が同調する。
「俺はモンブランで」
「僕も」
男2人は同じものを注文した。
「飲み物はブレンドでいいかな」
マスターの問いに4人とも頷く。
「澤田君。ちょっとひどいんじゃない」
マスターがカウンターの向こうに戻ると、渡辺さんが僕を睨んだ。
「何が?」
「樹里をどこにも誘わないなんてひどくない? もちろん澤田君がそんなことできるような人ではないことは知ってるけど、付き合っている以上はちゃんとしなさいよ」
渡辺さんとは1年生の時も一緒のクラスだったから僕の性格はなんとなくわかるんだろう。
「ごめん」
僕は謝るしかない。
「いいのよ。隆司がそういう人だって分かって付き合っているんだから。ただ、ちょっと寂しかっただけよ」
樹里が寂しそうな顔をする。
「ごめん」
カノジョにこんな寂しい思いをさせるなんて僕は最低だ。
「なーんて。冗談よ。わたしは別に寂しいなんて思ったことないわ」
樹里が楽しそうに笑う。
また、芝居か。
「そういうことなら、寂しい石野と薄情な隆司に1つ提案がある」
なんか紀夫の言い方が妙に恩着せがましいんだけど。
「なに?」
樹里が興味深げな顔をする。
「3月の学年末試験が終わった次の日に有馬に行かないか?」
うちの学校は3月の初めに学年末試験があり、それが終わると、卒業式の前日まで3年生は欠席しても出席扱いになる自由登校日になる。
「有馬?」
有馬ってどこだっけ?
「有馬を知らないのか? 神戸の温泉地だ。豊臣秀吉も好んで入ったという有名な温泉のあるところなんだ」
「知らなかったわ。山崎君、よく知っているじゃない」
樹里が感心して紀夫を見る。
「これぐらい常識だよ」
紀夫がそんな物知りだとは知らなかった。
「でも、どうして有馬なんだ?」
温泉なら関東にも箱根や草津などの温泉地がある。なにもわざわざ関西まで行く必要はないんじゃないの。
「それは、私と紀夫が大阪の大学に行くからその下見に行くのを兼ねてっていうことなの」
紀夫はともかく、渡辺さんは関西の大学を受けるって言っていたけど、入試はまだだと思うんだけど……。
合格は当たり前ってことか? たいした自信だな。
関西の地理はよくわからないが、大阪と有馬は近いってことなんだな。
「わたしたちと山崎君と真紀と4人で行くっていうこと? 日帰り?」
「まさか? 有馬で1泊するんだ。親父の会社が温泉の付いているホテルと保養所代わりに契約しているから、そこに泊まるんだ」
たしか、紀夫のお父さんは一流商社の部長をしているとか言ってたな。
「樹里たちと同じ部屋に泊まるのか?」
まだ高校生の僕たちがそんなことをしていいのか?
「何言ってんの、澤田君」
渡辺さんが軽蔑したように僕を見る。
「隆司の気持ちはよくわかるが、残念ながら男と女は別部屋だ」
「何が残念ながらよ。当然よね。樹里」
渡辺さんが樹里に同意を求める。
「真紀と一緒の部屋なの? 嬉しいわ」
樹里が渡辺さんに妖しい流し目をした。
「ちょっと、樹里、クリスマス祭みたいな冗談はもうやめてよ」
渡辺さんが少し赤くなる。
「あら、冗談じゃないわよ。本当に真紀ならOKよ。お互い覚悟を決める?」
樹里に見つめられて、渡辺さんの目が泳ぐ。
「おい、真紀。なに顔を赤くしてるんだよ」
紀夫が怒ったように言った。
「なによ。赤くなんかなってないわよ」
渡辺さんが顔を赤くしたまま言い返す。
「なんか真紀と石野を同じ部屋にするのは不安だなあ」
他にどんな組み合わせがあるんだ。
「冗談よ。すぐに本気にするんだから。山崎君も見かけによらず、気が小さいわね。ねえ、真紀」
「そ、そうね」
渡辺さんは動揺している。
「ちょっと」
と、言って樹里が立ち上がり、お手洗いの方へ歩いていく。
「ところで、澤田君。樹里にプレゼントを渡したの?」
渡辺さんは気を取り直したように僕を見る。
「まだ」
すっかりプレゼントのことを忘れていた。
「何してんの? まさか買ってないっていうことはないわよね」
「もちろん。買ってるさ」
胸を張った。
「なに自慢のしてるのよ。だったら、サッサッと渡しなさいよ」
「うん」
まったくおっしゃっるとおりでなんの反論の余地もない。
樹里が戻ってくるのと同じタイミングで店主がケーキとコーヒーを待ってきた。
「美味しい。このちょっと酸っぱめのイチゴと甘い生クリームがすごく合う」
一口食べて、渡辺さんが賛嘆の声を上げる。
「でしょう? コーヒーの苦味もこのケーキにちょうどいいのよ」
樹里が美味しそうにコーヒーを飲んだ。
僕もケーキを口に入れる。栗の味が口いっぱいに広がり、栗のペーストの下から現れたメレンゲもサクサクの食感で美味しい。
「モンブランも言うまいぜ。食べてみろよ」
紀夫が渡辺さんに勧める。
「うん」
渡辺さんは紀夫が食べた反対側にフォークを入れて、一口食べる。
「ホント。栗だけの味がする。お酒は入れてないのね」
モンブランは洋酒が少し入っていて風味付けをしているものもあるが、この店は栗の味だけで勝負している。
「樹里も澤田君から少しもらいなさいよ」
「いいよ」
僕は樹里の方に皿を押した。
「うん。ありがとう」
樹里はそう言うと、僕が食べかけている方にフォークを入れた。
「えっ、そっちは…」
止める間も無く、樹里は口に入れた。
間接キスにならないか?
「美味しい。栗がすごく甘い」
樹里が満足そうな笑みを浮かべる。
「隆司も食べていいよ」
樹里は自分が食べていた方を僕に向けて置いた。
「ありがとう」
樹里が気にしないなら僕は別に構わない。
一口大に切って、口に入れた。
「美味しい」
「そうでしょう」
樹里は自分の手柄のように言う。
「さっきの旅行の話だけど、8時半の新幹線に乗ろうと思うんだけど」
紀夫が僕たちの顔を見た。
「8時半」
樹里の顔が険しくなり、いつもよりさらに低いドスのきいたような声で聞き返した。
朝が苦手な樹里にとって8時半の新幹線は早すぎる。
「いや、別に隆司と石野は夕飯までに来てくれたらいいよ」
紀夫が慌てて言う。
「そうよ。私と紀夫は早めに行くけど、樹里たちはゆっくり来たらいいよ」
渡辺さんは怯えたような顔になる。
「そう。それならいいわ」
樹里が表情を緩ませた。
「じゃあ、僕と樹里は夕方ごろに行くよ」
「家まで迎えに来てくれるわよね」
樹里が当然のように言うので僕は頷いた。
「新幹線で新神戸駅まで行って、そこからタクシーに乗ればいいよ。ホテルは山崎で予約しているから」
「そうするよ」
行き方を知らないので、紀夫の言うとおりに行くしかない。
大体の旅行の予定を決め、僕たちは喫茶店を出た。
喫茶店を出ると、映画を見にくという紀夫たちと別れて、樹里と2人っきりになった。
「着物って苦しいのよね。早く帰って着替えたい」
紀夫に一緒に映画を見に行かないかと誘われたが、樹里はそう言って家に帰りたがったので、樹里を家まで送ることにした。
「樹里は着物が似合うよね」
心からそう思う。樹里は美人だから何を着ても似合う。
「ありがとう。でも、美容師の人がギュウギュウ締めるから苦しいのよね。それに結構食べたからな」
樹里はお腹を撫でる。
「大変だね」
女の人は綺麗にしようと思ったら大変だと思った。
「そうよ。女は大変なんだから。いいわよね。男はそんなラフな格好でいいんだから」
樹里が恨めしそうにスタジャンにジーンズという僕の姿を見る。
僕は樹里を見ながら、いつプレゼントを渡そうかと機会を伺っていたが、なかなか踏ん切りがつかず、樹里のマンションの前まで来てしまった。
「どうする。中に入る?」
この間、樹里のお兄さんに殴られたことが頭をよぎる。
「いいよ」
僕は遠慮した。
ここでプレゼントを渡さないと絶対渡せないと思い、ポケットから花柄の包み紙にピンク色のリボンがかけられている小さな箱を樹里に差し出す。
「なに?」
樹里がビックリしたように僕の顔を見る。
「樹里にプレゼント」
「うそっー。ウレシィ〜」
樹里の顔が綻んだ。
「そんなに喜んでくれるなんて」
「当たり前でしょう。今までさんざん尽くしたのになんのお返しもなかったんだから。やっと、報われたわ」
お返しがなかった?
たしかに、お弁当を作ってもらってたけど、僕もモーニングコールをしたり、迎えにいったりしてたんだけど。
「開けていい?」
「いいよ」
樹里が嬉しそうに開ける。
「ピアス?」
「うん」
「よくピアスの穴を開けてるって分かったわね?」
「渡辺さんに教えてもらった」
正直に答える。
「そうよね。隆司がそんなことに気がつくはずないもんね。でも、人に聞くっていうことを覚えただけで進歩だわ。教育した甲斐があったわね」
僕は樹里に教育されてたの?
「わあー、可愛いじゃない。『つけて』と言いたいところだけど、耳を血だらけにされそうだから自分でつけるわ」
「うん」
そこまでは教育されていませんから無理です。
「どう?」
樹里がピアスをつけて、こちらを向く。
和服姿だが、ピアスが似合っている。
「似合ってるよ。すごくキレイ」
「嬉しいわ……。キャア〜」
何もしていないのに樹里が、突然悲鳴をあげた。
「おねえしゃん、遊ぼう」
樹里の足元の方から声がする。
「チイちゃん……。ビックリするでしょう」
チイちゃんが樹里の足元に抱きついていた。
樹里がチイちゃんを抱き上げると、チイちゃんは両腕を樹里の首に回す。
「お母さんはどうしたの?」
「ねんね」
「しょうがないわね。お母さんにお姉ちゃんのところに行くって言いに行こう。隆司はどうする?」
「やっぱり帰るよ」
樹里と一緒にチイちゃんと遊ぶのもいいが、やはり女子の部屋に入るのは、また余計な誤解を招く恐れがあるので、やめておいたほうがいい。
「バイバイ」
チイちゃんが手を振ってくれた。
僕も振り返す。
樹里とチイちゃんが中に入って行く後姿を見送りながら、僕と樹里が結婚したら、あんな子どもが出来るのかなと、二人の横に自分を並べてみる。
すぐにその妄想を頭から振り払う。
そんなことになるはずがない。
僕には許嫁がおり、樹里には婚約者がいる。
そんなありえもないことを想像するのは虚しい。
冬休みもあっという間に終わり、学年末テストも無事終わって、いいよいよ卒業旅行の日になった。
樹里を迎えに行くと、樹里はキャリーバッグを持って、マンションの入り口の前に立っている。
今日の樹里はベージュのスウェットのプルオーバーに黒のロングスカートにマキシ丈のコートを着て,僕がプレゼントしたピアスをつけてくれている。
「すごい荷物だね」
僕はリュックサックひとつだけだ。
樹里の荷物はどう見ても一泊旅行には見えない。
「女の子には色々荷物があるのよ」
「持つよ」
僕はキャリーバッグを受け取ると、引っ張って歩いた。
樹里は当然と言う感じで僕の前を歩いていく。
東京駅に着くと、14時前の新幹線の2人がけの指定席を買い、新幹線に乗り込む。
「この旅行から帰ったら、もう学校には行かないから、モーニングコールも迎えもいらないわ」
席に着くなり樹里が言った。
「どういうこと?」
「旅行から帰った次の日にアメリカに行くの」
「卒業式は?」
「出席日数は足りてるから出ないわ。だから、隆司と会うのもこの旅行で最後」
樹里はそう言うと話を打ち切るように目を瞑って、寝始める。
「最後」
一瞬、涙が出そうになった。
泣いたらダメだ。分かっていたことじゃないか。
明るくしよう。
僕は持ってきた本を開いたが、樹里の言葉がショックで全然文字が目に入ってこない。
本を読むのを諦めて、窓の外を見ていたが、いつのまにかウトウトしてきて眠ってしまっていた。
「まもなく新神戸です」のアナウンスで目が覚めた。
横を見ると、樹里はまだ寝ている。
「樹里、もう着くよ。起きて」
「う、うん」
樹里がやっとという感じで目を開ける。
「新神戸、新神戸」
アナウンスが車内に響き、スーッと新幹線が駅に入っていく。
駅へ着くと、慌てて樹里のキャリーバッグを引っ張り、リュックを背負って、まだ眠そうにしている樹里の腕を引っ張った。
駅を出ると、タクシー乗り場に向かう。
タクシー待ちの列の一番後ろに並んだ。
樹里はまだ眠いのか低血圧のためかもたれかかってくる。
並んでいる間に紀夫に電話すると、ロビーで待っていると言われた。
順番がきて、タクシーのトランクを開けてもらい、キャリーバッグを入れて、まだボーッとしている樹里を奥に押し込んで、運転手さんに行き先を告げる。
樹里はタクシーの中でもずっと目を瞑っていた。
有馬というところには初めて来たが、ずいぶん山の上の方にあるんだなと思った。新神戸駅からだいぶ登っていく。
「はい。着きました」
運転手さんに言われ、お金を払おうとすると、
「これで」
と言って、樹里がカードを差し出した。
「僕が……」
「いいの。これでお願いします」
結局、樹里が払ってくれた。
僕は先に降りて、キャリーバッグを受け取ろうとタクシーのトランクの方に歩き出した。
「どこ行くのよ? 手を貸しなさいよ!!」
樹里が大声で僕を呼ぶ。
慌てて樹里のところに行って降りるのに手を貸した。
樹里はタクシーから降りると、僕をほっておいてホテルの方へと歩いていく。
運転手さんからキャリーバッグを受け取り、さっさと歩いていく樹里の後を追いかけた。
ホテルの玄関を入るとフロントがあり、その前に紀夫が待っていた。
「やっと来たか。待ちくたびれたよ。早くチェックインの手続きしろよ」
紀夫は疲れたような顔をしている。
「なんか疲れた顔しているな」
チェックインの手続きをして、樹里と紀夫のところに戻る。
「ああ。もう2回も温泉に入ってるからな」
それは疲れるわ。
「真紀はどこ?」
樹里が周りを見回す。
「部屋で寝てるんじゃないかな」
紀夫が渡辺さんに電話した。
「隆司たち来たよ。うん、うん。今から上がるよ……待ってるって。行こう」
エレベーターに乗り、部屋のある5階で下りる。
「俺と隆司はこっちで。石野は向かいだ」
樹里たちの部屋は僕たちの向かいみたいだ。
樹里がノックすると、ドアが開き、渡辺さんが顔を出す。
「入って」
「うん。隆司、カバン」
キャリーバッグを樹里に渡す。
樹里はバッグを引っ張って部屋の中に入っていった。
「あれ石野のカバンだったのか?」
「そう」
「お前は召使いか?」
それに近いかも。
部屋に入って、荷物の片付けが終わると、夕ご飯を食べに行こうという話になった。
樹里たちを誘ってレストランへ下りていく。
「今日の夕食は親父に頼んで奮発してもらった。夕食代分は親父が持つから心配するな」
「どうして山崎君のお父さんが私たちの分まで出してくれるの?」
樹里が紀夫を見る。
「俺にカノジョができた祝いだそうだ」
紀夫も僕同様一人っ子だ。よほど紀夫のことが可愛いんだろうな。
それにしても持つべきものは金持ちの友達だ。
たしかに食事は豪華だった。
胡麻豆腐にエビや野菜の天ぷら、鯛やマグロなどのお刺身三種盛り、神戸牛のサーロインステーキ、山菜ご飯に最後はシャーベットまで出てきた。
「フウー、もうお腹いっぱい」
渡辺さんが満足そうに言う。
「ホント。もうこれ以上はいらない」
樹里がお腹を撫でている。
「これからどうする?」
紀夫がみんなの顔を見回した。
「僕は温泉に入るよ。まだ入ってないし」
「わたしもそうするわ」
「樹里が入るなら、わたしも入るわ」
「えっ、また入るの? もう3回目だぜ。大丈夫か?」
紀夫が心配そうに渡辺さんの顔を見る。
「大丈夫よ。せっかく温泉に来たんだから」
渡辺さんは言い張った。
「まあいいけど。俺は部屋にいるよ」
紀夫は仕方なさそうに言った。
僕は着替えの用意をすると、樹里に電話した。
「用意できたけど」
温泉は大浴場になっている。僕は場所を知らないので渡辺さんに連れ行ってもらおうと思った。
「もうちょっと待って。用意できたら電話する」
「わかった」
電話待っていると10分ぐらいしてかかってきた。
「いいよ」
廊下に出ると、樹里と渡辺さんが立っていた。
「行きましょう」
渡辺さんが先に立って歩く。
1階のフロントの奥に大浴場があった。
もちろん男湯と女湯は分かれているので、入り口の前で樹里たちと別れた。
「後でね」
「先に帰っちゃダメよ。わたしたちが出てくるまで待ってなさいよ」
樹里が睨んでくる。
「わかってるよ」
樹里に手を振って浴場に入った。
5分ぐらい浸かって洗い場に上がるということを3回ほど繰り返して、もう限界と思い浴場を出て着替えを済ませ、廊下に出る。
女の人はお風呂が長いからまだいないかと思ったが、渡辺さんが立っていた。
「樹里はまだよ」
「待ってるよ」
待ってないと確実に怒られる。
「樹里、アメリカへ行くんだってね」
渡辺さんは窺うように僕を見た。
「そうみたい」
他に言いようがない。
「平気なの?」
「仕方ないよ」
「そう」
僕にはどうすることもできない。
2人とも押し黙っていると樹里が出てきた。
「何よ。2人とも暗いわね。隆司、散歩に行こう」
樹里が僕の腕を取る。
「真紀はどうする?」
「紀夫を呼んでお土産でも見てるわ」
「わかった。じゃあね」
樹里と僕はホテルの建物を出た。
敷地の外に出ると道がわからなくなるので、ホテルの敷地内の庭園のようになっているところを歩く。
有馬の3月は寒い。歩いている人はほとんどいない。
「もうすぐお別れだね」
樹里が組んでいる腕にギュッと力を入れた。
もう樹里と会えなくなると思うと、涙が出そうになる。
「うん」
「何かわたしに言うことはないの? もう会えないんだよ」
その言葉を聞いて、僕の心の中から何か込み上げてきて思わず樹里を抱きしめてしまった。
「好きだよ」
背伸びをして樹里の唇にキスをする。
背が低いとこういう時にサマにならない。
樹里が少し屈んでくれた。
僕はゆっくりと唇を離す。
「離したくない」
僕は樹里に囁いた。
「このまま2人でどこか行こうよ。誰も知らない所へ。何とかなるわ」
樹里が真剣な顔で言う。
僕も樹里も高校生で、しかも未成年だ。
そんなことができるわけがない。
「そんなの無理だよ。樹里も分かってるだろう」
樹里は決してバカではない。おそらくかなり頭がいい。
付き合ってみてそれが分かった。
「そうね」
樹里が僕の腕を振り払うようにして離れる。
「ごめん」
樹里を不幸にするとわかっていてそんなことはできない。
「そこが隆司のいいところでもあり、イライラさせらるところでもあるのよね。戻るわ」
樹里が部屋に帰っていく。
追いかけることもできず、黙って樹里の背中を見送った。
翌日、僕と樹里の間には微妙な空気が漂っていた。
僕と樹里の間に流れる不穏な空気に気づいたのか、ホテルでも新幹線の中でも紀夫と渡辺さんは明るく振る舞い、空気を変えようと努力してくれていた。
僕も樹里も表面上は何事もなかったように振る舞おうとしたが、やはりお互いの空気は淀んだままだ。
樹里は僕にキャリーバッグを持たさず、自分で引っ張ている。
「2人で大丈夫か」
最寄り駅に着くと紀夫が心配そうに囁く。
紀夫と渡辺さんの家は僕と樹里の家とは駅を挟んで逆方向だ。
「大丈夫だよ」
無理に笑う。
「樹里、元気でね。落ち着いたら手紙送ってよね」
「うん。送るよ。最後にキスしようよ」
樹里がふざけるように渡辺さんに迫る。
「もう。そんなにキスしたかったら、澤田君としなさい」
渡辺さんは樹里を睨んだ。
「アハハハハハッ。元気でね。真紀」
樹里は渡辺さんとハグをすると僕の方に歩いてきて何事もないように腕を取る。
僕も紀夫に手を振った。
紀夫たちと別れると僕と樹里は腕を組んだまま無言で歩く。
気まずい空気が流れ続ける。
自分のマンションの前まで来ると樹里は僕から腕を放した。
「元気でね。じゃあね」
樹里は手を振ると、マンションの中に入っていこうとする。
「やっぱりいやだ」
樹里の腕を掴んだ。
「一緒に逃げよう。誰も知らないところで2人で暮らそう」
僕はなにを言ってるんだ。
「隆司、無理しなくていいよ。隆司らしくないよ」
樹里が薄く笑う。
「愛してる。離れたくない」
樹里を抱きしめた。
「そう言ってくれるのは嬉しいわ。でも、無理って、隆司も言ったでしょ。もし、今度会う時、2人とも独身だったら結婚しよう」
樹里は優しく僕の腕を掴むと、そっと腕を解いた。
「でも、樹里は婚約者と結婚するんだろう?」
そして僕は許嫁と結婚する。
「そんなのわからないわよ。言ったでしょう。私をギュッと抱きしめてくれて、キスして、プロポーズしてくれないと結婚しないって」
なんか条件が増えてるような気がするけど。
「それに、隆司だって、許嫁に嫌だって言われるかもしれないじゃない」
僕が振られるっていうことね。それ母さんにも言われた。
「見送りに行くよ。明日は何時の飛行機?」
「来ないで」
樹里が冷たく言い放つ。
“Au revoir”
樹里は振り向きもせず、マンションの中に入っていった。
英語じゃなくて今度は何語?
どうして最後の最後まで煙に巻くようなことをするんだ。
翌日、いつものように5時に目が開いた。
学校へ行く必要もなく、勉強する必要もないので、布団の中でゴロゴロしているうちに6時になる。
無意識にスマホを取り、樹里に電話しようとした。
そうだ。もうかける必要はないんだ。手を止めて机の上にスマホを置く。
鼻の奥がツンとする。
することもなく寝ることもできないので、1階に下りていくと、いつものように母さんが朝食の用意をしていた。
「学校ないんでしょう? もう少し寝てたら」
「寝れないんだ」
「そう」
母さんは朝ごはんの準備を続ける。
父さんも母さんも昨日、帰ってきてからなにも聞こうとしない。何か気づいているんだろうか。
「樹里ちゃんはいつアメリカに行くの?」
母さんが何気なく聞いてくる。
「今日らしい」
「見送りにはいかないの?」
「来ないでって言われた」
「そう」
それ以上何も言わない。
「母さんは第二外国語はなに?」
大学では語学を2つ勉強すると聞いたことがある。
ひょっとしたら、樹里の最後の言葉の意味を知っているのではないかと思った。
「フランス語よ。どうして?」
僕の方を向く。
「昨日、樹里にオーブワとか言われた。何語だろう?」
“Au revoir”
母さんが樹里と同じような発音をした。
「それだ」
「さようなら……か。なるほどね」
母さんの顔が一瞬ニヤける。
「さようならって意味なんだ」
「そうよ。フランス語よ」
なにが『なるほど』なんだ。
別れの言葉だろう。
本当に樹里といい母さんといい訳がわからん。
学校が自由登校になり、毎日することもなく、家にこもっていると樹里のことを思い出してしまう。
あの偉そうな口調や僕を怒る時の声、気の強さも今は愛しい。
樹里ともう一度会いたい。
本を読んでもテレビを見ても何も頭に入ってこない。
そんなダラダラした生活を送っていると、卒業式の3日前に母さんが僕の前にエアメールを置いた。
「いつまでも呆けてる場合じゃないわよ。向こうから卒業式の日の午後に会いましょうって言ってきたわ」
僕はじーっとそのエアメールを見た。
「ひょっとして許嫁の人?」
「他にエアメールを送ってくる人はいないでしょう」
またずいぶん急な話だな。普通はもっと余裕を持って言ってくるんじゃないか。
父さんが帰ってくると、母さんがエアメールを見せた。
「まずいな。その日はどうしても仕事の都合がつかないんだが……」
お父さんの顔が渋くなる。
「別にいいわ。私と隆司で会いに行くわ」
「すまんな。頼むよ。隆司、自分の気持ちに正直にな。母さんとよく相談して決めるんだぞ」
父さんは母さんに僕のことを頼んだ。
「大丈夫よ。きっと上手くいくわ」
母さんが自信ありげに言う。
どこからくるんだその自信は?
卒業式の前日は、卒業式の練習や学年末テストが返されてくるだけで、卒業生は午前中には学校が終わり、午後からは在校生が卒業式の準備を始める。
終礼が終わり、帰ろうとする僕に紀夫が声をかけてきた。
「久しぶりに一緒に帰ろうぜ」
「いいよ。おじゃま虫をする気はないよ」
紀夫が気を使っているのはわかっている。
だが、紀夫と渡辺さんの邪魔をする気はない。
僕は鞄を掴むと、教室を出た。
ダメだ。
紀夫にまで気を遣わしてしまうなんて。
しっかりしないと。
明日は許嫁が来る。
許嫁に悲しい思いをさせてはいけない。
僕は自分を奮い立たせるように顔を叩いた。