「隆司、隆司」
 遠くで母さんの呼ぶ声が聞こえる。
うるさいな。眠いんだ。もう少し寝かせてよ。
 僕はベッドに潜り込んだ。

「隆司。いつまで寝てるの。遅刻するわよ。早く起きなさい」
 遅刻?
まさか。
 慌てて頭の上においてある目覚ましに手を伸ばした。

 もう8時だ。
 まずい。
 いつもは5時に起きて、受験勉強をしているのだが、今日は全く起きれなかった。

 学校の始業時間は8時30分。
 家から学校までは走って20分はかかる。

 ベッドから飛び起きて階段を駆け下りると、洗面所に飛び込んで顔を洗う。
「朝ご飯はどうするの?」
 母さんがキッチンから出てきて渋い顔をしている。
「いらない。遅刻する」
 朝ご飯を食べている暇などない。
「ちょっと、朝ご飯を食べないと力が出ないわよ。遅刻してもいいから食べていきなさい」
 遅刻はダメでしょう。
 母さんの声を背中で聞きながら、僕は階段を駆け上がり、部屋に入ると、制服を着てカバンを掴んで玄関に出る。

「行ってきます」
 玄関を勢いよく飛び出した。
 8時10分。
 走ればなんとか間に合う。
自転車で行けば、余裕で間に合うだろうが、うちの学校は駐輪場の関係で自転車通学は認められていない。
 校則を破るわけにはいかない。

 僕が全速力で走っていると、ちょうど家と学校の中間ぐらいのところで、ピンク色のトレーナーを着て、ピンク色のズボンを履いて赤い靴を履いた3歳ぐらいの女の子が「ママ、ママ」と泣き叫びながら歩いているのとすれ違った。
 たとえ遅刻するとしても、僕はこういうのを放っておくことができない。戻って行って、その子の前に回るとしゃがみ込んだ。

「どうしたの?」
「ヒック、ヒック、ママがいないの」
 どうやらママとはぐれたらしい。
「お名前はなんていうの?」
「チイちゃん」
 女の子が泣き笑いする。
「チイちゃんは何歳?」
 チイちゃんは右手の指を3本立てる。どうやら3才のようだ。
「じゃあ、お兄ちゃんと一緒にママを探そうか?」
 チイちゃんが頷いた。僕はチイちゃんを抱きあげた。チイちゃんは暴れもせずにおとなしく抱かれる。

「チイちゃんの家はどっちかわかるかな?」
 とりあえず、家に連れて行ってみようと思った。
「うん。あっち」
 チイちゃんは学校の方を指差す。
 チイちゃんが指差した方に歩き出して、1分も経たないうちにチイちゃんが「ここ」と、また指差した。

 そこは女性専用マンションだった。
 前に母さんと一緒にこのマンションの前を通った時、『ここは女性専用マンションで、全室2LDK以上で、24時間ゴミ出しが出来て、セキュリティもしっかりしているから家賃がかなり高額だって近所の人が言ってたわ』と、言っていた。

 女性専用マンションに男の僕が入っていいんだろうか?
 僕はマンションの前で立ち尽くしてしまった。
「ここ。ここ。入って。入って」
 チイちゃんが叫び出す。

 仕方なく僕はマンションの自動ドアの中に入った。
 マンションは二重扉になっていて、中にもう一つ自動ドアがある。
 中の自動ドアは前に立っても開かない。横を見ると、オートロックの操作盤があり、鍵を鍵穴に差し込むか部屋番号を押して呼び出しをして、部屋から開けてもらわないといけないようだ。

「チイちゃんはお部屋の番号わかるかな?」
 チイちゃんは首を横に振る。
 3歳の子にそこまで期待するのは無理か。

 さてどうしたものか?
 チイちゃんを抱いて思案していると、何人かのOL風の女性や学生風の女子が胡散臭さそうに僕を見ては通り過ぎる。
 だんだんマンションの中で立っているのが気まずくなってきた。

 ふと上を見ると、操作盤の斜め上の天井あたりに監視カメラがあることに気がついた。
 セキュリティがしっかりしていると母さんが言っていたので、ひょっとしたら誰かがこのカメラの映像をマンションの中で見ているのではないか。

 僕はカメラに向かって手を振り、チイちゃんを指差した。
 監視している人に期待をする。
 だが、しばらく待っても誰も出て来ない。
 ダメかと思い、諦めかけたとき、ホテルのフロントウーマンのような格好をした女の人が出てきた。

「何かご用ですか?」
「この子が外で泣いていて、ここに住んでいるっていうんですけど、どこの部屋の子か分かりますか?」
 チイちゃんの顔をフロントウーマンに見せた。
「おねえしゃん」
 チイちゃんがにっこり笑う。
「チイちゃん。また、ママに言わずにお外に出たの? ちょと待ってて。ママを呼ぶから」
 フロントウーマンが操作盤でチイちゃんの部屋を呼び出してくれる。

「大変ね」
 僕の後ろを誰かが声をかけて通った。
振り返ると、うちの高校指定の紺のコートを着た女子の後ろ姿が見える。

 誰だろう。
このマンションに住んでいる女子がいるとは聞いたことがない。
「バイバイ」
 チイちゃんはその女子のことを知っているのか背中に向かって手を振っている。