「それでどうして僕の許嫁が出てくるのか全くわからない」
「最後まで聞きなさい」
父さんがまた話し出した。
「母さんは一人っ子だった。実家の跡を継ぐのは母さんしかいない。田舎の旧家っていうのは、色々しがらみがあるみたいでね。お前のお祖父さんは家を守るために、分家の中から母さんよりも少し歳上の人を許婚に選んでいたんだ」
田舎の旧家では先祖代々受け継いだ土地や財産が一族の外に出ないようにするために一族同士で結婚する風習が残っているところもあるということをテレビか何かで見たことがある。
「ところが、私はそんなことを知らないものだから、大学のサークルで一緒だったお父さんともう付き合っていたの。大学を卒業したら東北に来ると、お前のお祖父さんは思っていたみたいなんだけど、大学卒業をしても東京でそのまま就職したもんだから、激怒されたわ」
それはそうだろうな。大学に通うために残ったんだから、卒業したら当然自分たちのもとに来ると、お祖父さんやお祖母さんが思っても不思議ではない。
「お前のお祖父さんは許嫁がいるからすぐに仕事を辞めて、東北に来て結婚しろって言ったわ。でも、私は父さんのことが好きで、結婚したいと思っていたから、好きな人がいるからそんな会ったこともない人と結婚できないって言ったの。そしたら、お前のお祖父さんはそんな勝手なことをするならお前は勘当だ。二度と家の敷居を跨ぐことは許さんって怒り出したのよ。私も頭にきちゃって、どうぞ勘当してくださいって言ってやったの。そしたら本当に勘当になっちゃた」
母さんが寂しそうに笑った。
そりゃあそんなことを言ったら勘当になるよな。
まだ、ほんの子どもだった頃、お祖父さんとお祖母さんが亡くなったときに、母さんはお葬式にも行かなかったと聞いて、自分の親が死んだのにお葬式にも行かないなんて薄情な人だと思ったけど、そんな事情があったんだ。
「へえー、母さんは財産も親も捨てて父さんを選んだんだ」
どうしてお嬢様育ちの母さんが苦労することがわかっていながら、勘当までされて僕と同じように真面目だけが取り柄の安月給の公務員の父さんと結婚したのか不思議で仕方がない。
よっぽど惚れてたんだね。
「そりゃそうよ。住んだこともない東北で全く会ったこともない人と結婚して暮らすなんて嫌よ。それに父さんはすごく優しいし、父さんのことを愛してたから、離れて暮らすなんてその時はもう考えられなかったもの」
「私も可愛い母さんと離れて暮らすなんて考えられなかったよ」
二人は見つめ合って顔を赤くする。僕はなんだか気恥ずかしくなってきた。
「それからどうなったの?」
「お前のお祖父さんは母さんを勘当すると、その許婚だった人を養子にして一族の女性と結婚させて家を継がすことにしたらしいんだけど、その許婚の人は単に養子になったら、まるで人の家の財産を乗っ取ったようで寝覚めが悪いから、養子になることを断ると言ってきたらしい」
「へえー、すごい人だね」
何もせずに財産が転がり込んでくるんだったら、僕なら喜んで養子になるだろう。それを断るなんてすごい人だと思った。
「そうだな。筋を通す人だと思うよ。そこで困ったお前のお祖父さんは将来的に母さんの子どもとその養子の人の子どもとを結婚させて、財産の半分を継がせたら、乗っ取ることにはならないんじゃないかと言って説得したそうだ」
そんな勝手な話を本人たちのいないところでよく決めれるな。
「それで相手の人は納得したんだ」
それで納得できるのかな?
「そうみたいだな。結婚前に一度だけお前のお祖父さんが父さんに会いに家に来たことがある。母さんの勘当を止めるわけにはいかないが、この条件を呑むんだったら、結婚だけは許してやると言われた。子どもができるかどうかもわからないし、将来、子どもが誰を好きになるかもわからないのにそんな約束はできないと言ったら、それならどんな手を使ってでも母さんとは結婚させないと、怒鳴られた。母さんの実家は大変な金持ちだ。どんな手を使って邪魔されるかわからない。どうしても母さんと結婚したかった。それで仕方なく承諾して、念書を書いた」
「母さんもそれで納得したの?」
母さんを見た。
「仕方なかったのよ。どうしても父さんと結婚したかったから」
「信じられない」
自分は顔も知らない人と結婚したくないとか言っておきながら、息子にはそんな結婚をさせても心が痛まないのかね。
「それに、まさかそんな約束を相手の人がいつまでも覚えているとは思っていなかったし。まあ、その場凌ぎというか」
母さんは申し訳なさそうな顔で僕を見る。そんな顔で見られても、結局、相手はその場凌ぎとは思っていなかったわけだよね。
「はあー、じゃあ僕は会ったことも見たこともないその人の子どもと結婚して、東北で暮らさないといけないというわけなんだ」
納得できたわけじゃないが、僕に許嫁がいるという意味はわかってきた。
「東北へ行く必要はないわ」
母さんが首を横に振った。
「どうして?」
今の話の流れでいけばそういう話になるでしょう。
「それがちょっと複雑な話になってきたんだ」
父さんが腕組みをする。
今でも十分複雑なんだけど。もう訳がわからない。
僕の疑問に答えるように母さんが語り出した。
「私が父さんと結婚する2年ぐらい前にお前のお祖父さんとお祖母さんが相次いで亡くなって、高津さんが私の実家の跡を継いだそうなんだけど……」
「高津さん?」
いきなり出てきた名前に戸惑った。
「養子の人の旧姓よ」
「ああ」
そういえば、母さんの旧姓ってなんだっけ。ずいぶん以前に聞いたことがあるような気がするけど。
「その高津さんから父さんと結婚して6年ぐらい経ってから、電話があったのよ。私の実家を継いですぐに実家のあった村に国だか県だかの何かの施設を作るということで立退かされて、今、アメリカで親戚と一緒に農園をやっているって」
母さんが眉間に皺を寄せた。なんか本当に複雑な話になりそうだ。
「先祖代々の財産を守れなくて、大変申し訳ないので、土地やら家やらの補償金をもらった半分をくれるって言ってきたの。でも、勘当になってる私が今さらそんなものもらえうわけにはいかないし、そのとき隆司が産まれたばかりでそんな話を聞いている余裕もなかったから、『子どもが産まれたばかりでそんなお話を聞く精神的余裕がありませんし、勘当になっているので、今さらそんなお金はもらえません』って言ったのよ」
なかなか子どもに恵まれず、父さんと母さんが子どもを諦めかけた結婚6年目に僕ができたということを聞いたことがある。
「そうしたら、お子さんは男の子ですかって高津さんが言うから、『はい』って答えたら、『自分にはアメリカで生まれた女の子がいるから、約束したとおり二人を結婚させて、私の財産の半分をあなたのお子さんに譲りましょう』なんて言うのよ。そんなことを考えるのも面倒くさくて、よく考えずに『そうですね』って思わず言っちゃったのよね」
母さんが苦笑いをする。笑ってる場合じゃないでしょう。そんなこと言ったら向こうは了承したって思うだろう。
「そして昨日、この手紙が届いた」
父さんが僕の前にエアメールを置いた。
僕は前に置かれた封筒をじっと見つめた。宛名が英語で書いてある。英語が大の苦手で大嫌いだが、宛先がうちであることぐらいは分かった。
「なんて書いてあったの?」
父さんを見た。ひょっとしたら、農園経営に失敗してお金を返せなくなったから結婚の話もないことにしてくれとでも書いてないかと思った。
「アメリカで成功したので、自分の財産の半分を譲るから、約束どおりおまえと自分の娘を結婚させようと書いてあった。お前のお祖父さんにそう誓ったから必ず結婚させようと」
僕の期待は見事に裏切られた。どうやら筋を通す人みたいだからなにがなんでも僕と自分の娘を結婚させるつもりみたいだ。
「その娘さんは来年の春、高校を卒業するから、こちらに連れてきて、おまえと結婚させるつもりだとも書いてあった」
僕も3年生で来年の春には高校を卒業する予定だ。どうやらその娘さんは同じ歳のようだ。
「えーっ、来年の春といったら、今は、10月だから、あと半年もないじゃないか」
いくら許嫁とはいえ、そんなすぐに結婚しないといけないとは思っていなかった。
結婚するにしても少なくとも大学を卒業して、就職をしたあとぐらい、まだ10年ぐらいはあると思っていた。
「そんな見たことも会ったこともない子といきなり結婚しなくちゃ駄目なの?」
僕の知らないところで祖父や親が勝手に決めたことなのに、どうして僕がそれに従わないといけないのだろうか。
「昔は顔も知らない許嫁と結婚するということはよくあったみたいだからな。許嫁ってそんなもんだろう」
父さんは無責任なことを言う。
今はもうそんな時代じゃないでしょう。
「僕はそんなの嫌だな。しばらく付き合ってお互いのことをよく知ってから結婚するかどうか決めるっていうことはできないの?」
どんな顔で、どんな性格かも知らない女の子といきなり結婚しろと言われても困る。相手の子もそんな結婚は嫌じゃないのかな。
「うん。その気持ちはよく分かる。そう手紙を書いてみるか」
お父さんが同調してくれた。
「でも、あなた。隆司とそのお嬢さんが付き合うとしてどこに住んでもらうの?」
「えっ?」
父さんはびっくりしたように母さんの顔を見る。
「だってそうでしょう。隆司と結婚するなら同じ部屋でいいから当然この家に住んでもらうけど、付き合うだけなら結婚するかどうかもわからないんだから、この家に住んでもらうわけにはいかないでしょう。そもそも部屋がないんだから」
僕の家は2階建てで、1階は風呂場、トイレ、キッチン、ダイニング兼リビングと父さんと母さんの寝室があり、2階はトイレと僕の部屋と倉庫代わりにに使っている納戸があるだけで他に部屋はない。
「たしかに」
父さんは渋々という感じで頷く。
「ご両親は日本人だから、その娘さんも日本語は喋れるだろうけど、外国から初めて日本に来る女の子に環境も文化も違うところで一人暮らしをさせろって言うつもり?」
「それは……」
父さんは母さんの正論に反論できないでいる。
確かにお母さんの言うことは正しい。僕もそんな薄情なことを言う気はない。
「あなたはそれで平気なの? 私だったら、可愛い娘をそんな外国で一人暮らしさせることなんかできないわ。向こうの親御さんだってそう思うんじゃないの?」
「うーん……」
父さんは腕組みをして唸る。
「それに、もし、隆司がその子のことを気に入らなかったら断るの? あなたは私の父と約束をしたのよ。念書まで書いて。私も電話がかかってきたときに了承するようなことを言っちゃったし。それに私のこともあるから、よほどのことがない限りこちらから断るっていうのも……。もしも、陽子さんがそういう立場になったら、あなたどうするの?」
陽子さんというのは父さんの3歳年下の妹、つまり僕の叔母さんだ。
お父さんはこの妹が可愛くて仕方ない。
陽子叔母さんは結婚しているが、父さんが大学生の時に両親を交通事故で亡くしたためか恋人同士かと思うぐらい今でも仲が良い。
「そんなことは許さん」
父さんは妹のことになったら人が変わる。
「じゃあどうするの」
母さんが少し冷めた表情をした。
母さんは父さんと陽子叔母さんがあまりにも仲が良すぎるので、よく嫉妬している。
だから、母さんは陽子叔母さんのことがあまり好きではない。
「隆司、結婚しなさい」
父さんが命令口調で言った。
「えーっ」
僕は悲壮な顔になる。
しかし、気持ち的には納得できないがよく考えると、母さんとの婚約話は反故にされ、さらに僕と娘のことまで一方的に断られたら、相手の人はそりゃあいい面の皮だろう。
親の因果が子に報うという言葉を前に学校で習った。
仕方ない。僕は納得するしかないと思った。
「そんなに悲観する必要はないわ。まだ、結婚すると決まったわけじゃないんだから。ひょっとしたら、向こうがお前のことを嫌って断ってくるかもしれないし」
母さんが慰めるように言う。相手の子には断る権利があるんだ。僕にはないけど。
「そ、そうだね」
顔を引きつらせた。僕が向こうに嫌われるようなつまらない人間でもいいわけね。
「それにひょっとしたら相手の女の子がすごい美人で隆司も気に入るかもしれないじゃない。どれくらいくれるか分からないけど、財産もくれると言うし、そうしたらこの家のローンも払えるし、隆司も裕福に暮らせれるし。いいことづくめじゃない」
母さんがあまりにも即物的なことを言う。
東京23区ではない郊外の築20年の小さい家とはいえ、東京の家は高い。父さんの公務員の給料だけでは、35年ローンを払うのは母さんもなかなか大変なんだろう。
その上、来年うまくいけば僕は大学生になる。その学費のことも考えれば、頭が痛くなってくるに違いない。
お金は喉から手が出るほど欲しいだろう。
そんな母さんの気持ちも分かるが、自分は会ったこともない人と結婚するのは嫌だと言って、両親も家も財産も捨てて、愛を取ったくせに金に目が眩んで息子を売るようなことをよく平気で言えるもんだ。
時は、人を変えるものだ。
夜、ベッドに入ったが、許嫁のことが気になってなかなか寝付けなかった。
どんな子だろうか。美人だろうか。気は強いんだろうか。色々な想像が頭の中に渦巻いていく。
明日も学校だから、早く寝ないと遅刻してしまうと焦れば焦るほど余計眠れなくなってくる。
生まれてから非モテ期がずっと続いて、顔も身長も標準以下でカノジョなんかできるはずがないとずっと思い続けてきた僕が、初めて許嫁というカノジョができるかもしれないと思うと、妄想が止まらない。
いろんな顔や容姿を想像しては妄想を膨らませる。そんなことをしているうちにいつの間にかウトウトし始めて夢を見た。
まだ小学生だった頃に読んだ『安達ヶ原の鬼婆』の本の挿絵に書かれていた鬼婆が夢の中に出てきて、『私がお前の許嫁よ。早く食わせろ』と言って追いかけてくる。
僕は必死に逃げたが追いつかれ、後ろから掴まれ転かされて、鬼婆が大きな口を開けて、頭から食べられそうになった瞬間、目が覚めた。
寝汗をグッショリ掻いている。許嫁のことを気にし過ぎだから、こんなとんでもない夢を見てしまうんだ。
こんなことをしてたら明日起きれなくて遅刻してしまう。
時計を見ると、まだ3時だ。
もう一度寝ようとするが、何度も寝返りを打っていっこうに寝付けない。
寝れないのら、無理せず、いっそうのことこのまま起きておこうと思ったが、いつの間にか瞼が重たくなり、意識が遠のいていった
「隆司、隆司」
遠くで母さんの呼ぶ声が聞こえる。
うるさいな。眠いんだ。もう少し寝かせてよ。
僕はベッドに潜り込んだ。
「隆司。いつまで寝てるの。遅刻するわよ。早く起きなさい」
遅刻?
まさか。
慌てて頭の上においてある目覚ましに手を伸ばした。
もう8時だ。
まずい。
いつもは5時に起きて、受験勉強をしているのだが、今日は全く起きれなかった。
学校の始業時間は8時30分。
家から学校までは走って20分はかかる。
ベッドから飛び起きて階段を駆け下りると、洗面所に飛び込んで顔を洗う。
「朝ご飯はどうするの?」
母さんがキッチンから出てきて渋い顔をしている。
「いらない。遅刻する」
朝ご飯を食べている暇などない。
「ちょっと、朝ご飯を食べないと力が出ないわよ。遅刻してもいいから食べていきなさい」
遅刻はダメでしょう。
母さんの声を背中で聞きながら、僕は階段を駆け上がり、部屋に入ると、制服を着てカバンを掴んで玄関に出る。
「行ってきます」
玄関を勢いよく飛び出した。
8時10分。
走ればなんとか間に合う。
自転車で行けば、余裕で間に合うだろうが、うちの学校は駐輪場の関係で自転車通学は認められていない。
校則を破るわけにはいかない。
僕が全速力で走っていると、ちょうど家と学校の中間ぐらいのところで、ピンク色のトレーナーを着て、ピンク色のズボンを履いて赤い靴を履いた3歳ぐらいの女の子が「ママ、ママ」と泣き叫びながら歩いているのとすれ違った。
たとえ遅刻するとしても、僕はこういうのを放っておくことができない。戻って行って、その子の前に回るとしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
「ヒック、ヒック、ママがいないの」
どうやらママとはぐれたらしい。
「お名前はなんていうの?」
「チイちゃん」
女の子が泣き笑いする。
「チイちゃんは何歳?」
チイちゃんは右手の指を3本立てる。どうやら3才のようだ。
「じゃあ、お兄ちゃんと一緒にママを探そうか?」
チイちゃんが頷いた。僕はチイちゃんを抱きあげた。チイちゃんは暴れもせずにおとなしく抱かれる。
「チイちゃんの家はどっちかわかるかな?」
とりあえず、家に連れて行ってみようと思った。
「うん。あっち」
チイちゃんは学校の方を指差す。
チイちゃんが指差した方に歩き出して、1分も経たないうちにチイちゃんが「ここ」と、また指差した。
そこは女性専用マンションだった。
前に母さんと一緒にこのマンションの前を通った時、『ここは女性専用マンションで、全室2LDK以上で、24時間ゴミ出しが出来て、セキュリティもしっかりしているから家賃がかなり高額だって近所の人が言ってたわ』と、言っていた。
女性専用マンションに男の僕が入っていいんだろうか?
僕はマンションの前で立ち尽くしてしまった。
「ここ。ここ。入って。入って」
チイちゃんが叫び出す。
仕方なく僕はマンションの自動ドアの中に入った。
マンションは二重扉になっていて、中にもう一つ自動ドアがある。
中の自動ドアは前に立っても開かない。横を見ると、オートロックの操作盤があり、鍵を鍵穴に差し込むか部屋番号を押して呼び出しをして、部屋から開けてもらわないといけないようだ。
「チイちゃんはお部屋の番号わかるかな?」
チイちゃんは首を横に振る。
3歳の子にそこまで期待するのは無理か。
さてどうしたものか?
チイちゃんを抱いて思案していると、何人かのOL風の女性や学生風の女子が胡散臭さそうに僕を見ては通り過ぎる。
だんだんマンションの中で立っているのが気まずくなってきた。
ふと上を見ると、操作盤の斜め上の天井あたりに監視カメラがあることに気がついた。
セキュリティがしっかりしていると母さんが言っていたので、ひょっとしたら誰かがこのカメラの映像をマンションの中で見ているのではないか。
僕はカメラに向かって手を振り、チイちゃんを指差した。
監視している人に期待をする。
だが、しばらく待っても誰も出て来ない。
ダメかと思い、諦めかけたとき、ホテルのフロントウーマンのような格好をした女の人が出てきた。
「何かご用ですか?」
「この子が外で泣いていて、ここに住んでいるっていうんですけど、どこの部屋の子か分かりますか?」
チイちゃんの顔をフロントウーマンに見せた。
「おねえしゃん」
チイちゃんがにっこり笑う。
「チイちゃん。また、ママに言わずにお外に出たの? ちょと待ってて。ママを呼ぶから」
フロントウーマンが操作盤でチイちゃんの部屋を呼び出してくれる。
「大変ね」
僕の後ろを誰かが声をかけて通った。
振り返ると、うちの高校指定の紺のコートを着た女子の後ろ姿が見える。
誰だろう。
このマンションに住んでいる女子がいるとは聞いたことがない。
「バイバイ」
チイちゃんはその女子のことを知っているのか背中に向かって手を振っている。
「すぐ下りてくるそうなんで、少し待っててください」
フロントウーマンが振り向いて言う。
しばらく待っていると、茶髪を腰まで伸ばした30代半ばぐらいの女の人が出てくる。
「チイちゃん、また勝手にお外に出て」
女の人はチイちゃんを見て怒ったような顔をした。
「ママ」
チイちゃんが手を伸ばす。僕はその女の人にチイちゃんを渡した。
「本当にありがとうございました。よく言って聞かせます」
女の人が頭を下げる。
「いえいえ」
時計を見る。
もう8時24分。
ここから学校まで死ぬ気で走ればなんとか間に合うかどうかだ。
まずい。
「急ぎますんで」
まだ何か言おうとする女の人に僕はそう言うとマンションを出て、全速力で走る。
死ぬ気で走ればひょっとしたら間に合うかも。
しばらく走ると、先ほど声をかけてきたと思われる僕より長身の女子の後姿が見えてきた。
そんなにゆっくり歩いていては遅刻するよと思いながらその女子を抜いていく。
今は人どころではない。
あと1分というところで校門が見えて来た。
これならギリギリ間に合う。
学校の前には信号がある国道があり、この国道を渡らなければ、学校には着かない。
僕が国道に着いた時、ちょうど信号が赤に変わってしまった。
国道は車の量が多く、信号無視をするなど不可能だ。
信号はなかなか変わらない。イライラしながら足踏みをして、待つうちに学校のチャイムが鳴り始めるのが聞こえてきた。
まずい。
鳴り終わるまでに校門を通らないと遅刻になってしまう。
信号が青に変わったとたん猛ダッシュをする。
まだチャイムは鳴っている。
僕が横断歩道を渡り終えたと同時にチャイムの音が消えた。
校門が無情にも閉じられていく。
校門の前に立っている生徒指導の先生がニコニコ笑いながら、僕を見た。
「はい。アウト。なんだ澤田じゃないか。遅刻とは珍しいな。何かあったのか」
先生が珍しい生き物でも見るように僕を見る。
「いえ、単なる寝坊です」
迷い子の家探しをしていましたと言い訳をしたいところだが、チイちゃんのお母さんやフロントウーマンに迷惑がかかるかもしれないのでそんなことは言えない。
「そうか。あとで反省文を出しとけよ」
反省文は書きます。何十枚でも書きます。
だから、遅刻したことを無しにして……くれないよな。
「はあー、分かりました」
先生は僕の名前を手帳にメモしてから校門を開けてくれた。
唯一自慢の無遅刻無欠席が途切れてしまった。
「石野。また、遅刻か。何回目だ」
先生の呆れたような声が後ろから聞こえてくる。
「……」
何かボソボソ言う女子の声が聞こえた。
きっとあのマンションに住んでいる女子だろう。
あの女子は石野って言うのか。石野って名前はどこかで聞いたことがあるような気がするが、思い出せなかった。
教室に入って、窓側一番後ろの自分の席に座ると、机に突っ伏した。
「どうした、隆司。遅刻か? 珍しいな」
前に座っている山崎紀夫が振り向いた。
人見知りの僕にとって紀夫は、小学校、中学、高校12年間で9回も同じクラスになったという人生のほぼ半分を一緒に過ごした気安く話ができる唯一の友人だ。
「ああ、最悪だ。今まで続いていた無遅刻無欠席が……」
僕は机に突っ伏したまま固まった。
「どうして遅刻したんだ?」
「迷い子の家探しをしていた」
「お前らしいな。たしか、小学校と中学校の時もそんなことを言って遅刻したよな」
紀夫の言うとおり小学生の時も中学生の時も遅刻をして、無遅刻無欠席を逃している。
「あれは違う。小学校の時はOL風の人が定期を落としたって言うから一緒に探してたんだ。中学の時はおばあさんが駅への道がわからないって言うから駅まで送ったんだ」
「お前は本当に呆れるほど人がいいな」
「困った人を見たらほっとけないだけだよ。あの国道の信号さえ青だったら間に合ったのに。ついてないよ」
あの信号待ちさえなかったらと思うと、すごく悔しい。
「まあ、悪い後はいいって、よく言うからな。きっとこれからいいことがあるよ」
紀夫が慰めてくれるように言った。
ところが、紀夫の言葉はまったく外れていた。
今日はついてなかった。次から次へと悪いことが起こる。
寝坊して慌てて家を出てきたために、教科書を忘れてしまっていたり、せっかくやった宿題を家に忘れてきて先生に怒られたり、寝不足で頭がボーとしていたためか体育の授業で転けて膝を擦りむいたりとさんざんな1日だった。
「やっと終わった」
終礼が終わると、僕は朝と同じように机に突っ伏した。
今日は異常に長い1日だった。
「ハハハハハ。散々な1日だったよな」
紀夫が鞄を持って、立ち上がると笑った。
「帰るのか?」
「いや、クラブに行ってくる」
「クラブ?」
紀夫は陸上部に入っている。勉強はあまりできないが、身長180センチで痩せマッチョの紀夫は短距離が得意で、あと一歩でインターハイに出場できるというところまでいったことがある。
ただ、3年生は受験があるので、クラブは夏休み前で引退することになっていて、紀夫も引退しているはずだが。
「ああ、カノジョと一緒に帰ろうと思って」
そうだった。
本来なら運動神経のいい紀夫はモテるはずだが、顔がサル顔でまったくモテない。僕と同じで年齢と同じだけのカノジヨいない歴だった。
だが、クラブの引退の日に2年生の後輩に告られるという奇跡が起きた。
紀夫は引退してからも週に何回かクラブに顔を出して、後輩たちと練習をしてからカノジョと一緒に帰っている。
「そうか」
僕は頷いた。
「隆司は帰るのか?」
「今日は図書委員会があるから、今から図書室だ」
「なんか今日はついてないみたいだから気をつけろよ」
紀夫が笑いながら手を振って教室を出て行く。
大きな溜息をつくと、立ち上がり、図書室に向かった。
僕は3年間図書委員をしている。
図書委員など全然なる気はなかったが、1年生の時に澤田は本好きだから図書委員やれよとクラスメートに言われたのがきっかけで3年間図書委員をやるはめになった。
別に、図書委員をやることは嫌ではない。
クラスメイトが言うように本好きだし、図書委員の仕事といっても二週間に一度ぐらいの割合で当番が回ってきて、本を借りに来た人や返しに来た人の手続きをしたり、返却を受けた本を書架に返すだけだからそんなに大変でもない。
貸し出しや返却の手続きも本のバーコードと全校生徒や教職員が持っている図書カードのバーコードをパソコンに読み取らせばいいだけだから簡単だ。
手が空けば図書室の本を読んでもいいことになっているので、本好きの僕にとってはうってつけの仕事だった。
図書の管理などは司書資格を持っている先生が専属でやっているので図書委員が何かする必要はない。あとは月一回開かれる図書委員会に出席することぐらいだ。
ただ、今年はもう一つ役割が増えた。
図書委員長になってしまったのだ。
図書委員長といってもすることは図書委員会の司会と月一回ある生徒会の会議に出席するぐらいだからそんなに負担でもなかった。
図書委員会の司会は司書の先生が必要な話をしてくれるので、後は『質問ありませんか?』とか『何か意見はありませんか』と聞けば、意見や質問がある人が発言して、先生がそれに答えてくれるので気楽にできるし、生徒会でしゃべることもこんな本が入りましたとか、返却期限を守ってくださいとか決まっていることを言えばいいのでなんの煩わしさもない。
クラブに入っていない僕にとってははちょうどいい暇つぶしぐらいに思えた。
僕が図書室に入ると、すでに各学年の図書委員が集まっていた。
しばらく待っていると、司書の先生が入ってきたのでいつもどおりに会議を始める。
ひと通り先生の話が終わり、最後に、僕は「何か意見はありませんか」と聞いた。
いつもなら何もないということで簡単に会議は終わるのだが、今日は違った。
「ちょっと、いいですか?」
1年生のお下げ髪で眼鏡をかけた女子が手を挙げた。
「どうぞ」
僕が言うと、その女子が立ち上がる。
「意見じゃないんですけど、明日、私が当番なんですけど、同じ当番の人が一度もきたことがないんです。明日は当番にちゃんと来てもらえるよう言ってもらえないでしょうか」
「一度も?」
僕は聞き返した。
「はい。1学期は同じ当番の人が病気で休学しているって聞いて仕方ないと思ったんですけど、2学期はその人の代わりに別の人が図書委員になったと聞いたんです。だけど、その人も来ないんですけど……」
その女子は今にも泣き出さんばかりに言う。
たしかに、委員が一人休学しているという話は司書の先生から聞いていて、その分は先生がフォローすると言っていた。
しかし、2学期は新しい委員が選ばれたと聞いて僕も安心していたのだが。
まさか当番にきていないとは。
それに気づかなかったとは僕も委員長失格だ。
「誰だよ? その新しい図書委員って」
「本当よ。私たちも委員だから嫌でもやっているのに。サボるなんて」
「そうよ。そうよ」
ほかの委員たちが口々に文句を言いだす。
図書委員は各学年の全クラスから一人ずつ出ている。全学年6クラスあるので、委員は全員で18人いた。
その18人を二人ずつ9組に分けて当番を回している。1年生は上級生と必ず組むようにしているので彼女と組んでいるのは2年生か3年生だ。
「それって3年D組じゃなかった? たしか、2学期から石野さんに代わったって聞いたけど」
誰かが言った。
「そうです。3年D組の石野さんです」
お下げ髪の1年生が頷いた。
「石野……」
3年生全員が沈黙する。
よりによって石野さんか。
僕の顔も渋くなっていく。
うちは私立の高校なのだが、不良やヤンキーというたぐいの生徒は一人もおらず、素行の悪い生徒もほとんどいないという大変珍しい学校だ。
その中で、石野さんは目立つ存在だった。
僕は石野さんとはクラスが違うから直接は知らないし、噂しか知らない。
石野さんは2年生の時にうちの高校に転入してきた。どこから転入してきたのかなぜか誰も知らない。
身長170センチ近くあり、切れ長の目、鼻も高く、薄い小さな唇の美人顔にギャルメイクをしていて、手足の長いモデルのようなスタイル、腰まである髪を明るいブラウンに染め、制服は着ているものの膝上20センチの短いスカートという目立つ格好で転校初日に登校してきたらしい。
これはあくまでも噂だが、髪の毛を染めてることやスカートの長さ、メイクの濃さは校則違反だろうと先生の間で問題になったそうだ。
だが、うちの高校は自由な校風というのを売りにしていて、もともと素行の悪い生徒がこれまでいなかったこともあり、校則が曖昧で身なりについては「高校生らしい身なりをすること」となっているだけだった。
職員会議では、高校によっては私服OKのところもあるのだから膝上20センチのスカートだから高校生らしくないとも言えないし、髪を染めている高校生もいるので、髪を染めているから高校生らしくないとも言えないし、メイクもうちの高校でも薄くだがしている子もいるので、どこまでのメイクをしたら校則違反になるという基準も決めにくいということになっていったたようだ。
それなら、校則を変えたらどうかという意見も出たらしいが、石野さんを狙い撃ちするような校則変更はまずいのではないかということと、これもあくまでも噂だが、石野さんの転入には理事長が関係しているということで、黙認になったということを聞いたことがある。
結局、石野さんにはなんの注意もなかったようだ。
その後も、石野さんの格好は変わることもなく、授業態度や生活態度もあまりよくないのでクラスの中でも浮いた存在だという噂だ。
その石野さんに図書当番をしてくれというのはなかなかハードルが高い。
「私も担任の先生を通じて、委員会や当番に出るように言ってもらったはずなんだけど……ひょっとしたら、うまく伝わってないかもしれないから、同じ3年生の人で、誰か石野さんに説明に行ってくれないかしら。3年生の人で石野さんと親しい人はいない?」
司書の先生が3年生の顔を見回す。
石野さんと親しい人は3年生はおろかこの学校中を探してもなかなかいないだろう。男関係が派手だと言う噂もあるから、ひょっとしたら男子の中には知り合いがいるかもと思ったが、誰も名乗りを上げない。
「委員長がいいと思います」
突然、3年生の女子が声を出した。
「そうね。委員長も3年生なんだから、委員長が適任だとおもいます」
「賛成」
僕以外の3年生の全員が賛成の声を上げている。
みんなの視線が僕に集中した。
「えっ、僕?」
僕は石野さんのことをまったく知らない。当然喋ったこともない。遠くから見たことはあるが、背の高い子だなと思っただけだ。
いや、一度だけすれ違ったか。チイちゃんのマンションで。
だが、ただそれだけだ。
そんな僕が行って石野さんが話を聞いてくれるだろうか。
だが、みんなが僕に押し付けようとしているのは明らかだ。
それも相手が石野さんなら仕方がないか。
それに僕は委員長だ。当然の役目だろう。
「分かりました。でも、当番に来てもらえるかどうかわかりませんよ」
話しに行けと言われれば行くが、ちゃんと当番にきてくれるかどうかの責任は持てない。
「それは仕方ないわ。とにかく言ってみて。もし、だめなら担任の先生と話をして、委員を他の人に変えてもらうことも考えてもらうわ」
「はい。わかりました」
しかし、本当に今日はついていない。
明日、あの石野さんと話さなければいかないかと思うと、気が重い。
翌朝、いつものように5時に起きて、受験勉強をするが一向に頭に入ってこない。
このまま勉強を続けても意味がないと思い、勉強をやめて、本棚にある本を取り出して読んだりしてみるが、本を読んでいても集中できずに何度も同じところを読んでしまう。
本を読むのも諦めて、重い気持ちのままダイニングに下りていく。
「おはよう」
朝食の用意をしている母さんに声をかけた。
「おはよう。どうしたの。なんだか顔が暗いわよ。何かあったの?」
母さんが僕の顔を見るなり言った。
「別に。寝不足かな」
「本当に?」
「うん」
「だったらいいんだけど」
母さんはまだ心配そうに僕の顔を見ている。
「本当に大丈夫だから」
母さんを安心させるために作り笑いをした。
石野さんは僕の話をちゃんと聞いてくれるだろうか。
そもそも石野さんってどんな子だろう。ヒステリックに叫ばれたり、泣かれたりしたらどうしようとかいろいろなことを思い浮かべてしまう。
「どうしたの? ぼーっとして。やっぱり何かあるの?」
ご飯茶碗を持って食べずにボーっとしている僕を見て、母さんが心配そうな顔をする。
「ちょっと学校でやらないといけないことがあるから、それが気になってただけだよ。大丈夫だから心配しないでいいよ」
「そう? 何かあるんだったらちゃんと相談してよ」
「わかっているよ」
あんなことを引き受けるんじゃなかったと後悔しながらご飯を食べて、家を出た。
午前中の授業は平穏に終わり、昼休みになった。
石野さんは今日が当番だ。
休み時間は短いので教室の移動があったりして話す時間がないかもしれないし、トイレに行ったりして席にいないかもしれないから、石野さんに話をしに行くなら昼休みしかない。
だが、僕はなかなか立ち上がることができなかった。
「どうしたんだ? 早く行かないと食堂いっぱいになるぜ」
紀夫が声をかけてくる。
僕はいつも昼食は食堂に食べに行く。うちの学校の食堂は安くてボリュームがあり、味もそこそこいいので弁当を持って来ずに食堂で食べる生徒が多い。
そのため、ちょっと出遅れると並んで相当待たないといけない。
これまでは一緒に食堂で食べていた紀夫だが、カノジョができてからは、カノジョが弁当を作ってきてくれるので、カノジョといつも一緒にどこかで食べている。
「うん。ちょっと用事があって先にそれを済ませないといけないから」
「だったら、早く済ませた方がいいんじゃないか。昼飯を食う時間がなくなるぜ」
「そうだな。紀夫、石野さんって知ってるか?」
紀夫は友達が多い。ひょっとしたら石野さんの情報を何か持っているかもしれないと思った。
「石野って、D組のか?」
僕が頷くと、紀夫の顔が歪んだ。
「直接は知らないが、性格は最悪らしいな。評判悪いぞ。特に、女子に。なんだ石野に用事か? 告りにいくのか?」
物珍しそうに僕の顔を見る。
「まさか。石野さんは図書委員だからそのことでちょっと話があって……」
「そうか。まあ気をつけてな。あっ、来た。飯食ってくるわ」
紀夫のカノジョが入口で手を振っているのが見えた。
なんだ『気をつけてな』というのは?
石野さんは凶暴そうには見えなかったが、凶暴なのか?
いきなり噛み付かれたり、殴られたりするのか?
僕はますます気が重くなっていく。
なんとか決心をして、やっとの思いで立ち上がると、教室を出た。
僕は文句を言ったり、突っ込んだり、愚痴ったりするが、それはあくまでも心の中だけで、実際に口に出して言うことはない。
平和主義者だ。人と喧嘩したり、争ったりしたくない。
僕が我慢して済むことなら我慢することにしている。
そして、女子と話すのはすごく苦手だ。話さなくて済むなら話したくない。
この役目に一番不適任だと思うんだが。
グズグズと頭の中で色々考えているので、足がなかなか前に進まない。
A組からD組に行くまでにとてつもない時間がかかってしまった。
やっとのことで、D組の前に立つ。
できれば石野さんが昼ご飯を食べに行って席にいないでほしい。
そうすれば、会えなかったという言い訳ができる。
「澤田。珍しいな。誰かに用か?」
D組の顔見知りが声をかけてきた。
「ああ。石野さんいるかな?」
なにも悪いことはしていないが、なんとなくオドオドしてしまう。
「石野? ああ、あそこにいるよ」
窓側の一番後ろの席を指差す。
やっぱりいるのか。僕の願いは無残に打ち砕かれた。
指された方を見ると、石野さんとおぼしき女子の周りを3人の女子が取り囲んで何か話しをしている。
友だちがいないと聞いていたが、意外と人気者じゃないかと思って、少し気軽になり石野さんの方へ近づいていった。
「石野さん、私と和也が付き合っていること知っているわよね。それなのになんで和也にちょっかいを出すわけ?」
石野さんを取り囲んでいるうちのショートヘアのちょっと気の強そうな子の声が聞こえてきた。
お取り込み中のようなので、僕は少し離れたところで大人しく順番を待つことにする。
「あなたが誰と付き合ってるかなんて知らないし、別にちょっかいなんか出していないけど」
思いのほか低音で気だるそうな石野さんの声がした。
僕の単なる思い込みだが、石野さんの容姿からもっと高い声の人だと思っていた。
「うそ。だったら、どうして和也と喫茶店に行って、お茶してたのよ?」
ショートヘアの子は噛みつきそうな顔で石野さんに食ってかかる。
「あれは山田君が奢ってくれるって言うから一緒に行っただけよ。別にお茶飲むぐらいいいでしょう」
石野さんが面倒臭そうに言う。
「お茶飲んだだけじゃあないでしょう?」
なおもショートヘアの子は食い下がる。
「私、見たんだから。山田君にキスしてたでしょう。恵美のカレシって知ってるくせに」
今度はポニーテールの子が火に油を注ぐようなことを言う。ショートヘアの子はどうやら恵美というらしい。
「ああ」
石野さんはつまらなさそうな声を出した。
「何が『ああ』よ」
恵美さんの怒りはおさまらない。
「奢ってもらったから、何かお礼をしようと思って、何がいいって聞いたらキスだって言うからしてあげただけよ。あんなの挨拶程度よ。気にすることないわ」
石野さんはまったく何でもないように言う。
「キスが挨拶程度ですって!!あなた何人よ」
恵美さんは眉を逆立てた。
「本当に軽いわね」
今まで黙っていたツインテールの女の子も同調するように言う。
そりゃあ怒るわな。いくら何でもそれは駄目でしょう。
ここは日本だからその言い訳は通用しないと思うけど。
「そんな言い訳通用すると思ってるの!!」
ほらね。
恵美さんも怒っているでしょう。
「ああ、ウザい。そんなに大事なら他の女にちょっかい出さないように首に鎖でもつけて縛り付けたら。それにあの男がそんなにぎゃあぎゃあ騒ぐほどの男?」
石野さんが軽蔑するように恵美さんを見る。
「自分が誘っといてよくそんなこと言えるわね」
「はあー、私が誘った? 誰がそんなことを言ったの?」
「カレよ」
「ホント、つまんない男ね。カノジョが怖いから嘘をつくなんて」
石野さんが鼻を鳴らす。
「カレは嘘つかないわ」
恵美さんがヒステリックな声をあげた。
「どっちにしても、カレシが私についてくるのはあなたに魅力がないからでしょう。あなたに魅力があるなら他の女についていかないわよ。人に文句を言う前に自分の魅力のなさをなんとかしなさいよ」
石野さんが目を細めて睨みつける。なかなか迫力のある顔をしている。
「なんですって」
恵美さんの顔が怒りで真っ赤になる。
「もうやめなよ。こんな子にいくら言っても無駄だよ。どうせ顔だけの子なんだから。もう行こう」
ポニーテールの子が恵美さんをなだめるように言う。
「そうよ。相手にしちゃダメよ。行きましょう。顔だけで頭は空っぽなんだから相手にしても仕方ないわよ」
ツインテールの子も追従するように言う。
二人に促された恵美さんはすごい目つきで石野さんを睨みつけて教室を出て行く。
石野さんが人のカレシを取るし、男関係が派手ということで女子たちに評判が悪いという噂はどうやら本当のようだ。
「バアーカ」
石野さんは不機嫌な声を出すと、机に突っ伏した。
僕は固まったまま動けなかった。どう見ても石野さんは不機嫌じゃないか。
あんなに怒っている石野さんに話をしないといけないのか?
思わず、僕はこのまま自分の教室に戻ろうかと思った。
しかし、図書委員長の役目として来た以上何も言わずに帰るわけにはいかない。
僕は一つ大きな深呼吸をして、石野さんに近づいていった。