「石野さんなら、きっと情熱的に表現ができるんでしょうね」
渡辺さんが茶化すように言う。
「隆司」
突然、樹里が立ち止まると、紀夫と一緒に後ろを歩いていた僕の方を振り返る。
僕と樹里は向かい合う格好になった。
樹里は一瞬、下を向いて少し膝を屈め、目線を僕の目線に高さを合わせると、すぐに顔を上げた。
切れ長の目を潤ませ、憂いに満ちた表情をした樹里の顔が僕の目に飛び込んでくる。
「好きよ、隆司。胸が張り裂けそうなぐらいあなたのことが好きなの。この胸を切り裂いてわたしの想いを見せてあげたい。ねえー、あなたはどうなの? わたしのこと好き? わたしのこの思いをどうしたらわかってもらえるの? どうすれば伝わるの。好きよ。隆司。愛してる」
いつもの低い声じゃない。少し高い女性らしい艶っぽい声をしている。
やばい。
樹里は芝居のつもりかもしれないが、悩ましい声で話しかけられ、熱情で潤んだ瞳に見つめられたら、樹里のことを本気で好きになってしまいそうだ。
思わず目を逸らしてしまう。
「ねえ、どうして目を逸らすの? わたしはあなたのことしか見ていないのに。どうしてわたしを見てくれないの。あなたもわたしだけを見て。わたしのこと嫌いなの? こんなにこんなにあなたのことを愛しているのに。お願いこっちを見て」
樹里の啜り泣くような哀願する声に思わず、顔を見てしまう。
「お願い。わたしのことを好きだと言って。わたしを強く抱きしめて」
両方の目尻から涙がスーッと溢れ、頬に跡を引いていく艶めかしい樹里の顔に僕はもう抗することができない。
樹里を抱きしめたい。
「好きだよ。樹里」
樹里のスレンダーな体を抱きしめる。樹里も僕の体を優しく抱き返してくれる。
樹里の体から甘い香りが漂い、鼻孔をくすぐっていく。
僕の中で時が止まった。
僕は樹里が好きだ。
どんなに性格が悪くても僕は樹里のことが大好きだ。
「隆司はカレシだからいつでもわたしを抱きしめていいのよ。誰にも遠慮することはないわ。大丈夫よ。堂々としてて。好きよ、隆司」
樹里が僕の耳を愛撫するような甘い声で囁きかけると、体をゆっくりゆっくりと離していく。
「ヒューヒュー」
「暑いね」
周りから冷やかすような言葉が飛んでくる。
普段の僕なら恥ずかしさで逃げ出しているはずだが、樹里のさっきの言葉のお陰で逃げずにその場に踏みとどまることが出来た。
「どう? わたしの演技?」
樹里がポカーンとした顔で立っている渡辺さんと紀夫の方を見る。
「あれ、演技だったのか? 演劇部か?」
「いや。演劇部はまだ体育館にいるだろう」
周りにいた生徒たちがざわめき出す。
「じゃあ、誰だ?」
「あれ、石野だ」
「石野って、あの石野か」
野次馬のように生徒たちが集まってくる。
「あれが演技だったらすごい」
「ほんとう凄いわ。なんか素敵」
憧れのような目で樹里を見ている女子もいる。
「澤田君は樹里のカレシだからああなったのよ」
渡辺さんは樹里に向かって言った。
その言葉を聞くと、樹里が今度は渡辺さんの方に近づいていく。
「真紀、2年生の時にわたしのことを気にかけてくれたのに冷たい態度とってごめんね。あんなに優しくされたら、真紀のことを好きになりそうで怖かったの。ずーっと真紀のことが好きだったのよ。夢で見るぐらい真紀のことが好きなの。ねえ、こっちに来て。真紀のことを抱きしめたいの」
樹里は渡辺さんの両腕を掴むと、自分の方へ引き寄せようとする。
どうやら樹里に変なスイッチが入ってしまったようだ。
「ま、待って。樹里、冗談はやめて」
渡辺さんは必死に突っ張って堪えようとするが、20センチ以上身長の高い樹里の力には勝てず、引き寄せられ抱きしめられてしまう。
「真紀の唇、小さい花びらみたいで可愛いわ。ねえ、その唇にキスさせて。真紀とキスがしたいの。真紀、好きよ」
樹里は左手で渡辺さんの腰を抱き、右手の人差し指で渡辺さんの唇をなぞると、唇を渡辺さんの唇に近づけていく。
「お願い。もう本当にやめて。樹里の演技がすごく上手いことは認めるわ。だから許して」
渡辺さんは樹里の唇から逃げようとして首を横に振り立てる。
「わたしの目を見て。わたしは本気よ。真紀のこの唇にキスしたいの。真紀も覚悟を決めて。大好きよ、真紀」
樹里は両手で頬を挟んで渡辺さんの顔を動けなくして、さらに顔を近づけていく。
「お願い。もう……」
渡辺さんは大きな目をさらに大きく見開き、近づいてくる樹里の目を見つめていたが、やがて覚悟を決めたようにふと目を瞑った。
樹里は唇と唇が触れる寸前で唇を止めると、少しずつ顔をおこしていく。
「うふふふ。冗談よ、真紀。ドキドキした?」
「もうふざけないで」
渡辺さんは顔を真っ赤にして怒ったように樹里の手を振り払い、突き飛ばす。
「ごめん。ごめん。悪ふざけが過ぎちゃった? そんなに怒らないで。そのお詫びに……」
樹里が渡辺さんに近づき、耳元で何か囁く。
「そんなこと……」
「あら、いやなの?」
樹里が冷ややかな微笑みを浮かべる。
「イジワル」
渡辺さんが拗ねたように唇を尖らす。
「山崎君」
樹里が紀夫に呼びかける。
「ここからあとは隆司と2人で回るから、山崎君は真紀と一緒に回ってね」
「あっ、う、うん」
樹里と渡辺さんを呆然と眺めていた紀夫が我に返ったように頷く。
「行きましょう。隆司」
樹里はまださっきの余韻でボーッとなっていた僕の手首を掴むと、集まっていた野次馬の生徒たちを押しのけるようにして校門へと引っ張っていく。
樹里に引っ張られるままに校門の外に出た。
「どこに行くの?」
ボーッとしていた意識がようやくはっきりしてきた。
「お昼ご飯を食べに行こうよ」
「でも、紀夫と渡辺さんはどうするの?」
2人を学校に置いてきてしまったが……。
「あの2人なら大丈夫よ。行きましょう。予約してるんだから」
予約って?
一体、どこにいくんだろう。
樹里に引っ張られるようにして歩いて行く。国道に沿ってずっと歩いていたが、突然横道に入り、住宅街へと入った。
「ここよ」
木製の重厚な感じのする扉の前で樹里が立ち止まった。
「ここ?」
看板も何もない。
普通に人の家だと言われてもなんの違和感もない。
「そう」
たしかによく見ると、扉の横の壁に『Avec Plaisir』と書かれた小さなプレートが埋め込まれている。
これだけでは何のお店か全くわからない。
「ドアを開けて」
言われて、ドアを引いた。
樹里が先に入る。
中に入ると、すぐに小さなフロントがあり、蝶ネクタイをしたタキシード姿の50台半ばぐらいの男性スタッフが立っていた。
「お待ちしておりました……」
ゴホゴホ、突然樹里が咳き込んだ。
急にどうしたんだ?
「……様。大丈夫ですか?」
樹里の咳きで男性スタッフの声がよく聞こえない。
「ごめんなさい。大丈夫よ。なんか喉に引っかかったみたい」
「それならよろしいのですが。先日はお兄様にお越し頂きましてありがとうございます」
男性スタッフは丁寧に頭を下げる。
「その時、兄が予約して帰ったと思うんですけど」
「はい。お二人と承っております。コートをお預かりいたします」
樹里がコートを脱いで男性スタッフに渡す。
コートの下はボルドーのニットにブラウンのスカートというお嬢様風コーデだ。
「お連れ様もコートをお預かりします」
僕もコートを脱いだ。
コートの下は白いワイシャツに濃紺のネクタイ、ポケットのところに校章が入った紺のブレザーに紺のスラックスという学校指定の制服。
どこから見ても普通の高校生。
大人っぽく見える樹里と並んだら姉弟にしか見えない。
「どうぞこちらに」
男性スタッフが僕たちを店の奥へと案内する。
樹里は先に立って歩く。
店の中は隣のテーブルが見えないように両側を壁で隔てられた半個室になっている。
「こちらです」
一番奥の部屋に案内された。
テーブルには、白いテーブルクロスが掛けられ、そのテーブルを挟んで部屋の入り口側と奥に2脚の椅子が置かれている。
部屋の入り口で、樹里が立ち止まって、後ろ手で僕の右手を掴んで引っ張り、小声で
「こっちから行って」
と言った。
部屋に入ると樹里は入り口に近い椅子の左側に立った。
先ほどの男性スタッフが樹里の後ろに立ち椅子を引く。
指示どおりテーブルの右側を回って奥にある椅子の左側に立つと、いつの間にか後ろに白のブラウスに蝶ネクタイをし、黒のベストを着て、黒いスラックスを履いた若い女性スタッフが立っていて、椅子を引いてくれる。
僕と樹里は同時に座った。
「お料理はお兄様からお伺いしてますが、何かお嫌いなものはありますか?」
「特にありません」
樹里が答え、僕も頷く。
「わかりました」
スタッフたちが部屋を出て行った。
こういう高級そうなお店に来たことがない。凄く緊張して、顔が引きつっているのが自分でもよく分かった。
テーブルの上にはお皿の上に布のようなものが花のように折られて置かれている
これはどう使うんだろう?
さらにそのお皿の横には何本ものフォークとナイフが並んでいる。
これどこから使うんだ?
「隆司」
樹里が僕を呼んだ。樹里のほうに目を向ける。
「ここ、昼間でもドレスコードがあるのよ」
樹里は喋りながら、皿の上の布を広げて半分に折り、膝の上に置いた。
そうやって使うのかと思い、真似をして、白い布を膝の上に置く。
「ドレスコード?」
聞いたことあるなあ。
なんだったけ?
「男性はジャケット着用になってるの」
「だから制服で来いって言ったんだ」
「そうよ」
たしかにジャケットは制服以外に持っていない。
そんな話をしていると、さっきのスタッフたちが数種類のパンが入った籠を持ってくる。
「どれになさいますか?」
3種類ぐらいのパンが入っている。
どれも美味しそうで悩んでしまう。
「のりのパンとバゲッド」
樹里が即答する。
「僕も同じで」
分からないときは真似をするに限る。
パンを皿に入れてくれ、バター皿も置いてくれた。
バケッドにバターを塗って食べる。
「美味しい」
バケッドって硬いイメージがあるが、皮もそんなに固くないし、中はしっとりしている。バターもあっさりしていて、クリームのような感じだ。
「美味しいでしょう。ここのパン好きなの。中でも、のりのパンが大好きなの」
樹里は下を向いて、ポシェットからティッシュを取り出して、唇を拭った。
派手な赤色のルージュが取れ、本来のピンク色の唇が現れる。
樹里が一口ぐらいのサイズに千切ったのりのパンを口に入れた。
「もう最高」
樹里が嬉しそうにパンを食べる。
僕もつられて、のりのパンを食べた。口全体にのりの風味が広がっていき、美味しい。
「本当に美味しい。いくらでも食べられそう」
「ダメよ。パンを食べ過ぎたらほかの料理が食べられなくなるわよ」
樹里がそう言うのと同時に、今度は皿に入った料理運ばれてきた。
「まずは、前菜の野菜のテリーヌです」
置かれた皿を見ると、四角くスライスされた肉のようなものに野菜が入っていた。
いざ、食べようと思うが、このたくさんのフォークとナイフの中からどれを使ったらいいか分からない。
店の人に聞こうと思い顔を上げた。
「隆司、これ見て。模様が描かれているよ」
樹里の皿を見る。
皿の上にはソースで模様が描かれていた。
「すごく上手いよね」
「そうだね」
樹里が一番外側のナイフとフォークを取るのが見えた。
そうか。一番外側から使うのか。
フォークとナイフを取り、テリーヌを食べる。すごく柔らかく、野菜と肉の旨みが溶け合い美味しい。
「生まれて初めて食べたけど、これ好きだ」
僕は満面の笑みを浮かべる。
「そんなに喜んでくれたら連れて来た甲斐があるわ。ちょっとごめん」
樹里がフォークとナイフを揃えて食べ終わった皿の上に置くと、椅子にナプキンを置いて立ち上がろうとする。
スタッフがきてすぐ後ろに立ち、椅子を引く。
樹里は僕をチラッと見て皿を見る。
椅子の左側に出て、部屋から出て行く。
食べ終わると樹里がしているようにナイフとフォークを揃えて皿の上に置く。
スタッフが入ってきて僕と樹里の食べ終わった皿を片付けて行った。
なんとなくだけど、樹里は僕が恥をかかないようにそれとなく教えてくれてるような気がする。
樹里が戻ってくると、前菜の後に野菜のポタージュ、舌平目のムニエル、牛フィレ肉のロッシーニー風と続いて、デザートはクリスマスだからということでブッシュ・ド・ノエルが出てきた。
最後にコーヒーと小菓子としてチョコレートやマシュマロが出てくる。
「もうお腹いっぱいだ。」
どれも食べたことがない料理に満足した。
「美味しかった?」
樹里に聞かれ、僕は頷いた。
「凄く美味しかった。特に、フォアグラが美味しかった。聞いたことはあったけど、食べたことなかったんだ。全然臭みがなくて驚いたよ」
「安物は臭みがあるけど、ここのはいいフォアグラを使っているから臭みはほとんどないわ。そんなに喜んでくれてお兄ちゃんに奢らせた甲斐があったわ」
「どういうこと?」
「慰謝料よ。怪我をさせたんだから治療費だけじゃダメよねって言って、ここの代金を払わせたのよ。先払いしているからお金はいらないから」
「悪いよ」
樹里のお兄さんには治療費をもらっている。これ以上何かしてもらうわけにはいかない。
「大丈夫よ。お兄ちゃんにとってこれぐらいのお金は大したことないわ」
樹里が笑った。
いくらお兄さんにとっては大した金額でないにしても、そこまでしてもらっては悪いような気がする。
だが、この店はかなり高そうだ。今の僕ではとても払えそうにもない。
帰ってから父さんたちと相談しよう。
僕と樹里はスタッフたちに見送られて店を出た。
時計を見ると、もう3時を過ぎている。そろそろクリスマス祭も終わる時間だ。
紀夫と渡辺さんのことが気になり始めた。あの後、二人はどうなったんだろう。
「紀夫と渡辺さんはどうしたかな?」
「大丈夫よ。あの2人は、今頃手を繋いで仲良く帰ってるわよ。山崎君の前のカノジョも可愛いって感じだったから、きっと可愛い子が好きなのよ。真紀は性格はきついけど、顔は可愛いからきっと山崎君好みよ。」
樹里が自信満々で言う。
たしかに紀夫は小学生の頃から好きになるのは可愛いという感じの子ばかっりだった。
「でも、渡辺さんが紀夫のことを好きかどうかわからないじゃないか」
渡辺さんは性格はともかくとして可愛いし、頭も良く、いつもテストでは上位10位に入っている。
ゴリラのような顔をした陸上だけが取り柄の紀夫を好きになるとは思えない。
「大丈夫よ」
樹里が自信ありげに言う。
「真紀はわたしと言い合いしている時でもチラチラ山崎君を見ていたんだから、相当意識してるわよ。2人きりにしてあげたんだから上手くいってるはずよ」
そうだったのか。それは分からなかった。
「でも、あの演技すごかったよ。樹里は渡辺さんのことが嫌いだと思ってたのに」
あの渡辺さんにキスしようとした演技はすごかった。
見ているこっちまでドキドキした。
「別に嫌いじゃないわよ。転校してきたばかりのわたしに気を遣って声をかけてくれたし。いい人だなあとは思っていたわよ。ただ、お互い気が強いから言い合いになっちゃうのよね。あれも最初は演技のつもりだったけど、近くで見た真紀の顔があんまりにも可愛いかったから、本当にキスしちゃおうかなんて思っちゃった」
樹里が危ないことを言う。
「樹里。ひょっとして百合?」
「その気があることは否定しない」
その割には女子に嫌われているけど。
「じゃあ、僕とはどういうつもりであんなことしたの?」
あれは本当に演技だったんだろうか?
「どう思う?」
じとーっとした目で僕を見る。
「……」
分からない。
「また、明日ね」
樹里は何も答えず、手を振ってマンションの中に入っていく。
意地の悪い女だ。
でも、樹里が好きだ。僕は自分の気持ちをはっきり自覚した。
家に帰ると母さんが玄関で買い物に行こうとしていた。
「買物行くけど、何食べたい?」
フランス料理でお腹いっぱいだ。
「夕ご飯はいらない」
「どうして?」
「お腹いっぱいなんだ」
「だから、どうして?」
「石野さんとフランス料理を食べたから」
今日は紀夫とクリスマス祭に行くと言って家を出た。
樹里のことは一言も言っていない。
「フランス料理? どういうこと?」
母さんは不審げな顔をする。
「怪我の慰謝料っていうことで、お兄さんに出してもらったって言って、石野さんがフランス料理を食べに連れて行ってくれたんだ」
「治療費をもらったのに。その上、フランス料理まで奢ってもらったの?」
母さんがあきれ返った顔をしている。
「石野さんが治療費と慰謝料は別だからって」
樹里のせいにした。
樹里ごめん。
「もう!! お弁当を作ってもらうわ、フランス料理を奢ってもらうわ。樹里ちゃんのところに迷惑かけっぱなしじゃない。何かお礼をしないと」
母さんが腕組みをする。
「樹里ちゃん、お正月は実家に帰るのかしら?」
「さあ、聞いてない」
普通は帰るよな。
「もし、樹里ちゃんに予定がなかったら、うちに来てもらえば?」
「うちに?」
「そう。正月にひとりぼっちっていうのは可哀想だし、隆司とのデートだけじゃつまらないだろうし」
残酷なことを平気で言う。
「あのねー」
どうせそうですよ。僕とデートなんかしてもつまらないでしょうよ。
親がそんなことを言うか。
「聞いといて」
僕の抗議の声を封じるように母さんは話を締めくくった。
「分かった。聞いておくよ」
不貞腐れた気分になったが、樹里が正月に来てくれるのは嬉しい。
明日の終業式の帰りにでも聞いておこう。
次の日、学校へ行くと、紀夫が嬉しそうにしている。
あれから渡辺さんと二人で回ったらしい。
「真紀と付き合うことになった」
樹里の言った通りだ。
「お前、渡辺さんのこと気が強いから嫌いだって言ってなかったか?」
「そんなこと言ったかな? 最初は気が強くていやだなと思ったんだけど、喋ると意外と可愛いところもあるんだ。それに関西の大学を受けるらしいから遠距離にもならないし」
紀夫がニヤケ顔になる。
一昨日まで落ち込んでいたのが嘘みたいだ。
「よかったな。ビデオの実践ができそうで」
「バカ。そんなことを大きな声で言うな。真紀に聞こえたらどうする」
慌てて紀夫が僕の口を押さえる。
「私に聞こえたら何かまずいことがあるの?」
いつのまにか渡辺さんが僕たちの横に立っていて、目を吊り上げている。
「いや、その……」
紀夫は下を向いてしまう。
さすがに渡辺さんにエロビデオの実践をしたいなんて言えないよな。
「渡辺さんに聞きたいことがあるんだ」
助け船を出してやる。
「珍しいわね。澤田くんが私に聞きたいことがあるなんて」
興味深げに僕を見た。
「樹里にプレゼントをしようと思うんだけど、何がいいかな? 女の子が何を喜ぶか分からないんだ」
母さんに何かお礼をしないといけないと言われて、何かプレゼントをしようと思った。
「そうね。アクセサリーが無難かな。でも、指輪は重いし、ネックレスもなんか首輪を嵌められるみたいで、私はいやかな。ピアスあたりでいいんじゃない。樹里、ピアスの穴を開けてるみたいだから」
「そうなの?」
樹里の耳を見たことはあるが全然気づかなかった。
「まったくどこ見てるのよ」
軽蔑するような目で僕を見る。
「なるほど。ありがとう」
聞いてよかった。自分で考えてたら何を買っていたか分からない。
「ねえ、紀夫。初詣一緒に行こうよ」
渡辺さんも紀夫を呼び捨てにする。
「うん。真紀は振袖を着るんだろう?」
「そうね」
「それは楽しみだ」
紀夫がニヤケ顔で渡辺さんを見る。
「今、なんかいやらしいこと考えているでしょう」
渡辺さんが紀夫を睨んだ。
「そんなことないよ」
紀夫は否定するが、あの顔は絶対Hなことを考えていた顔だ。
そうか。初詣か。
樹里も行くかな。樹里の振袖姿はきっと綺麗だろうな。
「隆司、また来年な」
今年最後の終礼が終わると、紀夫が立ち上がった。
「ああ、来年」
「澤田君、いいお年を」
渡辺さんが紀夫の腕に腕を絡めて、紀夫と一緒に歩いていく。
渡辺さんがこんな積極的な人だとは思わなかった。もっとツンと澄ました人だと思ってたんだけど……。
紀夫と渡辺さんが教室を出て行くのと入れ違いに樹里が入ってきた。
渡辺さんが樹里とすれ違う時に何か言っているのが見える。
「あの2人付き合うことにしたんだ」
「そうみたいだね。渡辺さんはさっきなんて言ってたの?」
樹里を見ると、ドキドキする。
今までこんなことなかったのに。
「『ありがとう』って。どうしたの? 顔赤いわよ。熱でもあるの?」
「なんでもないよ。帰ろう」
腕を樹里の腕に絡める。
「今日はいやに積極的ね。腕を組んでくるなんて。今まではわたしから手を繋いでも嫌そうだったのに」
校門を出ると、樹里が揶揄うように言う。
嘘だ。今まで嫌がったことはない。
「紀夫と渡辺さんが樹里の言う通りになったからびっくりしたよ」
これ以上追求されないように話題を変えた。
「当然よ。隆司は観察力が足りないのよ」
「そうかな?」
ちゃんと観察しているつもりだけどな。
「ところで、樹里はお正月どうするの? 実家に帰るの?」
「帰らない。たぶん一人寂しく家で正月を迎えるわ。カレシからなんのお誘いもないから」
皮肉を言う。
「ゴホン。母さんが実家に帰らないならウチに来ないかって言ってるんだけど……」
僕はわざとらしい咳払いをする。
「へ〜え。おばさんがねえー……へえー。隆司は別に来て欲しくないんだ」
樹里が目を細める。
「も、もちろん、僕も樹里に来て欲しいよ」
「本当に?」
樹里の右の眉が上がる。
「本当だよ。樹里と一緒に初詣に行きたいし」
一緒に初詣に行けると思うとすごく楽しみだ。
「そんなに隆司が来て欲しいんなら行ってあげるわ」
樹里が目を輝かせる。
「じゃー、母さんにそう言っとくよ」
「いつ行ったらいいか聞いといて。特に予定がないからいつでもいいわ」
「わかった。また電話する」
樹里の振袖姿を想像しながらウキウキした気分で家に帰った。
家に帰ると、母さんに樹里が正月に来ることを伝えた。
「年越しそばも食べに来るように言っといて。張り切って作るから」
「わかった。それと明日から陽子叔母さんのお店の手伝いに行くから」
「陽子さんのところへ? どうして?」
嫌いな父さんの妹の名前が出たので母さんの顔が渋くなる。
「叔母さん、年末で家のこともしないといけないのに、お店も忙しいらしいから、朝から夕方まで手伝いをすることにしたんだ」
叔母さんの旦那さんはコンビニの店長をしていて、夜中はアルバイトを雇っているが、朝からバイトの人が来るまでは叔母さんと旦那さんで切り盛りをしている。
「どうして陽子さんの手伝いをしないといけないの。そんな暇があるなら、家の手伝いをしなさい」
母さんの機嫌は悪い。
「樹里にいろいろしてもらってるからプレゼントをしたいんだ。お小遣いを稼ごうと思って、叔母さんに頼んだんだ」
僕は毎月のお小遣いというのは貰っていない。必要なときにその都度母さんに言ってお金をもらっているので、余分なお金を持っていない。
樹里が毎日お弁当を作ってくれたので、毎日もらう昼飯代が貯まっていたが、この間まとめて母さんに返したから、樹里にプレゼントを買うお金が無い。
そこで、昨晩、叔母さんに電話して、アルバイトをしたいと言った。
子どものいない叔母さんは小さいときから僕を子どものように可愛いがってくれている。
叔母さんが旦那さんに頼んでくれて、雇ってくれることになった。
「仕方ないわね。いつまで行くの?」
母さんがため息をつく。
「30日まで」
大晦日には家の用事も済んでお店に出れるはずだから、30日まででいいと叔母さんに言われた。
「大晦日は家の手伝いをするのよ」
母さんは渋々という感じで認めてくれた。
翌日から初めてのバイト生活が始まった。
コンビニの店員の仕事は思っていたよりずーっとハードで、朝から通勤の人がお弁当やパンを買って行くし、休みに入った学生たちがお菓子や雑誌などを買いに来たりする。昼間は子連れの主婦の人たちも来て、店はてんてこ舞いの忙しさだ。
最初は叔父さんの足をだいぶ引っ張ったが、終わる頃には、「大学生になっても続けないか?」と言ってもらえるまでになった。
大晦日の前日までバイトを続け、叔母さんには喜んでもらえて、1万円の約束だったバイト代を1万5000円ももらえた。
これで、樹里へのプレゼントが買える。
もらったお金を持って、すぐに樹里のプレゼントを買いにデパートに向かった。
僕が入ったアクセサリーショップの美人の店員さんはすごく親切で、樹里にいいなと思ったピアスをいくつかつけてみせてくれて、つけた時のイメージを想像させてくれる。
結局、一番樹里のイメージにあっていると思ったチェーンのついた月形のピアスを買った。
樹里は喜んでくれるだろうか。
大晦日は朝から、家の掃除や買い物など母さんと約束したとおり家の手伝いをする。
樹里に電話すると、年越しそばを食べに来ると言っていたので、そのことを母さんに伝えた。
「腕によりをかけて作るわ。美味しい年越しそばを食べさせてあげるって樹里ちゃんに言っといて」
母さんが張り切りだす。
夕方になって母さんから言い付けられた用事も全部済ましてから、樹里のマンションに向かう。
年越しそばは大晦日ならいつ食べてもいいらしいが、うちは夕ご飯代わりに食べている。
いつものように操作盤の前で待っていると樹里が出てきた。
花柄のフレアースカート、黒のニットのタートルネックの上にグレーのコートを着ている。
「隆司の家は年越しそばを食べるの早いのね」
少しでも樹里に触れていたくて、手を握る。樹里はチラッと僕の顔を見た。
「いつも夕ご飯で食べるけど、樹里の家は遅いの?」
「わたしの家は夜の11時ぐらいに食べるかな」
「夕ご飯はどうするの?」
「夕方に軽く食べるわ」
「へえー」
その家によって風習が違うものだなと思った。
それにしてもよく食べるんだな。だから、樹里もお兄さんも背が高いのかな。
家に着くと、母さんが玄関まで迎えに出てきた。
「樹里ちゃん、いらっしゃい。さあ、上がって」
母さんはすごく嬉しそうな顔をしている。よほど樹里のことが好きみたいだ。
「お邪魔します」
母さんは樹里をダイニングに連れて行く。
「こんばんは。また、ご馳走になります」
もう食卓についている父さんに挨拶して、樹里が僕の横に座る。
「樹里ちゃん、いらっしゃい。お兄さんは元気?」
父さんは自分と同じ妹Loveの樹里のお兄さんを気に入っているようだ。
「無駄に元気みたいです」
樹里の答えに父さんは苦笑する。お兄さんの愛情が鬱陶しいみたいだ。
「樹里ちゃん、家だと思ってちょうだい。私も樹里ちゃんを娘だと思うから。そんな改まった言葉を使わなくていいのよ。これ、前に言ってた唐揚げのレシピ」
「ありがとうございます。わたし、言葉遣い悪いですけど、いいですか?」
「いいわよ」
母さんが樹里の前に年越しそばを置く。樹里の言葉遣い本当に悪いけど大丈夫かな。
「うわあー、すごい具沢山」
樹里が感嘆の声を上げる。
うちの年越しそばは具沢山だ。うす揚げや蒲鉾、ネギのほかに半分に切ったゆで卵、鶏肉を入れ、焼いた餅まで入れる。
樹里はが美味しそうにお汁を飲んで、蕎麦を啜る。
「蕎麦の風味が口に広がって、美味しい」
樹里が目を大きく見開く。
「信州の親戚から送ってもらったものだよ」
父さんが自慢げに言う。
父さんの信州に住んでいる親戚が毎年この時期になると、老舗のお蕎麦屋さんで買ったものを送ってくれる。
「そうなんだ。すごく美味しいよ。おじさん。それにこのお揚げも甘くて美味しい。うちのお揚げは全然甘くないの」
揚げを噛み締めて食べている。
「樹里ちゃんは甘い方が好き?」
「うん。好き。ちゃんと油抜きもしているし。うちのは油っぽいの」
「よかったわ。隆司も甘い方が好きよね」
「もちろん」
母さんの甘いうす揚げの入ったおそばが大好きだ。
「樹里ちゃんの家の年越しそばはどんなの?」
母さんが興味津々という感じで聞く。
「わたしのところはもりそばなの」
「そうなの」
「もりそばもいいな。うちも来年はもりそばにしようか?」
父さんはどうやらもりそばを食べたいようだ。
「ダメよ。寒い時にはやっぱり温かい蕎麦の方がいいわ。そうでしょう、隆司」
同意を求めるように僕を見る。
「そうだね」
正直どっちでもいい。
「おばさん、このお揚げの作り方も教えて」
「いいわよ。あとで作り方をメモしてあげるわ。樹里ちゃんが来てくれて、すごく嬉しいわ。うちは隆司だけでしょう。男の子は小さい時は可愛いけど、大きくなったらねえ。樹里ちゃんみたいな女の子がずっと欲しかったの。今から頑張る?」
母さんが父さんに流し目をする。
悪かったね、可愛くなくて。父さんが困った顔しているじゃないか。
樹里の前でそんな冗談やめてくれるかな。
「アハハハハハ。おばさん、それ面白い。隆司に妹ができるんだ」
樹里には大ウケしているけど。
「樹里ちゃんは明日も来てくれるんでしょう。お雑煮作るから食べに来て」
母さんが期待した目で樹里を見る。
「うん」
「樹里ちゃんは、振袖を着るのかな?」
父さんは樹里の晴れ着姿が見たいようだ。
僕も見たい。
「ええ。美容室で着付けをしてもらうの」
それは楽しみだ。樹里が着物を着たらきっと綺麗だろうな。
「樹里ちゃん、行ったり来たり大変じゃない? 今日は泊まっていけば?」
母さんがとんでもないことを言い出す。
「おいおい。樹里ちゃんにどこで寝てもらうんだ?」
父さんもビックリしている。
「あら、1日ぐらいなら、あなたが隆司の部屋で寝て、私と樹里ちゃんが一緒に寝ればいいでしょう。それとも隆司と一緒の方がいい?」
「なに馬鹿なこと言っているんだ。母さん」
思わず叫んだ。
前なら樹里と一緒に寝たとしても絶対何もしないと誓えるが、樹里にメロメロになりかけている今の僕は自信がない。
許嫁がいるのにそんなことになったら大変だ。
最も何かしようとしたら樹里に殴り飛ばされるだろうけど。
「おばさん、冗談やめて」
樹里も当惑している。
“Sooner or later”
突然、母さんが英語を喋った。
母さんって英語を話せるのか? どういう意味だ。
どうして僕の周りは英語を急に話し出すんだ。訳がわからない。
「おばさん、何言っているかわからないわ」
樹里が大きく目を見開き、顔を引きつらせて首を横に振った。
「そう?」
母さんの顔になんとも言えない微笑みが浮かぶ。
「じゃあ、もう帰るわ。明日、また来るわね」
樹里が立ち上がったので、僕も家まで送ろうと思って立ち上がった。
「送らなくていいわ。道はわかるから。明日は来る前に電話する」
樹里はそう言って帰って行った。
大晦日は紅白歌合戦を見た後、夜中まで起きているので、元旦はいつも日が高く上がるまで寝てしまう。
今年も例外ではなく、起きて階下におりていくと、もう日が高く上がっており、母さんが雑煮を作る準備をしたり、赤飯を炊いたりしていた。
「おはよう。よく寝れた?」
「うん」
「よかったわね。朝ご飯は遅くなるかもしれないけど、樹里ちゃんがきてからにしようか?」
「それでいいよ」
僕は頷いた。
「ねえ、母さん」
「なに?」
「母さんって、英語を話せるの?」
昨日聞くまで母さんが英語を喋っているのを聞いたことがない。
「あら、言わなかったかしら。英文科出てるんだけど」
「うそ」
父さんが法学部だから、母さんも法学部だと思っていた。
「本当よ」
「どうして、言ってくれなかったの。知ってたら英語を教えてもらってたのに」
大の苦手で大嫌いな英語を教えてもらえれば内申点ももう少し上がったのに。
「でも、卒業してから全然使ってないから錆びついてだめよ」
昨日のあの発音はネイティブみたいだったけどな。
「昨日、樹里になんて言ったの?」
「ヒミツ」
イタズラっぽい笑顔で答える。
また秘密か。
樹里といい、母さんといい女の人は秘密好きらしい。
部屋に戻ると、樹里からメールが来ていた。
今、着付けが終わったからこっちへ向かうと書いてある。
迎えに行こうかと、返信すると、行き方は分かっているので別にいいと返ってきた。
僕はキッチンにいる母さんに樹里がもうすぐ来ることを伝えた。
しばらく待っていると玄関のチャイムが鳴る。
玄関に出ると、赤地に松竹梅を散りばめた振袖に金地に花柄をあしらった帯を締めた樹里が立っていた。
華やかな振袖姿は樹里の美しさをさらに引き立てていて思わず見とれてしまう。
「何をボーッとしてるの。わたしの美しさに見とれてるの?」
樹里が小馬鹿にしたように言った。
「ごめん。入って」
樹里を中に招きいれる。
「おめでとう。樹里ちゃん、綺麗だわ。やっぱり樹里ちゃんは美人ね」
母さんは樹里を見て感嘆の声を上げた。
「おめでとうございます。おばさんも綺麗だよ」
母さんは淡いピンク地に小桜が舞っている小紋を着ている。
「樹里ちゃんに褒められて嬉しいわ」
母さんは樹里のような美人ではないが、僕より10センチほど背が低く、全体的に小作りで友達は小さくて可愛いと言っている。
着物もよく似合っている。
ダイニングに入ると、まだかまだかと樹里を心待ちにしていた父さんがニッコリ笑う。
「樹里ちゃん、おめでとう。やっぱり、女の子がいると違うね。家の中が華やぐよ」
紺の紬に羽織を着た父さんが樹里を眩しそうに見る。
「おじさん、おめでとうございます」
樹里は昨日と同じ僕の隣に座った。
「はい。どうぞ」
母さんがお雑煮をそれぞれの前に置いて、自分の席に座る。
「いいかな。明けましておめでとうございます」
父さんの声に合わせてみんなで新年の挨拶をした。
「じゃあ、お雑煮を頂こうか」
「いただきます」
お雑煮はおすまし仕立てになっている。これは代々母の家に伝わるお雑煮で、餅、蒲鉾、椎茸などが入っている。
「おばさん、本当に料理上手だよね」
樹里が感心したようなに言う。
「樹里ちゃんは本当に誉め上手ね。嬉しくなっちゃう」
母さんが目を細めている。
「今年は隆司も大学生だ。いろいろしっかり頑張らないとな」
父さんが檄を飛ばす。
「うん。頑張るよ」
僕は頷いて、お雑煮を食べている樹里の横顔を盗み見る。綺麗だ。
もう樹里の虜になりそうだ。
「ところで、樹里ちゃんは高校卒業すしたらどうするのかな? 隆司に聞いたんだが、アメリカに行くそうだね。留学でもするのかな?」
今まではぐらかされて聞けなかったことを父さんが聞いてくれる。
樹里はしばらく黙っていたが、重い口を開いた。
「実は、婚約者がいるの」
「ええッー」
僕は思わず叫んだ。
「でも、その婚約者はパパが勝手に決めた人で、会ったこともなかったんだけど、少し前に会ってその人はどうもわたしのことを気に入ったみたいなの」
少し前っていつ会ったんだ?
「じゃあ、その人はアメリカにいて、樹里ちゃんはその人と結婚するためにアメリカに行くのか」
父さんがそう聞くと、樹里は首をひねった。
「さあー。よくわからないんだけど、パパがいま仕事の関係でアメリカにいて、アメリカに来いって言われているの」
僕は樹里に婚約者がいると聞いてショックだった。
婚約者がいるのに僕と付き合っていたのか?
ひどいじゃないか。
「樹里ちゃんにも婚約者がいるのか」
父さんの言葉に僕は自分の立場を思い出した。
僕も許嫁がいるのに、樹里と付き合っていた。
人のことは言えない。
「だから、隆司と付き合えるのは卒業までなの」
樹里が微笑んだ。
どうせ樹里にとっては、僕は暇つぶしの相手なんだろうな。
僕の中では樹里の存在が大きくなってきてるのに。
母さんが下を向いて肩を震わせているのが見えた。
泣いているのだろうか。そんなに樹里と別れるのが悲しいのかな。
「クックックックッ」
笑いを押し殺したような声が聞こえてくる。
「なにを笑っているんだ、母さん」
父さんがびっくりしたように隣の母さんを見る。
「なんでもないの。樹里ちゃん、隆司と一緒に父智丘《ふちおか》神社に初詣に行ってきたら」
僕と樹里が食べ終わったのを見て、母さんが笑いを噛み殺しながら、樹里に言う。
「おばさん、笑いすぎよ」
樹里が不機嫌な声を出す。
「ごめんなさい。あんまり可笑しかったから。ほら、隆司、早く行って来たら」
何がそんなに可笑しいんだろう?
家を出ると、歩いて5分ぐらいにある父智丘神社に向った。
「ごめんね。母さん、失礼だよね。あんなに笑って。何がおかしかったんだろう?」
母さんの代わりに樹里に謝った。
「ううん。いいの。気にしてないわ」
気にしていないと口では言いながら、樹里は浮かない表情だ。
いつもはけっこう早く歩く樹里だが、今日は着物のせいかかなりおしとやかに歩いてる。
父智丘神社はこの辺りの氏神様なので、鳥居を通って、中に入るとかなりの人が行き交っていた。
「あら、澤田君と樹里じゃない」
聞いたことのある声が樹里を呼んだ。
「あら、真紀。おめでとう」
「おめでとう。紀夫も一緒だったんだけど、途中ではぐれちゃったのよ。見なかった?」
渡辺さんがキョロキョロと辺りを見回す。
「今来たところだからね。見なかったな」
僕は首を振った。
「そうか。どうしよう?」
渡辺さんが困った顔になる。
「鳥居のところで待っていれば? 鳥居を通らないと帰れないんだから絶対通るわよ。もし、山崎君を見たら真紀が待っていると伝えておくわ」
神社の中に入るのも外に出るのも必ず鳥居を通る。
「わかった。鳥居のところにいるわ」
ピンク地に牡丹の花が描かれた可愛い感じの振袖を着て、髪をアップにしている渡辺さんが鳥居の方へ歩いていく。
「行こう」
樹里がそっと手を引っ張る。
全国の有名神社ほどではないが、それなりに人出があるので、拝殿まで列ができている。
僕と樹里は列の一番後ろに並んだ。
「樹里の婚約者ってどんな人?」
樹里が言っていた婚約者のことがずっと気になっていた。
「気になる?」
意地の悪い笑みを浮かべている。
「会って話をしたの?」
「話したわよ。全然イケメンじゃないし、カッコ良くもないけど、優しい人よ。好きだとかは言ってくれないけど、わたしのことをすごく思ってくれてるんだなあっていうのは態度でわかるの」
最近、会ったと言ってたけど、僕と付き合う前のことだろうか?
いつ会ったんだろうか?
「樹里はその人のこと好きなの?」
だんだんイライラしてくる。
「そうねえ。その人が愛していると言ってギュッと抱きしめてくれて、結婚してくれって言われたら、堕ちちゃうかも」
胸が締め付けられそうになった。
だが、樹里に何も言うことはできない。
僕にも許嫁がいる。
樹里と僕はW不倫ということか?
あと3ヶ月もすれば卒業だ。卒業すれば樹里はアメリカに行き、僕は許嫁と婚約か結婚かすることになる。
どう足掻いてもそういう運命だ。
それなら今この時を楽しもう。
嫉妬とかするよりも今、樹里といれることを喜ぼうと思った。
そんなことを考えているうちに僕と樹里が拝殿の前に立つ順番になった。
僕は自分と家族の健康と幸せを祈り、そして、樹里が幸せになることを祈った。
隣の樹里は何を祈っているのだろうか?