下を見ると、一歩、また一歩と、足が勝手に前へ進んでいく。
 やがて僕は、白線の半歩手前まで来ていた。この白線を超えるともう戻れない気がした。振り返って後ろを見る。さっきまで僕が座っていた古びたベンチがある。そして再び前を見た。そこには、何もなかった。
 僕は一歩踏み出し、白線を超えた。
「電車が通過します。ご注意ください」
 再びかかるアナウンスとともに、駅構内には陽気な音楽が流れ始めた。 その音楽が雨音と混ざり合い、どこか悲しんでいるようにも聞こえた。
電車が見えてきた。僕はホームぎりぎりの淵に立っている。もう少し足を踏み出すだけで線路に落ちることができる。
 あと数秒で電車はやってくるだろう。
 僕は一つ大きな深呼吸をして、目を閉じた。
「今日死んだら、明日は変わるのかな」
 右足を上げ、踏み出そうとした。自然と恐怖はなかった。
「山野くん、山野…啓くん!」
 鼓膜に突き刺さるような叫び声に僕は思わず目を開き、右足をホームにもどす。そして名前を呼ばれた方へ顔を向けた。
 そこでは、同じ高校の制服を着ている女の子が雷にでも直撃したような表情で僕を見つめている。
 見覚えがある顔のその少女は、必死の形相でこちらに駆け寄ってくる。
 その時、僕がなんでそれを言ったのかは分からない。
 分からないんだけど……。
「ありがとう、成瀬さん」
 僕は笑顔で彼女に、そう告げていた。
 電車はスピードを緩めることなく、数十メートル先まで迫っている。
 なんで成瀬さんはここにいるんだろう。
 なんで僕の名前を知っているんだろう。
 なんで、僕を助けようとしているんだろう。
 そんな疑問をホームに残し、僕は再び前を見て、目を閉じる。
 目の前が真っ暗になり、世界からは音が消えていく。
 そして、僕は足を前に踏み出した。
 何かが背中に触れる感覚とともに、僕の意識は光の中に消えていった。