僕は肺いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そしてまた吸い込んだ。
「あの日、珍しく父さんが『散歩に行こう』なんて言い出すから、雨か雪が降ることを覚悟して家を出たけど、まさか、わき見運転してたトラックに突っ込んでこられるとは思わなかったよ」
 僕はもう一度空気を吸い込んだ。
「でもそれ以上に、父さんが僕を守ってくれるとは思わなかった。すごい衝撃音の後に残ったのは、どこも痛くない体と、頭部から流血して倒れてる父さんだけだった。そして父さん、最後の力を振り絞るように僕に言ってきたんだ。
『啓が、無事でよかった』って」
 僕がこの話を平然とできているのは、あの出来事が僕にとって、仕方のなかった過去として割り切ることができているからだ。
「その時、僕は気づいたんだ。父さんは、僕を嫌ってなんかいなかったって。不器用なやり方しかできない父さんだったけど、この人なりに僕のことを思ってくれてたんだって。そして僕も、本当はそんな父さんの気持ちを理解してたってことも」
 もう遅かったけどね、と付け足した。
 少し僕の昔話を挟んでしまったけど、要するに僕が言いたいことは……
「この世に子供のことを思わない親は存在しない、とまでは言わないけど、少なくとも成瀬さんのお父さんは、成瀬さんのことを想ってくれていると、僕は思うよ」
「…………」
「お父さんが、成瀬さんが医者になることを反対するのには、何かお父さんなりの考えがあってのことなんじゃないかな」
「………違う」
「そして、もしかしたら成瀬さんも、その理由に気づいてるんじゃないの」
「……知らない」
「いや、知ってる」
「…っ、山野くんに何が分かるの!」
 成瀬さんの叫び声とともに、乾ききっていたはずの目からは再び涙があふれ出てきた。
 いつもの僕ならここで黙り込んでいただろう。
 ただ、今日は違った。
 成瀬さんの言葉が僕の中に入ってくる前に、気づけば僕も叫んでいた。
「僕だって、君のお父さんのことは知らない。でも………」
 いつ以来だろう。僕が心の底から誰かを想って口を開くのは。
「僕は、君を知ってる」
 そして一度動き出した僕の心は、止まろうとしなかった。
「頭が良くて友達がたくさんいて人気者で、それが君を知る前の、僕の中にいた『成瀬花菜』だ。僕は、自分と真逆の存在だった君のことが、嫌いだった。いつも誰かが隣にいて君の顔からは笑顔が絶えなくて、幸せそうにしている君のことが、僕は嫌いだった」
 でも、それは間違ってた。
「あの日、君に命を救われて、僕の生きる理由探しを始めたあの瞬間から、僕の中の『成瀬花菜』は姿を変え始めたんだ」