「……だてに五か月も生きる理由探しに付き合わされてないから」
「そっか、もうそんなに経ってるんだね……」
 小さな声でつぶやくと成瀬さんは腰を上げ、散歩ほど前に進んだところで立ち止まった。そして何かを望むように、遥か彼方にある水平線をながめている。
「……私ね、将来は医者になりたいと思ってるの」
 僕に背中だけを見せたまま話す成瀬さんの声は、波や風の音にかき消されることなく、大気中を透き通るようにまっすぐ僕の耳に届いてくる。
「もっと言えばね、お父さんが総合病院の院長を務めてるんだけど、私はそこで、一人の医者として働きたい」
 これは、僕も噂程度だったが聞いたことのある話だ。
「女の子で医者を目指すのって、自分でいうのもなんだけど、結構珍しいことだと思うの。最近は徐々に女性医師の数も増えてきてはいるけど、それでもやっぱり男の人の割合には圧倒的に及ばないから。それに私は脳の分野を専攻にしたいと思ってるから、それこそ女の人って少なくてさ」
 成瀬さんはまだこちらを見ない。
「でもね……それでもね、私は本気で医者になることを目指してるの。だから中学生の時からは本格的に勉強を始めたし、それを持続して高校でも必死に頑張ってる。高校を卒業してからはもちろん医学部のある大学に進学しようとも思ってる。……私は、夢をかなえるために全力で努力してきたし、これからもそれをやめる気はないの。それなのに……」
 声でこそ平静を装っている成瀬さんだが、表情が見えなくても、その背中からは悲しみや悔しさの感情が僕には十分に読み取れた。それほどまでに、成瀬さんの後ろ姿は弱々しいものに見えた。
「お父さんはね、私が医者を目指すことを、認めてくれないんだ」
 その言葉を口にした瞬間、それまで水平線に向けられていた成瀬さんの顔は、まるで何かを諦めるように自分の足元へと方向を変えた。
「私が中学二年生の時に、初めてお父さんに『私、医者になりたい』って言ったらね、お父さん、なんて言ったと思う?」
「…………」
「お願いだからやめてくれって、真剣な顔で言ってきたの。私てっきり応援してもらえるものだと思ってたから、最初はその言葉がどうしても受け止められなくてさ。
 私は思ったの。もしかしたらお父さんは、私が賢くないから反対してくるのかもしれない。だったら、賢くなれば認めてもらえるだろう、ってね」
「……成瀬さんは、賢くなかったの?」
「定期試験だと二百人中九十位とかだったかな。今思うと、到底医者を目指せるレベルじゃなかったよ」
 僕は素で驚いた。今でこそあんなに偏差値の高い高校で上位をキープしている成瀬さんに、僕と同じような順位をとっていた時期があったなんて。
「だから私は勉強したの。勉強して、いい成績をとって、賢くなったよって、私も医者を目指せるようになったよって、お父さんに認めてもらいたくて。
……でも、それは違ったの。私が勉強して結果を残していくたびに、お父さんはとても辛そうな顔をするんだ。中学三年生の時に一度だけ定期試験で学年一位をとったことがあったんだけど、それでもお父さんは少しも褒めてくれなくて、ただ『医者だけは、目指さないでくれ』って」
 当時を振り返るように話す成瀬さんの声は、僅かに哀感を帯び始めた。