「とりあえずは、おつかれさまだね」
「………」
「あれ、どうしたの山野くん?」
「…僕は成瀬さんのおかげでこんなにはやく課題を終わらすことができたよ」
「うん」
「でも成瀬さんのおかげで『こんなにはやく終わらせられた』って気持ちになれないから、少し複雑な気分だよ」
「あはは、なんだ、そんなことかー」
 成瀬さんは微笑しながら目の前に置いてあるカップの持ち手をつまみ、湯気が出ているコーヒーを一口すする。外はあんなに暑かったのに成瀬さんがホットコーヒーを注文しているのは、少し効力を発揮しすぎている店内の冷房が原因だろう。
「たしかに私もちょっとは助言したけどさ、それはあくまで『過程』を教えたに過ぎないんだよ。そこから答えを導きだせたのは、紛れもなく山野くん自身の努力の結果なんだから、私なんかと比較せずに、今は頑張った自分を素直に褒めてあげよ?」
 にこやかな笑顔をみせる成瀬さんはおそらく、電車でお年寄りに席を譲った、くらいの感覚にしか思ってないかもしれないだろうけど、僕がその『過程』を教わるという行為にどれほど助けられ、そしてどれほど成瀬さんとの差を痛感させられたのかを、彼女は知る由もないだろう。
 ただ、本人もこう言ってくれていることだし僕がこれ以上悩むのは時間の無駄でしかない。
「そうだね。じゃあ恐縮ながら、そうさせてもらうよ」
 そう言うと、成瀬さんはご満悦な様子で頷いた。
 僕は少し乾いたのどを、いつもスーパーで買うものより五倍の値段もするアイスコーヒーでのどを潤した。味の違いに全く区別がつかないけど、それは僕の味蕾が無能であるからだと信じたい。
 コンクリートのブロックを茶色く塗装して西欧風のおしゃれな空間に仕上げられた内装と、アンティーク調の丸いテーブル、それと店内に優しく響き渡るクラシックを彷彿とさせるようなオルゴールの音色が、日本じゃないどこか別の国にいるかのように思わせてくれ、周囲の雑音でさえこの景観の一部と化している。
「それじゃあ、さっそく予定を決めよっか。山野くんはいつがいい?」
「僕はいつでもいいよ、成瀬さんの都合がいい日で」
「ほんとに? じゃあ八月の三十一日がいいな」
「…いいんだけど、なんでわざわざ夏休みの最終日なの?」
「最終日にご褒美が待ってるって考えたら、まだまだ勉強頑張れるでしょ?」
 別に海に行くことは僕にとってはご褒美でも何でもないのだけど、その日に行きたいという成瀬さんの意見に反対する気もさらさらない。
「分かったよ、じゃあ八月三十一日で」
「よし! そうと決まれば、また明日からも勉強頑張ろうね」
 成瀬さんは自身を鼓舞するように、カップに残っている湯気の消えたコーヒーを一気に胃へ流し込んだ。そしてまだ半分ほど残っている僕のグラスを確認した後、僕に視線を移して何かを促すような不敵な笑みを浮かべた。
 僕はそんな成瀬さんの無言の要求の把握したうえで、成瀬さんみたく勿体ないことはしたくないので、相変わらずしっかりと味わいながら飲み進めた。
 成瀬さんは、裏切り者と罵るような目で僕を見ていたが、気にせずゆっくり飲んだ。