電車のブレーキ音がうるさかったはずなのに、僕には成瀬さんのその言葉がはっきりと聞こえた。完全に停車した電車の扉が、炭酸が抜けるような気持のいい音とともに開くと、小太りなサラリーマン風の男性が一人降りてきた。その男性はスーパーの袋を片手にぶら下げながら、小走りで改札のほうへ向かっていった。
 僕も成瀬さんも、ベンチから立ち上がろうとしなかった。
 やがて電車の扉は閉まり、次の駅に向けて走り出していった。
「別に、大した理由なんてないよ。ちょっと魔が差しただけだよ」
「魔が差しただけで、山野くんは、人生を捨てようとしてたの?」
「……そうだよ」
 成瀬さんは「そっか」と言って小さくうなずいている。それからまた口を開いた。
「怖い、とかは思わなかったの?」
「そういう感情は、なかったよ」
 この時点で質問が一つじゃないんだけど、と心の中で突っ込みをいれてから、僕は話を続ける。
「怖いって感情は、場面によって意味合いが違ってくる思うんだけど、死ぬことに対して怖いって思えるのは、その人に生きたいって気持ちがあるからだと思うんだ」
「じゃあ山野くんには、生きたいって気持ちがないってこと?」
 何気ない日常会話をするような穏やかな口調で、成瀬さんは僕に聞いてくる。
「僕には……やりたいこととかなりたいもの、目標なんてものは何一つないからね。だからこれから先、絶対に生きたいとも思ってないよ」
「……そっか」
 そう言うと成瀬さんは、真剣な面持ちでしばらく黙り込んだ。西のほうを見ると、夕日は完全に見えなくなっていた。
「………よし!」
 突然、成瀬さんが勢いよくベンチから立ち上がった。そして、何かを決意したような顔で僕のほうに歩いてくる。
 思わず僕も立ち上がり、体を成瀬さんのほうに向けた。
 成瀬さんは、僕が目一杯手を伸ばしたら届きそうなくらいの距離で立ち止まった。
 僕たちの間に、妙な緊張感が走り出した。
「手伝ってあげる!」
「……………はい?」
 急な成瀬さんの宣言に、僕の耳がおかしくなったかと思いながら一応聞き返してみた。
「もう一回、言ってもらってもいいですか?」
 意識せずに敬語になってしまった。気温はそんなに高くないはずなのに、僕の額からは汗が滲み出てきた。
「だから、私が手伝ってあげる!」
「だから何を?」
 要領を得ない成瀬さんの発言に再び聞き返しながらも、なにか面倒くさいことになる気がすると僕の中のセンサーが反応している。そのくらい、目の前の成瀬さんが見せてくるこの笑顔が僕にはまぶしすぎた。
 それから成瀬さんは少し息を吸って、それを優しく大気中に返すように口を開いた。