「さっきお昼のあとにさ、就職課に寄ったらこんな紙を渡されたんだけど」

 教授が見せてくれた紙には、「従業員募集!」の文字がでかでかと書かれていた。


――南信州星降り温泉「いざなぎ旅館」。

環境省が選んだ日本でいちばん星空の美しい温泉で働いていませんか。

学歴性別その他もろもろ不問。

先輩たちもとてもやさしくて、アットホームな職場です。

やる気のあるあなたを全力サポート!

社保その他、福利厚生も充実!

まず一晩泊まって疲れを癒やし、それから面接しましょう!

(このチラシをご持参いただいた方は一泊無料です)


 ……とても怪しい。

 星空が売りのようで、天の川の写真が貼り付けてあるが、レイアウト的にはとってつけた感が満載だった。一行一行違うフォントを使っていて、大きさもまちまちで読みづらい。イメージキャラなのか、デフォルメされた鬼のイラストがあって、吹き出しに「待ってるよ」とセリフが書かれていた。

 私はデザインの専門家でもないし、美術の成績が良かったわけでもないけれども、一見してなかなかすごいチラシだということは分かる。

 じっくり見れば見るほど怪しい。

 だが、信じがたいことだけど、ちゃんと学生課と就職課の印が押されていた。うちの大学はこのチラシを求人広告として承認したのか……。

 あまりに怪しすぎて思わずじっくり見てしまう。求人広告として、注目させることが目的なら、その目的を達成しているから良い広告なのかもしれなかった。

 しかし、これまでの就職活動の経験上、並んでいる文言は、昨今でいえば、〝うちはブラック企業です〟と宣言しているようなものではないか。
すると、私の戦慄をよそに教授が笑顔で告げた。

「アットホームで福利厚生が充実しているなら、悪くないと思うよ?」

「はあ……」

 長くて白い眉毛がたれて、半分泣いているような笑顔になる教授には、そのように読み取れたらしい。

「それに星空がきれいな温泉宿なんていったら、女性は大好きだろうし、今後は外国人観光客も増えるんじゃない? そうしたら、大学で勉強した英語も生かせると思うんだ」

「そうですね……」

 教授なりに考えてくれていたようだ。とはいえ、お昼に私と会ったあと、就職課であのチラシをもらってきたのだとしたら、私が就活大敗北を迎える可能性を考慮していたことになるわけで、教授、ひどい。

「とりあえずさ、そんな気分じゃないだろうけど、誰よりも就活頑張ったんだし、温泉で一服するだけでもいいんじゃないかな。ほら、ギターの弦みたいに、張り詰めすぎてちゃプチンと切れちゃうよ。それに行ってみたら意外にいい所かもしれないし……」

 コーヒーをすすりながら教授が勧める。だんだん早口になってくる。これは授業やゼミで気持ちが乗ってきたときの教授の癖だった。

 教授の不器用なやさしさが、少しずつ私の背中を押していた。

 あやかしや霊が見える私にとって、このゼミで過ごした時間はすごく居心地が良かった。何しろ、ゼミに入ってからの二年間、教授があやかしや悪霊の類いを身体にまとわりつかせたりしていたことは先ほど触れた通り、ほとんどなかったからだ。教授の人柄がよかったからだろうと思っている。そんな教授に引かれてやってきたゼミ生たちもいい人ばかりで、あやかしがらみでひどい目には遭わなかった。

 教授が、自分のカップにコーヒーをおかわりする。

「ずいぶん前に、藤原さんみたいな人がいたんだよ」

「私みたいな、ですか」就活にくじけた人だろうか。

 すると、教授はカップを両手で持ってしばらく見つめてから、私に顔を向けた。

「きみ、何か〝見える〟んじゃないの?」

 息が止まりそうになった。

「教授、それって……」

「いや、違っていたら悪いと思ってずっと黙っていたんだけど。違ってたかな?」

 私の秘密を知って、みんなが気味悪がって離れていった小学校の頃の光景が頭をよぎった。心がずきりとする。だけど、教授の朴訥とした声を、私は信じた。

「――いいえ。違っていません。私、生まれつき、あやかしとか霊とかが見えるんです」

 他人にそんな話をするのは十年以上ぶりだった。なぜか涙がこみ上げる。
教授は小さく何度も頷いてコーヒーを啜った。

「昔、このゼミにいた子もそうだった。けど、僕はそのとき何もしてやれなくてね。だから、せめてきみの助けになればと思ったんだけど。……声をかけるのが遅かったかな」

 教授がまるで自分の責任のように申し訳なさそうな顔をしている。私は何度も首を横に振った。自分以外にも〝見える〟人がいる。初めて聞く話だった。

 この教授が勧めているのだから、何か運命的なものがあるのかもしれない。

 落ち着いて考えれば、星空のきれいな温泉なんて行ってみたいに決まってる。

「分かりました。卒業式の後で、連絡してみます」

 半分破れかぶれであることは否めなかったけど、私はこの話に乗ってみることにした。

「うん。がんばってね」と、教授が泣いているのか笑っているのか分からない、いつもの笑顔になる。

 ふと気になって尋ねてみた。

「昔、このゼミにいた〝見える〟方は、その後どうなったんですか?」

 すると、なぜか教授が顔を赤らめた。

「やっぱり就職活動がうまくいかなかったんだけね。いろいろあって――いまはぼくの奥さんになっている」

 教授がはにかみながら教えてくれた素敵な結末に、私は胸が熱くなる。よかった、と思った。

 けれども、私はこのとき、まだ知らなかった。ご縁があったら就職させていただく、というくらいの気持ちで受け取ったこのチラシが、私の人生を大きく変えるほどの大きな力を持っていたということに――。