70年分の夏を君に捧ぐ

あの時あたしが仏壇下部の引き出しから何を取り出したのか、そしてひいおじいちゃんが何でそんなに怒ったのか、もう全然思い出せない。たしかにひいおじいちゃんは、怖い人だった。サングラスをしているから、というのもあるけれど、昔の人にしては背が高くて大きくて、全然笑わないし、しゃべらない。かといって何かに腹を立てる事もなく、他人から見ればおとなしい年寄りだったと思う。

 そんなひいおじいちゃんが唯一あたしの前で怒りを表したのが、あの時だった。

「ひいおじいちゃんってさー、どんな人だったっけ? なんかこれから死ぬって言われても、悲しいとか可哀相とか、そういうの全然ないや」

 高校生のあたしが思っても言えなかった事を、小学生の無神経さで蓮斗が口にして、すかさずお父さんに頭をはたかれていた。

「そういう事を言うな。お母さんのおじいちゃんなんだぞ」

「しょうがないわよ。最後に会った時、蓮斗はまだ小さかったしね」

 のんびり応じるお母さんの気を引きたいのか、あやめが「ねぇねーあやめ、今日ねー」と言い出して、夕食の席の話題は自然とそちらに移っていった。
 夢だ、という事だけがわかっていた。

 白いのか黒いのかわからない、光なのか闇なのかわからない、不思議な空間にあたしはいた。夢だとわかったのは、こんな空間、現実じゃありえないから。天井がなければ床もない、そんな世界に存在してるって事は、夢を見ているか、あるいは死んでいるか。でも死んだ覚えはないんだから、夢に違いない。

 目の前に、女の子がいた。背は莉子と同じくらい。ちょっと小さめで、髪の長さはあたしより五センチくらい短い。化粧っ気がないしどこか垢ぬけないけれど、なかなか可愛らしい顔をしている。良く言えば、ナチュラル系。悪く言えば、昭和くさい。服なんかむしろ大正時代で、着物を着ている。たぶん浴衣、昔の寝間着。

 その子はあたしのほうを不思議そうに見ていた。表情から、お互いに同じ事を思っているのがわかる。

「誰……?」

 ふたりの声が、重なった。どちらからともなく手を差し出す。

 ふたつの手の間から、光の玉が溢れる。真っ白い光が眼球を直撃して、たまらず目をつぶった。それでもまぶたの裏側まで光は追いかけて来た。衝撃が全身を駆け抜ける。ゴムボールの中に閉じ込められて、超速度でシェイクされているみたい。何なの。この、夢――そしてあなたは。
 ぱちっと目が覚めるのと同時に、天井が違っている、と気付く。こんな木目の古臭い天井、あたしの部屋じゃない。いろいろな音がした。ジュウゥ、何かを焼く音。ざくざく、野菜か何かを刻む音。家の外からだろう、何を言っているのかまではわからないけれど話し声もする。それで、この家がありえないほど壁が薄いことに気付く。

 ベッドはなく、なぜか布団から――身体を起こす。元は白かったものがひどく汚れたんだろう、何日分もの汗がしみ込んだような、雑巾と同じ色の寝間着を着ていた。さっきの子と同じだ、と気付いて一瞬息が止まる。改めて部屋を見渡す。粗末な和室に敷かれた三組の布団。あたしの隣には小学生ぐらいの小さな子どもがふたり寝ていた。壁には古めかしい時計がかかっている。窓にはなぜか紙が貼ってある。装飾品らしいものが何ひとつない部屋の片隅に、赤い小花を散らした布で鏡部分を覆ったドレッサーが鎮座していた。

 ドレッサー! 鏡!! 気が付いて歩み寄る、というか飛びつく。

 鏡にかかった布を持ち上げると、さっきの女の子がいた。濃い眉に奥二重の目、薄い唇。どこもあたしじゃない。あたしはこんな顔じゃない。

 これは夢の続きだろうか。だって、別の人になっちゃうなんて、ありえない。

「千寿―! わりゃあいつまで寝とるんか!!」

 知らない声が、知らない名前を呼んだ。
七十年後の君へ
 ジャガイモは春と秋、年に二回とれる。春の始め、まだ寒い中凍える手で土を掘って植えたジャガイモは夏の始めに実り、その後夏の盛りに植え付けたものは秋の終わりに収穫できる。寒さ暑さに耐え忍んだ労働が、次の季節に実を結ぶんだ。

「姉ちゃん、見てみてー! わし、目ん玉がイモになった」

「うちもー!」

 六歳の辰雄と国民学校二年生の三千代が、目のところにジャガイモを当ててはしゃいでいる。今夜はこの後、収穫祭だ。貴重な芋をもちろんひと晩で全部食べるわけにはいかないけれど、子ども達はお腹いっぱいにしてあげられるだろう。

「あんたらいかんよー、食べ物で遊んじゃあ」

 姉の威厳を出して一応叱る。少し遠くで母さんが笑っていた。

 山の稜線の向こうに太陽が沈みゆき、西の空が紫とオレンジを塗り重ねたように美しく染まっていた。

 毎日米つぶが何かの滓みたいにぽちぽちと浮かんでいるだけのお粥じゃ、ひもじくて仕方ない。大人の私がしんどいんだから、食べ盛りの辰雄と三千代はたまらないはずだ。本当はきらきらの真っ白な白米をてんこ盛りにして食べたいけれど、ジャガイモだって構わない。終わりのない空腹を束の間でも満たせるのなら。

 ジャガイモは春と秋、年に二回とれる。春の始め、まだ寒い中凍える手で土を掘って植えたジャガイモは夏の始めに実り、その後夏の盛りに植え付けたものは秋の終わりに収穫できる。寒さ暑さに耐え忍んだ労働が、次の季節に実を結ぶんだ。

「姉ちゃん、見てみてー! わし、目ん玉がイモになった」

「うちもー!」

 六歳の辰雄と国民学校二年生の三千代が、目のところにジャガイモを当ててはしゃいでいる。今夜はこの後、収穫祭だ。貴重な芋をもちろんひと晩で全部食べるわけにはいかないけれど、子ども達はお腹いっぱいにしてあげられるだろう。

「あんたらいかんよー、食べ物で遊んじゃあ」

 姉の威厳を出して一応叱る。少し遠くで母さんが笑っていた。

 山の稜線の向こうに太陽が沈みゆき、西の空が紫とオレンジを塗り重ねたように美しく染まっていた。

 毎日米つぶが何かの滓みたいにぽちぽちと浮かんでいるだけのお粥じゃ、ひもじくて仕方ない。大人の私がしんどいんだから、食べ盛りの辰雄と三千代はたまらないはずだ。本当はきらきらの真っ白な白米をてんこ盛りにして食べたいけれど、ジャガイモだって構わない。終わりのない空腹を束の間でも満たせるのなら。
「辰雄―、三千代―。あんたら、先帰ってなさい。もうすぐ暗くなるから」
 
 母さんが畑仕事の手を動かしながら言う。このご時世ですっかり痩せてしまったけれど、四人もの子どもを生み育てた身体はがっしりと逞しい。

「あんた、この芋、ちょっと積み過ぎでないん?」

 手押し車にいっぱいに積まれたジャガイモは今にもこぼれ落ちそうだ。辰雄が任せとけと胸を張る。

「姉ちゃん、わしがおるけ」

「あんたがおるから心配なんよ」

「姉ちゃん、うちもおるよ。辰雄がへばったら、うちが押すけ、大丈夫」

 三千代が得意げに言う。八歳の三千代は二歳下の弟をすごく可愛がっていた。

「辰雄、三千代―! 車に気を付けるんよ。焦らんと、ゆっくり行きんさい」

「わかっとるけー、母ちゃん!」

 辰雄が棒きれみたいに痩せた腕で手押し車を引き始める。三千代がその後ろをそっと見守るようについていく。

 夕焼けの空にふたりの歌声が上っていった。とんとんとんからりと隣組、格子を開ければ顔なじみ、廻して頂戴回覧板……。

「母ちゃん、よかったね。ふたりともあんなに喜んで」

「本当よ。配給のもんだけじゃひもじいし、草を摘んできても腹は膨れんし。姉さんが分けてくれたこの土地があって、助かったわ」

 時計職人の父さんの元に嫁入りした母さんの実家は農家で、既に母さんの父さん、すなわち私のおじいちゃんは他界している。女だけの三人姉妹の真ん中に生まれた母さんは、母さんの姉さん、つまり私の伯母さんが相続した土地を貸してもらって、畑にしていた。

 猫の額ほどの小さな庭にも小松菜が栽培してある。他のどの家もそうであるように、私たち栗栖一家も本業の農家ではないのに自分たちが食べるためのものを自分たちで作り、にわか畑でぺったんこのお腹を少しでも満たそうとしていた。

「千寿、あんた泥まみれよ。帰ったらすぐ風呂に入らんとねぇ」

 母さんに言われ、丸首シャツから突き出た腕で額をこすると、泥がいっぱいついてきた。ただそれだけの事で笑った。見ている母さんも笑っていた。
 郊外にある畑から広島市中心部の家までは、歩いて三十分かかる。手押し車を引きながらだと、四十分。我が家が所有している手押し車は二台、辰雄たちの車にたっぷりイモを積んだお陰で、私と母さんと、交代しながら引いた車は少し軽かった。それでもまともなご飯を食べていない女の身には重労働で、汗だくになった。

 あと二時間もすれば闇に包まれてしまう街はまだ明るく、多くの人が行き交っていた。東遊郭にほど近い広島の町中に、時計屋を兼ねた私の自宅はある。右隣は硝子屋さん、左隣は長い事空き家だったけれど一年前から、遊郭で下女として働いている女の人と、その息子が住んでいた。

 家の前に立っている辰雄と三千代を見つけて手を振ろうとして、すぐ異変に気付いた。手押し車が横倒しになって、さっき収穫したばっかりのジャガイモがごろごろと道に転がっている。辰雄が睨み合っているのは高下のところの隆太で、隆太の後ろでは悪ガキがふたり、にやにやしていた。三千代はどうしていいのかわからないという様子で、今にも泣きそうな顔で佇んでいる。

 すぐに母さんが手押し車を置いて走り出そうとするので、その肩を掴んで制した。

「母ちゃんはここで待っとって車を見てて。私が行ってくる」

「じゃけど、千寿……」

「私で無理なら、母ちゃんが行って」

 不安そうに私を見る母さんに大丈夫だと念押しし、走り出す。私を見た途端三千代が溜めていた涙を溢れさせて抱きついてきた。小さな肩をぎゅっと抱きしめる。

「姉ちゃん、どうしよう」

「もう大丈夫よ。なぁあんたら、うちの弟と妹に何してくれんの」

「こいつら卑怯もんじゃ、集団で襲ってきよって。うちの手押し車倒しよった」

 辰雄の声が怒りに震えている。ふん、と隆太が鼻で笑う。それが気に入らなかったのか掴みかかろうとする辰雄の腕を、私は慌てて握った。手を出して怪我でもさせたら、高下が黙っちゃいない。

「せっかくのイモをこんなにして……ひとつ残らず、あんたらで拾いんさい!!」

「阿呆か、誰がそんな事するか、非国民相手に」
 非国民、という言葉にすぐ隣を通り過ぎていく大人たちが反応して、じろじろとこっちを見る。頬にカアッと、火かき棒を押し当てられたような熱を感じた。今にも鉄砲玉の勢いで飛び出していきそうな辰雄の肩を抱いて止めるけど、六歳児の必死の力は意外なほど強い。

「うちはあんちゃんが戦争に行っとるけ、非国民じゃのうて。馬鹿にする奴らは許さんぞ。しごうしたる」

「おぉ、やれるならやってみろや」

 隆太の後ろで鼻の穴を膨らませた汚らしい悪ガキがふたり、騒ぎ出す。辰雄の顔が真っ赤になり、三千代がぽろぽろ涙をこぼした。

「非国民なんざ、ちっとも怖くねぇや」

「おどれなんざひとひねりじゃ」

「だからうちは非国民じゃのうけ!」

「辰雄、危ない!」

 木炭バスが煙をまき散らしながら近づいてきて、私は急いで辰雄と三千代の手を引き、道の端へ走る。ズブズブズ、と嫌な音を立ててバスが走り去っていった後には、道の上に潰れたジャガイモが散らばっていた。あぁ、と三千代が泣き声を出す。

「おどれら、何してくれんじゃ!!」

 怒りが頂点に達した辰雄が隆太たちに飛びかかろうとする。力が緩んでいた私の手は辰雄を離してしまう。どうしよう、と思った次の瞬間、辰雄を押しのけるようにして母さんが飛び出してきた。

「子どもの喧嘩は、もう終わりじゃ。大事な芋をこんなにされて、黙っておれるか」

 母さんの手がわなわな震えている。隆太たちは大人の迫力にほんの少しだけおののいたけれど、やがてフンと鼻を鳴らす。

「あんたら、謝りんさい。うちのイモに手を出した罪は重いけ」
「ハァ、知るか! おどれらが非国民なんが悪いんじゃ」
その時、私の後ろで、店の引き戸が開く音がした。

「父ちゃん……」

 三千代の声が掠れていた。

 父さんが不自由な右足を引きずりながら、ゆっくり、ゆっくり歩いてくる。

 額には深い皺が何本も刻まれていた。隆太たちが色めき立つ。

「ついにかかし男の登場じゃ」

「やーい、この非国民めが」

 私がまだ小さかった頃馬に轢かれ、今だに足が不自由な父さんは、悪ガキたちにあだ名をつけられていた。すかさず辰雄が怒りを表す。

「おどれら、父ちゃんを馬鹿にしやがって! もう許さんで」

「辰雄、お前は下がっとれ」

 父さんの声は低く、凄みがある。隆太が思わず一歩後ずさった。

「おどれら、自分らが何をしたかわかっとるんか」

 しぃん、と一瞬の沈黙。その後子ザルみたいにきぃきぃ子ども達は騒ぎ出す。

「やってみろや、非国民めが。こんな子どもに手出ししたら、憲兵が黙ってのうけ」

 父さんの拳が揺れた。そのまま一歩、前に出る。反射的にその腕に飛びついた。

「父ちゃん、やめて!!」

 喉が裂けて悲鳴みたいな声が出る。辰雄に拳固をくらわすのと隆太に手出しするのは、全然意味が違う。暴力沙汰が理由でこれ以上近所の評判が悪くなったら……。

「なんや隆太。そこで何しとるんか」

 緊迫した場にそぐわないゆったりした声に、みんながそちらの方を向く。

 頭の後ろで束ねたひっつめ髪に、藍色のもんぺ姿。高下だった。キツネのように尖った意地悪な目つきは、隆太とそっくりだ。

「うちらに謝ってくんさい」

 母さんが高下を睨みつける。いつもよりも低い声に怒りが滲んでいた。

「隆太らがうちの手押し車を倒しよって、イモを駄目にしたんです。謝ってくんさい」

 高下がほーぉ、と得意そうな声を出した。

「よくやったな隆太。非国民成敗じゃ」

「おぅ、わしらやったで! イモを粉々にしてやった」

「高下さん! それで済ますつもりか。わしら、警察に訴えてもええんぞ!?」

 父さんが怒鳴るけど、高下はびくともしない。褒められてはしゃいでいる隆太の肩を抱きながら、余裕たっぷりに言う。

「行けばええ。もっとも、あんたらの言うことなんざ、警察は信じてくれるかねぇ」

 私、父さん、母さん、もちろん三千代も辰雄も。みんなが唇をぎゅっと噛む。

 五十歳以下の男性は、ほとんどみんなに赤紙が届き、戦地へ行っている。そんな中、足が悪くて戦争へ行けない父さんは軽んじられる。普段から戦争に反対する言動を取っているから、なおさらだ。