七十年前の君へ
チョコレートとストロベリーとバニラ。適当に気分で選んだら、見事に三人、バラバラになったシェイクの味。クリームと液体のちょうど中間にあたるそれが、紙コップの中で甘くやわらかくとろけかけている。紙コップをテーブルの脇に追いやり、あたしたちはいっせーのせ、で期末テストの結果表を取り出す。
英語、数学Ⅱ、日本史etc……こんな紙きれ一枚に、あたしたちも、あたしたちの親も、泣いたり笑ったりする。それどころか、未来を左右されている。学歴なんか気にしないで本当にやりたい事をすべきだ、なんて若者からちやほやされたくて必死な一部の大人たちが言う戯言を鵜呑みにするほど、あたしたちは幼くはない。
「うっわー、今回も百合香の圧勝じゃん! さすが頭のいい彼氏がいると違うねぇ。あたしと莉子はいつも通り、どっこいどっこいだけど」
「残念でしたー、全体の点数は二点しか違わなくても、数学では二十点も差がついてるんですぅー」
「その代わりあたし、英語は断トツで莉子に勝ってんだからね!」
やいのやいのと、肘を小突きあって自分の得点を自慢し合うふたり。中学時代に水泳部だった沙有美は全体的にふっくらしていて背が高く、胸も大きくて、水泳部時代に塩素でいつのまにか脱色された茶髪(と、教師には説明しているけれど、実際は自分で染めている事をあたしと莉子は知っている)をポニーテールにしてぴょこぴょこ跳ねさせている。一方、小柄でくりくりした目が特徴で、いわゆる小動物系女子の莉子のショートボブの黒髪には、ラインストーン付きのバレッタがきらめいていた。
身長百六十センチ、体重四十八キロの標準体型、胸の下らへんまで伸ばした髪を毎朝くるりと巻く事を習慣にしているあたしも含め、全員、いわゆる優等生タイプではない。でも、テスト後の点数比べが遊びの一環としてまかり通るのもあと少し。来年、受験や進路の文字が常にあたしたちの脳内をグルグルするようになったら、紙きれの数字は今よりも比べ物にならないほど大きな意味を持ち、みんな必死で成績を、つまり「今の自分が校内でどれくらいのポジションにいて来年の春どのレベルの大学に行けそうか」という事を、隠そうとするだろう。きっと親友にさえも。
「あーあ、うち、また親に怒られるよー。こんな点数じゃお兄ちゃんと同じ大学行けないでしょ、って。別にお兄ちゃんと同じ大学行きたくなんかないのにさー」
莉子がオレンジのリップグロスをつやつやさせた唇の間に、ストロベリーシェイクのストローを挟みながら言う。女子生徒の九割がスカートを短くしているし、六割が程度の差こそあれメイクして登校する。そんな比較的自由な校風と家から徒歩十二分の距離、という安易な理由で選んだ高校だけど、実は生徒の八割以上が四年制大学への進学を希望する進学校だ。莉子の悩みはこの学校ではごくありがちなモノ。
「莉子のお兄ちゃんの大学ってアレでしょ? アレ。あぁもう、あたしたちなんかが口にするのもためらうよ、超名門過ぎて」
「あたしたち、って勝手に一緒にしないで」
んもー百合香の意地悪、と沙有美が半袖ブラウスに包まれた肩をちょんと突いてくる。沙有美はよく笑うしよくしゃべるし、よく目立つ。そのせいか、平均的な顔立ちにも関わらず、三年の先輩と付き合っているにも関わらず、よくコクられている。
「ひとりっ子の沙有美と弟と妹しかいない百合香には、優秀な年上のきょうだい持った人間の葛藤なんて一生わかんないよー。ったく親の愛は無条件です、なんて誰が言い出したのよ? 親の愛は条件付きに決まってんじゃん! どこの親もありのままの子どもを愛そうなんてしないよ。成績優秀な子どもや言う事をよく聞く子どもを愛するもんなんだって」
「愛、なんて白昼堂々、こんなとこでよく言えるねぇ」
って言ったら、むくれた莉子にこうなったらもうヤケ食いしてやる、とシェイクの紙コップを奪われた。こんなとこ、というのは三人が週三で集まるチェーンのファーストフードの店。学校から徒歩八分、駅から徒歩一分、飲み物も食べ物も高校生のお財布に優しい価格。当然、平日の午後は中高生のグループだらけになる。
「よっし莉子、気分転換に楽しい話しよ! 夏休みになったら今年も行くからね、あたしんちの別荘! 今年は三人の彼氏も誘ってさぁ」
「あんなボロ屋を別荘なんて言わないでよ、本当の別荘を持ってる人に失礼だよ」
まだむくれている莉子は言ってくれるねー、と沙有美に紙コップを奪われている。ていうかそれ、元はあたしのなんですけど。
別荘と言えば聞こえはいいが、相続で沙有美のお父さんが受け継いだ、普段は使われていない古い3LDKをそう呼んでいるだけ。
といっても、千葉の北側の海岸沿い、海まで歩いて二分の好ロケーション。去年は四泊五日で行って、バーベキューに花火にすいか割りに肝試し、思いつく限りの遊びを堪能したっけ。
「男の子と一緒に旅行なんてあたしの親が許すわけないし」
「百合香は真面目だねー、男子が一緒なんて言わなきゃいいだけじゃん! 去年と同じ、いつもの三人で行くって言っときゃいいの」
去年の夏休み直前、弘道にコクられて付き合い出して、あたしは仲良し三人組で唯一の彼氏持ちになった。だからって焦って恋活に精を出すほど、沙有美も莉子も単純じゃないけれど、その年の冬には沙有美は同じ中学だった先輩と、莉子は文化祭で知り合った他校の男の子と付き合い始めた。そして高校生の恋愛にありがちな、数日単位でのスピード破局を迎えたり、束縛が激しいバカ男やDV男、あるいは盛りのついたサル男に引っかかる事もなく、見事に三人とも平和な付き合いが続いてるんだ。
「実質、今年が高校生活最後の夏なんだよ? テストも終わったんだしさぁ、百合香も莉子も、もっとはしゃぎなって!」
「たしかに来年の今頃は、うちの親は両方とも鬼と化してるだろうなぁ……」
テンションを上げようとした沙有美の隣で、莉子がうなだれている。
そう、今年が実質高校生活最後の夏。進学校に通うあたし達の来年の夏は、受験戦争真っただ中だ。十七歳のあたし達はもう、子どもじゃない。大人ははしゃいだりふざけたり、未来に期待したりしない。受験を終えて大学生活という束の間のモラトリアムを得た後、今度は就職活動という新たな戦争が待っている。その後は、楽しい事なんてきっとひとつもない。
実社会なんてしんどくてつまらないだけ。刑務所のような場所に決まってる。
ぶるる、テーブルの上で猫のキャラクターのカバーに包んだあたしのスマホがアプリ着信を告げる。メッセージは弘道から。「ついた。いつもんとこ」。スタンプはおろか絵文字のひとつすらない。アプリで繋がった最初の頃はこの人本当にあたしの事好きなの? と疑うほどだったけど、今はこれが弘道らしさなのだとよく知っている。
愛、だなんて十七歳だからまだよくわからないけれど。一年間付き合い続けて、あたしと弘道の間には何本もの糸できつく編んだような強い絆が芽生えている気がする。
「ごめん。あたし、もう行かなきゃ」
「おっ、弘道くんかー? いいなぁ、百合香が一番ラブラブじゃね?」
「ねぇねぇ、いっつもどこで弘道くんと会ってるの? いい加減教えてよー!」
「だーめ。秘密の穴場が秘密じゃなくなっちゃうから」
けちー、と沙有美と莉子が声を合わせた。あたしはふたりに小さく手を振った後、一センチだけシェイクが残った紙コップをゴミ箱に捨てて外に出る。
エアコンの効いた室内から一歩屋外に出ると、気温三十二度の熱がむわぁん、と容赦なく襲ってくる。明日は七夕。まだ七月の上旬で梅雨明け宣言も出されてないのに、こんなに暑いなんてこの先思いやられる。
『日本は今、戦争をする国になろうとしています。アメリカからの押し付け等ではありません。私たちは世界に誇れる、この平和憲法を絶対に守るべきなのです――』
駅の改札を出てすぐのところ。『戦争法案絶対反対!!』『平和のために今こそ立ち上がれ』なんていうプラカードや垂れ幕が並んだ一団の中心で、メガホンを手に女の人がしゃべっている。というか、叫んでいる。前髪から覗いたおでこに浮かんだいくつもの汗の玉が、鬱陶しいアクセサリーに見えた。
新宿や渋谷ならわかるけど、都心から離れたこんなところまで、小規模とはいえデモが起こってるなんて。学校でも日本史の先生が長々と話してたし(退屈過ぎて途中から寝た)、今世間を賑わせている法案の事はあたしも小市民として一応知ってはいるが、自分とは関係ない事にここまでアツくなれる人間の気が知れない。
こんな暑い日に情熱を振りまかれた他の人の事も考えてほしい。体感温度が二度は上がるっつぅの。暑さからくるイライラに任せて、無意識に『戦争法案絶対反対!!』のプラカードを睨んでいた。
夏は嫌いだ。暑さのせいで無駄にテンション上げた連中がウザいから。