「そろそろ帰ろ。」

俯いたまま、真哉に聞こえる声で言った。

「あぁ。わかった。」

真哉は返事をして、鞄を持ち上げた。

私も傍らに置いていた鞄を手に取って立ち上がった。

永原さんは、真哉の方を見ないためにか、文庫本を取り出して読書を始めた。

店員はレジに移動していて、私の支払いを待っている。

「何読んでるの?」

水しか注文しなかった真哉は、永原さんに話しかけに行った。

早くお金払って出ないと。

「『万葉集』。国語の授業で出てきた時に興味持って。」

永原さんが本を閉じて丁寧に答える。

店員が代金を読み上げ、私は財布の中から小銭を一枚ずつ取り出す。

「『万葉集』って和歌集めたやつだっけ?ずごいなぁ。俺あの単元全然分からなかった。」

永原さんが恥ずかしそうに頬を赤らめて私の方から顔を逸らした。

夕暮れの陽射しはもう随分弱まっているので、気のせいではない。

やっと代金を支払い終えると、私は真哉を呼んで、永原さんに手を振り、カウベルを鳴らして外に出た。
暗くなった道を歩きながら、真哉に話しかけようとすると、真哉の方から話し始めた。

「永原さん、凄いよな。俺、和歌とか何もわからないもん。」

永原さん、ね。

私だって、和歌の単元は好きだった。

『万葉集』よりも『新古今和歌集』が好きだっただけだし、全部読んでみようとは思わなかっただけ。

そうだね、と相槌を打ち、音のないため息を漏らした。

どんどん街灯に光が灯されて行く中、私は真哉の隣で俯いた。

いい加減、別れ話でも切り出してくれればいいのに。

突然、鬼のように真っ赤で恐ろしい顔が頭の中で蘇った。

あぁ、そっか。

私がトラウマ作っちゃったんだっけ。

私から別れようって言わないと、真哉は別れられないんだ。

でも、私はまだ真哉のこと好きだし。。

自分でも苦しいのに、どうしても真哉に、別れよう、と切り出せずにいると、自分の独占欲と束縛の強さに気付いて、泣きたくなる。

こうやって、真哉が永原さんの話をする度に。

真哉が私の方に頭を傾けたような気がしたけど、私は顔を上げなかった。

真哉のせいで泣きそうになってたり、泣いてたりする時の顔は、もう絶対に真哉に見せたくなかった。