夕暮れ色に染まった街の間を、自転車で駆けて行く。
後ろから、もう一台ついてくる。
車通りの少ない道を選び、コンクリートの上を立ち漕ぎをしながら颯爽と抜けていく。
信号機にどんどんと近づいていく。
信号の赤い光が消え、青い光が点いたのを確認して、そのまま漕ぎ続けた。
後ろから着いて来ていた自転車から、叫び声が聞こえる。
左から突然、大きなラッパのような音がする。
音の方を見ると、車の頭は左脚に当たっていて、どんどんのめり込んでくる。
驚いてバランスが崩れ、車に押されながらも、体が浮いていく。
脚の間から、自転車の座席が無くなった。
無重力空間にいるのか、時が進んでいないのか、よく分からない状態が数秒続いた。
背中になにか硬いものが当たった。
どんどん痛みが広がっていく中、意識はだんだんと遠のいて行った。
「今日、放課後どこ行こっか?」
授業中書ききれなかったノートを写す真哉に、デートの話を持ちかける。
真哉のノートに私の影が少しだけ、うっすらと落ちている。
「。。図書館でいいんじゃない?今日宿題多いし。」
隣に座っているのに顔も上げずに、ひたすら字を写しながら真哉が答えた。
本当にただ字を写しているだけで、恐らく内容は全く理解していない。
デートらしからぬ提案に内心いじけながら、本来私が聞きたかった類の提案をする。
「帰りに喫茶店寄って行っていい?」
「また?」
まるで嫌がってるような返事の仕方をした割には、声にハリがあるような気がした。
一生懸命字を書いてなかったら、呆れたような声で微笑んでいたかもしれないのに。
そんな優しい表情を見るチャンスを逃したと思うと、真哉が写しているノートが恨めしくなった。
自分が一生懸命録ったノートなのに。
私のノートと自分のノートを交互に見ながら行を埋めてく真哉の横顔を見ながら、私は左手で頬杖をついた。
いつ見ても、平均以上イケメン未満、としか思わない顔だけど、いつまで見てても飽きない。
好きになったのっていつだっけ?
ふとそんなことが頭をよぎったけど、遡る気はさらさらない。
遡っても、思い出せないことはどうやっても思い出せないから。
真哉は、いつから気持ちが冷め始めたのか、はっきり分かるのかな。
授業開始の合図のベルが鳴って、私は自分の思考から教室へ呼び戻された。
ガラガラと音がして、先生が入ってくる。
先生が教壇まで歩くところをぼーっと見ていたら、視界の右端でノートが机の上に乗せられるのが見えた。
横を見ると、真哉と目が合い、「ありがとう」と口を動かして、目を三日月型にしていた。
「終わった?」と声を出さずに訊いてみると、「あぁ」と「うん」が混ざったような返事が返ってきた。
「起立」と号令が掛かり、クラス全員が立ち上がった。
……←❤︎→……
いつもの喫茶店で、オレンジ色に染まり始めた店内を眺めながらアイスコーヒーのストローを口につけた。
向かいでは、窓の外を眺めながら真哉が鼻歌を歌ってる。
この喫茶店は、学校からも図書館からも近くて、放課後すぐはだいぶ混んでる。
でも、放課後の波が収まって、閉店にはまだ間のある晴れた日の夕方は、ガラガラの店内に夕日が差し込んで、店の雰囲気がノスタルジックになる。
その感じが私も真哉も好きで、頻繁に二人で立ち寄ってる。
ふと夕日を浴びた真哉の顔が見たくなって、窓の方をみた。
真哉は普段よりも穏やかな表情を浮かべて、窓に寄り添うようにくっついて雲を見ていた。
この時間帯にこの喫茶店に来ると、よくこの顔になるのだけど、私は真哉の表情の中でこの顔が一番好き。
いつもいつもこの表情の時はしばらく顔を見つめるんだけど、毎回、気づかれたら恥ずかしいな、と思って目を逸らす。
今日も例外ではなく、そう思って真哉が見ている雲の方を見上げた。
薄い雲がまばらに広がり、ピンク色になっている。
もう少し分厚い雲だと明暗があって綺麗なのだが、空相手に文句は言えないし、今も十二分綺麗だ。
私はたまに横目で真哉を見ながら少しずつ空と雲の色が変わっていくのを観ていた。
すると、ドアについたベルがカランコロンと音を立てた。
「いらっしゃいませ。」
カウンターの内側に座っている店員が言う。
入店してきた客は立ち止まっているらしく、足音がしない。
気にせず、雲を見上げ続けていた。
「山渕さん?」
しかし、入ってきた客は、注文よりも先に私の名前を呼んだ。
声の主を見るために振り向くと、スポーツバッグを肩から下げた永原さんが立っていた。
バスケ用のサイズの大きな運動着の上からでも、スタイルの良さはよくわかった。
「あ、御波くんも。」
後から真哉のことに気付いたように真哉の名前を呼んで、私の向かいに目を向けている。
その顔は、店がいつもよりくらいせいか、うっとりしているようにも見えた。
真哉にその目が向けられるのが嫌で、スポーツバッグを見て思いついた疑問をそのまま声に出した。
「永原さん、部活の帰り?」
「うん。」
私が話しかけると、いつものエネルギッシュな表情に戻って、答えてくれた。
答えてくれたのはいいものの、そこから先の「へー」以上の会話が思い付かない。
永原さんは、そのまま近くのカウンター席に腰を下ろし、スポーツバッグを隣の席の上に置いた。
真哉は反対側の窓を見るふりをしながら、チラチラと永原さんを見ている。
私は俯いて、ほとんど氷だけになったアイスコーヒーを見つめた。
外の光は、もう店内を照らすには弱くなりすぎたことに店員が気付いたのだろう。
さっきまでついていなかった喫茶店の明かりが、今は氷に反射している。
「そろそろ帰ろ。」
俯いたまま、真哉に聞こえる声で言った。
「あぁ。わかった。」
真哉は返事をして、鞄を持ち上げた。
私も傍らに置いていた鞄を手に取って立ち上がった。
永原さんは、真哉の方を見ないためにか、文庫本を取り出して読書を始めた。
店員はレジに移動していて、私の支払いを待っている。
「何読んでるの?」
水しか注文しなかった真哉は、永原さんに話しかけに行った。
早くお金払って出ないと。
「『万葉集』。国語の授業で出てきた時に興味持って。」
永原さんが本を閉じて丁寧に答える。
店員が代金を読み上げ、私は財布の中から小銭を一枚ずつ取り出す。
「『万葉集』って和歌集めたやつだっけ?ずごいなぁ。俺あの単元全然分からなかった。」
永原さんが恥ずかしそうに頬を赤らめて私の方から顔を逸らした。
夕暮れの陽射しはもう随分弱まっているので、気のせいではない。
やっと代金を支払い終えると、私は真哉を呼んで、永原さんに手を振り、カウベルを鳴らして外に出た。
暗くなった道を歩きながら、真哉に話しかけようとすると、真哉の方から話し始めた。
「永原さん、凄いよな。俺、和歌とか何もわからないもん。」
永原さん、ね。
私だって、和歌の単元は好きだった。
『万葉集』よりも『新古今和歌集』が好きだっただけだし、全部読んでみようとは思わなかっただけ。
そうだね、と相槌を打ち、音のないため息を漏らした。
どんどん街灯に光が灯されて行く中、私は真哉の隣で俯いた。
いい加減、別れ話でも切り出してくれればいいのに。
突然、鬼のように真っ赤で恐ろしい顔が頭の中で蘇った。
あぁ、そっか。
私がトラウマ作っちゃったんだっけ。
私から別れようって言わないと、真哉は別れられないんだ。
でも、私はまだ真哉のこと好きだし。。
自分でも苦しいのに、どうしても真哉に、別れよう、と切り出せずにいると、自分の独占欲と束縛の強さに気付いて、泣きたくなる。
こうやって、真哉が永原さんの話をする度に。
真哉が私の方に頭を傾けたような気がしたけど、私は顔を上げなかった。
真哉のせいで泣きそうになってたり、泣いてたりする時の顔は、もう絶対に真哉に見せたくなかった。
私はため息をついた。
目の前には、白紙の原稿用紙と、課題の書いてあるプリントがある。
作文の課題は、こう。
『今までで一番ショックを受けた出来事について九〇〇字(原稿用紙二枚半)程度書きなさい。』
提出までまだ時間があるからと、図書館では後回しにした課題。
ショックを受けたことは、もちろんある。
凄く些細なことから、中々強いものもある。
五本入っていると思っていたお菓子が四本しか入っていなかったり、友達が転校したり。
ただ、どれも一番ではない気がする。
気がするというか、一番じゃない。
もう一度ため息をつき、引き出しから紙を出した。
一番ショックだった出来事を思い出そうと、時系列を書くために。
恐らく、思い出せないだろうけど。
紙の右端に『2』と書いて、左端に『15』と書き、大体等しくなる感じで間の数を埋めた。
そして、左端からショックだった出来事を思い出せる限り書いていった。
埋まるとこはすぐ埋まり、あとはたまにポツポツと出てきた。
結果、思った通りの場所だけが空いた。
1つ目の空白は、モヤがかかったように、真っ白い記憶しかない6歳から8歳までの間。
この空白は私が思い出せなくても親が、特に父がたまに話題にするので、ある程度何があったのかは知っている。
だから、こっちの空白は、他よりも書き込んである出来事が少なくても、真っ白ではない。
問題は、もう一つの空白。
12歳の誕生日の前後半年ずつの、小6の一年間の『あの時期』の記憶。
その時期の出来事だけ、まるで避けているかのように誰も何も言わない。
私自身も、この期間の前後の出来事はぽつぽつとしか覚えていないし、その期間中のことは何一つ思い出せない。
絶対この期間中に、今までで一番ショックだった出来事があったはず。
時系列を見つめながらそう確信して、シャーペンを一度強く握る。
ただ、次の瞬間、シャーペンを離し、
「もぉおおお!」
と大声を出して反り返った。
反り返り、椅子の背もたれを前に回していたことを思い出した。
でも時すでに遅し。
私はそのまま背中から床に落ちた。
……←❤︎→……
「アホが。」
課題を書く時の葛藤を真哉に笑い話として休み時間の間に話したら、そう言って呆れられた。
「椅子から落ちただけでバカにアホって言われたくなーい」
割と本気で真哉が呆れていることに傷付き、ムッとして、苦笑しながらそう返した。
それでも真哉の表情は全く変わらず、何故か急に恐くなって、すみません、と小さく謝った。
「椅子から落ちたからアホって言ってるわけじゃないんだよ」
私が謝ったことに少し焦ったらしく、真哉は私の方に体全体を向け、言葉の意図を解き始めた。
彼の注意が完全にこちらを向いている。
「なんでわざわざ一番を思い出そうとしてるの?」
「だってそういう課題じゃん。」
主旨の見えない質問に、私は即答し、首をかしげた。
そんな私を見て、真哉が項垂れるようにため息をついた。
諦められてるようで、なんだか腹が立つし、虚しくなる。
「無理に思い出すとショック起こすかもしれないからやめろって言われてるだろ」
ギリギリ周りには聞こえない声量で、俯いたまま、囁くように言った。
『周りに、自分が思い出せない時期のことを尋ねると、患者さんによっては、パニックを起こす方もおられるので、無理に思い出そうとしたりしないでください。』
真哉の言葉から、白い天井とともに、誰かのそんな話を思い出した。
あれは確か。。。
「でもこういう場合、後遺症は薄れていくこともあるって言ってなかった?」
「それは、ちょっとずつ自然に思い出してくるってことだろ?無理矢理思い出すことが危険なことには変わりない」
そっか、そっちが後遺症だったんだ。
でも、なんでだめなんだろう。
人に話してもらえば、それで徐々に思い出すはずなのに。
その時期の記憶は、そんなにショックを受けるような内容なのだろうか。
もしかして、今までで一番ショックを受けた出来事は、本当にこの期間中にあったのだろうか。
無性に悲しくなってきて、俯き気味に正面に向き直り頬杖をつくと、ちょうど鐘が鳴った。
先生が小走りに教室に入ってくる音がして、誰かが「あー走った」と指摘し、クラスが笑った。