子供の屁理屈と大差ない。弁護側、検察側、司法とそれぞれ均等の距離感を保つべきなのに、どうしてか司法も検察の意見を支持した。だからこその有罪判決だ。

「何で裁判中にこの報告書を出さなかったの?」

 それでも――この報告書さえあれば結果が覆ったのではないか。そう思うくらいに、この報告書は説得力があった。
 
「父さんにもこの報告書で裁判を戦おうって言ったよ。でも、その頃から僕は何度も何度も命を狙われたんだ。ホームから線路に突き落とされそうになった。車で轢かれそうになった。周囲全ての人間が敵に見えたよ。父さんは言ったんだ、殺されたら意味がないって。いずれチャンスは来るから、報告書を持ってとにかく逃げろって」

 陵は感極まったのか目頭を押さえ、言葉を途切らせた。

「僕は逃げて逃げて逃げ回った。絶対にチャンスが来るって信じてた。なのに……そうこうしている間に、父さんの有罪は確定して、あげくに刑務所内で死んだ」

 心筋梗塞だとテレビでは報じていたが、真偽のほどは分からない。
 
「僕は一人ぼっちになった。もう……どうでもいいやって思ってね、階段を上ったんだ。マンションの屋上に向かって。飛び降りたら楽になれるかなと思って。その途中でいきなり階段に顔を出したいかがわしいおっさんに声をかけられた」
「いかがわしいおっさん?」
「そう。名前は知らない。顔もそこらへんにいそうな普通な感じで印象に残らないような。そのおっさんは僕に言ったんだよ。何絶望してんだよ、まだまだやれることあんじゃねぇかって」
 ないよ、もう何もないって言い返してやった。殺人犯の息子に未来なんてあるはずがない。
 
「そしたらおっさんは鼻で笑ったんだ。だったら殺人犯の息子なんて止めちまえばいいだろって。何言ってんだコイツって思ったよ。おっさんはニヤリとして僕に言ったんだ。だったら別人になればいい。俺はそういう商売をしてるからって」
「全く新しい人間になれるんなら、それもいいなって思った。父親の無罪を晴らせなくなった今、馬酔木陵でいる必要もなくなったから」

 そして陵は田中伊織になった。

 何という因果なんだろう。私も耐えられず泣いていた。事件とは関係のない人生を歩もうとした二人が、結局は出会ってしまうなんて。
 
 涙を拭いながら、私はさらにページをめくった。

 次のページからは現場にいた大学生に関する記載が続いていた。

 古川雄大という名前。年齢。血液型。右利きであることも。

 彼は度々万引きで捕まり、しかしもみ消されている。恐喝まがいの揉め事も度々。面倒なことからは目を逸らす。楽してお金を手に入れようとする。何かがあれば父の名前を出し、圧力をかける。友人なんて一人もいない。彼の周囲にいるのは古川に弱み握られた者か、お金を握らせた者のみ。
 探偵がかき集めてきた情報で形成された古川雄大という男の人となりは最悪の一言だった。

 もちろん例え万引きを繰り返したからといって、強請りやたかりがルーティンワークになっているからといって、必ずしも人を殺めるということにはならない。しかし異常なほどに擁護された末に作り上げられた歪んだ人格の末路は、やはり殺人という形に帰着するような気がした。

 顔をしかめ、それでも私はページをめくる手を止めなかった。
 
 2ページほどめくったところで私に電流が走った。

 茄子のような顔型。垂れ目で少し離れている 古川の顔写真。

 私はこの顔を知っている。

 私の記憶よりも若い。大学生なのだから当たり前だ。それでも特徴は色こく残っている。

 古川は――今田だ。港で会って、私をしつこく誘ってきたあの男。粘着質で、自分の思い通りにならないと気が済まない。今から思えばそんな性質が滲み出ていた。
 
 激しく指が震えた。もうページをめくるのを止めてしまおうかと思ったが、それでも次に進んだのは残りのページが少なかったからだ。

 次に目に飛び込んできたのは、あの雑誌の記事だった。
 被害者である父のことを面白おかしく嘘八百並びたてた記事。父は可哀想な被害者ではなく、実は加害者だったのだと――結果的に被害者になっただけであり――根拠もなく記されている。

 探偵の佐藤はこの記事を書いた記者にも話を聞いていて、こともあろうか、ここでも古川の名前が上がっていた。

 古川は被害者と加害者以外で唯一現場にいた人間として、真相を話しますといって雑誌社にやってきたという。
 
 古川は雄弁に工場長である父がいかに悪い人間かを語った。ナイフを持ち出して挑発したのは父の方で、犯人とされた馬酔木和成はもみ合った末に誤って刺してしまっただけ。つまりは正当防衛なんだと古川は主張した。止めに入った古川自身が、軽い怪我を負ったと、どこからも耳にしたこともない話まで交えていて、だからナイフに僕の指紋が付着していても、警察は僕を容疑者にはしなかったと自信満々に語ったのだという。

 記事を書いた田口という記者は最初古川の話を聞き、これは特ダネだと思い、狂喜乱舞したという。しかし古川の話を聞けば聞くほどに信憑性が薄れ、スーっと冷めていった。
 
 古川の話を信じたわけではないが記事としては面白い。だから、あくまで憶測として、推測として、可能性の一つとしてその話を一切断定することなく記事として世に出した。

 この記事は事件を面白おかしく見ている読者の目には実にセンセーショナルに映ったことだろう。実際、記事を読んだ人間たちは私たち被害者遺族を蔑み、厭い、敵視した。
 その盛り上がりは凄まじく、それに倣って類似する他の記事が出始め、どんどんと拍車をかけていった。

 遠巻きに私たちを眺めるだけで済んでいた人たちも、次第に距離を保つだけでは安心できなくなり、私たちを排除するという方法を打って出るようになった。落書き、電話、窓ガラスを割るなどなど。
 
 全てが古川から始まっている。事件ばかりか、あの嘘だけらの記事さえも。

 バイト中に注意されたことへの鬱憤というくだらな過ぎる理由が事件の発端だなんてふざけ過ぎている。それなのに殺しても尚、その恨みは晴れず、加害者であるという汚名まで着せた。

 ――腐っている。古川という男の性根は心底腐ってる。

 許せない。許せない。許せない。許せない。許していいはずがない――絶対に。

 罪を犯した人間にはそれ相応の報いがあって然るべきだ。

 気づけば、私は陵の家を飛び出していた。
 トントン拍子という言葉があるが、今ほどそれを痛感したことはない。

 陵の家を飛び出した私は、自分の家に戻った。引きこもるためじゃない。戦うためだ。

 私はキッチンから包丁を一つ手にし、刃をタオルで巻いた。それを鞄に入れ、財布の中身も確認し、家を出た。

 あいにくバスはついさっき出てしまったばかりだったが、近所の後藤という老婆が港からタクシーで兼富地区に戻ってきているところだったので、迷わずそのタクシーに飛び乗った。港で連絡船のチケットを買うと、その船は10分後に出港することが分かった。

 本土の港から最寄りの駅へのバスも、電車の乗り継ぎも、最速といって構わないつながりのよさで、気づけば最寄りの駅から宮内漁港へ向かうタクシーの後部座席に収まっていた。
 
 タクシーに揺られながら、鞄の外からでも確か感じる包丁の柄に手のひらを当てながら、順調過ぎるほど順調な道のりを思い出していた。

 これは神の思し召しだ。あのクズ野郎に鉄槌を下せと神は言っている。

 自分がとんでもないことをしようとしていることは分かっている。時間が経てば怖気づくだろうかと冷静な自分がどこかにいたが、意に反して今尚、体は震えている。怖いのではない。武者震いだ。

 私は漁協の建物の少し先にいったところでタクシーを降りた。
 古川が今田と名乗っているということは、彼もまた別人となって新しい人生を生きているのだろう。父親でもかばいきれない事態に陥ったのか、父親が定年退職をしてしまい、父親が警察官だという武器が使えなくなり、今までのしっぺ返しを恐れて古川雄大という人間の人生を捨てたのか。

 その今田――古川雄大が、今、この瞬間、どこにいるかは分からない。海鮮丼を食べた時には商店街にいた。ということは、業務中、ずっと漁協の事務所にいるわけではないということになる。

 でも、これが神の思し召しというならば――古川に会える気がしていた。
 
 さすがに夕方以降の漁港は寒く、私はコートにファスナーをできる限り上まで閉めた。

 ゆっくりと周囲を見渡す。私が声をかけられた埠頭の先にも視線を向ける。古川の姿はない。焦りはない。そうそう見つかるとは思っていない。

 私は歩き始める。まずは建物と逆方向。波止場の漁船の前を通る。時間が時間なだけに人気《ひとけ》はない。

 埠頭の根元まで来て、その先端に視線を向けた。今も釣り人が何人か海に糸を垂らしているが、ここにも古川らしき人物はいない。
 
 まぁ、そんなもんだ。一つ息を吐き、建物の方へと進行方向を変えた。宮内漁港はそんなに大きな漁港ではない。ほどなくして三階建ての古びた建物が見えてくる。

 建物の入り口が見えるギリギリの位置で立ち止まり、スマホで時間を確認する。夕方の4時を少し回ったところだ。
 もし建物内に古川がいれば、いずれ外に出てくる。私はここで待つことにした。

 寒風に晒され、何度も手を息で暖めた。30分ほど待っただろうか。建物の入り口に人が立った。目を凝らす。口元には笑みさえ浮かべていたかもしなない。

 間違いない――古川だ。私は鞄のチャックを開けて手を突っ込む。ナイフの柄が当たり、否が応でも脈拍が上がる。
 
 古川は入り口から左に向きを変えた。その先には自販機。飲み物を買いにきたのだ。ズボンの後ろポケットに手を突っ込み、財布を取り出す。硬貨を投入し、缶コーヒーを買うのが見えた。建物に戻るところを襲うつもりだったが、古川は自販機の隣のベンチに呑気に座り、胸ポケットから煙草を取り出し口にくわえた。

 周囲には誰の姿もない。チャンスではあるが失敗はできない。もっともっと無防備なところで突っ込みたい。そうタイミングを計っている矢先、不意に腕を掴まれた。

 ギョッとして背後に目を向ける。

「……あなた」

 そこにいたのはあのガード下にいた占い師だ。濃い紫の服で身を包み、眩いばかりの長い白髪が目を覆っている。鼻と口はフェイスベールで覆われていて、顔の表情は読み取れなかった。

「やめな」
 鞄に差し入れた腕をつかんでくる。

「離して……」
「あんな下衆のためにあんたの人生をフイにする必要はないんだよ」
「あいつは父の仇なんです!!」
「あいつがどんな男でどんなことをしてきたかくらいは分かってるさ。これでも占い師のはしくれだ」
「だったら私の邪魔をしないで」

「もうあんた一人の人生じゃないだろ」

 私は占い師の顔を凝視した。

「薄々気づいてるんじゃないのかい? あんたのお腹の中には新しい命が宿ってるってことに」

 ずっと体調が不安定だった。とくに日によって食欲がまちまちで、何の食べ物も受け付けない日もあった。逃避行の最中に現れた症状だったから、旅の疲れかストレスだと決めつけていたのに、島に住んでからも症状は収まらない。心当たりがあった。もしやと思わなかったら嘘になる。しかし、そうなると父親は――と考えてしまい、その先が怖くてあえて考えないようにしていた。